第六章 その5
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一週間後、山口泰典は検察庁に身柄を送られた。その二日前に退院し、じっくりと取り調べを
受けての送致だった。殺人未遂の重い罪名である。
杉原奈津代と河村忠広もすでに送検済みで、拘置所でそれぞれ検察官の調べを受けている。
河村はやっと喋り始めているらしい。
山口紫乃と杉原信一刑事は順調に快復しており、紫乃は退院も近いらしい。
杉原刑事は病室から辞表を提出し、依願退職が認められた。懲戒免職もやむなしと頭を
抱えていた幹部たちは、一瞬ではあったが安堵のため息を漏らした。
事件は警察の手を離れた。しかし当事者たちにとっては、まだなお長い苦悩は続く。
それからさらに一週間が過ぎた。
その日の午後、芹沢は家庭裁判所の前にいた。強行犯係の刑事である彼にとってはあまり
馴染みの深い場所ではない。相変わらず絶望的に長い勤務中に訪れるのは、もっぱら地裁
ばかりだ。
それでもわざわざ足を運んだのは、今日、ここで生島修の最後の審判が行われるからだ。
厳密に言えば、芹沢は生島修の一件から外れたはずだった。
その直後に杉原の事件が起こり、正式に引き継いだ少年課が手薄になったために何かと
関わりを持たされてきたが、彼にはもはや捜査担当者としての責任はないはずだった。
だから、生島修が父親を刺した罪をどう償うよう告げられるのかを見届ける責任も、芹沢には
一切負わされていないのだ。
それでも彼は今日、ここへやって来た。審判開始予定時刻まであと十分。余裕で間に合う
時間である。
彼はもう一度家裁の建物を見上げてから、ゆっくりと足を踏み出した。頬を切るような
冷たい風が、よく晴れた空から足もとに走り抜けていった。
玄関の階段を二つ上がったところで、芹沢は顔を上げてまっすぐ前を見た。入口の小さな
ホールの中央から左右へと、石造りの階段がゆったりした曲線を描いて伸びている。その壁
には、数個の文字と矢印の書いた表示板らしき白い板が貼り付けてあった。
つまり、ロビーを入ったどこかにあるだろう受付か、あるいは案内板のようなもので生島修の
審判が行われる部屋を確認しなければならないということだ。至極当然のことだった。
その作業をするのが、芹沢は突然面倒になった。
彼はその場で立ち止まった。
──杉原さん、俺にはあんたと同じことはできないよ。
みんなが俺のことを、あんたが全幅の信頼をおいた後輩みたいに言うのは分かってる。
人嫌いの俺が、あんたにだけは素直だったことも否定はしない。だけど、そんなあんたが
辞めてしまったからって、俺があんたの意志を継いで同じようなことができるかって言うと
──それは無理な話だ。俺にはあんたの真似なんてできない。
そう、俺は俺だ。事件に関わった人間のフォローもできなければ、そういう連中と一緒に
身を滅ぼす気も毛頭ない。
芹沢はくるりと後ろを向いて階段を下り、たった今くぐってきた門に向かって歩き出した。
この日はよく晴れた土曜日で、大阪城公園の噴水の前のベンチに腰掛け、萩原は久しぶりに
清々しい気分でいた。
彼は目の前で噴水の池を覗き込んでいる美雪の姿を眺めた。美雪は胸のあたりに大きな
ぼんぼりのついたグリーンの厚手のセーターを着て、 黒いスパッツをはいている。
そして彼女には少し大きめの真っ赤なキルティングのフードつきコートを羽織っていた。
少し早めのクリスマス・カラーのつもりらしい。
「パパ、お池の中にお魚がいる!」
美雪は萩原に振り返り、大きく目を見開いて叫んだ。
「そうか。あんまり底まで覗き込んだらお洋服が濡れるで」
「うん」
美雪は小さく頷くと、今度は噴水を見上げた。
彼は両手をベンチの背もたれにまわした。こうして休みの日に公園でのんびり過ごすことなど
久しぶりだった。
銀行なんかで働いていると、土、日の休みは疲れ切って家でゴロゴロしていることが
