第七章 その4
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テーブルの上には、見た限りでは美味しそうな料理が並んでいた。
麗子は満足そうにそれらを眺めた。部屋の壁掛け時計を見ると、なんと九時半をまわって
いた。実に四時間半も掛かったのだった。
「やれば出来んのよ、あたしだって」
麗子は得意げに呟いた。
エプロンを外し、白いニットと赤のスエードパンツ姿になった。ワインセラーから赤ワイン
を取り出して、グラスとともにテーブルまで持ってきた。
席に着くとワインを抜いた。静かにグラスに注ぎ、メリー・クリスマスと心の中で言って
から、ゆっくりとワインを飲んだ。
そしてフォークとナイフを手に取ったとき、インターホンが鳴った。
「……誰よ。あたしに喧嘩売ってんのは」
むっとして立ち上がり、わざとゆっくりインターホンのところまで行って受話器を取った。
「──はい。どなた?」
「俺や」鍋島だった。
「やっぱりあんたね。あたしを怒らせんのは」
と彼女は溜め息をついた。「どうしたのよ」
「ええから、ちょっと開けてくれ」
「あんた、真澄とデートじゃなかったの?」
「……とにかく開けろって。雨が降って寒いんや」
「──勝手なやつ」
麗子は憤慨して言うと、受話器を戻してダイニングルームを出ていった。
廊下を進んで玄関ホールに出た彼女は、面倒臭そうにロックを外してドアを開けた。
「あら、馬子にも衣装ってやつね」
麗子は目の前に現れた鍋島の格好を見て嬉しそうに言った。
鍋島は上目遣いで麗子を見た。まるで悪戯が見つかったときの子供のような目だった。
「何なの。デートはどうなったのよ」と麗子は腕組みをした。「まさか、余計なことして
真澄を怒らせちゃったなんて言うんじゃないでしょうね」
「何もしてへん」
鍋島はむきになったように即答したが、すぐに首を傾げて呟いた。
「──いや、したかな」
「何やったのよ」と麗子は顔色を変えた。
鍋島は俯いた。「あいつに、俺の気持ちを言うたよ」
「……そう」
麗子は鍋島が真澄の気持ちに応えなかったのだと言うことを察し、沈んだ声で言った。
「あいつには悪いことをした」
「仕方ないわ。あんたにあの子を受け止める自信がないなら」
「ああ」
「それで? それをわざわざあたしに言いに来たってわけ? あたしがきっと怒るだろうから
って」
「そうやないよ」
「じゃあ何よ? あたし、今から食事なの」
「今から? 何でこんな遅いねん」
鍋島は訝しげに眉をひそめた。「何やってたんや?」
「いいじゃないのよ。とにかくまだ一口も食べてないんだから」
「……まあええか、それは」
「そうよ。あんたの用件を言いなさいよ」
「ほんまの気持ちが分かったんや。それでここへ──」
「だからそれは聞いたわよ。あんたにあの子は無理だったんでしょ」
麗子は苛立たしげだった。そしてそのストレスを吐き出すように一気にまくし立てた。
「あのね勝也、あたしお腹が空いてるのよ。実は今日、初めて一人で料理を作ったの。
我ながらかなり気合い入れて頑張ってね、四時間半よ、四時間半。そりゃもう、大格闘よ。
それを今から食べようってときにあんたが来て、真澄のことはいいとしても、まだ何だか
訳の分からないことをごちゃごちゃと、相変わらず焦れったいったら──」
ぷうっ、と鍋島が突然吹き出した。
「何よ、何がおかしいのよ」麗子はむっとした。
「──いや、違うねん」
鍋島は腕を組み、俯いてまたくくっと笑った。
