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ロング・ウェイ・ホーム
作:みはる



第一章 その2


        2

 大阪に本社を置くほとんどの大企業がそうであるように、その銀行も本店は中央区の
淀屋橋にあった。

土佐堀とさぼり川に架かる淀屋橋から南の御堂筋みどうすじを中心とした一帯は、銀行の他に保険会社、商社、
大手メーカー、さらには東の北浜からの流れを継ぐ証券会社などのオフィスが建ち並び、
その間を行き交う人々はほぼ百パーセントの割合でビジネスのためにそこにいるのだった。

 色づき始めた御堂筋の銀杏並木に穏やかな午後の光が散りばめられ、二階にいる萩原豊はぎわらゆたか
には眩しかった。こんな日にはいつもより余計に仕事が馬鹿馬鹿しく思えてならない。
 昨年の三月にアメリカ勤務から帰ってきて以来、彼はこの本店営業部の貸付二課で仕事を
している。入行してわずか一年目の秋にワシントン支店への赴任が決まり、半年間の研修を
経て翌年の春、妻と生後九ヶ月の娘を大阪に残して単身アメリカへ渡った。夢中で仕事を
して、二年後の二月、主任昇格の辞令を現地で受け取った。同期の連中よりも一年以上早い
出世だった。それから約一年後に帰国することになるのだが、彼は次の配属先がこの本店で
あることを確信していた。

 私立大学の文系を並よりちょっとだけ良いという程度の成績で卒業してこの大手都市銀行に
入るのは、当時としてはいくぶん無理があるように思えたが、それでも海外勤務の辞令を
受けたときには、エリートコースへのビザを受け取ったような気分になったものだ。
 それがさらに、同期の中での──特に私大卒の中では──一番出世。彼は次に自分が迎え
られるのはこの二十五階建ての本店ビルの中枢を担う部署に間違いないと思って帰国したの
だった。

 そしてその通り、彼は今こうしてこのビルで仕事をしている。
 たった一つ、予想と違った点は、迎えられた部署の名前だった。
 彼が自分の新しい仕事場だと信じて疑わなかった部署は、同じこの建物の中でもずっと上の
階にある、国際部国際資金管理課のことで、この二階の営業部貸付二課ではなかったのだ。
 そして、このたった一つの違いは大きかった。

 ビザが切れたんやな、と萩原はそのとき思った。
 同時にすべての気力の糸も切れた。 五ヶ月後に離婚。大学の四年間をほとんど彼女と過ごす
ために費やしたと言ってもいい恋女房とだ。
 おまけに最近、日本の仕事のやり方にいまだに馴染めないでいる自分に気づいていた。

 しかもそんな彼の心の葛藤をあざ笑うかのように、先月彼にはまたしても同期組の先陣を
切って係長昇格の内定が下された。ここへ来てからの自分のどこを評価されたのかがまったく
分からない彼には、この昇進はもはやお笑い種だった。
 いったい俺はこの五年半もの間、何をしてきたんやろう……。


 この本店営業部は立体店舗になっていて、来客の多い預金課と現金自動支払機コーナーは
一階にあったので、二階は貸付課だけで広々としていて静かだった。フロアでは十五人程度の
行員が黙々とデスクに向かって仕事をしている。いつもはどこかで電話が使用され、必ず
誰かの話し声がしているのに、今はそれさえも聞こえてこない。そんな中で彼は、遅くなった
昼食をどこで食べようか考えていた。

