第五章 その3
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ドアを開けて中から出迎えた川辺明美は、真っ赤なトレーナーに黒のスパッツをはき、
長い茶髪を無造作に頭の上でまとめていた。相変わらずの厚化粧だった。
「あら、男前の刑事さん」
「……どうも」
芹沢はうんざりしたように答えた。こんな女に褒められても、ちっとも嬉しくなかった。
「何? 何かまだ?」女は手に持っていた煙草を口に咥えた。
「ええ。ちょっとお話が」
明美は怪訝そうに芹沢を眺めていたが、やがて煙を吐くと言った。
「ええわ。どうぞ」
「失礼します」
芹沢も彼女をじっと見つめたままで、ドアをくぐった。
この部屋に入るのは初めてだった。つい昨日までは広い道路を挟んだ向かい側に車を停め、
中からこの部屋のドアを眺めてばかりいた。その時はこの部屋の中がどんな感じなのか、
彼女が普段部屋ではどんな格好をしているのか、まるで興味はなかった。
それよりも、彼女が早く部屋から出てきて、さっさと自分たちを河村のところへ案内して
くれることばかりを心待ちにしていたのだ。
芹沢はリビングに通された。開け放たれた白い化粧扉の向こうで、明美がカップに紅茶を
注いでいるのが見えた。
聞き込みに行って部屋の中まで入れてもらっても、もてなしまで受けることは滅多に
なかった。堅気の人間は警官の訪問をあまり歓迎しないのが常識だったからだ。
その点、この女は違うなと芹沢は思った。相手がヤクザでも警官でも、そんなことは
気にならないようだ。凶悪犯だろうと何だろうと、平気でつき合えるらしい。かえって
そういうキナ臭い人間に魅力を感じるタイプなんだろうと芹沢は考えた。しょせんは同じ穴の
狢なのだ。河村もこの女も、そして芹沢自身さえも。
「はい、お待たせ」
明美は両手にカップの乗ったソーサーを持って部屋に入ってきた。ソファに座っていた
芹沢に一つを渡し、自分はその斜め向かいに置かれた籐の丸椅子に座った。
「おたくみたいないい男にお茶を入れるなんて初めてよ。刑事なんかやなかったら、もっと
嬉しいのに」
「どうも恐れ入ります」芹沢は無表情で答えた。
「それで? まだ何か用? 昨日の事情聴取で終わったもんやと思てたけど」
「まあ、そう簡単にはね。昨日は川辺さん、まるで知らぬ存ぜぬを押し通された」
芹沢はここで初めてにっこりと笑った。「こちらとしてもそれで引き下がるわけには
行かないんです」
「あら、そう」と明美は肩をすくめると紅茶を飲んだ。「刑事さんもどうぞ。 えっと──」
「芹沢です」
「芹沢さんね」明美も笑顔になった。「飲んでよ、紅茶」
「いただきます」
芹沢はカップを持ち上げ、一口飲んだ。「川辺さんは、河村とは二年ほどの関係でした
よね?」
「うん。そのくらいやと思うわ」
「じゃあ河村についてはたいていのことをご存じでしょ?」
「そうでもないわ。むしろ何も知らんかも」
「二年もつき合ってるのに?」
「だってうちら、割り切った関係やもん」明美は肩をすくめた。
「そんな風には見えなかったみたいだけど。信頼し合ってたはずだって、河村のとこの
若い連中が言ってましたよ」
「あの子らまだ若いから」と明美は笑った。「一緒にいるときはそりゃ、うまくやってた方やと
思うけど。でもそれだけ。会いたいときにだけ会うて、食事して、愉しいことして、それだけの
関係よ。お互い他の日に何やってるか知らんし、興味もないし、せやからもちろん詮索も
せえへんかったわ」
「ほんとかな」
「疑うんやね」
明美はテーブルの煙草を取った。「吸ってもええかしら。おたくはやらへんの?」
「ええ、俺は」と芹沢は小さく首を振った。「どうぞ」
明美は軽く頷くと、煙草を口に運んだ。
「芹沢さん、あんた彼女は?」
「話題のすり替えはやめましょうよ」
「その手には乗らへん、ってわけや」
「まあね」
「刑事やもんね。そう甘くないか」
明美は自分の吐いた煙に目を細めた。「それで? うち何か疑われてるの?」
「どうして俺たちが何を担当する刑事か気にしたんです?」
「……何の話?」
女の瞳に警戒の色が現れた。芹沢はそれに気づいたが、構わずに続けた。
「十月二十七日の昼前、ここへ管理人の横山さんが来たでしょう。前日の夜にこのマンションの
