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ロング・ウェイ・ホーム
作:みはる



第六章 その1


第六章 Red Roses For A Blue Lady


      1


 翌朝、鍋島は普段よりも早起きをした。足の具合を考えるとどうしても身支度に時間が
掛かってしまうし、そのせいで職場復帰初日から遅刻したくはなかったのだ。
 ラッシュ時の駅を自由に歩くことにもまだ自信は持てなかったから、タクシーで出勤した。

 補助杖を頼りに署の玄関から中へと進むあいだ、彼は何人もの同僚から声を掛けられ、
手を貸そうとの申し出を受けたが、彼はそのすべてを丁寧に断った。いちいち人の手を
借りなければ職場にたどり着けないようなら、アパートのベッドで横になっていた方が
ましだ。それにしても、ただ階段を上るだけでも時間がかかるのに、こんなやりとりまで
やっていられない。さっさと治す必要があるなと思った。

 刑事部屋に入って手荒くも暖かい同僚たちの歓迎をひとしきり受けたあと、なんとか
自分の席にたどり着いて右腕に固定していた杖を外し、ゆっくりと椅子に腰を下ろそうと
していると、後ろから芹沢の声がした。
「おい、座るな」
 振り向くと、ゼリータイプの栄養ドリンクを手にした芹沢が間仕切り戸のすぐ前に立って
こちらを見ていた。
 黒のブルゾンにブラックジーンズというめずらしくカジュアルな格好で、また眼鏡を
掛けていた。無造作に手櫛を入れたやや長めの髪が、このところの彼の多忙を物語っている。
散髪をする時間もないのだろう。
「一回座っちまったら、また立つのに時間が掛かるんだろ。そのままちょっと来いよ」
 そう言うと芹沢は間仕切り戸を出て向かいの会議室に入っていった。
 仕事上の大怪我とは言え、三週間も休んだ相棒をいたわるつもりは毛頭ないらしい。
鍋島はやれやれと溜め息をついて杖を取った。