ほとんどで、あとは持ち帰った仕事をしているか、出勤させられているかのどちらかだった。
そういえば、前回こうして公園で過ごしたのはワシントン勤務の頃だった。もう二年近くも
前のことだ。
彼はワシントン時代を思い出した。休みの日にはアパートの近くの小さな公園で、十センチ
近くもあるワシントン・ポストの日曜版に缶ビールとサンドイッチで午前中いっぱいを過ごした。
穏やかな陽射しと名も知らない小鳥のさえずりが彼の心に安らぎを運んでくれた。
そして午後には笑顔のチャーミングなエレナのアパートへ──。
エレナは銀行のオフィスが入って いたのと同じビルの保険会社に勤める役員秘書だった。
二人は一目でお互いを気に入り、二度目にエレベーターに乗り合わせたときには、彼は
気づいたら彼女をランチに誘っていた。
それからはもうお決まりのパターン。
ただ、彼の渡米目的からしても、お互いその関係が長く続くとは思っていなかった。
やがて彼に帰国の辞令が出て、二人はきれいに別れたのだった。
ところが、帰国しても彼にはアメリカ生活との切り替えがまるでできなかった。
エレナのせいではない。彼の日本での第一歩が、望み通りの部署には迎えられなかったと
いう大きな失望から始まったせいだ。
その上、長く離れて暮らしていたせいか、妻の智子は彼に夫として、父親としての自覚と
責任を強く求めてきた。
彼女に言わせれば当たり前のことだったのだろうが、アメリカでは何もかもが別天地の
出来事のようだった彼にとって、そうした平凡な生活は色褪せて見えたのだった。
それだけ、彼はまだ大人になり切れていなかったのだ。
そういう意味では、大学を卒業してすぐに結婚をしたのは早急だったようだ。
帰国してふた月ほどたった五月のある週末、いつものように疲れ切ってマンションの
インターホンを鳴らした彼は、迎えに出た智子の顔を見るなり言った。
──別れてくれ。
当然、智子は承知しなかった。それからの毎日は、今思い出しても首を振りたくなるような
暗さだった。
そして、とどのつまりがあのセリフ。「クズ」。
「パパ、お腹減った」
いつの間にか美雪がそばへ来て、彼の洋服の裾を引っ張っていた。
「あ、そうか。じゃあ何か食べに行こか」と彼は笑顔で言った。「何が食べたい?」
「うんとね──ハンバーグ!」
美雪は元気いっぱいの声を上げた。
「よし、ほな行こう」
彼は美雪の肩に手を回して言うと、そのまま抱き上げた。
これ以上自分のわがままにこの母娘を巻き込んではいけないのだと、彼はこのときようやく
確信した。
IMPビルにあるレストランを出た萩原は、美雪を連れて智子との待ち合わせ場所である
天満橋の松坂屋デパート前へと向かった。
途中、二人は天満橋の水上バス乗り場から河を眺めた。対岸の一帯は天満の街で、鍋島の
勤める西天満署の所轄管内であるはずだった。
「──美雪、ここから水上バスに乗ってずうっと河を巡ったことあるか?」
萩原は美雪とつないだ手を前後に揺らしながら言った。
「すいじょうバス?」と美雪はたどたどしく復唱した。「なに? それ」
「そうか、知らんのか」と萩原は笑った。「今度ママに連れてってもらうとええよ」
「パパは連れてってくれへんの?」
「パパはな──」萩原の顔が曇った。「ママがええて言わんと、ダメやな」
「ふうん」
美雪はがっかりしたように俯いた。萩原はそんな彼女を見て心が痛んだ。そして何とか
彼女の喜びそうな話題を考えた。
「そうや美雪、クリスマス・プレゼントは何がいい?」
「クリスマス?」と美雪は顔を上げた。「パパ、プレゼントくれるの?」
「当たり前やないか。去年もあげたやろ」
「ほな、クリスマスはパパも一緒?」
「それは──」と思わず口ごもった。「それもママに訊いてみんとな」
「パパ。パパはまだママとけんかしてるの?」
美雪は大人じみた心配顔で萩原をじっと見た。まるで恋人と喧嘩した友達を気遣っている
ような顔だった。
萩原はたまらなくなって美雪を抱き上げた。我が子とクリスマスを過ごすことのできる
