第七章 その1
第七章 Misty
1
クリスマス・イヴだった。
鍋島は刑事部屋のデスクに着き、頬杖を突いて煙草を吹かしていた。
外は雨が降っていたが、この暖かさではホワイト・クリスマスにはなりそうになかった。
やがて彼は手もとの報告書に目を落とした。先週から三件続いて起こった夜間の帰宅途中の
女性を狙ったひったくりがゆうべようやく逮捕にこぎ着け、彼がさっき調書を取り終えた
ところだった。今日のところはこの報告書を書き終えれば終わり。無罪放免だ。
「巡査部長」
庶務の婦警が近づいてきて、鍋島に声を掛けた。
「──あ、えっ、なに?」
「あの、今日お誕生日でしたよね?」
「うん、そうやけど……」
「はい、お誕生日おめでとうございます」
婦警は後ろに隠していた両手を前に出した。「これ、刑事課と少年課、 生安課の女子からの
プレゼントです」
差し出された両手の中には、綺麗にラッピングされ、ブルーのリボンを巻いた小さな箱が
あった。
「あ──ありがとう」鍋島は箱を受け取った。「開けていい?」
「どうぞ」
箱の中には、黒革のバンドにゴールドの縁取りを施した黒いフレームのルイ・フェローの
デザインのクォーツ時計が納められていた。鍋島は嬉しそうに婦警に振り返った。
「ありがとう。高かったんと違うか?」
「大丈夫です。八人で割りましたから」
「悪いな。サンキュ」
「ところで巡査部長、今日はちゃんとお相手に恵まれたんですね?」
「え?」と鍋島は困惑顔になった。「何の話?」
「まったく。鍋島さんは分かりやすいんやから」
と婦警は得意げに頷いた。 「鍋島さんがスーツなんて、年に一度──いえ、きっと四年に
一度あるかないかなんでしょうね」
そう言って婦警は鍋島を眺めた。
そう、今日の彼はチャコールグレーのスーツに黒のドレスシャツをノータイで合わせ、
いつもよりずっと高級そうな革靴を履いていた。髪も二日ほど前に散髪を済ませており、
寝癖などはまだつきようもない状態だった。
「ちぇ、目ざといな」
「頑張って下さいね」
婦警は愉しそうに言うと、自分の席に戻っていった。
鍋島はその後ろ姿を見送って一息つくと、もらった腕時計を眺めた。金色の針は四時
三十五分を差していた。それから彼は自分の腕時計を見た。こちらは四時三十七分だった。
自分の時計を外して時刻を合わせていたとき、デスクの電話が鳴った。
「刑事課です」
《俺だよ》
芹沢の声だった。
「ああ。もう博多か」
《いや、まだ新大阪》
「何時の新幹線?」
《もう来る。あと十分くらい》
芹沢はホームから掛けているらしく、周囲のざわめきのせいか少し声が大きかった。
「で、何や」
《おまえに言い忘れたことがあったからよ》
「何や。まさかそのまま戻って来ぇへんなんて言い出すなよ」
《……そうだって言ったら?》
芹沢は声を急にトーンダウンさせて言った。
「おい、待てよ」と鍋島は身を乗り出した。「辞表なんか送ってくるなよ」
《冗談に決まってるだろ。そんなことしようもんならおまえが実家まで押し掛けてくるに
決まってる》
芹沢は笑っていた。
「……しょうもな」と鍋島は溜め息をついた。
《俺の言いたかったのは、おまえのことさ》
「俺のこと?」
《おまえ、お嬢さんにちゃんと言うんだぞ》
「え?」
《いいか。たとえどんな返事をするにしても、いつもみてえに途中で面倒臭くなってごまかす
なんてことやめろよ》
「分かってるよ」と鍋島は吐き捨てるように言った。
《ほら、それが面倒臭がってるって言うんだ》
「ええから。新幹線来たんとちゃうか」
《それからもう一つ》
「なんや。早よ言え」
《俺は忘れちゃいねえから》
「何を」
《自分が何で大阪で刑事やってるか、その理由をさ》
「……ああ」
鍋島は椅子に背を預けた。そうだ。それを忘れない限り、彼が警官を辞めて家業を継ぐことは
ないだろう。
《じゃあな。うちのオリジナル焼酎、楽しみに待ってろ》
そう言って彼は電話を切っていった。
鍋島はしばらくのあいだ受話器を見つめていたが、やがてふんと笑って静かに戻した。
芹沢の方も携帯のスイッチを切ると、左手に下げていたボストンバッグを肩に回し、
到着した新幹線に乗り込んだ。
すぐには席には着かず、乗降ドアの前に立って窓の外を眺めていた。
やがて車輌がゆっくりと動き出した。窓ガラスの向こうで流れるホームのスピードも徐々に
速くなっていった。
遠ざかっていく大阪の街並みを眺めながら、彼はこのとき初めて惜別の情に駆られた。
麗子は独りでクリスマスを祝うことにした。
今や彼女には一緒にイヴを祝ってくれる相手はいなかった。彼女ほどの美貌の持ち主なら、
お洒落な店を選んでほんの三十分もカウンターに向かっていれば、難なく男がそばにやって
くるに違いなかった。しかし、そこまでして誰かと一緒にイヴを過ごしたいと思うほど彼女は
あさはかではなかった。何も毎年男と一緒だったわけではなかったし、 大学卒業後はクリス
マスを日本で過ごすこともそう何度もあったわけでもなかった。
麗子は今日の朝から、今夜の料理のことで頭がいっぱいだった。
本格的なクリスマス料理を作ろうと決心したのは、彼女にとってはかなり無謀とも思えたが、
とにかくやってみることにした。
書店を何軒もはしごして料理本を買いあさり、家に帰ってそれらを熱心に読み比べ、
メニューを決めるのに昼過ぎまでかかった。そしていつもは滅多に行かない遠くの大きな
スーパーまで車を走らせ、夕方近くになってようやく料理本に書いてあったすべての材料を
揃えた。
スーパーや商店街はクリスマス・デコレーションのおかげで賑やかだった。
ほとんどの客がケーキを大事そうに抱え、袋にいっぱいの買い物を重そうに下げて自分の
車に急いでいた。
アメリカのアットホームなクリスマスやドイツの宗教色豊かな降誕祭と違って、日本の
クリスマスは一種のお祭りに過ぎないのだと、麗子はいささか失望を感じながらアクセルを
踏んだ。
家に帰り、キッチンの調理台に買ってきた材料を全部ぶちまけて、彼女は大きく溜め息を
ついた。
そしていかにも頼もしそうに腕まくりをすると、壁に掛けてあるエプロンを取り、しっかりと
身につけてから独り言を言った。
「──さあ、一世一代の大仕事に掛かるか」
彼女は積み上げてあった真新しい料理本を手に取った。しばらくのあいだはまた無心に
読みふけっていたが、やがて本をどさりと手もとに下ろし、早くも根を上げたような頼りない
声で呟いた。
「……勝也って、偉いやつだったのね」
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