 鍋島が会議室に入ると、芹沢はすぐに話し始めた。
「──昨日、山口紫乃の病室に行ったんだ。ようやく医者の許可が下りたから」
「なんか聞き出せたか」
 芹沢は首を振った。「先客がいたから、帰ってきた」
「はぁ?」
 鍋島は信じられないと言う顔で芹沢を見た。この男、疲れすぎてとうとうどうかしやがったか。
 鍋島のそんな思いを分かっているかのように、芹沢は口の端に微かな笑みをたたえて
じっと見つめ返してきた。
 いつになく伸びてしまった髪を持てあまして適当に整えているのだと思っていたが、
それはそれで自然な流れができている。毛先が跳ねているのは寝ぐせではなく、ワックスか
何かでちゃんと作っているのだ。カジュアルな服装もそれに合わせたのだろう。ごく薄く
色の入った細い眼鏡は知性を一手に引き受けるアイテムと考えられなくもない。壁にもたれて
腕を組み、長い足を交差させて立っているその姿は、とても一所轄署のノンキャリアの
刑事とは思えなかった。そう、建築家とか広告ディレクターとかそんなような、将来有望の
若手クリエーターのようだ。
「なんだよ、俺の顔に穴でも開けようってのか」
 芹沢は言った。
「別に。相変わらず嫌味なヤツやなと思ってな」
 鍋島は視線を外すと目の前の椅子を引いて腰を下ろした。
「それで? まわれ右して帰って来た理由は?」
「先客の話してるのを聞いたんだ」
「立ち聞きか。趣味悪いな」 
「黙って聞けよ。その先客は杉原奈津代だった」
「なんやて?」
 煙草に火を点けようとしていた鍋島は顔を上げた。
「そうさ。おまえが家に行ったとき、彼女は山口泰典のことをほとんど知らねえって
言ったんだ。おまえは信じなかったけど」
「ああ。それでつながりを探ろうとしてた矢先に刺されたんや」
「おまえが入院してる間に、俺も少しは探ってはみたんだけど、どうもピンと来るもんが
ねえ。あの姉弟だってああいう状態だしな」
「せやのにあの嫁さんが、山口の姉ちゃんを見舞ってたんか」
 鍋島は灰皿を引き寄せた。「で、なに喋ってた」
「人のこと悪趣味って言うのはよせよ」と芹沢は釘を刺した。
「全部聞き取れたわけじゃなかったけど、要するに、今回のことすべてが自分のせいだって
言うんだ」
「姉ちゃんが襲われたことか?」
「いや、杉原さんがやられたことも全部さ。取り返しのつかねえことをしたんだって」
 芹沢は腕を解くと、鍋島の斜め向かいの椅子を引き寄せ、反転させて座った。両腕を
背もたれに預けて、やや声を低くして続けた。
「──つまり、杉原さんと山口が川辺明美のマンションで河村たちの返り討ちにあったのは、
てめえが河村に知らせたからだとさ」
「どういうことや?」
「……そろそろ頭回転させろよ。出て来た以上、病み上がりなんて言い訳は聞かねえぞ」
「杉原奈津代が河村とつながってるって……?」
「胸くそ悪りぃが、そういうこったろ」
「おまえ、聞き間違いやないんやろな」
「馬鹿言え、確信もないのにこんな話するかよ。病室の山口紫乃は相手のことを確かに
『奈津代さん』って呼んでたんだ」
 鍋島はじっと考え込んだ。指に挟んだ煙草をくゆらせながら、同じ手の親指でこめかみの
あたりを掻いた。
「話を聞きに行ったとき、確かに何か隠してる感じやったけど──それがまさか自分に関する
ことやとは思わへんかったな。杉原さんと山口の間の何かを隠してるんやと思てた」
 鍋島はいくぶん悔しそうに言うと、顔を上げて芹沢を見た。
「他に何言うてた?」
 背沢は肩をすくめた。「あとはただ紫乃に謝る一方さ。それから自分を責めるだけ。
自分一人が何の傷も負わずにおめおめと生きてるって、さめざめと泣いてたぜ」
「その二人が河村とつながってるとしたら──山口と杉原さんがコソコソ動いてたことの
説明がつくってことやな」
「ああ。杉原さんは自分の女房と河村の関係を知ってたから、刑事としておおっぴらに
動くわけには行かなかったんだ」
「その関係って、何や」
「それが分かってたら苦労してねえさ」
「せや、河村を叩いたか?」
「もちろん。ゆうべ、かなりシビアに締め上げてやったぜ。けどやっぱり何も吐かねえ」
 芹沢が『かなりシビアに締め上げた』と言うときは、だいたいその相手は流血の事態に
陥っている。
「──おまえ、あんまりやり過ぎんなよ」
「おいおい、どうしちゃったのさ」
 芹沢はおどけて言った。「三週間も白衣の天使に囲まれて、てめえまで博愛精神に
目覚めちまったってのか?」
「焦るなて言うてるんや。現に河村の完黙は続いてんのやろ。闇雲に痛めつけたかて、
それでは意味がない」
 芹沢は苛立たしげに舌打ちした。長い間待たされ続け、ようやく戻ってきたと思ったら
そんな悠長な台詞を吐く相棒に腹を立てていたのだ。そうとも知らず、鍋島は訊いてきた。
「このこと、課長に言うたか」
「言うわけねえだろ。具体性がなさ過ぎる」
 芹沢は早口で言うと溜め息をついた。「相手は同僚の女房だぜ。ちゃんとした裏付けも
ねえのにうっかり口を滑らせちまったら、ここの全員を敵に回すことになるんだ。
ヘタしたら捜査から外され兼ねないってことくらい分かるだろ」
「……そうか。そらそうやな」
 鍋島は自嘲気味に短く笑った。芹沢はそんな相棒をじっと見つめていたかと思うと、
まるで独り言のように呟いた。
「……冗談じゃねえ。俺はこんなやつのために三週間も一人で蟻みてえに働かされてたってのか」
 そして立ち上がり、「もういいさ。おまえ、部屋に戻ってみんなにコーヒーでも煎れてろよ」
と吐き捨てた。
「何や、なに怒ってる?」
 鍋島は訳が分からないと言うように肩をすくめた。
「怒ってんじゃねえ。入院してる間にすっかり腑抜けになっちまったおまえに呆れかえって
んだ。それとも、山口みてえなガキにやすやすと腹を刺されて死に損なってるくらいだから、
とっくの昔から腑抜けだったってことか?」
「……俺に喧嘩売る気か」
 鍋島は吐いた煙に目を細めながら芹沢を見上げた。
「手負いのおまえなんかとやり合う気なんかねえよ。時間の無駄だ」
 芹沢は素っ気なく言って鍋島の足を見た。
「どうせ役に立たねえのなら、せめてまともに歩けるようになってから出てくるんだな」
 そして芹沢は部屋を出ていった。