「──萩原、メシどこで食う?」
 同期の山本やまもとがトイレから戻ってきたのか、ハンカチで手を拭きながら隣の椅子に
座ってきた。彼は萩原がアメリカから戻ってこの貸付課に配属になったのが面白くて仕方が
ないらしく、何かというと彼に近づいてくる。
「そうやな、給料出たとこやから──ちょっと奮発してもええかな」
「おまえはええよな、独身貴族で。俺はここ三年間、給料日の喜びってもんを知らん。女房が
知らん間にカードで引き出しよるんで、気ぃついたら口座には僅かな小遣いだけや」と山本は
溜め息をついた。
「俺かて一緒や。給料が振り込まれんのと同時に娘の養育費と車のローンで半分から持って
行かれるんやで。何で俺がマンション引き払って実家に戻ったと思う?」
「……立ち入ったこと聞くけど、養育費てなんぼや」
「何や、嫁さんと別れるんか」
 萩原はデスクの書類を片付けながら山本を見た。
「いや、そういうわけやないけど……参考にな」
「聞かん方がええな。いざほんまにそういうことになりそうなとき、思い出したら決心が鈍る」
 そう言って萩原は自分のデスクのすぐ後ろにあるコピー機の前に立つとスイッチを押した。
「……相当持って行かれるんやな」
 山本は独り言とも取れる言い草で呟くと、両手を頭の後ろで組んで椅子に深く身体を預け、
何気なく一階へと続く階段に目をやった。

 その視線がそのまま固まる。

「お──おい、見てみろ」
 山本は萩原に向かって手を振りながら小声で囁いた。
「何やねん、今ちょっと手が離されへんのや」
 萩原はコピー機に向かったまま。
「すごい美人が来た」
「おまえが美人やて言うたんで、ほんまにそうやった試しがないぞ」

 けれども、その女性は本当に美人だった。
 階段を上りきったところでしばらく立ち止まり、フロア全体を見渡した後、ゆっくりとした
足取りで長いロー・カウンターに近づいてくる。柿色のダブルのスーツの中にブルー・グレイの
シャツブラウスを合わせ、短く三連にした真珠のネックレスを着けていた。丈の短いタイト
スカートからは足首のしっかりと締まった長い足が伸びている。シャープなラインのパンプス
は曇りのない黒だった。髪は自然な栗色で、心地よい大きなウェーヴのセミロング・ヘアー。
形の良い耳でも真珠のピアスが柔らかい光を放っている。はっきりとした二重の切れ長の瞳、
理想的な位置に頂点を定めた鼻、輪郭を綺麗に描いた紅い唇が色っぽい。まさにこういう
女性のことを絶世の美女と言うのだろうと山本は思っていた。

「あの、ちょっとお訊ねしますが──」
 美人はロー・カウンターに座っていた女子行員に声を掛けた。
 具体的に想像していたわけではなかったが、そのハスキーな声で語られる綺麗な標準語は、
まさに期待通りと言うに相応しかった。
「萩原、おい、萩原って」
「うるさいなあ──あっ、ちくしょ」
 コピー機から今まで順調に流れ出ていた紙がぴたりと止まった。
萩原はしゃがみ込んで機械の下の部分の蓋を開け、中を覗いて溜め息をついた。
「おまえが後ろからごちゃごちゃ言うからやぞ山本──」

「──萩原さんはいらっしゃいますでしょうか?」

 美人がそう言った瞬間、彼女に向けられていた視線のすべてが萩原に移った。
 萩原はその視線を感じたのか、それとも彼女の言葉が聞き取れたのか、たぶんその両方の
せいですぐに振り返った。

麗子れいこかぁ」
 彼は驚きと嬉しさの入り交じった声を上げた。
「やだ豊、いたの」

 絶世の美女は萩原の大学時代の同級生、三上麗子みかみれいこだったのだ。




 銀行を出た二人は、すぐ近所の小さなレストランに入った。
 店内は昼休みのビジネスマンで一杯だったが、それでももう一時を廻っていたのでこれ以上は
混まないだろうと萩原は説明し、彼らは小さな二人用のテーブルに着いた。

