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ロング・ウェイ・ホーム
作:みはる



第六章 その3


         3

 夕方になって、鍋島は杉原奈津代の自宅に向かった。
 右足のせいで車の運転が不可能な彼にとって、単独で張り込みをするのは無謀と言えた。
 しかし、奈津代がこの事件に何らかの関与をしている可能性があることについて、彼らは
まだ上司には報告していない。
 したがって二人揃って隠密行動をとることはまず無理だということになり、退院した
ばかりでまだ本調子ではなく、即戦力としての数には入れられていないであろう鍋島が
行くことにしたのだ。

 昼食を済ませたあと、鍋島はまず、薬を横流ししていた土橋の供述の裏付けに島崎と
出掛けていった芹沢を見送り、しばらくは刑事部屋で休んでいた間に溜めていた書類仕事に
精を出した。
 そのあと、行きたくはないが病院がどうしてもリハビリに来いと言ってうるさいのだと
課長に嘘をつき、早退届けを出して署を出たのだった。
 すべて芹沢との打ち合わせ通りだった。

 それから彼はタツを呼びだした。情報収集以外の用件で彼の協力を仰ぐのは初めてだった。
 そしてもちろん、最後にするつもりだった。

 四十分後、タツは知人に借りたと言う車でやって来た。彼も捜査協力のようなことを
させられるのはとても迷惑そうだった。しかし、その現場がいわゆる普段の自分の縄張りとは
離れた郊外だと聞いてしぶしぶ承諾したのだ。
「──どこ行くん」
 鍋島が後部座席に乗り込むなり、タツは訊いてきた。
「とりあえず新御堂しんみどうを北へ走ってくれ。道案内はその都度するから」
 タツは黙って車を発進させた。


 杉原夫妻のマンションの前までやってくると、鍋島はタツに言ってマンションの出入口が
見える一番遠い場所の舗道脇に車を停めさせ、張り込みの体制に入った。
タツは居心地悪そうに運転席でもじもじしていたが、やがて腹をくくったのか、自分も
シートを倒してスポーツ新聞を読み出した。

 半時間以上が過ぎた頃、杉原奈津代がマンションから出てきた。
 明らかに変装と分かる派手な格好をしていたが、二度会って話をしたことのある鍋島には
判別できた。
 ショルダー・バッグの他に大きなボストンバッグを抱えていた。
「出て来た」
 鍋島が言うと、タツは読んでいた新聞をがさりと下ろしてマンションの玄関を見た。
グリーンのコートに黒いブーツを履いた女の後ろ姿が遠ざかって行くところだった。
「尾けるんか」
「うん。頼むわ」
 タツはシートを起こし、これだけ離れていては聞こえないと分かっていても静かにエンジン
を掛けてゆっくりとサイド・ブレーキを下ろした。
そして、歩いている奈津代とは二十メートルほどの間隔を開けてゆるゆると車を進めた。

 国道からの脇道に出た奈津代はタクシーを拾い、国道を北へと向かった。 しかしまた
すぐに脇に逸れ、今度は西に進路を変えた。
「空港ちゃうか」とタツが言った。
 ああ、と鍋島は答えてタクシーを見つめた。

 杉原刑事が瀕死の状態にあってなお同僚に頼み込んだひとこと。

──これは警官襲撃やない。事件にせんといてくれ。

 それはこういうことだったのだ。もちろん、鍋島には前を行く彼女が今から何をしようと
しているのかは分からない。しかし杉原が刑事としての立場を放棄し、山口と一緒に河村の
ところへ乗り込もうとしたのも、すべては彼女を守るために違いない。
 それは確信があった。
 山口姉弟を救うためだけなら、杉原は絶対に刑事であり続けたはずだ。
 しかしその一方で、今日になって杉原に援助交際の疑惑も浮かび上がってきた。それを
知っていたかどうかは分からないが、奈津代は一日も欠かさず杉原の病室を訪れて看病を
続けている。
 この事実だ。

「──なあ自分、結婚してるんか」
 気がつくと、鍋島はタツにそう訊いていた。
「何でまたそんなこと訊くん」
 タツはルームミラーの鍋島を見た。
「そういや訊いたこと無かったなぁと思て」
「してたことはあるけど」
「別れたんか」
「うん」
 ふうん、と頷いて鍋島はまた奈津代の乗ったタクシーを見た。
 後部座席の彼女の後頭部が、気のせいか少し項垂れているように見えた。
「窮屈そうやな。夫婦でいる言うのんは」
 鍋島は溜め息混じりに呟いた。