平凡な幸せも、今の彼には簡単に手に入るものではなかった。当たり前のことが当たり前で
なくなったとき、人は初めてその大切さを知るのだと彼は痛切に感じていた。アメリカから
戻ったとき、彼はそのことに目を背けてしまっていたのだ。
後悔先に立たず。使い古されたことわざに、彼はやっと気づいたのだった。
五時をまわって、空からは夜が降りて来ていた。いよいよ本格的な冬を迎え、頬を撫でて
いく風の冷たさも研ぎ澄まされてくるこの時期は、ゆく年を惜しむのには似合いの季節と
言えた。
そして、家族の暖かさとありがたさが急に恋しくなるのもこの時期だ。
「あ、ママだ!」
突然美雪が声を上げた。
萩原はあたりを見回した。すると前方から、藤色の訪問着に白い帯を締め、左の腕にきちんと
たたんだコートを下げた智子が、少し戸惑った表情を浮かべながらこちらに向かって歩いて
くるのが目に入った。
その隣には、見るからに好感の持てる体格の良い男性が、彼女を包み込むようにして
付き添っていた。
「あ──」
萩原はしまりのない声を出した。
目の前まで来ると、智子は軽く会釈してから隣の男に振り返った。
「あの、この方が──」
「萩原です」と彼はぺこりと頭を下げた。
「初めまして。榊原耕平です」
男は穏やかな笑顔で言った。仕立ての良さそうな焦げ茶のスーツに趣味のいいネクタイを
合わせ、智子と同じように腕にコートを持っていた。
萩原は二人の姿を見て、少しバツの悪い思いがした。
それというのも今日の彼はブルー・グレイのシャツの中にタートルネックのセーター、
さらにその上に着古したGジャンを着て、下もまたかなりはき込んだ感のあるジーンズに
茶色のショートブーツという格好だったからだ。いくらそれらがかなり値の張るヴィンテージ
ものだったとしても、目の前の二人との差は割り引かれるものではなかった。そしてその腕に
美雪を抱く姿は、小さな娘を持てあましているだらしのない父親のようだった。
「──あなたには、一度お会いしたいと思っていました」
榊原は萩原から視線を外すことなく言った。その顔には、どこか男としての自信のような
ものが伺えた。
逆に萩原には言葉が浮かばなかった。いつかは顔を合わせなければならないのだろうと
思ってはいたものの、あまりに突然に、何の心の準備もできていない無防備な状態で美雪の
養父となるだろう男が目の前に現れたのだから、それも仕方がなかった。
萩原は無理に笑った。そして美雪をそっと下ろすと、自分も彼女と同じ目の高さになるように
しゃがみ、そして言った。
「美雪、パパはここで帰るしな。次に逢うまで、いい子でいるんやで」
「いや、もっとパパといる──!」
「何言うてるんや。ママが迎えに来てくれてるやろ」
萩原に優しく言われ、美雪は智子に振り返った。しかしその隣にいる榊原をじっと見つめると、
またすぐに萩原に抱きついて顔を埋めた。
「いや、いや──!」
「美雪、そんなわがまま言うんやったら、パパはもう知らんぞ」
萩原は声を強めた。その声で美雪は余計に頑なになり、そしてとうとう泣き始めた。
「──あの、萩原さん」
榊原が進み出て言った。
萩原は顔を上げた。そしてゆっくりと美雪の腕を自分の肩から外し、立ち上がった。
「すいません、あの──」
「いえ、違うんです。どうぞ、私に気を遣わないでください」
「いえ、ダメですよ。この子にも、もうそろそろ分かってもらわないと困るんです」
そこまで言うと萩原は情けなさそうに笑った。「俺がこんなこと言えた義理やないですけど」
「萩原さん……」
萩原はもう一度しゃがみ込み、美雪と向かい合った。
「ええか、美雪。ママの言うこと、よう聞くんやで」
「パパは……?」美雪はベソを掻いていた。
「パパはいつも通りや。また来月になったら、美雪に会いに来るから。クリスマスの
プレゼントは、サンタさんに渡しとく」
「ほんま……? 約束……?」
