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ロング・ウェイ・ホーム
作:みはる



第六章 その2


         2


 研究室のデスク一面に分厚い書物を所狭しと並べて、麗子は度の強い眼鏡を少しずらして
掛け、無心にペンを走らせていた。
 大学はもうすぐ冬休みを迎えようとしていた。その冬休みが明けて二週間もすれば、
学年末試験が始まる。麗子はそれまでに自分の担当する科目の講義が何時間残されて
いるかを考えた。それぞれあと四、五回だった。
 自分の勝手で休んだせいで、どれも少しずつ遅れが出ており、最初の予定までは終えられ
そうになかった。彼女はカリキュラムの変更を余儀なくされた。

 ドアがノックされた。麗子は左手で眼鏡を上げ、ドアを見て言った。
「どうぞ」
「失礼します」
 入ってきたのは、手に一冊のノートを持った男子学生だった。麗子には見覚えのない顔だ。
「はい……?」
「あの、先生、ちょっといいですか」
「いいわよ。何か?」
「あの、ゼミ論のことなんですけど……」
「きみの? きみはあたしのクラスの生徒じゃなかったわよね?」
「いえ、あの──吉本(よしもと)教授のゼミです」
「吉本先生?」と麗子は首を傾げた。「だったらどうして吉本先生のところへ行かないの?」
「教授は……生徒の人数が多いせいか、あまり一人一人には丁寧じゃなくて──」
「仮にそうでも、やっぱりあたしのところへ来るのは筋違いってものよ」
 麗子は立ち上がった。「まあいいわ、今日は特別。でも、他の生徒たちには言わないようにね」
「すいません」と学生はほっとしたように息を吐いた。
 麗子はノートを受け取り、手早く目を通した。
「──そうね。あたしが言っても差し支えのないところだけを指摘すれば──判例の引用が
多すぎるわ」
「あ、やっぱり」
「自分でも分かってるみたいね。どうして? 枚数稼ぎ?」
「いえ、そんなつもりは」
「まずその点から直してみたらいいわ。それから、判例集以外にももっと多くの文献に目を
通すことね」
 そう言うと麗子は学生にノートを返した。
「あの、争点に対する意見の進め方は──」
「それ以上は吉本先生に聞きなさい」

 そこで突然、デスクの端っこにかろうじて引っかかるように置いてあった携帯電話が鳴った。
麗子は電話を見下ろして言った。
「いいかしら。あたし、ちょっと忙しくしてるの」
「あ、はい。ありがとうございました」
 学生は一礼して出ていった。麗子は溜め息をついて軽く頷き、振り返って電話に手を伸ばした。
「はい、三上です」と幾分冷たい口調で言った。「あら、真澄?」
「いいえ、どういたしまして。──うん、すぐに帰れたわよ。家に着いたら十一時頃だった
かな」

 そして麗子はしばらくのあいだ真澄が話すのを聞いていた。途中、ゆっくりとデスクを
廻って椅子に腰を下ろした。
「──そう、するの」と麗子は溜め息をついた。「それで、日取りは決まったの? いつ?」
「一月十日? 祝日ね」
 麗子は煙草に火を点けた。苦虫を噛み潰したような表情だった。
「──そうよね。別にこれで結婚が決まったってわけじゃないんだし。そうよ。勝也だって
考えるって言ってくれてるんだから。そう。何も悲観的になることなんてないのよ」
 麗子は左手に電話を持ち替え、開いた右手でペンを取った。そして手もとの紙にのらくらと
落書きをする。

『見合い 見合い 1/10  勝也のバカ』

と書いてあった。

「うん。じゃあね。また……」
 麗子は丁寧にスイッチを切った。大きく溜め息をつき、椅子に深く背を預ける。そして
しばらくは考え込んでいたが、突然もう一度電話を掴み取ると、アドレス帳を呼び出して
ある番号を検索し、通話ボタンを押した。
 何度か呼び出し音を聞いたところで、突然スイッチを切った。
「やめた……!」
 麗子は電話をデスクに放り出した。
「追いつめるだけよね──」
 そして眼鏡を掛け直し、開いたままの書物に視線を落とした。



