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これまで、一話分がかなりの長さで掲載し、読んでいただいた方には
苦労なさった方もいらっしゃったと思います。申し訳ありませんでした。
それで、読者の方には大変ご迷惑をおかけしますが、改めて全部を短く
分けることにしました。連載途中でややこしいことをして申し訳ありません。
更新もマメに頑張りますので、どうかお付き合いお願いいたします。

ロング・ウェイ・ホーム
作:みはる



第一章 その4


         4

 夜になって、昼間の暖かさが嘘のように肌寒い微風が身体にまとわりつき始めていた。
 日中の陽気に惑わされて薄着をしているとうっかり風邪をひいてしまうのがこの季節だ。
もちろん、九時近くにもなってこんな屋外の駐車場に一時間以上も立ちっぱなしという状況が
寒さの感覚を増長させていることは分かっていた。
 そうしなければならない義務があるでもなし、誰かに強要されているわけでもないのだから、
さっさとやめることもできる。
 むしろ、そうした方がいいのだ。その方が、あらゆる意味で救われる。
 何も知らないふりをして、また明日から今まで通りに振る舞っていること。それが一番
平和で、誰も傷つかない──三上麗子は頭の中でそう考えながら、それでもそこを動こうとはしなかった。

 本当は、それが一番不幸なことだと知っていたからだ。

 だから彼女はここに立っているしかなかった。進むことはもちろん無理だが、今となっては
もう退くこともできなかった。

 北大阪急行 江坂えさか駅から少し東に逸れたところのフレンチ・レストランの駐車場の
隅っこで、高速道路の高架の陰に隠れてじっと店のドアを見つめている。頭上を行き交う
車の走行音だけが彼女の耳を支配し、他には何も聞こえない。そして十メートルほど離れた
店を出てくる客のすべての顔が分かるよう、普段外出時にはしない眼鏡を掛けていた。
それはまた、目的の相手から自分をカムフラージュするための意味もあった。

 そしてまたここには、昼間、親友の萩原が麗子が鍋島に気のあるようなことを主張して
譲らなかったのを、頑として受け入れなかった理由もあった。

 煉瓦造りの建物の中央に位置する、上部がアーチ型になった黒光りのする木製のドアが
開いて、十五分ぶりに客が出て来た。
そして、その二人連れこそが目的の人物だった。
 麗子は少し後ろに下がって、二人に気づかれないように高架の闇に紛れ込んだ。男女の
方は、レストランの玄関灯に照らされてはっきりとその姿を確認できる。大きな白い襟の
付いた淡いピンク色のツーピースに同じようなヒールを合わせた、肩より少し長い
ストレートヘアの二十二、三歳くらいの女性と、ダークグレーのスーツにノータイのドレス
シャツの襟元を開いた、すらりと背の高いインテリ風の男。男の年齢は三十一歳。麗子は
知っていた。
 二人は穏やかに微笑んで互いを見つめている。そしてドアから少し歩いたところで女が手に
していた薄手のハーフコートを羽織ろうとすると、男がそれに手を貸した。
 昼間あんなに暖かかったのにこうしてコートを用意してきているところを見ると、二人の
待ち合わせの時間は夕方以降だったのだろう。麗子の知る限りでは、男は今日の午後から
身体が空いていたはずだから、女に合わせたのかも知れない。
 そうすると、この女は学生ではなく社会人か……。

 どこからどう見ても、幸せそうな恋人同士だった。

 いいじゃないの、と麗子は思った。お似合いだわ。素直で優しそうな、可愛い女性ひと
こういう子の方が、あなたには必要なのかも。勝ち気で可愛げの無い女より。──ねえ、
飯塚いいづかくん。

 やがて二人は麗子の立っているのとは反対側にある、駐車場の奥へと歩いて行った。
腕を組み、ぴったりと寄り添いながら。
 麗子は俯き、眼鏡を外した。これ以上見ていたくないという思いからではなく、成すべき
こと、確かめるべきことが済んだという、いわば仕事帰りの決まった仕草のような手慣れた
動作だった。

