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ロング・ウェイ・ホーム
作:みはる



第五章 その4


      4


 興和銀行の十一月のキャンペーンは、ローン推進キャンペーンだった。
 銀行というところは、いつも何かしらのキャンペーンを展開している。
 ただ、銀行の変わっているところと言えば、その大半が客に向けてアピールされるような
性質のものではないということだ。
 つまりキャンペーンと言っても、客にとって興味をそそられる特別な商品やイベントが
登場するわけでもなく、要するに支店同志を競わせ、銀行の利益を上げるための行内
キャンペーンがほとんどなのだった。

 それでも行員たちは年中このキャンペーン活動に振り回されていた。
 その都度本部から設定されたノルマを達成するために日々働いていると言っても過言では
なかった。
 というのも、ノルマを達成できるか出来ないかでその支店の行員全員のボーナス支給額が
変わってくるし、役席の出世も違ってくる。だから支店長は自分の出世のために部下を
死ぬほど働かせるし、部下たちはそんな上司を恨みながらも、より多くのボーナスのために
必死で働くのだった。

 そういう意味では、この時期に萩原が四億円の新規融資を実行させたことの功績は
大きかった。
 かつての華やかなりしバブルの時期とは違って、ほとんどの銀行がその本業であるところの
融資業務において様々な損失と問題を抱え込み、ただ保身のために極めて消極的な
経営戦略をとらざるを得なくなった状況にあって、今回のキャンペーンは上層部も営業店に
対してあまり大きな成果は期待していなかった。むしろ、このような時期だからこそ、
小規模でも健全な融資先の確保さえ出来れば良しとしようと、それだけを狙ってキャンペーン
を打ったのだ。

 そこへこの四億の融資だ。萩原はそれまで自分の手掛けていた仕事からすべて手を引き、
ひと月掛かりでやり遂げたこの案件は、それだけでも価値のあるものと言えるだろう。
 それが折からのローン推進キャンペーンの波に乗り、彼の仕事は高い評価を受けた。
その点では、萩原は運の強い男と言えた。

「──萩原くん、きみにこの仕事を任せて良かったよ」
 部長室の大きなデスクの席に着き、本田営業部長は満足げに言って笑った。
「はぁ……」と萩原は気のない返事をした。「でも、青山くんも頑張ってくれましたから」
「そうだな。しかし、キャンペーン期間は今日で終わりだから、正直言ってそれに間に合うか
どうか心配しとったんだ。四億の仕事に変わりはないが、キャンペーン中に実行するのと
しないのとでは、本部の評価がまるで違ってくるからな」
「ご心配かけて申し訳ありませんでした」萩原は丁寧に頭を下げた。
「いずれにせよ、きみの仕事に間違いはなかったわけだ。その歳で係長のポストに就いただけの
ことはある。同期ではまだきみだけだろう?」
「いえ、国際資金管理部の小笠原くんがこのあいだ……」
「ああ、彼か。彼なら私も知ってるが、どうも駄目だ。京大出だが、理論派だからな。
実践派のきみの方が営業畑での仕事に期待が持てる。法人部に行っても、きみとは
折に触れての意見交換を望みたいね」
「──はぁ」あまり褒められたような気がしなかった。
「まあ、これからを楽しみにしているよ」
 部長は萩原の今ひとつの反応に戸惑いながらも、清々しい笑顔を崩さなかった。


 部長室を出た萩原は、溜め息をつきながら廊下をゆっくりと歩いた。
 彼にとって今や出世は何の魅力もないものだった。銀行員という職業には特に不満は
なかったが、今の仕事には満足していなかった。だからその仕事が評価されても、それほど
嬉しいとは思わなかったし、もっと上を目指してやろうという欲も沸かなかった。
こういう性格は学生時代から変わっていない。興味のないことには、彼はいたって愛想が
ないのだ。

 それどころか、今の彼には出世コースへの近道となる部署への転属もあまり有り難くない
話だった。美雪を引き取ろうと思ったときにはそうでもなかったのだが、この前麗子や鍋島に
男手での育児の難しさを指摘されてから、出世は美雪を引き取って育てる上で、時間的に
マイナスであるように思えてきたからだ。
 それにしても、曲がりなりにも一児の父親であることには変わりない自分が、子供を産んだ
ことも産ませたこともない二人に忠告されるなんて── しかも、それぞれの立場に立った彼ら
の発言は妙に説得力があった──いかにも皮肉な話だと思った。