「久しぶりやな、麗子」
 カレーライスを注文した後、萩原は上着のポケットから煙草を出しながら言った。
「そう?ゼミの飲み会以来だから、まだ二ヶ月よ」
 麗子もバッグからシガレット・ケースを出す。
「ちょっと見ぃひん間にまた綺麗になったな」
 萩原はまじまじと麗子を見た。
「それが驚くなかれ、大学の人気講師なんやし──才色兼備とはまさにおまえのことを言うんやな」
「いくらお世辞言ったって、何も出ないわよ」と麗子は微笑んで腕を組んだ。
「分かってるって。で、今日は何や」
 萩原は言うと銀行を出るときの皆の驚いた顔を思い出した。特に山本は悔しそうやったな。
 一瞬だけ視線を落として、麗子は言った。
「別に用ってないわ。近くへ来たから、ちょっと寄ってみただけ」
「ほんまか?」
 萩原は疑わしげな笑みを浮かべた。「そんなタイプやないやろ。ちょっとぶらっと、とか、
気が向いたから、なんてのは性に合わへんのと違うんか」
「そんなことないわよ」
「いや、そんなことあるね。行動のすべてにその目的と結果がともなってないと嫌なんやろ?」
「なに? それじゃまるであたしが情緒欠落人間みたいじゃない」
「それに近いかもな」
 失礼しちゃうわね、と麗子が言って二人は笑った。
「鍋島のことか」
「え?」
 麗子が顔を上げると、萩原はしたり顔で見つめていた。
 卵型の顔の中で最も印象的なのはその伏し目がちの二重の目で、長い睫毛の間から茶色
がかった瞳を、今はいくらか大仰に輝かせて覗かせていた。太くはないが凛々しい眉が
こめかみに向かって真っ直ぐに伸びている。かっちりとした濃紺のスーツに糊の効いた
ワイシャツ、その袖口から覗かせた何気ないデザインの時計はもっぱら機能重視を主張して
いるかのようだ。落ち着いた色調のネクタイ、スーツの襟には巨大コンツェルンのトップに
君臨する輝かしい社章。典型的なホワイト・カラーの青年である。しかしながらそれは学生
時代の彼とはとうてい繋がらない、すなわち麗子には単に外見上だけのものであると容易に
見抜けるイメージだった。

「どうしてそう思うの?」
「俺とおまえの歴史の中で、あいつ抜きの瞬間なんて一瞬たりともないからな。おまえと
あいつの間では、俺抜きってこともありうるやろうけど」
 芝居じみた、そして何となく意味深な萩原の台詞に、麗子は「何よそれ」と笑った。

 そこへカレーライスが運ばれてきて、萩原は煙草を消した。麗子の前にはシーフードサラダ
とフレッシュ・オレンジジュースが並べられた。二人は黙って二、三口食べた。
「──しばらく、アメリカに行って来ようかと思ってるの」
「里帰りか」
「うん、まあ──そんなとこ」
 話を振ってきたのはそっちだろうが、と萩原が怒りたくなるような気のない返事をサラダの
中に落として、麗子は小さく溜め息をついた。

 三上麗子はいわゆる帰国子女である。ボストンの大学で教鞭をとる数学者を父親に持つ
彼女にとって、長い間アメリカが母国だった。その彼女が九年前、ボストンの高校を卒業
すると両親とともに帰国し、生活基盤を初めて日本に置いて、九月に京都にある私立大学の
法学部に編入学した。そのときの基礎演習のクラスで一緒だったのが萩原豊で、彼は彼女が
大学で最初に作った二人の友人の一人であり、もう一人は、今、二人の話に上っている
鍋島勝也である。

 そもそも萩原と鍋島は入学して最初の講義で席を隣り合わせたときからの仲だった。
 附属高校からの推薦入学者が目立つ学生たちの中で、ともに一浪しており、しかも他に受験
して落とされた大学まで同じだと分かるとすぐに意気投合し、それからは講義でも遊びでも
たいてい行動をともにしていた。麗子が編入学してきたとき、二人は彼女のあまりの美貌に
感激し、早速クラス幹事の立場を利用して彼女に近づいた。が、それは結局、性別を越えた
堅い友情を産んだだけという情けない結果に終わる。麗子がその容姿とかけ離れてまるで
色気のない性格だったのがその第一の原因だったが、萩原はそのときすでに後の妻となる
女子学生とつき合っていたし、鍋島にも彼女らしき相手がいた。麗子も学業に夢中でボーイ
フレンドどころではなく、他の男子学生も彼女のことを高嶺の花だと思っていたので、結局
彼女には特別な相手は出来なかったのだ。