 刑事部屋に戻っても芹沢の苛立ちは収まらなかった。
 ガチャガチャと余分な音を立て、不快感をあからさまにしてデスクの上を片付けていると、
向かいの島崎巡査部長が声を掛けてきた。
「──なあ、おい」
「俺のことですか?」芹沢はまだしかめ面のままで島崎を見た。
「そうや、おまえや」と島崎は頷いた。「気持ちは分かるけどな。もうちょっといたわって
やれ」
「誰をです」
「相方をや。決まってるやろ」
「俺はナイチンゲールじゃないんでね」と芹沢は肩をすくめた。
「こっちだってもう、身体がボロボロなんだ」
「それはおまえだけやない。ここにいるみんなが大なり小なり疲れてるし、精神的疲労は
むしろピークに近い。けどあんな目に遭うたのはあいつだけや」
「それは分かってますけど──」
「分かってる? ほんまかな?」
と島崎は厳しい眼差しで芹沢を見た。「二十歳かそこらの坊主にいきなり刃物で刺されて、
腹から血がドクドク流れて気ィ失うて──死ぬかも知れん、でも死にとうないって思たときの
怖さ。経験したことのない俺やおまえに分かると思うか?」
 芹沢は黙って先輩刑事を見つめていた。
「杉原さんがあんなことになって、次は鍋島や。もしもあいつが三週間の入院では済まへん
ようなことになってたら、おまえにとってかけがえのない人間はここには──」
「俺はここに友達を作りに来てるんじゃありません」
 と芹沢は島崎の言葉を遮った。「一社会人としての責任において、警察官の職務を
遂行しに来てるんです。法律に則って、主任の言う、俺にとってかけがえのない連中とやらを
ひどい目に遭わせたやつを探してる。てめえの身体と時間を犠牲にしてでもね」
 今度は島崎が苦々しく芹沢を見つめた。
「その邪魔をして欲しくないってだけです。それが被害にあった当の本人だろうと誰だろうと、
大目に見る気はありませんね」
「そうか」
「ええ」
 芹沢は口の端だけで小さく笑うと、ゆっくりと立ち上がってブルゾンに車のキーを突っ込んだ。
諦め顔で自分を見上げている島崎を見下ろして短く溜め息をつき、それから面白くなさそうに
言った。
「──あいつが戻って来たら、車で待ってるって伝えて下さい」
「分かった」
 島崎は苦笑して頷いた。

 芹沢が出て行った直後、鍋島が戻ってきた。右足をかばいながら席に着き、上着のポケット
から煙草を取り出して口に咥えたとき、島崎に声を掛けられた。
「鍋島、もうやめとけ」
 鍋島は顔を上げて煙草を抜いた。「はい?」
「ここで一服するのはやめとけ。足がきついのは分かるけど、もうええやろ。早よ行け」
「ええ、いや、その──」
「おまえ、仕事しに出て来たんやろ?」
「……もちろんです」
 鍋島にはこの先輩が何を言いたいのか分からなかった。普段から後輩に対しては極めて
友好的な態度で接してくれている人物だったので、今のこの厳しい口調が理解できなかった。
「あの、俺何か、主任にまずいこと──」
「芹沢が車で待ってるんや」
 島崎は言って鍋島を見た。「腹刺されてヤバかったのはおまえや。足かてそうやってまだ
完全やない。けど、あいつの気持ちも分かってやれ。 ここ三週間相当無理してきたんや。
あいつは仕事と言い張ってるが、おまえや杉原さんのために決まってる」
「……ええ」
「なのにそのおまえが、まだ完治してないとは言え出て来てのんびり振る舞ってる──
つもりはおまえにはないのかも知れんが、あいつにはそう映るんやろ。それが悔しいんや。
自分がしんどい思いをしたからやない。おまえに早ようもとの自分を取り戻してもらいたいんや」
「あいつがそう言うてたんですか」
 島崎は首を振った。「言うわけない。けど態度見てたら分かる。そこがまだあいつの
ガキっぽいとこやが」
「分かりました」と鍋島は頭を下げた。「心配掛けてすいませんでした」
「俺に謝る暇があったら、さっさと行け。また下まで降りるのに時間が掛かるんやろ? 
俺は手を貸さへんからな」
「分かってますよ」
 鍋島は笑って言うとぎこちなく立ち上がり、上着を羽織ると杖を使って廊下へと向かった。
 島崎もにやにやしながら頬杖を突いてその様子を見送った。