「ああ、約束するよ」と萩原は頷いた。「そのかわり、美雪もパパが今言うたこと約束できるな?」
美雪は仕方なさそうに頷いた。そして諦めたようにゆっくりと萩原に背を向けると、
項垂れたまま智子のもとへと歩き出した。
萩原はそんな美雪の姿をぼんやりと眺めながら立ち上がった。
そして智子と榊原を代わる代わる見つめ、やがて榊原に向き直った。
「この娘のこと、どうか可愛がってやってください」
「萩原さん」
「俺にはできませんでしたが、あなたになら──」
萩原は俯いた。ジーンズのポケットに両手を突っ込み、やがて決心したように顔を上げた。
「彼女たちを幸せにしてもらえそうですね?」
「それはお約束します」
「じゃあ、俺はここで」
「萩原くん」
ここで初めて智子が口を開いた。
萩原は振り返った。そして今の彼に出来る精一杯の穏やかさで彼女に微笑んだ。
「ありがとう」と智子は声を震わせた。
「あの、萩原さん」
榊原が思い立ったように言い、萩原は彼を見た。
「あの、クリスマスは美雪ちゃんと過ごしてあげて下さいませんか?」
「え? でも」
「いいですよね、智子さん?」と榊原は智子に振り返った。
「ええ」
「……ありがとう」
萩原はその伏し目がちの瞳で足もとを見つめた。なぜだかとても安らかな気持ちになった。
そしてこれはたぶん榊原のせいなのだろうと思った。彼はきっとそういう男なのだ。確か、
前に智子もそう言うてたっけ。
萩原は来た道を戻り始めた。川面に映ったビルの明かりがゆらゆらと踊り、まるで炎の
ようだった。
「パパァ、バイバイ!」
後ろから美雪が叫んだ。萩原は振り返らなかった。ポケットから煙草を取り出し、口に挟んだ。
土曜のせいで普段のサリーマン客が見当たらず、二、三組の二人連れが離れて座る
こぢんまりと落ち着いた居酒屋で、萩原の話すのを黙って聞いていた鍋島は、話が終わると
一気にグラスの冷酒を呷った。
「辛いとこやな」
彼は吐き捨てた。
「全部俺の蒔いた種や。ここへ来てようやく摘み取ったんや」
「それにしても、その再婚相手がおまえから見てもええやつやったっていうのが ──何とも
悔しいやないか」
「あの男やったら、俺とは違て家庭を大事にするタイプみたいに思える。安心や」
そう言って萩原は微笑むと、灰皿の中で煙草を潰した。
「美雪ちゃんはどうなんや」
「あの娘も、しばらくは拒絶するやろう。けど、そのうち分かってくれると思う」
萩原は俯いた。「きっと俺が逢うのをやめたらええんやろうけど」
「そこまでええカッコすることないぞ」
「ええカッコか。そうかもな」
「それに、おまえまでがそんなことしたら、美雪ちゃんはどこに自分のほんまの気持ちを
ぶつけたらええんや」
「そうやな」
萩原は空になったグラスを傾け、氷を鳴らした。
「けど、美雪ちゃんを引き取るってあれだけ頑張ってたのに、よう決心したな」
「いつまでも子供みたいに駄々こねててもしゃあないしな」
萩原は笑って言うと鍋島を見た。「おまえと麗子に一斉に説教されたら、俺もよう踏ん張れん」
「おまえ、ほんまにそれでええんか」
「ええわけないやろ」
「おい、それやったら──」
「それでも決めたんや。自分のためにもそれが一番ええんやと言い聞かせて」
「そうか」と鍋島は溜め息をついた。「大きい代償やな」
「ただのクズやった男が、再生ゴミにくらいにはなれたかな」
「おもろないぞ、なんにも」
「ええから。おまえも早よ決心しろよ」
萩原は鍋島の肩をつついた。
「何やそれ」
「今朝、純子ちゃんから電話もろてな。『お兄ちゃんにはっきり言うてやってください』って
頼まれたぞ」
「……余計なことを」
鍋島は舌打ちした。そして首を伸ばしてカウンターの中の店員に声を掛けた。
「すいません、冷酒もう一本」
「ごまかさんでええから。真澄ちゃんが見合いするんやて?」
「みんなでよってたかってその話ばっかりや。俺と真澄の問題やろ」
「おまえがいつまでもうじうじしてるからやろ。はっきりせえよ」
「真澄が俺みたいなんとつき合うて上手いこと行くと思うか?」