「何が違うのよ。あたしが料理を作るのがそんなにおかしいって言うの? あんたちょっと
失礼じゃない?」
麗子は両手を腰に当てて鍋島を見た。どうやら本気で怒っているようだった。
鍋島はまだ笑っていた。怪我をした脇腹のあたりを押さえて、少し痛そうに片目を閉じた。
けれどもその表情は、さっきの思い詰めたような様子とは違って実に楽しそうだった。
「感じ悪い。言うことないなら帰ってよ」
振り返って廊下を戻ろうとする麗子の腕を掴んで、鍋島はようやく笑うのをやめた。しかし
その顔はまだ可笑しそうだった。
それから鍋島は言った。
「──いや、俺はほんまにアホな男やなぁと思ってさ」
「……今頃なに言ってんのよ。この、大馬鹿もの」
麗子は迷惑そうに言うと鍋島に向き直った。
「可愛くて、素直で、性格も育ちも申し分なくて、何より俺のことあんなに想ってくれてる
真澄をついさっき神戸の公園でフッて、その場に一人残してきた。ほんで、その足で車を
とばしてここへ来て、さっきから俺の話よりメシのことばっかり気にしてるおまえに
告白しようとしてるんやから」
「なにそれ?」
麗子は目を丸くしてぽかんと鍋島を見た。
「なあ麗子、俺はおまえのことが──」
「ちょっと待った──!」
麗子は鍋島の顔の前に手をかざした。「──それ以上は駄目よ」
「何でや」
「決まってるでしょ。考えたら分かるじゃない」
麗子の顔は強張っていた。まっすぐに鍋島を見つめる瞳の中には、有無を言わさぬ気迫が
あった。しかしよく見ると、今にも崩れそうな脆さも確かに潜んでいた。
それを感じ取った鍋島は、彼もまた表情を堅くし、その一途な目でしっかりと彼女の視線を
受け止めながら言った。
「俺の好きなんは、真澄やない。おまえのことや」
「ふざけないでよ!」
言うと同時に、麗子は鍋島の頬を叩いた。鍋島は顔を逸らせたまま黙っていた。
「あたしがあれほど頼んだじゃない。ちゃんとした答えをしてあげてって」
「ちゃんと答えたよ。その答えがそうなんや」
「それで済むと思ってんの?」麗子は声を荒らげた。「あの子は、あたしの従妹だって言った
でしょ?」
「せやからどうせえって言うんや? 好きでもないのにつき合えって言うんか? そんなこと
したら余計にあいつを傷つけるだけやろ。見合い話を棒に振ることにもなるんやぞ?」
「だからって、どうしてあたしのことを──」
「それはそれや、別のことや!」
鍋島の声も大きくなっていた。
「勝也……」と麗子は困ったように鍋島を見た。「あんたって男は──」
「せやから言うたやろ。アホなんや。たぶん地球上で一番のな」
「知らないわよ」
麗子は顔を背け、怒ったように溜め息をついた。
その一方では自分が激しく動揺しているのを感じていた。
「真澄が、おまえのとこへ行けって」
「あの子が?」
「ああ。おまえやったらええって」
「そんな──」
すると突然、鍋島が靴を脱いで家に上がり、廊下を進み出した。
「ちょっと、急に何よ?」
麗子は鍋島の背中に言った。
「味見や、おまえの料理の」
「……どうかしちゃってるんじゃないの」
ダイニングに入った鍋島は、テーブルに並べられた料理を見て一瞬驚いたような表情に
なったが、すぐに厳しい顔に戻るとそばに近づき、その中の一皿とフォークを取って
立ったまま一口食べた。
あとから部屋に入ってきた麗子は彼のすぐ隣に立ち、黙って彼の様子をうかがっていた。
「──まずい。最悪」鍋島は言った。「おまえこれ、途中で味見とかせえへんかったんか?