 そこへ高野警部補が戻ってきた。それまでの様子をどこからか見ていたのか、席に着くなり
島崎に言った。
「若いもんには世話焼かされるなぁ」
「ええ。ここ三週間は難しい方の一人だけで済んでたんやけど、今日からまた不器用な方と
二人ですよ」
 島崎は言って、嬉しそうに笑った。



 今日の先客こそ、原田の妻だった。
 原田郁子は食堂の昼間の営業が始まる二時間前にやってきた。カバン一杯に用意してきた
着替えと汚れた洗濯物を交換し、ベッドの周りを片づけたあと、すっかり容態の落ち着いた
紫乃の顔色を覗こうとしていたところへ刑事たちの訪問を受けた。
 郁子は一瞬戸惑ったようだが、彼らとはすでに面識があったのですぐに要領をのみ込み、
紫乃に一声だけ掛けて帰っていった。無論、彼女自身もそうのんびりしていられる立場に
なかったというのもある。何しろ、家庭の主婦とは違うのだ。

「──具合はどうですか、山口さん」
 ベッドのそばに並べた椅子の、紫乃に近い方に座っている鍋島が言った。
外した補助杖を背もたれのパイプに預け、右足をちょうど紫乃の視界に入るように
伸ばしていた。あんたの弟にやられたんだと、無言の抗議をしているつもりらしい。
 さっき、彼がわざとらしいほどぎこちなく腰を下ろした様子を見た芹沢は、こいつ、
ようやくエンジンを掛けやがったんだなと心の中で苦笑した。きっと島崎に何か言われたの
だろう。あの主任のお節介もこうして役に立つなら歓迎だ。
「……おかげさまで」
 消え入りそうな細い声で紫乃は言って、薄目に開けた右目の眼差しを鍋島に向けた。
頭部に何重にも巻かれた包帯の下から伸びる茶色のウェーヴヘアーは緩めのお下げ髪に
結ってあり、先を透き通ったリンゴの付いたヘアゴムで括られていた。世話をする看護師が
せめてものおしゃれにと結んでくれたものだろう。掛け布団と顎の間から少しだけ見える首も
ギプスらしきもので固定されている。額から左目にかけての顔面も包帯ですっぽりと
覆われていて、その周囲の白い肌にはまだ青痣が残っている。布団の脇から伸びた、点滴の
管のつながった右腕も、ほとんどが包帯に隠れていた。DVの被害に遭った女性は何人か
見たことがあったが、加えられた暴力が破壊的にひどかったことをここまで容易に想像させる
被害者は初めてだと鍋島は思った。