駐車場で起きた喧嘩騒ぎの件で警察が来るかも知れないって、ご親切にもあなたに忠告をしに」
「──せやったかしら」
「その時あなたは、俺たちがどこの課の刑事かを知りたがっていた」
「覚えてないわ、そんなこと」
と早口で言うと明美は煙草を灰皿に打ち付けた。「あの管理人がそう言うてたの?」
「ええ」
当初、あれほど警察を毛嫌いしていた横山だったが、麻雀屋の一件の後、指名手配された
河村の写真を捜査員から見せられた途端、まさに手のひらを返したように協力的になった。
そして十月二十七日の明美との会話も、 鍋島と芹沢が立ち聞きしていたとも知らずに
事細かに喋ってくれたのだった。
「よう覚えてへんけど、たいした意味はなかったんと違うかしら」
「河村の何かを知っていて、俺たちの素性に見当がついてたんじゃないですか」
「あの人が隠し持ってた拳銃のこととか?」
明美は指に挟んだ煙草に視線を留めたままで言った。
「ええ。でもそれだけではないはずです」
「他に何がある?」
「河村の口利きで『ドルジェル』に入った山口紫乃のこととか」
「──彼女がどうしたん?」
明美は相変わらず細い煙の立ち上る煙草を見つめたままで、
芹沢を見ようとはしなかった。しかしその口調に、芹沢の言葉に関心を示している気配が
確かに感じとれた。
「ご存じでしょう? このあいだ、瀕死の状態のところを発見されて、病院に運び込まれた
ってこと」
「……そう言えば、お店のママが言うてたっけ」
「誰かに相当痛めつけられたみたいだけど」
明美は微かに眉をひそめた。あと一押しだな、と芹沢は確信した。
「あの女、何者なんです?」
「……知らんの? 警察は何も」
「河村と個人的付き合いのあった、シャブ中の女とだけしか」
芹沢は突き放すように言った。わざとそんな言い方をすることで、明美の女としての
プライドをくすぐったつもりだった。
「……そう、それだけよ」
「まさかとは思うけど川辺さん、あなたが誰かに頼んで彼女を傷つけさせたんじゃないで
しょうね」
「冗談言わんといてよ」と明美は真顔で芹沢を見た。「うちが何でそんなことせなあかんの?」
「嫉妬とか。彼女も河村と関係があったんだし」
「アホらし。そこまで落ちぶれてへんわ、うちは」
明美は憤慨したらしく、赤い顔で早口に言った。しかしすぐにもとの表情に戻ると、煙草を
消してふうっと大きく溜め息をつき、芹沢を真っ直ぐに見つめた。話すつもりになったらしい。
「──あの子はね。弟の犠牲になったのよ」
「弟の犠牲」
「詳しいことは知らんけど、紫乃ちゃんの弟は昔、結構やんちゃしてたみたい。河村とも
どこかで繋がりがあって、あいつ、今では真面目になったその弟をまた仲間に引き入れようと
してたらしいわ。それで紫乃ちゃんは弟を守るために、河村のいいようにされてたのよ。
彼女自身もクスリ漬けにされてね」
明美は腹立たしげに紅茶のカップを持ち上げた。「河村は族あがりで前科もあるし、
クスリとか賭博とか、いろいろ汚いことやってるけど、手を組むのは素人ばっかりで、
その筋の人間とは繋がりはないの。そういう意味ではあくまで堅気やった。せやから何ごと
にも手広くやろうとすると限界があるんよ。その筋の人たちのシマを荒らすわけには
いかへんし」
「昔の仲間を引き入れようとしたのは、そういう事情と何か関係があるんですか?」
「直接の理由はないとは思うけど、ちょっとでも自分らの組織を大きくしたかったんやろね。
中には武闘派もいたみたいやし」
「山口さんをあんな目に遭わせたような」
明美はやや曖昧に頷いた。「確信はないけど、きっとそういう奴らの仕業よ。紫乃ちゃん、
何かの理由でトラブったんやろうね」
「弟さんのこととか」
「かも知れんけど、それやったら直接弟を痛めつけたらええ話やと思わへん?」
「川辺さんはご存じないんですか」
「ねえ、もう敬語はやめてよ」
と明美は困ったように笑った。「窮屈なん、嫌いやねん」
芹沢は頷いた。彼は今や明美に好感を抱き始めていた。と言っても、女にありがちな
無駄話をすることのない、的確で協力的な証言者を得た刑事としての立場から思うことだったが。
「河村は彼女を利用して──あの子は看護婦でもあったし──病院に出入りする薬屋から、
覚醒剤よりももっと手軽にハイになれるクスリを手に入れさせようとしてたのよ」
「向精神薬みたいなもの?」