 四年後、三人は無事卒業証書を手にした。その先の進路は萩原が大手銀行、鍋島は大阪
府警、麗子は大学院とそれぞれに別れたが、気のおけない親友同志としての関係はずっと続いている。

「──鍋島には黙って、ってことか」
「別に内緒ってわけじゃないわ。でも──わざわざ報告することでもないでしょ」
「見とうないか。あいつが他の女とくっつくの」
 麗子は驚いて顔を上げた。萩原の口からいきなりそんな言葉が出てくるのが意外だったからだ。
「そういう話をしに来たんやろ?」 と、逆に萩原は何でもなさそうに肩をすくめて見せた。
「俺が全部分かってるって確信があったから、俺に会いに来たんやないんか」
「え、ええ、まあ……そうだけど」
 麗子はちょっとバツが悪そうに造り笑顔を浮かべながら俯いた。
「あんまりズバッと言うんだもの」
「従妹の──何て言うコやったっけ」
真澄(ますみ)。野々村真澄」
 麗子は答えた。「勝也はつまらない遠慮をしてるのよ。真澄があたしの従妹だから──
あたしに気兼ねしてるの」
「気兼ね?」
「ええ。三年前、勝也に真澄を引き合わせたのはあたしだから。大阪で親戚の結婚式が
あって、あたしと真澄も出席したの。その帰りにふとあいつのこと思い出して、電話で呼び
出したのよ。あの頃、あいつまだ寮生活してたでしょ。相も変わらず女っ気とは絶縁状態
だから辛いってよく愚痴ってたから」
「ちゃんと紹介したわけやないんやろ。彼女としてどうかって」
「そうだけど、でも──」
「真澄ちゃんの方は鍋島を気に入った」
「そう」
「でも、あいつはどうなんや」
「意識はしてるわ。真澄の気持ちにも気づいてるみたいだし。でも、そこでまたあいつの
ビョーキよ」
「ああ、重度の『優柔不断症候群』な」
「そう。『人のことならよく分かるしアドバイスもできるけど、自分にとっての重要事項は
何一つ決められません』ってやつ。バカよね。って言うか──ずるいのよ」
「……おまえ、ほんまにそれだけが原因やと思てるんか」
 萩原はグラスの水を飲みながら言った。
「何が?」
「あいつがウジウジよう決められんで、なおかつおまえに気兼ねしてるから真澄ちゃんとの
ことが前に進まへんのやて──本気でそんなこと思てるんかってことや」
 麗子は一点の曇りもない真っ直ぐな瞳でじっと萩原を見つめていたが、やがてすっと
滑らせるようにその視線を逸らし、相変わらず強気な口調で続けた。
「だからさっき、あたしがアメリカに逃げちゃうみたいなこと言ったのね」
「ああ」
「勝也はあたしのこと親友だと思ってるわ。あたしもそう思ってるし」
「なら何で黙ってアメリカに行く? 俺には身を退いてるようにしか見えへんな。せやない
って言い張るんやったら、あいつにもちゃんと言うて行けよ」
「ええ、それでもいいわよ。でも、そうしたら勝也はきっと何もしないでしょうね。自分と
真澄の両方をよく知るあたしがいない間に話を決めちゃいけないと思うのよ、変なところで
義理堅いヤツだから。留守を見計らったと思われたくもないだろうし。決めたくても決められ
なくなっちゃうのよ」
「決める気がないんやろ」
「違うわ。豊、あんた何も分かってないわよ、勝也のこと」
「麗子には分かるんか」
「分かるわ」
「好きやから?」
 いらだちをぐっと押さえるように、麗子は一つ溜め息をついた。
「ええそうね、好きよ。親友として。ついでに言うとあんたのこともね」
「怒るなよ。分かったから」
 萩原は呆れたように言うとふんと鼻を一つ鳴らし、食べる手を休めて麗子をじっと見た。
「ほな訊くけど、何で俺にはわざわざ言いに来たんや? 帰るってこと」
「それは──」
「分かっといて欲しいんやろ。もし鍋島がおまえのいてへん間にその真澄って従妹とくっついた
としても、おまえにとっては別に意外でも何でもなく、ちゃんと承知してたことなんやって。
哀しいどころか、むしろ望んでたことやって、麗子はそう言うてたでって、そのことを誰か
一人くらいには──俺なんか最適やな──知っといてもらう必要があるんやろ」
「どうして?」
「乗り越えられるからや。先にそういう既成事実を作っといた方が。俺の手前、無理してでも
笑おうとするやろ」
 図星を突かれてもはや身動きが取れなくなったのか、それとも親友の見事な思い込みに感心
したのか、麗子はふーんと頷きながら形式的な笑みを浮かべた。
「あたしのこと、すっかり分かってるつもりのようね」
「こと鍋島に対する気持ちに限ってはな」と萩原は頷いた。
「親友やから、分かるんや」
「そう言ってくれて嬉しいけど、とにかく豊は勘違いしてるわ」
 麗子は言うと食事を終えた。「まあいいか。分からないなら、それでも」
「俺の方こそどっちでもええ話や、自分らで決めたらええことやと思てたからな。今までずっと
何も言わへんかったのもそのためやし。ただ、こうやっておまえがいつになく思わせぶりな
こと言うて来たから、俺もこの機会に思てること言うたまでのことや」
 萩原はいくぶん強い剣幕で言った。これには麗子も戸惑ったようだった。
「──気を悪くさせたのなら謝るわ」
「気にすんな。ただ、これだけは言うとくけど、他にどうしても帰らなあかん用事がないのん
やったら、とにかくやめとけって。せやないときっと後で後悔するぞ。別におまえが鍋島の
ことどうこう思ってるからって言うんやない。ヘタな小細工は するなって、それを言いたい
んや。おまえが気ィ回して姿を消したってことを、もし後であいつに知れるようなことが
あったら──誤解すんなよ、俺が喋るってことやないぞ──分かるやろ? あいつがどう思う
かってこと」
「うん」
「だいいち、あいつの病気はおまえがちょっと気ィ回してやったぐらいでは治らんて」
と言いながら萩原は小さく首を振った。
「あれこれお膳立てしたところで結局は疲れるだけやってこと、嫌と言うほど思い知らされて
るやろ? 俺もおまえも」
「そうね」
「なら放っとけ。あいつかてええ大人や、学生の頃とは違う。ほんまにその彼女のこと想てる
んなら、ちゃんと行動するって。おまえが泣いて止めたって、もうあかんで」
 萩原はそう言うと麗子をじっと見た。
「しつこいようやけど、そのときになって気がついたって遅いぞ。自分があいつのことどう
思てたかってこと」
「分かってるわよ」
「ほんまにそうか?」
「ほんま」
 麗子がおどけたように答えて、そこのその話は終わった。