「早速ですけど、あの、お話しづらいのを承知でお訊きするんですが、あなたをこんな目に
遭わせたのは誰です?」
「それは──警察の方でもう、お調べになってるんと違うんですか」
 紫乃はゆっくりと答えた。
「山口さんの口からおっしゃっていただけると有り難いんですが」
 紫乃は小さく頷くと、三週間前の十一月四日未明、数日ぶりに寮に戻ったところへ後を
尾けてきたと思われる岸田という男に押し入られ、激しい暴行を受けたと言った。
「岸田と言うのは──岸田荘治きしだそうじで間違いないんですね?」
「間違いありません」
「面識があるんですか」
「ええ」
「河村忠広との関連で?」
「……はい」
 鍋島は自分の質問の仕方が誘導尋問と受け取られないように気を遣いながらも、紫乃に
できるだけ長く話させないように心掛けた。
 自分を含めて何人もの人間の命が危険にさらされた事件だし、その鍵を握っているはずの
紫乃に対してもはや何の遠慮もしないつもりで彼女のそばに座ったものの、話の口火を切った
途端にその決心は揺らぎ始めていた。そのくらい、間近に見る彼女の姿は痛々しかったのである。
「河村とはどういう関係なんですか?」
 紫乃は探るような眼差しで鍋島を見た。「それは──その、私個人と、という意味で
訊かれてるんでしょうか」
「そうです。あなたが弟さんを通じて河村と知り合ったのは分かっていますが、今は
とりあえずご自身のことからお訊きします」
「……私が河村に薬を流す代わりに、河村からその──覚醒剤を──受け取っていました」
「流していた薬というのは?」
「睡眠薬とか、向精神薬です」
「入手先は?」
「私の勤めてた病院に出入りする、製薬会社の人からです」
「それは一人ですか? それとも複数の人物から?」
「一人でした」
「その人物の勤務先と名前を教えて下さい」
「……あの、刑事さん」
「はい」
「その人も河村から脅されてたんです」
「そうですか」と鍋島は頷いた。「それで、どこの会社の何という人です?」
「……阪神薬品の、土橋充夫つちはしみつおという人です」
 手帳を広げて紫乃の証言を書き留めていた芹沢が立ち上がって病室を出ていった。
署に連絡して、土橋という新たなる捜査対象者の存在を知らせるためだ。紫乃が襲われてから
三週間も経った今のこの時期となれば、そうのんびりもしていられない。

 鍋島は話を続けた。
「代わりに手に入れた覚醒剤は、あなたが自分で使用する目的のものですね」
「はい」
 紫乃はもう観念したかのように、しっかりと頷いた。
「最初にその取引話を持ちかけてきたのは河村ですか」
「はい、いえ……はい」
「それはいつ頃?」
「九月の初め頃です」
「具体的に、どう言う条件の話だったのか話していただけますか」
「もともと土橋がその手の薬を横流しをしてるという噂が、病院の同僚の間で囁かれたことが
あったんですが、それを私が、その、河村に話したんです。そしたらあの男はすぐに土橋と
接触を図ったようです」
 話を持ちかけたのは河村かどうかという質問に口ごもった理由がこれで分かった。
「河村は土橋を脅迫したんですね」
「そうみたいです。病院で私に声を掛けてきたとき、土橋はひどく焦っていました。あんたが
喋ったんやろとすごい剣幕で責められて……シラを切るのに苦労しました」
「それで、あなたが河村と土橋の仲介をすることになった」
「はい。運び屋のようなことをさせられました」
「その月の終わりにはあなたは宗右衛門町の『ドルジェル』で働き始めていますね。河村の
愛人である川辺明美のいる店です。それも河村の指示ですか」
「ええ」
「何のために?」
「私にとっての理由は、その──お金が必要だったからです。はじめは土橋から受け取った
薬をそのまま河村に渡してるだけで良かったんですけど、そのうち河村から覚醒剤を手に
入れるために、より多くの薬が必要になって──ところが土橋は限度があると言って
渋りました。せやから報酬を上乗せする必要があったんです」
「ときどき、閉店前に店にやってきてあなたと一緒に帰っていった男というのが土橋ですか」
「……はい」
 鍋島は溜め息をついた。土橋は金だけでなく、紫乃の体も報酬の中に含めていたようだ。
「河村にとっても、私があの店で働くことは好ましかったようです。自分の手で覚醒剤を
覚えさせた私を監視する上で」
「あなたが岸田にあんな目に遭ったのは、その取引に関して何かトラブルでも生じたからですか」
「いえ──あ、ええ、はい。そうだったと思います」
「山口さん」
 と、鍋島は穏やかに紫乃に笑いかけた。紫乃は鍋島を見た。
「嘘は駄目です。正直に話して下さい」
「……すみません」
 そう言って頷くと紫乃は鍋島の右足に視線を移した。
「あの……弟は、その── 」
「傷害容疑で指名手配されています」
 紫乃は絶望的なため息を漏らし、そして弱々しく言った。
「岸田は泰典が自分たちを襲った、その報復だと言っていました」
「これまでのあなた方姉弟と河村の関係についてですが、できるだけ詳しく話していただけますか」
「──今年の春、弟の勤める食堂に河村と岸田が訪ねてきました。河村は昔の仲間を集めて、
暴力団に対抗するための武装組織を作ろうとしてたんです。時期こそ違いましたが、弟は昔、
河村と同じ暴走族グループに入ってたことがありました。その当時は河村はすでに幹部を
辞めてましたが、弟と面識はあったようですし、それで少年院を出た弟を探し出して仲間に
引き入れようとしたんです」
「去年、弟さんが少年院を出てすぐの頃にも河村の仲間が彼に近づいたことがあったそうですが」
「ええ。そのときのことは私は詳しく知らないんですが、弟がすぐにあの……杉原刑事に
相談したようで──うまく話をつけて追い払って下さったようです」
「なのになぜ、一年以上も経った今こんなことになったんですか」
「河村が泰典のことを諦めてなかった、ということやと思います」
 紫乃は暗い声で呟いた。唇から離れた途端、深い闇の淵に落ちていく。そんな感じの声
だった。そろそろ限界だなと鍋島は感じ始めていた。
「そのためにあなたを陥れて、彼に仲間に入ることを承知させようとしたんですね」
「そうです。最初は、言うことを聞いたら弟を見逃してやると言うてたのに──だから
土橋のことも教えたんです。でも、私にその、覚醒剤を覚えさせて──いつの間にか立場は
逆になっていました」

