第五章 その2
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麻雀屋での一件から十日が経った日の朝、川辺明美が動いた。
すでに彼女に対しては事件の翌日に部屋を訪ねて事情聴取は行っていたが、無論何も知らぬ
存ぜぬで押し通され、ただ警戒心を募らせるだけのまずい結果に終わっていた。
当初芹沢は彼女の勘の鋭さを考えると現時点での接触は好ましくないと反対したが、彼女も
自分の男が警察とゴタゴタを起こしたことくらいは分かっているだろうし、その男が逃げて
いる以上、遅かれ早かれ自分のところにも警察がやってくることは容易に予測できている
はずだと反論されて納得した。そして結局、何も成果の無かった事情聴取を経て、今まで通りの
生活を続ける相手の部屋のドアをただ遠くから歯痒く眺めるだけの張り込みが数日続き、
さすがに警戒心だけを優先させていては人生を楽しめないとの考えが生まれてきたのか、
明美は七日目には行動範囲を職場以外にも少しずつ広げるようになっていた。
それにはもちろん尾行がついた。
さらにそれから三日目が経って、彼女は一気に警戒を解き、むしろ大胆な行動に出た。
十日もすると警察も自分から目を離すだろうとでも思ったのか、こともあろうに白昼堂々、
キタの小さなビジネスホテルに河村を訪ねたのだった。
刑事たちが部屋に踏み込んだとき、下着姿で河村の膝の上にまたがっていた明美は彼らの
構えていた拳銃を見て言った。
「ちょっと、うちのことは撃たんといてや。うちは関係ないんやし」
女なんて薄情なものだ、と芹沢はつくづく思った。
こうして河村はあっさり逮捕された。あくまで銃刀法違反容疑ではあったが。
翌日、芹沢は鍋島の病室を訪ねた。十日もすると鍋島の顔色はすっかり良くなり、刺された傷
の方も順調に快復しているようだった。そうなるといい気なもので、一時は死線をさまよった
くせに、今ではおとなしくベッドに寝かされているのが退屈でたまらないという様子だった。
「──野郎、生意気に黙秘だ」
ベッド脇の椅子に前屈みで腰掛け、疲れたように前髪を掻き上げながら芹沢は吐き捨てた。
時間に不規則な連日の張り込みと尾行、そして昨日の逮捕劇ですっかり疲労困憊なのだろう。
普段はコンタクトを使用している彼だが、今日は眼鏡を掛けていた。
「何も喋らへんのか。拳銃のことも」
「ああ、まったくのダンマリ。完黙だな」
「あいつの舎弟は」
「そっちはポツポツ喋ってるんだがよ。どうも要領を得ねえ」
「河村を怖がってるんか」
「それもあるが、どうやらあんまり事情を知らされてなかった連中みたいだな」
「川辺明美は」
「ありゃダメ、問題外。お話にならねえってやつだ」
と芹沢は手を振った。「男をかばって喋らねえってんじゃないぜ。河村が裏で何してたか
なんて、アケミ姉さんは全然知らねえんだ。逮捕されたあいつがこれからどうなるかも
興味ねえみたいだし」
「ほんまかな」と鍋島は腕を組んだ。
芹沢は顔を上げた。「何か知ってるってか?」
「ほら、あの女がマンションの管理人と喋ってるとき、俺らが何課の刑事か知りたがってたやろ。
刑事課にもいろいろあるって」
「そういや言ってたな」
芹沢は体の向きを変え、そばの冷蔵庫を開けた。少し中を見渡して、大振りのガラス瓶に
入ったプリンを取りだすとラッピングを開け始めた。甘味が苦手な彼にはめずらしいこと
だったが、よほど疲れているのだろう。鍋島は黙ってその様子を見ていた。
「──つまり、それが分かりゃ俺たちが河村の何を嗅ぎ回ってるかが分かるってことだな、
あの女には」
「あるいは俺らが西天満署の少年課かどうかを気にしてたとか」
芹沢はプリンを食べながら、鍋島の言葉にふんと小さく笑った。
「山口はまだ雲隠れか」鍋島が訊いた。
「ああ。ガキのくせにしぶといやつだぜ。友達もいねえ、姉ちゃんの他に身内もいねえじゃ、
かえって足がつかねえんだな」
「その姉ちゃんの容態はどうなった」
「峠を越えた。だんだん良くなるだろうって」
「杉原さんはどうや」
「相変わらずだ。ずっとあのままなんじゃねえか」
芹沢は表情を変えることなく言った。
「おまえは?」
「俺?」と芹沢は眼鏡の奥から上目遣いで鍋島を見た。「暇に飽かせて、また喧嘩売ろうってのか」
「別に。そんなん食べて、疲れてんのやろ」
「当たり前だろ。おまえの分まで二倍こき使われてるんだぜ」
芹沢は空になった瓶を冷蔵庫の上の端っこに置いた。
「この事件だけってわけにはいかねえんだ。トルエンの売人の件だってまだ後処理はあるし、
親父を刺した生島ってガキのことだって、少年課に全部引き継いだはずなのに今度のことで
あっちも手薄になってるから、家裁から何か言ってくると決まって俺に振られて来るんだ。
ここへ来れたのも実は奇跡なんだぜ」
「ええんか、こんなとこでのんびりしてて」
おまえは鬼か、と芹沢は言って苦笑した。「ここなら堂々と携帯切れるだろ。連絡のしようが
ねえ」
そして芹沢は両手を頭の後ろで組んで背中を伸ばし、そのままぐるりと首を回すと冷蔵庫の
上の大きな花瓶を見た。
「お嬢さんが来たんだな」
芹沢は薔薇のつぼみを指先で弾くと鍋島に視線を移した。
「ああ」
「で、どうだった」
「どうって、別に」鍋島は肩をすくめて俯いた。