 しばらくすると車のエンジン音がして、たった今二人の消えた方向から一台の乗用車が
現れ、麗子のいる高架下の道路脇を過ぎて通りへと走り去った。もちろん麗子の存在に
気づいた様子はなかった。そんな緩やかなスピードではなかったし、だいいち車内の二人は
外の様子に気が行くような雰囲気ではなかったようだ。
 運転している男──飯塚瑛二いいづかえいじに寄り掛かるようにして肩を抱かれた女。この二人の姿が、
駐車場出口のすぐそばに立つ街灯の下を通り過ぎるときに車内にはっきりと浮かび上がり、
そして麗子に引導を渡したのだから。

 車がどんどん小さくなり、テールランプが他の車のそれと見分けがつかなくなるまで、
麗子はただ見送っていた。




 鍋島勝也は二十八歳で独り暮らしの独身男性だが、仕事中でない限りは夕飯を外食で
済ませることは滅多になかった。
 その上、コンビニの弁当やスーパーの総菜などにもほとんど手をつけたことがないという、
今どき貴重な男だった。
 つまり、外食で済ませざるを得ない昼食以外は、あくまで自炊が彼の主義なのである。
滅多にない休日や、仕事が早めに終わりそうなときに時間の許す限りまめに買い出しに
出掛け、それぞれ最も適した方法で保存しておく。しかし決して買いすぎず、おまけに冷凍
食品にもほとんど頼らない。そんな、近頃は専業主婦にだってなかなか出来ないことが、
彼には実践できていた。

 別に家事が得意なわけではない。掃除は苦手だし、洗濯物もついため込んでしまう方だ。
しかし料理に関しては、どんな手間も苦にならない。もしも大学に行かず、そして警察官に
なっていなかったら、きっと調理師の免許を取っていただろうと常々彼は思っていた。十年
くらい修業をして、今頃どこかで小さな店でも持とうとしていたかも、と。絵空事ではある
けれど、近頃よくそんなことを考える。特に、父親に対する憎悪をあっさりと行動に移し、
けろりと爽快な顔をした子供を目の当たりにした、今日みたいな日には。

 しかしその入口は、決して興味から始まったものではなかった。ただ必要に駆られて包丁を
握ったまでだ。十三歳で母親を亡くし、四つ年下の妹が高校に入るまでのほぼ六年間、自分と
祖父、妹、父親の四人分の食事を作ったその実績が、今の彼をここまでにしたのだ。
 今夜は冷蔵庫の残り物を整理して、烏賊、帆立などの魚介類のマリネ風サラダに海老と
ブロッコリーのリゾットをほとんど一時間掛からずに作り、よく冷えたラガービールとともに
先ほど食べ終えた。
 そして入浴を済ませて二本目の缶を開けようと冷蔵庫に手を掛けたとき、リビングのロー・
テーブルに置いた電話が鳴った。

 鍋島はビールを持ってテーブルの前に座った。
「はい、もしもし」
《──あ、勝ちゃん》
 鍋島は反射的に俯いた。「真澄か」
 一呼吸分の間があって、それから二人はほぼ同時に言った。
《今日はごめんね》
「昼間は悪かったな」
 自分の声で鍋島の言葉が聞き取れなかったのか、真澄は《え? なに?》と聞き返したが、
鍋島は軽く笑っただけだった。
 そしてまたしばしの沈黙。
《──あ、えっと、あのね、そっちに麗子は来てない?》
「麗子? 来てないけど」鍋島はビールのプルタブを開けた。
「あいつがそう言うてたんか」
《ううん、違う。実は、夕方から何回か麗子の携帯とか研究室に電話してるんやけど、
連絡取れなくて》
「家は」
《家もダメ》
「昼間は会うてへんのか?」
《うん。たぶん大学やと思てたし。そう──じゃ、また明日にでも電話してみる。別に急ぐ
用事があるわけと違うから──》
「あいつとはしばらく会うてないよ」
《え?》
 そういう事実を伝えることが、真澄の心の不安材料を取り除くことだと鍋島には分かって
いた。そう、分かっている。彼女の俺に対する気持ち。だから、麗子の所在がはっきりしない
今、どうしてもここに電話してきてしまうのだ。そして俺もつい──
「八月にゼミ仲間の飲み会で会う予定やったんやけど、結局は俺は行かれへんようになって
しもて。せやからもう三ヶ月以上は会うてないな。電話ではひと月ほど前に喋ったけど」
《あ、そうなん──》
「デートでもしてるんと違うか。こんな時間に家にいてなくて、携帯も切ってるんやったら」
《ええ? そうかな》
「意外そうな声出すなぁ」
《だって……勝ちゃん、知ってるの? 麗子に彼氏がいてるのかどうか》
「知らんけど」
《勝ちゃんが知らんのやったら、きっとそんな相手いてないんやわ》
「別にいちいち俺に言うとく必要ないと思うけど」
 鍋島はちょっと腹立たしくなってきた。無論、自分と麗子との関係を恋人同士だと信じて
疑わなかった人間はこれまでに何人もいたし、そう誤解されても仕方のない部分もあるとは
思っていたが、ここまで単純に自分と麗子とを結びつけて考える真澄の発想に少し呆れ、
また一方では重くも感じていた。