「最後にもう一つお訊きします。昨日、杉原奈津代さんがここへ訪ねて来られたようですが、
彼女とはどんな話をなさったんです?」
 はっ、という表情で紫乃は鍋島を見た。直後に頬が微かに震え、彼女は何か言おうとしたが、
しかしすぐにその瞳は堅く閉ざされ、同時にまだ血色の良くない唇も真一文字に結ばれた。
話したくない、喋るもんかと強く決心したようだ。
「山口さん?」
「……ただお見舞いにきて下さっただけです。杉原刑事があんなことになったことも、
私たち姉弟のことと無関係やとは思われてないみたいでしたし」
「どう無関係ではないとおっしゃってました?」
「あの、すいません、少し疲れたんで、もうお帰り下さい」
「お話しいただけませんか」
「話すことは──何もありません」
「この春にまた河村たちが近づいてきたときも、泰典くんは去年と同じ様に杉原刑事に
相談したんじゃないんですか? 河村は二度までも邪魔をしてくる杉原刑事を疎ましく
思ったはずです。しかもその頃、河村は杉原夫妻とあの食堂で顔を合わせたことがある
ようです。それで河村はあなたと同じようなことを杉原刑事の奥さんにもやろうとした、
そうじゃありませんか?」
「何も知りません。何も」
 紫乃の唇が震えていた。
「山口さん。杉原刑事はもう一ヶ月も意識が戻りません。そのことは、今あなたも
おっしゃったように、あなた方姉弟と無関係ではないでしょう。あなたもこんなにひどい目に
遭われた。そして泰典くんは僕の腹と足をナイフで刺して逃げている。これがどういうことか
お分かりですか?」
「……ごめんなさい」
「謝ってもらいたいわけではありません。泰典くんが刺したのは警察官だということなんです。
少年院に入ったときのように、逃げたい一心で刃物を振り回し、その結果相手を傷つけて
しまったというのとはわけが違うんです。俺は警官としては下っ端の下っ端ですが、
警察にとっては、階級がどうであろうと身内が刺されたことに違いはないんです。しかも
そういう意味では、俺以上に深刻な身内の被害者がこの事件で出ている」
 鍋島は紫乃と話すことをそろそろ限界だと考えていたのが嘘のように強い口調で言うと、
じっと彼女を見つめた。
「弟さんをかばいたいと思われたり、杉原奈津代さんに迷惑を掛けたくないという気持ちは
分かります。あなたを含めて誰一人、好きこのんで転落していったわけではないでしょう。
それ以上に悪いやつがいるのも事実です。でも、それで犯した罪を帳消しにできるはずも
ないんです」