「──何や、今のは」
 鍋島はむっとして目の前の電話を見つめ、指に挟んでいたボールペンで受話器を叩いた。
「いちいち気にすんなよ。そんな電話、ここじゃしょっちゅうだろ」
 デスクに戻ってくるところだった芹沢が、呆れたように言うと席に着いた。鍋島は溜め息を
ついてボールペンを投げ出し、代わりに煙草の箱を取った。
「阪神薬品の土橋。ちょっと凄んだらあっさり吐いたってよ」
 芹沢は手にしていたコーヒーを一口飲むと言った。
「島崎さんから連絡が?」
「ああ、いま課長が電話聞いてた。会社の方も、怪しいんじゃねえかって内定を始めたとこ
だったそうだ」
「嘘やな。警察に踏み込まれて、焦ってそんなこと言うとんのやろ」
 鍋島は咥え煙草のまま言うと煙を吐いた。
「ま、どっちだっていいさ」
 芹沢は頬杖を突くと目だけで辺りを見回し、最後にその視線を鍋島に留めた。コーヒーの
カップを口許に寄せ、鍋島にしか聞こえないような小声で言った。
「それで。女房のことはどうする」
「おまえちょっと、電話してみろよ。杉原さんとこの番号、そこに入ってるんやろ?」
 鍋島は芹沢のデスクにある携帯電話を顎で示した。
「電話してどうすんだよ」
「山口紫乃の名前出して、揺さぶり掛けてみ」
「そんな正面突破でボロ出すかよ。山口紫乃だって、本当のところは何も知らされてないんだぜ」
 芹沢は言うと紫乃の病室での鍋島の様子を思い出した。「おまえ、ほんっとにあの姉弟に
いいようにされちまったな」
「うるさい」と鍋島は顔をしかめた。「せや、アケミ姉さんは何か知らんか」
「どうだろうな。あの女は紫乃のことは河村に頼まれて店で預かったりして世話してた
みたいだけど、それだけじゃねえのか」
「なんでそう言い切れる?」
「これは俺の推測だけどよ──推測は嫌いなんだぜ──河村は杉原奈津代も自分と
つながってるってことを、誰にも知らせてなかったんじゃねえかと思うんだ」
「誰にもってことは──アケミや紫乃にはもちろん、子分たちにも内緒ってことか」
「たぶんな。彼女は特別扱いだった」
「そらまたなんでや」
「彼女が刑事の女房だってことさ。それって本人はもちろん、河村にとっても大きなこと
だったんじゃねえか。彼女を相手にするにゃ、奴にも相当の覚悟が要る。つまりは誰にでも
喋れることじゃねえ」
 芹沢はコーヒーを飲み干すとカップをデスクに戻し、今度は肘をついた両手を組んで
その二本の親指で顎を支えた。
「ほな、今でも完黙を貫いてるってのもその影響でか?」
「ああ。てめえがパクられた時点で、紫乃の一件との関連が露呈するのは時間の問題だと
考えてただろうが、杉原さんの女房のことはまず俺たちには知れることはねえと思ってるん
じゃねえか。現にこうして、彼女に目を付け始めてるのは俺たちだけだぜ」
「そこまでして山口を仲間に引き入れたかった理由は何なんやろ」
「それもそうだが、俺には奴の完黙にはもっと別の理由があると思えてしょうがねえ」
「別の理由?」
「野郎が紫乃や女房に近づいたそもそものきっかけは、山口を組織の仲間に引き入れようと
したことだったかも知れねえけど、あいつ、結局は紫乃とは薬の取引って言ううまい儲け話を
見つけだしたみたいに、杉原奈津代とも何か別のところでつながってたんじゃねえかって
気がするんだ」
「推測やろ。おまえの嫌いな」
「推測さ。けどそこそこ妥当な推測だと思ってる」
「てことはやっぱ、奴から聞き出すしかないな」
 鍋島は小さく頷きながら最後の煙を吐くと、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。「今度は
俺が、そらもう超〜ぉシビアに締め上げたるわ」
「変わり身早ぇな。俺にはやりすぎんなって言っといて」
 芹沢はふんと笑って鍋島を見た。「それにおまえ、そんな体でどう締め上げるって言うんだよ」
「任せてくれ。こっちには武器もある」
 鍋島はデスクに立てかけた杖を指差した。
「マジかよ?」
「ま、それは冗談として──こうなったら背水の陣や」
と言って鍋島は両手を頭の後ろで組んだ。「おまえに、山口姉弟にええようにされてるなんて
思われたままでは、腹立って夜も寝られへん」
「アホか」と芹沢は溜め息をついて俯いた。
「それに、おまえには別の用事が待ってるみたいやし」
「? なんだそりゃ?」
 鍋島の言葉に芹沢はしかめ面の顔を上げた。鍋島はにやにや笑って顎を上げ、相棒に後ろを
見るよう合図した。
 芹沢が振り返ると、少し離れたところに制服姿の岡部美弥が立っていた。
「──いってらっしゃい。イケメン刑事デカ
 鍋島は実に嬉しそうに言った。
「……面倒臭ぇな」
 芹沢は小さく舌打ちして呟いた。そして恨めしそうに鍋島を一瞥すると、どうやら諦めが
ついたらしく潔く立ち上がり、親しみのこもった気軽さを造って美弥に声を掛けた。
「よっ、ひさしぶり」
 それまで不安げだった美弥の顔が、たちまち心から嬉しそうな笑顔に変わった。