 そう、そうだ。分かっている。彼女の俺に対する気持ちは……。

「とにかく、家にいてないからって、俺んとこにいるってのもなあ。あいつもそこまで寂しい
女でもないやろ。勉強漬けの学生のときとは違うんやから、ちょっとは行動パターンも増えた
と思うで」
《……そうやね》
「真澄は? ひょっとしてまだ大阪にいてるんか」
《うん。食事とか買い物とかいろいろして──これから帰るとこ》
「早よ帰らんと家の人が心配するで。その……送ってくってことはでけへんけど」
《うん、いいねん、分かってる。──じゃあ勝ちゃん、またね》
「ああ。気ィつけて帰れよ」
 受話器を置いたあと、鍋島は思わず大きな溜め息をついた。
 ビールを飲み干して床に大の字に寝そべると、いつものことだが情けない気分になった。

──どうする? でもなぁ……はっきり告白されたわけじゃないしなぁ……
けどもう分かりきってるしなぁ……。──

 そのとき、何をごちゃごちゃ考えてるねん、とでも言うかのように、突然玄関のチャイムが
ピンポンピンポンと大きく鳴りだした。
 起き上がって真正面の壁掛け時計を見た。十時半だった。真澄が京都に帰り着くのは
ずいぶん遅くなるなと思った。
 空き缶をキッチンに置き、廊下に出て玄関に向かった。

 チェーンを掛けたままで、鍋島はゆっくりとドアを開けた。
「よっ、ごぶさた」
 右手を挙げて敬礼のポーズを取っていたのは、かなり酒に酔った様子の麗子だった。
「おまえ……」
 直前の真澄との電話のせいで、鍋島の驚きはかなりのものだった。ドアノブに手を掛けて
赤い顔の麗子を見つめたままで、二の句が継げないでいた。頭の中が! ! ! !と
? ? ? ?で埋め尽くされた。ひょっとして、真澄は麗子が今夜ここへ来ることを
知っていて電話してきたのか?──そんな、まさかな。

「久しぶりじゃん、キョウダイ」
 ヘラヘラした麗子が脳天気な声でそう言って、ようやく鍋島は我に返った。
 そして今ひとつまだ腑に落ちない気分のまま、一度ドアを閉めた。
「ちょっと、閉めないでよっ。ひどいじゃないのぉ」
 麗子はドアをどんどんと叩いた。「酔っ払いの女なんて友達じゃないっての? この
薄情者──」
「やめろ、違うって、チェーン外して開けてやるんやから。静かにしろ」
「あ、ハーイ、分かりました。お巡りさん」
「……下戸のくせに、なんぼ飲んだんや」
 鍋島は舌打ちしてドアを開けた。すると、五秒前の威勢の良さとはうってかわり、顔面
蒼白で今にも死にそうな麗子がなだれ込んできた。
「……気持ち悪い。吐きそう」
「おい、ちょっと、やめろよ。ここで吐くなよ」
「悪い、トイレ借りる──」
 そう言うが早いか、麗子は鍋島を押し退けるようにして部屋に上がった。
ここへは何度も来て勝手をよく分かっている彼女は、両手で口許を押さえたまま一目散に
トイレに駆け込んだ。
 鍋島は麗子が玄関に放り出した鞄を拾ってあとに続いた。