 予想通り、タクシーは大阪空港に着いた。
 正面玄関で車を降りた奈津代は、まずその大きな荷物をコインロッカーに預け、それから
航空会社のカウンターへと向かった。
 鍋島は少し遅れて、人混みに紛れながら彼女を追いかけた。

 やがて彼女はカウンターを離れ、エスカレーターのそばでバッグから携帯電話を取り出した。
鍋島は彼女から目を離さないように注意しながら、彼女が手続をしていたカウンターへ行った。
「あの、ちょっと失礼」
 鍋島は低い声で言うと、まわりに気づかれないように警察手帳をカウンターの中にいた
グランド・サーヴィスの女性に提示した。
 係員は表情を変えることなく、たっぷりと時間を掛けて警察手帳を確認すると、美しい
笑顔で言った。
「はい、何か」
「今、ここへ来た女性のことですけど」
「とおっしゃいますと?」
「ほら、あそこで携帯で喋ってる女の人のことです。グリーンのロングコートを着た」
 鍋島はエスカレーターに振り返りながら言った。
「ああ、はい」
「彼女がどの便に乗るか分かります?」
 係員はまた笑顔を見せると、手もとのパソコンのモニターに視線を落としてキーを打った。
「本日十九時十分発の羽田行き一三七便にお席のご予約を頂いております」
「乗り継ぎするかどうか、分かりますか」
「お待ちください」
 係員は手際よくキーを叩いた。そしてしばらくするとこれまでで最高の笑顔を見せて言った。
「千歳行きに搭乗されるご予定です」
「……ありがとう」
 係員は深々と頭を下げた。
 鍋島はここまで感情を出さずにいつも笑っていられる女の神経を疑った。
 プロ根性と言えばそれまでだが、こんな女とつき合うと、自分ならいったい何を考えて
いるのだろうと終始疑心暗鬼に陥ってしまうだろうと考えた。
 同じ美人でも、麗子の方がもっと表情が豊かだ。
 それとも、麗子も学生たちの前ではあんな風に儀礼的に笑っているのだろうか。いや、
まず絶対と言ってそれはないだろう。

 奈津代の方は電話を終えると、空港ビルを出てタクシー乗り場の列に並んだ。鍋島は彼女に
気づかれないように別の出口から出て、タツの待つ車に戻った。


 それから奈津代はミナミにある、河村の店とは別のクラブにやってきた。 時間がまだ早い
とあって、広い店内は高校生くらいの客がほとんどだった。
 巨大なアンプを揺らしてフロアいっぱいに流れる大音響は、病み上がりの鍋島には最悪の
サーヴィスだった。
「くそ……殺す気か……」
 鍋島は頭を抱えるようにしてテーブルに突っ伏していた。よりによってこんなときにクラブ
とは、俺もついてない。

「──お兄さん、ひとり?」
 今しがたまでフロアで踊っていた少女が、鍋島の隣へ来て言った。
「ああ、ええから」鍋島はゆっくりと手を振った。
「何で。一緒に踊ろうさ」
 そう言うと少女は鍋島の顔を覗き込んだ。派手な化粧をして大人っぽい格好をしているが、
口許にまだあどけなさが残っており、どう見ても十五、六歳のガキだった。
「おまえ、いくつや」
 鍋島は少女の顔をじっと見て言った。
「何よ。あんたサツの補導係?」
「俺がお巡りに見えるか?」と鍋島は笑った。
「ううん。どう見てもプーやわ」
「せやろ」
──このガキ、おまえかてどう転んでも大学生には見えへんぞ。
「ね、誰かと待ち合わせ?」
「ああ。もうすぐ連れが来るんや。悪いな」
 鍋島は早くこの少女を追い払いたかった。こうしている間にもフロアの隅のテーブルにいる
奈津代が動き出すのではないかと気が気でなかったのだ。
「女と待ち合わせ?」
 少女はしつこく食い下がった。
「当たり前や」
「ほな、その女やめてあたしと、と言うのはどう?」
「さぁなぁ。女と相談してみんことにはな」
「その女とあたしと、どっちが若い?」
 そう言うと少女はぐっと身体を寄せてきた。意識して腕を組んだせいで、広く空いた胸元
からは谷間がはっきりと見えた。
「なあ、お嬢。若けりゃええって思い込むのは子供の証拠や」
「あたし、ええモンもってるんよ」
「そのようやな」
 鍋島はちらりと少女の胸元を見ると笑った。「また今度試させてもらうわ」
「違うって。あんたなんか勘違いしてる?」
 少女は呆れた顔で鍋島を見た。「スケベ」
「あ、そう。ほなええモンって何や」
「……分かってるくせに」
 鍋島の表情が厳しくなった。「クスリか」
「そう」
 少女は上目使いで鍋島を見ると、このときだけ妙に大人っぽく笑った。
「今、持ってるんか?」
「うん。あんたも欲しかったらあげるけど。この店でも手に入るよ」
「ここで?」
 思いがけない話に、鍋島はすっかり夢中になっていた。
「買ってみる?」
「ああ」
「ほら、あれ見て」
 少女はカウンターに振り返った。「あそこの男が持ってるねん」