 岡部美弥を芹沢に任せると、鍋島は内線で留置所に連絡を入れて河村を二階の取調室へ
上げるように頼んだ。

 十分ほどして手錠と腰紐をつけられた河村が上がってきた。鍋島はその様子を目の前に
積み上げられた書類の間からじっと伺った。
 やがてゆっくりと立ち上がり、少し離れたところのデスクで庶務の婦警と話している芹沢に
振り返った。
「無茶すると傷に響くってことを忘れねえようにな」
 芹沢は突き放すように言った。
 鍋島は黙って頷き、右足をかばいながら部屋を出ていった。

 取調室で鍋島は河村に向かい合って座った。
 河村は部屋に入って来るときからずっとぎこちない動きをするこの刑事を面白そうに見つめて
いた。
「──ああ、分かったぞ。兄ちゃん、あんときあのガキに刺されたんやな」
 無精髭を生やし、芹沢にやられたらしい生傷や青痣を顔中のどこかしこに作った河村は、
大袈裟に驚いた表情で言ったかと思うと愉しげに笑い出した。鍋島は黙っていた。
「で、傷の具合はどないや?」
 鍋島はそれには答えず、じっと河村を観察していた。
 暴走族あがりで、思いがけない商才を武器にたっぷりとスタミナを蓄えた上り調子の男。
ヤクザとは一線を画しているようで、その実まるで同じような非合法組織を作り、その
てっぺんに自分をのし上げようとしている向こう見ずな野心家。
 目の前の男には、いかにもそんなふてぶてしさがあった。
 しかしそれは、この事件ではある意味狂気じみている芹沢の執拗な締め上げにも屈せず、
杉原刑事のことも紫乃のことも、何一つ喋ろうとしない強い意志の男のイメージとはどうしても
一致しなかった。

──別の顔、というやつか。

 しかし、なぜ今ここでその二つめの顔でいる必要がある?
 相変わらず腹立たしいまでの満面の笑顔で自分を見つめている河村を眺めながら、鍋島は
考えた。
 そして、極めて自然に一つの結論にたどり着いた。

 鍋島は顔を上げると、彼もまた清々しい表情でまっすぐに河村を見据え、力強い口調で
言った。
「俺はな、何も訊かへん。訊いても無駄らしいし。その代わり一つだけはっきり言うとくわ」
 鍋島の言葉が少し意外だったのか、河村は黙って彼に先の言葉を促すかのように肩を
すくめた。
 鍋島は河村の態度を真似るように不適な笑みを浮かべると、腕を組んだまま身を乗り出して
言った。