 人が──とりわけ、いい大人の女が──胃を空っぽにするために苦しみながらも愚行を
繰り返す音など聞きたくもなかったので、鍋島はダイニングに入った。キッチンのカウンター
に置いた煙草を取って火を点けると、開けたままにしていたドアの向こうの麗子に言った。
「なあ、真澄がなんべんもおまえに電話してたらしいぞ」
「うるさい! 今、喋れないの……うえっ──」
「……アホやな」
 しばらくするとトイレの水が流れる音がして、麗子が出てきたようだった。そのまま彼女は
すぐ前の洗面所の蛇口を捻って、どうやらうがいをしている様子だった。そして鍋島が
冷蔵庫からミネラルウォーターを出してグラスに注ぎ、それをカウンターに置いたのと同時に
部屋に入ってきた。

「洗面所のデンタルリンス、使わせてもらった」
 麗子はまだ苦虫を噛み潰したようなしかめ面で言うと、カウンターの椅子に腰を下ろして
グラスを取り、「いただきます」と口もとに運んだ。
「ええ加減にしとけよ。独り暮らしをええことに好き放題やるのは」
 キッチンの鍋島が言った。
「久しぶりに飲んだからよ。空きっ腹だったから、思ったより廻っちゃっただけ」
「……情けない」
 鍋島は心底そう思っている様子で、腕組みをしながら苦々しく煙草の煙を吐いた。ところが
麗子はまるで意に介していないとでも言いたげに肩をすくめ、そして言った。
「──さっきの話。真澄がどうしたって?」
「今日、おまえに何回も電話してたみたいやぞ」
「何でだろ」
「こっちに来てたから。何かの展覧会とかで」
「会ったの?」
 鍋島は首を振った。
「どうして」
「急に連絡してこられても無理や」
「つれないのね」
「お言葉ですけど、こっちかて遊んでるわけやないんです」
「少しくらいの時間ならどうにでもなるんじゃないの」
 麗子は不満げに言うとグラスの水を空けた。鍋島が「おかわりは」と訊いたが彼女は首を
振ってカウンター越しにグラスを返した。そして鍋島がグラスを洗う様子を頬杖をついて眺めた。
「──ちょっと、ボストンに帰ってこようかと思ってる」
「向こうで何か?」
「別に何も」
「じゃ、こっちで何かあったか」
 鍋島は言うと顔を上げた。「やけ酒もそのせいやな」
「何もないわよ」と麗子は造り笑顔を見せた。
「嘘つけ」
 鍋島はキッチンから出るとさっきのロー・テーブルのところに行って電話を取った。
「タクシー呼ぶから、帰れ」
「え、何でよ。泊めてよ」麗子は驚いたように振り返った。
「……あのな。俺も一応は男や」
「大丈夫よ。あんたにそんな心配してないって」
 と麗子は笑ったが、鍋島は取り合わなかった。「あかん」
「カタいこと言いっこなし。今までだって何度も同じ部屋で雑魚寝したことあるじゃない」
「それでもダメ」
 麗子はバッグを開けた。「あ、そうだ、タクシー代がもう──」
「無かったら俺が出す」
「勝也……」
 麗子は溜め息をついた。「確かに、自分でいい加減なことやってるってことは分かってる
わ。独身の二十八の女が、いくら友達だからってこんな時間に酔っ払って男の部屋に押し
掛けるなんて。でも正直、ちょっとあんたに会いたくなったから──」
「それやったら前もって連絡して、それから来い。できたら素面しらふでな」
「──どうしたの? 何を怒ってるのよ」
「怒ってないよ。ただ嫌なだけ」
「え?」
「男と何があったか知らんけど、そのたびに俺のとこに来んなよ」
「勝也──」
 そうなんやろ? とでも言うように鍋島は咥え煙草の口もとに笑みを浮かべ、目を細めていた。
「そう言うの、いちいち黙って相手できるほど俺もお気楽な毎日を送ってるわけやない。
学生の頃ならまだしも、仕事でいろいろあって疲れてるときだってあるし、一人で考えたい
こともある。誰と喋るのも嫌なときかてあるんや」
「──ごめん」
「真澄はおまえと連絡が取れへんからって、俺のとこに電話して来たんや。おまえがここに
来てるんやないかと思て」
「……そうなの」
「こんな時間にまさか、他にいくらでも行くとこあるやろってあいつに言うて電話切ったら、
そのあとすぐにおまえが来た。偶然っていうより、ただ見透かされてるだけのことや。
おまえのそういう分かり易すぎるとこがあさはかにも見えて、なんかちょっと嫌やねん」
「……そうね」
「分かったら帰れ」
 鍋島は暗記しているタクシー会社の番号を押し、耳に当てながら麗子を見た。
「気分は? もう吹っ飛んだやろ」
「みたいね。頭にもミネラル・ウォーターを浴びせられた感じ」
 麗子は諦め顔で言うとバッグを手に取った。