信じられへんのやけど」
「何よ……」
そう言うと麗子は鍋島がテーブルに戻した料理を取って自分も食べてみた。みるみるうちに
表情が歪んだ。
「お疲れさんでした」
鍋島は面白そうに言って一礼すると、今度は清々しい笑顔を見せた。
「とにかく、俺の気持ちはそうなんや。それだけを言いに来たんやから、帰るよ」
麗子は何も言わなかった。まるで寒さをこらえるように両腕で身体を抱え、鍋島に背を
向けた。
そしてドアの閉まる音をその背中で捉えると、また大きく溜め息をついて呟いた。
「……駄目だって言ったのに」
廊下に出た鍋島は、上着のポケットから車のキーを取り出し、ふうっと息を吐いた。
玄関ホールに戻り、背中を丸めるようにして靴を履いているとき、さっきの料理の味を
思い出して思わず小さく眉をひそめた。
そしてドアの取っ手を引いたとき、麗子の声が叫んだ。
「待って──!」
鍋島は振り返った。麗子はたった今彼が通ってきた廊下の真ん中あたりで立ち止まって
いた。滅多に見ることのない、行き先を失った迷い犬のように臆病な眼差しで彼を見ていた。
やがて麗子はぼんやりと言った。
「──九年もの間、気がつかなかったのかしら。あたしたち」
鍋島は彼女を見つめたままドアを閉めた。
「勝也が、あたしを……?」
「うん」
「この前まで、あんなバカなことしてたあたしを、よ」
「ああ」
「あたし、あんたのために何もできないのよ。ちっとも可愛げがないし、世話を焼くのは
大嫌いだし、料理だってあのありさま。真澄とは大違いだわ」
「分かってるよ、そんなこと。おまけに今さらそれをどうしようもないってことも」
「それでどうしてあたしなの?」
「俺のこと、全部知ってるやろ。違うか?」
「ええ、そうね」
「俺も、おまえのことならだいたい分かる」
鍋島は言うと小さく肩をすくめた。「理由はそれだけ」
「それだけって──」
「そんなやつ、他に誰がいてる?」
麗子は首を振った。
「やろ。それでええのとちゃうんか」
「──そう。それでいいのよね、きっと」
麗子は小さく笑って頷くと、ゆっくりと廊下を進んできた。
鍋島もドアから離れて彼女に近づいた。
俯き加減で歩いてきた麗子には、鍋島がすぐそばまで来ていることに気づくのが遅かった。
顔を上げると、目の前にはあまり見たことのない、どこか緊張したような表情の彼がいた。
「また駄目やなんて言うなよ」
そう言うが早いか、鍋島は麗子の頭の後ろに手を回してさっと引き寄せ、キスをした。
二人が出会って九年あまり、実に初めてのことだった。
突然のことにびっくりした麗子は棒立ちになり、そのまま何度も瞬きをして黒目を忙しく
動かしていた。
やがて鍋島が顔を離すと、まるでそれが初体験だった少女のような戸惑った表情で唇に
手をやり、鍋島から視線を逸らしたまま言った。
「……驚かさないでよ」
「昨日今日、知り合ったわけやないんや。勢いでないと出来るか」
鍋島も顔を上げようとはしなかった。
「そうだけど、何だかやっつけ仕事って感じじゃない?」
麗子はわざと不満げに言った。「……するなら、ちゃんとしてよ」
「え?」
鍋島は顔を上げた。そこには、いつもの勝ち気な眼差しに戻った麗子が彼を見つめていた。
「真澄のこと、神戸に一人残してでもあたしのところに来たんでしょ? だったらちゃんと
しなさいよ」
「え……ああ」
鍋島は伏し目がちに頷いた。そして小さく笑った。麗子の腕を取り、静かに抱き寄せると
もう一度その唇を合わせた。
九年間の遅れを取り戻そうとするかのような、長い長いキスだった。その間に二人は互いの
背中に腕を回してしっかりと抱き合った。
やがて二人は顔を離し、短く笑った。鍋島はまた軽く唇を合わせた。
「──九年間、気づかなかったんじゃないわ」
麗子が言った。鍋島を見て、納得したように一つ頷くと彼の肩に額をつけた。
「九年かかって長い遠回りをして、それでやっと戻ってきたのよ。ほんとの居場所に」
「……うん」
「そうやって──家に帰ってきたら、どうする?」
「え?」
鍋島は麗子から体を離して彼女を見た。
「家に帰ってきたら、何をするかって訊いてるの」
麗子は顔を上げてにっこり微笑んだ。鍋島は彼女が何を言いたいのかが推し量れず、
怪訝そうに目を細めて彼女を見つめた。
「美味しいごはんよ。決まってるじゃない」
麗子は言うと片目を閉じてまたにっこりと笑った。「作って。お腹空いた」
「……はいよ」
鍋島は深いため息をついて上着を脱いだ。
二人はいつものように、それぞれのペースで歩きながら廊下を進んでいった。
〈了〉
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