 その頃になると、客は萩原と麗子の二人だけになっており、店内はすっかり落ち着きを取り戻していた。
「──ねえあたし、一度豊に訊きたいと思ってたことがあるんだけど」
「今度は何や」と萩原は左手に持ったスプーンを動かしながら言った。
「どうして智子ともこちゃんと別れたの」
 萩原はやっぱりそのことか、と納得したように頷き、それからちょっと笑って言った。
「おまえ、ほんまに遠慮もクソもない訊き方するなあ」
「お互いさまよ」と麗子は肩をすくめた。「驚いたわよ。確か一時帰国した時よ。勝也から
『萩原が離婚した』って聞かされて……どう言う意味だか、すぐには分からなかったわ」
「おまえはずっとドイツやったもんな。俺と智子がもめてたときは」
「何があったの?」
 萩原はスプーンに山盛りのカレーをすくっては口に運んだ。麗子はじっとそれを見ていた。
「──大学の四年間、俺と智子はお互いの顔を見ぃひん日なんてなかったな」
「そうよ。ゼミの誰もが──教授だって知ってるお似合いの二人だったじゃない」
「卒業直前の冬にあいつのお腹に美雪みゆきができたことが分かったのを差し引いても、
結婚することに何の疑いもためらいもなかった」
「だったらなぜ──」
「せやろ。実は、これといった理由なんてないんや」
 萩原は麗子を見た。「きっかけは俺のアメリカ行きやったのかも知れん。でもな。それが
原因とは違う」
「あたし、今でも信じられないっていうのが本当のところなのよ」
「たぶん俺らは──少なくとも俺の方は──一生のうちにあいつに注ぐ愛情のすべてを、
八年間で使い果たしてしもたのかも知れんな」
「またカッコつけちゃって」と麗子は困ったように笑った。
 萩原も少し情けなさそうに微笑むと、最後の一口を頬張って水を飲んだ。
「豊」
「うん?」
「後悔してるんじゃないの?」
「何で?」
「そう見えるわ」
「後悔はしてないよ」と萩原は首を振った。「ただ──夫婦として最後にあいつに会うた
とき、言われた言葉が──その──今でもちょっとこたえてることは確かや」
「分かったわ。そういうことならもう訊かない」
 麗子は視線を落として食べ残しのサラダをつついた。
「別れ際にひとこと──」
「言わなくてもいいって」
「──『クズよ、あんたは』ってな」萩原は苦笑した。
 麗子は呆れたような表情で萩原を見た。そして小さく首を振り、またすぐに俯いた。
「……あの智子ちゃんがそんな風に言うなんて」
「俺のせいや」
 萩原はぽつんと呟いた。
「ええ。そうみたいね」
 麗子は眉の間に皺を寄せて言うと、悔しそうに窓の外の銀杏並木を眺めた。