「おまえにはその気はないんか」
萩原はボトルのウィスキーをグラスに注ぎながら鍋島を見た。
「あるとかないとか──そういうことの前にその考えが先に立つんや」
「何で」
「ほら、あいつはああいうコやろ。素直で純粋やけど、世間知らずのお嬢さんや。 俺に対する
気持ちもよう分かるだけに、自信がないって言うか」
鍋島はカウンター越しに出された冷酒のボトルを手に取った。
「自信がない、か」
「その、どうしても構えてしまうんや。ずっとええカッコしてなあかんみたいで」
「それを彼女の前で続けられる自信がないというわけか」
萩原は頷いた。「まあな。あのコにはおまえの存在は絶対みたいやから。おまけに
つき合うには、その絶対的存在を崩すことは許されへんみたいな感じはある」
「潔癖性やからな」
「けど実際は、おまえは言いたいことを何でも言える女の方が合うのと違うんか」
「別にそうでないとあかんとは思わへん。要は、楽でいられたらええみたいなんや」
「果たして彼女がそういう相手かどうか、ってことなんやな」
「確かに、あいつのことを好きなんやなっていう気持ちもある。けどいざその気持ちを出そうと
すると、なんか引っかかってしもてな」
鍋島はため息をついた。「自分でも、ええ加減はっきりせえよって腹立つときもある」
「麗子はどう言うてるんや」
「早く答えを出してやれって。あいつ、俺が七年前と同じことをまた繰り返すんやないかって、
それを心配してるんや」
「なるほどな」
「どっちの答えを出そうと、そこまで指図するつもりはないとも言うてるけど──何しろ
従妹やからな。暗にええ返事をして欲しいっていう信号を送ってきてるのが分かる」
「真澄ちゃんがああいうコだけに、傷つけて欲しくないってのがあるんやろな」
「そんなこと、あいつに言われんでも分かってるつもりや。従姉妹同志でも、あいつとは
全然違うんやからな。真澄は」
そう言って冷酒をグラスに注ぐ鍋島を萩原はじっと見た。
「おまえ、心の底に眠ってる気持ちに正直になった方がええぞ」
「何やそれ」と鍋島は顔を上げた。
「よう考えたら分かるはずや」と萩原は笑った。
鍋島は首を傾げ、ようやく杖なしで歩けるようになった右足をさすった。
二人で飲むのは久しぶりだった。そのせいかそれから彼らは何軒もはしごして飲み歩き、
結局最後に屋台のおでん屋の前で別れたのは午前二時近くのことだった。
自室のロー・テーブルの前に座り、鍋島は電話を前に考え込んでいた。
部屋の壁掛け時計は午前二時半を指していた。どう考えても、人に電話を掛けていいような
時間ではない。こんな時間に電話が鳴ったら、誰だって悪い予感しか抱かないだろう。
ただ、今を逃すとまたずるずると考え込んでしまう自分が分かっていた。
そしてきっと、最後には逃げてしまうことも。
鍋島は丁寧にボタンを押した。自宅ではなく、携帯電話に掛けていることがせめてもの
救いだった。
「──もしもし?」
相手を確かめるように言った。「あ、俺やけど──」
彼は俯いた。「ごめんな、こんな時間に。──ううん、違うよ。うちから掛けてる」
「あの、真澄」彼は咳払いをした。「その──二十四日は予定はあるんか?」
それから相手の返事を待った。「そう、おまえを誘ってるんや」
「ええのか?」ほっとしたような表情になった。「そうや──え?俺の誕生日はどうでも
ええから、とにかくその日はおまえと──」
「うん、仕事はある。うん、分かった。そしたら六時に。──え? 大丈夫や。行けるよ」
そして彼は電話を切ろうとした。しかしまたすぐに受話器を耳に当てた。
「もしもし、真澄?」
「その──やっぱりええんや。何でもない」
そして今度は本当に受話器を戻した。しばらくのあいだ両手を電話の上に置いたまま
じっとしていたが、やがてゆっくりとため息をついてその手を外した。
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