 アパートに戻った芹沢を待っていたのは、一件の留守番電話だった。
《──貴志、姉さんです。……また電話します》
 たったそれだけだったが、芹沢には福岡の実家の様子が容易に想像がついた。
 大学を出て大阪に来てからの四年あまり、長姉からの電話というと決まって何か良くない
知らせだった。かと言って一刻を争うような重大な問題はほとんどなく、たとえそうだった
としても、彼がそれを知らされるのはすべてが終わったあとで、他はたいてい些細なもめ事に
関する愚痴ばかりを彼はこの姉から聞かされているのだった。
 芹沢は自分の方から掛け直すこともせず、風呂から出るとそのままベッドに入った。
 そこへ電話が鳴った。時計を見ると、十一時四十五分だった。彼は枕元のテーブルに置いた
コードレスの子機を取り、溜め息をついてスイッチを入れた。
「芹沢です」
《──貴志? わたしよ》
「ああ……留守中にも掛けてくれてたみたいだけど」
 芹沢は素っ気なく言った。
《う、うん……仕事はどうね。忙しかね》
「忙しいよ。それよりどうした? こんな時間に」
《父さんが倒れたと》
「何だって?」芹沢は起き上がった。
《あ、心配なか。ぎっくり腰やけん》
「……脅かすなよ」
 彼は再び枕に身体を預けた。やれやれ、いつもこの調子だ。
《けど、母さんがえろう気弱になっとると。店のことどげんしたらよかかって……》
義兄にいさんがいるじゃないか」
《今日、明日のことやなかよ。力仕事やけん、この先いつかはほんまに身体ば動かんように
なると。そんときば店をどげんしたら──》
「またその話か。そんなに店を義兄さんに譲るのが嫌なのか? せっかく一生懸命やって
くれてるのに、それじゃあんまりじゃねえか。義理の息子ったって、姉ちゃんの亭主
なんだし、赤の他人に譲るわけじゃねえんだから。姉ちゃんもそこんとこを親父にちゃんと言えよ」

 芹沢の実家は四代続いた老舗の酒屋だった。しかし五代目の芹沢が店を継がずに警官に
なったため、五歳年上の姉と結婚した義兄が脱サラをして、父親と一緒に従業員八人を抱える
店を切り盛りしているのだった。
《父さんも母さんも、ほんまはあんたに帰ってきてもらいたかとよ》
「親父の勝手だよ。だいいち、俺はこうして──」
《分かっとる。父さんたちも、あんたが警官になったわけはよう分かっとるよ、つまらん
意地ば感心できんとは思うとるけど。でも、あんたの気持ちは分からんでもないし、今じゃ
刑事にもなったけん、そげなあんたに帰ってきてくれとは言えんとよ》
「………………」
《けど、このままうちの人に店ば渡して、そのあとでもしあんたが帰ってきたらって……》

 芹沢には姉の言いたいことは分かっていた。父や母が自分に店を継いでもらいたいという
気持ちでいることは仕方ないとしても、もし彼自身の口からはっきりとその気のないことを
告げさえすれば、結局は諦めるだろう。そして店を義兄に譲るに違いない。姉はできれば
芹沢にそう言って欲しいのだ。芹沢もまた、自分は警官を辞めるわけにはいかないと思って
いたし、店にも故郷にも魅力を感じていなかったから、そう言うのは簡単だと思った。
 しかし、どういうわけかいざとなったら、何となく気後れしてしまうのだ。ひょっとすると
自分の中で、小さいながらも株式会社の社長の地位と、それに伴う財産やちょっとした名声を
惜しむ気持ちがあるのだろうかと考えもした。でもそう考えるとただ笑ってしまう。結局は、
九州の旧家の長男として生まれ、創業百年をゆうに越える大店の跡取り息子として育った経験
から、家や店を守ることの重要性を肌で理解することができたし、また警察官という職業が
本当に自分に合っているのかどうかの確信もきちんと得られているわけでもなかったから、
だから、落胆するに決まっている両親を前にして、いまだにはっきりと言い切ることが
出来ないでいたのだ。