 鍋島が見ると、カウンターの隅に一人の従業員がおり、注文されたドリンクを作ろうと
していた。
 そして今まさに、さっきまでテーブル席にいた奈津代がカウンターに寄り掛かり、その男に
話しかけたところだった。
「ほら、あの女もきっと買おうとしてるんやわ」
「え」
 鍋島は少女を見た。
「ええから、見ててみ」
 鍋島はもう一度カウンターを見た。ちょうど従業員がカウンターの中から出てきたところ
だった。
「裏口の方の人目につかへんとこで受け渡しや。それからきっと、あの女は戻ってきて
トイレに行くはず──」
 少女が話している途中で、鍋島は立ち上がった。彼女の言うとおり、二人が店の奥へと
歩き始めたからだ。
「ち、ちょっと……どこ行くの?」
 少女も慌てて立ち上がり、鍋島の背中の脇を掴んだ。
 すると、その手がブルゾンの上からホルスターの拳銃に触れた。
「あんた──」少女の顔色が変わった。
「近頃はお巡りのバリエーションも豊富でな」
 にやりと笑ってそう言うと鍋島は少女に詰め寄った。
 そして今度は凄みのある声で囁くように、
「けど俺の正体をばらすなよ。おまえのことは見逃してやるから」
と言った。
「──分かった」
「分かったんやったら、クスリをそのテーブルに置いておとなしくおウチへ帰れ」
 そして鍋島は奈津代たちの後を追った。
「ねえ! 何する気?」
 大音響の中、少女は鍋島の背中に向かって叫んだ。
 鍋島はうんざりしたように振り返り、少女をじっと見た。
「……消えろって言うてるんや」

 引きずる足で急いで人混みをかき分け、店の奥へと進んだ鍋島は、さらにその先の
「STAFF ONLY」と書かれたドアから奈津代と従業員が別々に出てくるのを見た。急いで
引き返し、相変わらず気違いじみた音量が溢れ出てくるアンプの陰で様子を伺っていると、
奈津代はこれもまた少女の言う通りに化粧室に入っていった。

 ドアの前まで来た鍋島は、静かに耳を寄せた。中でカチャカチャと音がした。
「イチかバチかや」
 そう呟いて、鍋島は勢いよくドアを開けた。
 目の前の洗面台で、奈津代は小さな注射器を持っていた。
 そばにピルケースのようなものが置いてあった。
 奈津代は驚いた様子で顔を上げると、鍋島を見て目をむいた。
 鍋島はドアに手を掛けたまま言った。
「……何でですか?」
 奈津代は悲しい眼差しを彼に返した。
「──寂しかったんです」
 鍋島は溜め息をついて首を振った。

 冗談やない。俺のおふくろかて寂しかった。けどひとことの文句も言わずに死んでいった──。

 やがて鍋島はゆっくりと奈津代の前まで行った。そして彼女の手からそっと注射器を
取り上げると、粉の入ったケースと一緒に彼女のバッグの中に入れた。
「杉原は知ってたんですね」
「たぶんね」
と鍋島は頷いた。「行きましょう。これ以上杉原さんの名前を傷つけることを俺たちは許さない」












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