 中華料理専門の大衆食堂というのは、どこもよく似ている。
 油があって、火があって、匂いがあるのだ。
 客もまた然り。たいていが男一人で来る。黙って店に入ってくると、黙って席に着き、
さっさと注文して、後は黙って漫画や新聞を読む。料理が目の前に置かれたところで、
やっぱり黙って箸を割る。
 だから、その中年男もずっと黙っていた。注文のときでさえも。

 男が店に現れたとき、カウンターの中にいた若い店員が振り返った。そして手動のドアを
閉める男に一瞥を向けられると、それまでは小気味良い威勢の良さを振りまきながら立ち
振る舞っていた店員はすっと静かな面持ちになり、男に軽く頷いた。
 これがどうやら男の注文の儀式だったようだ。男は常連客なのだろう。店員は奥の厨房に
向かって短い言葉を告げると、カウンター脇の給水装置で水をくみ、男の座ったテーブルまで
持っていった。
 そして、やはり店員も黙ったままでテーブルにグラスを置くと、彼はそのまま男の向かいに
腰を下ろした。

 煙草に火を点けながら、俯いた客の男は話し始めた。
「──やっぱりおまえは来んほうがええ」
「一人で行くつもり?」
「ああ。その方が──」
「それはナシって言うたでしょう。もともとは僕の問題や」
「覚悟できてるんか?」
 男は若い店員を睨みつけるように見た。
「もう、なんべんも答えたはずです」
 店員は言って伺うような視線を厨房に向け、またすぐに目の前の男を見た。
「気持ちは変わらへんよ。ここまで来たら」
「──分かった。ほな、今夜九時に」
「九時に」
 そのとき、また新しい客が入ってきて、店員はその客を「いらっしゃい」と元の威勢の良い
声で迎え、席を立っていった。
 席に残された中年男は、その様子をどこかしら寂しげに見つめていた。













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