 紫乃の右目からぽろりと涙が落ちた。それがきっかけとなって、彼女は顔をくしゃくしゃに
して泣き出した。
 その様子を見るなり、鍋島は俯いて堅く目を閉じた。まるで予測のつかないことでも
起きたかのように、またたくまに動揺が全身を走り、耐え難い不安で胸が潰れそうになった。
 紫乃の瞳からは、こぼれてもこぼれてもみるみるうちに涙が溢れている。小さな、しかし
はっきりと聞き取れる泣き声が病室に漂っては消えた。
 泣くな。頼むから泣かないでくれ。芹沢はどうした? 何をしてるんやろ、 早よ戻って
こいよ──。

 そんな鍋島の心の叫びが聞こえたかのように、芹沢が戻ってきた。
 部屋に入ったときは気づいていなかったようだが、ドアを閉めて二人に振り返ると、
戸惑ったように一瞬立ちすくんだ。
 やがて彼は状況を把握したらしく、こういうことになると決まって捨てられた子猫のように
ぺしゃんこになってしまう鍋島の姿を見て大きく溜め息をついた。
 そして二人のそばに戻ってきた。
「……杉原刑事と泰典が、河村たちに何か──仕掛けていこうとしているのを、河村に
知らせたのは──自分だと──奈津代さんは言うてました。何もかも、自分のせいだと」
 嗚咽で何度も言葉を途切れさせながら、紫乃がようやく言った。
「──そうですか」
 鍋島はまるで気のない返事をした。
「奈津代さんが、私と同じようなつながりを河村と持っていたかどうかは……それは
知りません。誓って知らないんです」
 紫乃はまた大粒の涙を流した。まるでその涙が莫大な威力の爆弾であるかのように、
鍋島の胸に突き刺さった。
「刑事さん、許して下さい。泰典を許してやって──下さい」
 鍋島は紫乃の方を見ないようにして芹沢に振り返った。彼の方が限界をとうに超えていた。
 行けよ、と芹沢が目で合図をしてくれたので、鍋島は飛び上がるように立ち上がり、
右足を引きずりながら部屋を出て行った。
 芹沢はふがいない思いでドアが閉まるのを見届けた。
 あいつも俺と同様、アホらしい病気にかかってやがると思いながら芹沢は紫乃に振り返った。
こんな女の涙なんて、ただの小道具だと思えばいいのに。十五年前に妹が流した涙と一緒に
しやがって、どうしようもねえ単細胞だな。
「山口さん、大丈夫ですよ。落ち着いて下さい」
 芹沢はそう言ったが、本心では、シャブ中の言うことになんか一切同情を寄せるつもりは
ないからなと考えていた。



 一ヶ月経っても、夫の意識は戻らない。
 これが自分の望んでいたことなのだろうかと奈津代は思った。
 集中治療室は出たものの、夫は運ばれてきた日と同様、白い布に包まれてたくさんの機械と
つながったまま、 ずっと眠っている。
 良くも悪くもならない。昨日と何も変わらない。時にはオブジェのように感じることさえ
ある。
 それでも自分は毎日ここへやってくる。その、ただ微動だにせず横たわっている姿を
確かめる、それが目的であるかのように。

 こうなることがどうして読めなかったのか。ひと月前のあのよく晴れた日、自分には何が
見えていたのだろうか。
 電話を一本掛けることで、すべてがうまく行くと思っていた? 
 決してそうではない。むしろそれですべてが壊れてしまうかも知れないと、そう思って
さえいた。それでも自分は電話を掛けた。

 あの悪魔のような男に。いったいなぜ?

 夫とあの少年を、人殺しにしたくはなかったから?

 都合のいい解釈だわと、奈津代は自嘲の笑みを漏らした。
 そのまま五分ほど夫を眺めたあと、彼女は病室を出ていった。

エレベーターを降り、病院玄関の自動ドアの前までやって来たところで、カバンの中の
携帯電話が鳴った。
 急いで病院の表に出て電話を取り出し、掛けてきた相手を確認するために待ち受け画面を
見ると、『公衆電話』との表示があった。
 奈津代は周りを見回すと、客待ちのタクシーの列に向かって歩き出しながら電話に出た。
「──もしもし。泰典くんね?」












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