「……姉ちゃん」
 よく考えろよ貴志。本当にそれでいいんだな。
《──貴志。あんたの気持ち、私にはよう分かっとるつもりよ》
「ああ」
 そうだ。おまえには刑事になった目的があるんだろ?
《……近いうちに、いっぺん帰ってきてくれんとね?》
「俺は……」
 一生警官をやって行くんだな。
《お金がないなら、飛行機代ば送るけん》
「いや、そうじゃないんだ」
 酒屋が嫌で東京の大学に行ったんじゃなかったのか。
《……やっぱり、忙しかね》
 姉の溜め息が彼にも聞こえた。その途端、急にこの姉の喋る博多弁や、電話の向こうの
実家が懐かしく思えてきた。
「──分かった。来月の連休にでも休みば取って帰るけん、それで良かね」
《ごめんね、面倒ばかり言うて。じゃ、切るよ……遅か時間から悪かったと》
「おやすみ」

 電話を切った芹沢は、しばらくの間手に持った受話器をぼんやりと見つめていた。ちょうど
そのとき部屋のドアが開いて、真新しいバスローブに身を包んだ湯上がりの女性が入ってきた。
「──あれ、やだなぁ。誰かと電話?」
 濡れた長い髪をタオルで拭きながら、女はベッドの端っこに腰を下ろした。
「妬けちゃうなぁ。どこの誰?」
「そんなんじゃねえよ」と芹沢は受話器を戻した。「実家からさ」
「ホント? こんなに遅く?」
「嘘なんかつかねえよ。だいいち、俺、あんたに嘘つかなきゃならねえ理由でもあったっけ?」
 そう言うと芹沢は女をじっと見つめた。二時間ほど前に行きつけのバーで声を掛けられた
とき、すぐに誰だか思い出せなかった女だ。よく話を聞くと、三週間前に一度同じ店で
知り合って、そこそこいい雰囲気になったらしい。確か、どこかの企業の社長秘書だとか言っていた。
「──別にないけど」
 女は少し不機嫌になった。
「ならいいだろ」
 そう言うと芹沢は女の手を取ってそばに引き寄せた。
 それ以上うるさいことを言えないように自分の唇で相手の唇を塞いで、バスローブの紐を
緩めると、女はすぐに従順になった。

 彼は言いようのない自己嫌悪に陥った。
 しかし、やがて忘れてしまった。




 冷たい夜の、漂う水面みなもに、男は浮かんでいた。
 死んでいるわけではなかったが、確かに死と直面していた。
 頭を何度も殴られて、骨のどれかがずれているようだと、遠い意識の中でぼんやり考えて
いた。肋骨の数本は確実に折れているし、右手の薬指もさっきからぐらぐらして、感覚など
とうの昔になくなっている。それから、焼けるような痛みが背中を風呂敷のように覆って
離れない。顔は水の中で、割れた西瓜のようにあらゆる汁だらけだ。

 完全にやられてしまった。
 あの子はどうなったのか。

 今夜、自分たちが連中のところへ行くことを、奴らは完全に分かっていたようだ。誰かに
連絡を受け、自分とあの子があの時間に現れることを知っていて、だからあそこで待っていたのだ。

 考えられることは二つ。──彼女か、あの子の姉か。

 あの時、誰かが通報してくれたのだろう。サイレンの音で連中が逃げた際に、自分とあの子
も必死で走った。散々痛めつけられて言うことを聞かなくなった身体をもつれる足で何とか
前に運び、そして転がるように河に落ちたとき、もうあの子はいなかったように思う。
 その直後に全身を切り裂くような痛みに襲われ、自分は一瞬気を失った。

 ところが、溺れそうな恐怖感で息を吹き返して、河から這い上がったとき、目の前にはまた
奴らがいた。
 そこからは再度の地獄。
 気がつくと、ここまで流れていた。
 水の流れに身体が揺れ、時折顔が水面上に出た。ほとんど視覚を失いつつあったが、まだ
消えずに残っている見慣れたビルの灯りやネオン看板がぼんやりと見え、その位置関係で
どの辺りを漂っているのかを何となく認識することができた。

 とにかく、今死ぬわけには行かない。それだけは駄目だ。
 あと百──いや二百メートルも流れれば、何とか管内に入ることができるだろう。
それまでは……

 それまでは、絶対に死ねない。












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