「俺らはな、あの女にたどり着いてるで」

 河村は僅かに目を細めた。
「あんたがそうやって我が身をなげうってくい止めてるつもりでも、残念ながらもうたどり
着いてるんや。時間は掛かったけどな」
「……何の話や」
 河村は迷惑そうに言った。鍋島は構わず続けた。
「ほんで、じきに全部暴き出す」
「……そんなことが出来るんか? 警察のあんたらに」
 河村は低い声で言った。僅かに右目の下が引きつっていた。
「関係あるか。こっちは二人も死にかけとるんや」
 鍋島は凄んだ。「甘く見るなよ。相手がどこの誰やろうと、どうってことあらへん。たかが
素人の女一人やないけ」
 そんな彼のただならぬ気配に驚いたのか、それまで入口脇の机に向かってじっと二人の
やりとりを聞いていた制服警官がゆっくりと振り返った。
 鍋島は彼と目を合わせると、相変わらず肝の据わった眼差しで射るように見つめ返し、
そして告げた。

「おわり」

 思わず立ち上がった河村に振り返ろうともせず、鍋島はできる限りの早さで部屋を出て
いった。



 刑事部屋の来客用ソファに美弥を座らせ、芹沢は彼女のために庶務担当の婦警に頼んで
ホットココアを入れてもらった。
 婦警の私物らしきテディ・ベアをあしらったクリーム色のマグカップを持ち、芹沢は美弥の
前にやってくるとまたあの笑顔でにっこりと笑った。
「どうぞ」
「あ──どうも」
 美弥は両手で芹沢からココアを受け取った。芹沢は美弥の向かいに腰を下ろし、個別包装
されたクッキーの袋を二つ差し出した。
「食べる? 誰かの差し入れらしいんだけど」
「ありがとうございます」
 美弥は俯いたままクッキーを受け取った。
「どうしちゃったのさ、あらたまって」と芹沢は少し訝しげに美弥を見た。
「いやあの……この前と、だいぶ感じが違うから」
「俺が?」
「うん」と美弥は頷いた。「なんかその、眼鏡掛けてるし、髪とかも伸びてて──違う人みたい」
 なんだそんなことか、と芹沢は軽く笑ってソファに体を預け、ココアに手を差し伸べた。
「冷めないうちに飲みなよ。外、寒かったろ?」
 美弥はこくんと頷くとまた両手でカップを取った。
「今日は一人? 本山茂樹くんは?」
「ゲーセンで遊んでて喧嘩に巻き込まれて、停学くろてん。それでとうとう親がカンカンに
怒って、家から一歩も出られへんようになってしもて」美弥は不満げに口を尖らせた。「どんくさい
にもほどがあるわ」
「そりゃ災難だな」と芹沢は苦笑した。「それで、今日はどんな用件で来たの?」
 頼むから面倒な話はやめてくれよと思いながら、芹沢は訊いた。
「あたし──実は、ちょっと思い出したことがあって」
「何を?」
「この前、交番で見せられた写真の男の人のことなんやけど──あたし、 あの人を別の場所で
見たことがあるのを思い出したんです」
 美弥は表情を堅くして言った。
 交番で二人に見せたのは杉原刑事の写真だ。
「警官の制服着てた人のこと?」
「そう。その人」
「どこで見たって?」
「それが──」
 美弥は口ごもって俯いた。警察の方から彼女を呼びつけたわけではないのだ。自らの意志で
ここへ話をしに来たはずなのに、明らかに言い淀んでいるようだった。
 その様子を見て、芹沢にはピンときた。と同時に、まさかそんなはずはと自分の考えを
疑った。それでも彼は訊いた。
「……ラブホ?」
「うん、そう」
 芹沢は溜め息をついた。「……本山くんと一緒だったの?」
 美弥は大きく首を振った。明らかに迷惑そうな表情をしていた。どんなときでも自分と茂樹を
一括りにして考えられることが不満なのだろう。
「──私らが部屋から出てきたとき、向かいの部屋のドアが急に開いて、女の子が大声で
泣きながら飛び出して来たん。びっくりしてその部屋の中を見たら、上半身裸の中年の男が、
ぽかんとした顔でこっちを見てて──慌てて後ろ向いたけど、あたし、何でか知らんけど、
その人の顔が忘れられへんっていうか、ものすご記憶に残って。それであたし──」
「いつ頃のこと?」
「日にちは覚えてないけど、夏休みやったと思う」
「じゃあ、交番で写真を見せたときには気づいてたってこと?」
 美弥は黙って頷いた。
「さっき、思い出した、って言ったのは間違いなんだ」
「あ、うん……そう」
「つまり、交番では本山くんと一緒だったから、言えなかったんだね。別の相手とホテルに
行ったのがばれちゃうから」
「……うん」と美弥は俯いた。「ごめんなさい」
「まったくだよ」と芹沢は額に手を当てて溜め息をついた。そしていささか冷めた目で美弥を
見た。
「だけど、どうしてひと月もたった今になって話そうと思った?」
 美弥は考えるようにして首を傾げていたが、やがてひょいと肩をすくめると言った。
「茂樹が家から出られんようになったから」
「だから内緒の話もできるって?」
「そう。それに最初は別にたいしたことやないって思ってたん。けど一ヶ月のあいだに
考えて、何かちょっと、それも違うかなあって。おっさんの警察官がうちらとそう変わらへん
年頃の子とラブホにいてるやなんて、ひょっとしたら普通やないのかもって」
「……なるほどな」
 芹沢は呆然と言ってソファに身体を預けた。美弥がまだ何か喋っていたが、そんなことは
もうどうでもいいような気分だった。