「詳しいことは知らんけど、そういう類のやつと違う?」
明美は言うと二本目の煙草に火を点けた。「それをクラブの客に売りさばくわけ。さすがに
みんな覚醒剤はヤバいってことぐらいは知ってるから、そういうお手軽なクスリだと手を
出しやすいのよ。その分、罪悪感も軽いみたいね」
「客も売人もみんな素人か。そういう連中は気前よく買うし、足も付きにくい」
「紫乃ちゃんは客と売人の両方をやらされてたようなもんね。弟のことがあるし、ええカモに
されてたんやと思うわ。逃げられへんかったのよ。その挙げ句にひどい目に遭って病院行き
なんて、ほんまに可愛そうな子やわ」
「ふうん」と芹沢は素っ気なく言った。
本人の理屈ではそういうことになるだろうが、最初はどうあれ、結局はてめえのクスリ
欲しさなんじゃねえのか。弟を助けるためとか何とか言いながら抑制の利かなくなった自分を
救い、一方でそれらが不特定多数の人間の手に渡る。いずれその中から新たな犯罪者が
出るかも知れないということなど、当人にとってはもはや知ったことではないのだろう。
そして犯罪には、必ずと言っていいほど被害者が存在するのだ。ところが薬物中毒者である
加害者は、やがて法の手厚い保護のもとに加害者でなくなってしまう──。
被害者はいつまで経っても被害者なのに。
だから俺はヤク中ってのが大嫌いなんだ。
芹沢はこれまでに何度となく巡らせ、そしてこれからもずっと消えることのない呪いにも
似た思いをいつものように引っ込めると、黙って煙草をくゆらせている明美に訊いた。
「十月二十六日の喧嘩騒ぎは、河村たちの仕業なんだろ?」
「そのことはよう知らんのよ。確かにあの日、河村はここにいたわ。前日の夜から若い子
三人連れて来て、徹マンやってたの。ジャラジャラと夜通しうるさくてゆっくり寝られへん
かったし、結局うちは昼の二時過ぎにここを出たわ。心斎橋で買い物してそのまま出勤
したから、その日の夜のことは何も知らんの。でもまあ、ここでそんな騒ぎを起こすと
いうたら、きっと連中なんやろうね」
「その後であんたに何も言わなかったの?」
「せやから言うてるでしょ。一緒にいてないときのことは詮索せえへんって」
と明美は肩をすくめた。「あの人、それも喋らへんの?」
「何もかもダンマリ」
「仲間は?」
「今の話を聞いたら、連中よりあんたの方が具体的に知ってることが多いくらいさ」
「……そんな感じやったわ。何も知らされてないくせに、鼻先にぶら下げられた僅かな餌の
ために何でもやる。一瞬だって疑おうとせずに。ただの木偶人形よ、あいつら」
明美は吐き捨てるように言うと、それから何かを思いついたように慌てて煙草を消しながら
芹沢の顔を見た。
「ねえ、言うとくけど、うちがこんなこと喋ったってこと、あの人に言わんといてよ。
あの人が今度出て来たとき、仕返しが怖いもん」
「分かってますよ。けどちょっとやそっとじゃ出てこれねえんじゃないかな」
「そうなん?」
「分からないけど。俺は判事じゃねえし」芹沢は肩をすくめた。
「別にええけどね。どうせすぐに田舎に帰るから」
「あ、そうなんだ」
「うちの実家、和歌山で民宿やっててさ。人手が足りひんみたいやから手伝おかなて
思てるの。さんざん好きなことやって、今さら虫が良すぎるとは思うんやけど」
「そりゃ賢明だと思うよ」
そう言った芹沢の顔を見ながら明美はふふんと笑った。
「分かったように言うけど、民宿って大変なんよ。しんどいし、地味やし、朝から晩まで
働いたって儲けは少ないし、うちはそれが嫌でこっちへ出て来たようなもんなんやから。
あんたみたいな育ちの良さそうなお兄さんに分かるかなあ? ひょっとしたらまだ親の
スネかじりやってるんと違うの?」
芹沢はあいた、とばかりに片目を閉じて首を傾げ、にこっと笑った。その表情は、本当に
まだ大人になり切れていない無邪気な少年のようだった。それもまた彼の持つ、過去の遺物
としての表情の一つなのだった。
そして彼はその若葉のように清々しい無垢な笑顔の下で、てめえのように見かけ倒しの
姉御気質で、実態は笑っちまうくらい無責任で薄っぺらな女は間違いなく一年もしないうちに
この街に舞い戻って来るだろうぜと明美を罵った。
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