「あの、萩原主任」
 振り返ると、青山が営業鞄を持って立っていた。
「あ、なに?」
「この前来られた女性の方がお見えです。えっと──」
「日下?」
「ええ、その方です。すいません、名前思い出せなくて」
「店頭に?」
「いいえ、今、外で。筋向かいの喫茶店で待ってらっしゃるって」
「子供も一緒やった?」
「いえ、お一人でしたけど」と青山は首を振った。「どうしましょう。僕の方から課長に
断っておきましょうか?」
「いや、訊かれたらでええよ」萩原は時計を見た。「……まあええか。五時は過ぎてるんやし」
「そうですね」と青山は笑った。

 銀行を出た萩原は、筋向かいのビルの地下へと下りた。
 分厚いガラスのドアを開けたところで、すぐ正面のテーブル席に、智子が一人で座って
こちらを見ているのが目に入った。
 萩原は智子を見据えたまま、黙って席に着いた。
「──通用口の前まで行ったら、この前のあの人が戻って来ゃはったから」
 智子は俯き加減で言った。
「仕事は?」萩原は煙草に火を点けながら訊いた。
「今日は休んだの。どうしてもあなたに逢って話がしたくて」
「美雪は?」
「母のところ」
 萩原は内心ほっとした。再婚相手と一緒にいるかと思っていたのだ。
「何か、疲れてるみたいやけど──大丈夫?」
「ここんとこずっと忙しかったから。ようやく解放されたんや」
「そう……大変やね」
「で?何の話?」
 萩原はわざとらしく訊いた。
「あ、ごめんなさい。お仕事中やもんね」
「美雪のこと?」まだ素っ気なかった。「俺に思い直してほしいんやろ?」
「……あかんかしら?」
 萩原はゆっくりと煙を吐いた。「──俺のこと、あの娘の父親やと認めてくれてるよな?」
「もちろんよ。そんなこと今さら何で──」
「なら分かってくれよ。あの娘が俺以外の男を父親と呼ぶのがどんなに辛いかってこと」
「それは分かってるつもりよ。あたしかて、あなたの立場に立って考えたら、やっぱり辛いと
思うやろうから。あの娘にはちゃんと言い聞かせてるわ。あの娘の父親はあくまであなた
やってこと」
「……そうなんか?」
 驚いてそう言った萩原の顔を、智子は見ると小さく笑った。「五歳にもなったらね、少しは
分かるのよ。自分には父親と呼ぶ人が二人いることになるんやって。確かに、今はあなたの
ことしか見てないけど」
「……そうか」
 萩原は俯いた。美雪がそう思ってくれているのが嬉しかったのだ。
「お願い、分かって。美雪に逢わせるのをやめるなんて言うて悪かったわ。つい感情的に
なって──あなたが再婚のことで美雪に何か良からぬことを言うんやないかと思って……
いやらしいわね」
 萩原は黙って智子を見つめていた。自分と一緒だった頃と違って、今は彼女の大部分が
母親としての姿なのだと思った。そう考えると、彼は智子がもうずっと遠くの存在になって
しまったことを思い知らされるようだった。

「再婚相手はどんな人?」
 萩原はぽつりと言った。
「え?」
「俺が訊くのもおかしいか」そう言って笑った。
「ううん」と智子は首を振った。「三十三歳で、神戸に住んでて──花屋をやってるの」
「へえ」
「働き者で、真面目だけが取り柄みたいな人で。あんまり面白味はないけど、一緒にいると
なんか──あたしも安心するって言うか」
 自分とは正反対だと萩原は思った。
「美雪のことも分かってくれてて。結婚しても、子供は美雪だけでええって。本気でそう
考えてるって。そこまで言うてくれる人、ちょっとないと思ったわ」
「そうか」
「──だから、どうか考え直して。自分でも勝手なこと言うてるって、よう分かってるの。
でも、美雪がこれからずっと寂しい思いを背負っていくのかと思うと……」
 萩原は黙っていた。鍋島や麗子が言ったことを思い出していた。
 ──そうや。自分の気持ちより、美雪のこれからのことだけを考えるんや。いくら辛くても、
それが勝手に家庭を放棄した者の受けるべき罰なんや……。

「──ちょっとの間、考えさせてくれ」
 萩原はようやく答えた。
「ほんま……?」
「かと言うて、必ずええ返事が来ると期待されても困るけど」
「……ごめんね」
 智子は小さく頷いた。
 二人はそれから何も言わず、ただボンヤリとお互いの胸元のあたりを見つめていた。
そのとき、地上から差し込んだ車のヘッドライトの光が、智子の長い睫毛を濡らしている涙を
輝かせた。

 彼女を愛していた頃の自分に戻りたいと、萩原はこのとき初めて思った。












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