 杉原刑事が若い女とホテルに。それが本当だとしたら、状況から考えられるのは援交という
やつか。少年課の刑事である杉原が知り合うとすれば、相手はやはり──

「──それにあたし、茂樹とは別れるつもり」
 美弥がそう言って、芹沢はようやく我に返った。
「へえ、そう」と芹沢は生返事をした。「彼が停学になったから?」
「それもあるけど、うちらもう高二やもん。そろそろ本気で受験勉強せなあかんし」
 美弥はもっともらしく言って自分の言葉に頷いた。
「進学するんだ」
「もちろん」
 美弥は言って芹沢を見つめた。彼がなぜそんな言い方をするのかが不思議なようだった。
「親は短大で十分やて言うけど、あたしは四大に行きたいねん。
短大は単位取るのが忙しいてあんまり遊ばれへんらしいから、そんなん嫌やもん」
「ふうん」
 芹沢は頷くとゆっくりと立ち上がった。「岡部さん、ありがとう。貴重な話が聞けて良かった」
「あ──はい」
 美弥は意外そうに芹沢を見上げた。もういいの? とでも言いたげな顔だった。しかし
相手の表情に容赦のない素っ気なさを感じ取ると、仕方なく席を立った。

 美弥と一緒に廊下に出ると、芹沢はまた最初の親しげな笑顔に戻って彼女に振り返った。
「じゃあまあ、勉強頑張って」
「……はい」
 美弥は名残惜しそうだった。合コンでお目当ての相手に自分をアピールするときのように、
わざとらしいさり気なさで芹沢に熱い視線を送っていた。
「それから、本山くんと仲良くな」
「えっ?」
 きょとんと目を丸めた美弥に、芹沢は口の端に嫌味たっぷりの笑みをたたえて彼女を
見下ろし、言った。
「あいつ、いいやつだぜ。きっときみにはもったいない」
 美弥の顔がカッと赤くなった。それを見られるのが恥ずかしくて、俯いて唇をぎゅっと
噛んだ。勝手な妄想を膨らませ、心躍らせてここへやって来た自分と、そんな彼女の気持ちを
まるで顔の周りを飛ぶ小さな虫を追い払うかのようにあっさりと台無しにした芹沢に腹が
立った。
 何かひとこと言い返してやろうと思い、顔の火照りがおさまるのを待って美弥は顔を上げた。
 しかし、そこにはもう芹沢はいなかった。
 泣きそうになるのをこらえて周囲を見回すと、廊下と部屋を仕切るカウンター越しに
ココアを入れてくれた婦警と談笑している彼の姿があった。彼はまたあの胸がキュンと
なるような笑顔で婦警を見つめていた。
 美弥は廊下を帰っていった。












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