「相変わらずかったるいな」
と芹沢は眉をひそめたが、すぐに小さく首を振って言った。「訊いた俺が悪かったよ。
おまえのこの話には関わらねえって決めたんだった」
ほな訊くな、と鍋島はひねくれたように言って芹沢から顔を逸らせた。
そして、この前自分が真澄の頬に触れたときのことを思い出した。
あの時、彼は本当は真澄にキスをしようとしたのだが、いざ彼女の泣き顔を見ると
できなくなった。自分のことを本当に想ってくれているのが分かったし、あの時になって
ようやくそれに答えられそうな気がしたのだが、そう思ったと同時に、自分が果たして
彼女に相応しい男なのかどうかという疑問が突然のように沸き起こってきて、そこで
躊躇してしまったのだ。
そこでノックの音がして、我に返った鍋島が「どうぞ」と答えると、スライド式のドアが
ゆっくりと開いて麗子と萩原が顔を見せた。
「よお──あれ、ごめん」
身体半分、部屋の中に入ったところで、萩原は芹沢に気づくと立ち止まった。
「あ、俺はもう」
と芹沢は軽く手を上げると立ち上がって鍋島に振り返た。 「んじゃ帰るわ」
「ああ」と鍋島は頷いた。「おまえも無理すんなよ」
「くたばり損ないのてめえなんぞに言われたかねえよ」
芹沢は片目を閉じ、鍋島に向かって軽く拳を突き出すと、入口付近に立っている萩原たちに
軽く会釈をして出ていった。
麗子のそばを通り過ぎるとき、彼女は少し戸惑い気味に芹沢を見つめていたが、彼は平然と
無視した。
「──あれ、確かおまえの相方やったな」
芹沢が出ていったあと、ベッドのそばにやってきた萩原が親指で後ろのドアを指して言った。
「ああ」
「あんなんと一緒やと、おまえもしんどいのと違うか」
鍋島には萩原の言う意味が分かっていたが、黙って肩をすくめただけだった。
萩原の目には、芹沢がその容姿のせいで軽薄な軟派男に映っているのだ。
「それはそうと、ひどい目に遭ったわね、あんた」
麗子が話題を変えて言った。そしてはいこれ、と手提げの紙袋を鍋島に差し出した。
中には二人からの見舞いの品が入っていた。麗子は肩の凝らない時代小説などの単行本と
雑誌を数冊ずつ、萩原は五枚の音楽CDを見繕ってくれていた。
二人は鍋島に容態をたずね、そしてその大怪我を負ったときの様子を訊いてきた。鍋島は
あまり多くを語らなかったが、それは彼が途中で意識を失ってしまったせいだと知ると二人は
本気で身の凍る思いがした。
これまでにも何度となく鍋島が仕事絡みで怪我を負った話を聞かされてきたが、いずれも
命に関わるようなものではなく、たいしたことがなくて良かった、それにしても警察官と
いうのは大変な職業だと、最後は笑って彼の奮闘をたたえることで済ませられていた。
しかし今回はまるで笑えなかった。すべてが済んだあとで聞かされているのに、こうして
生きた鍋島に会うことができて本当に良かったと、麗子は本気で自分の心臓が震えている
錯覚すら感じた。
やがて、今度は萩原が今自分の抱えている問題に関して話し出した。
別れた妻の智子が再婚をするらしいこと、そのために彼女が引き取って育てている二人の
間の子供である美雪がもう父親には会えないのではないかと小さな胸を痛めているということ、
そして自分はそれに対してある決心をしたことなどを、かなり思い詰めた様子で鍋島と麗子に
打ち明けた。
「──おまえ、本気で美雪ちゃんを引き取るつもりなんか」
鍋島が溜め息混じりで言った。
「そのつもりや」
「けど智子が簡単には承知せえへんやろ」
「ああ。絶対に嫌やて言うてる。それどころか、もう美雪を俺に会わせるのもやめるって」
「それはちょっと行き過ぎね。離婚のときの約束だったんでしょ。
月に一度は逢わせてくれるっていうのは」
出窓にもたれかかっていた麗子が口を挟んだ。
「ああ。まあその話はいずれ思い直すにしても、肝心の問題の方は手こずりそうなんや」
萩原は言うと麗子に向き直った。「なあ、親権裁判になったら、やっぱり俺は不利かな」
「ちょっと待ってよ。豊、あんた本気なの?」と麗子は驚いた。
「俺が美雪を引き取ったらあかんとでも言うんか?」
「違うわよ、そうじゃなくて──本気で裁判なんかやっちゃうのかってことよ」
「場合によってはな」
麗子は鍋島を見た。鍋島は溜め息をついて小さく首を振った。
「多くの場合、子供の親権は母親に認められる傾向にあるわ。そりゃあケース・バイ・ケースで、
全部がそうだってわけじゃないけど。母親に生活能力がなかったり、仕事を持ってても
ちゃんと面倒が見られなかったり、あるいは新しい家庭を築いててその子供が著しく居辛い
状況に陥るおそれがあったりして、しかもそのいずれの点でも父親の方が好条件であると
みなされる場合なんかには、父親側に親権が認められたりするわね」
麗子は淡々と話した。「もちろん、子供の意思も尊重されるわよ。でも、子供の年齢が
低ければ低いほど、結局は母親が育てる方がいいってことになるのよ」
「小さいうちは母親が必要やからな」鍋島がぽつりと言った。
「裁判所もそこを重視するのよ。離婚していない家庭でも、父親は仕事に縛りつけられてて、
子供との接触時間は母親の何十分の一しかないでしょ。父親が子供のためにしてやれることと
言ったら、一生懸命お金を稼いでくることぐらい。ちょうど、今の豊と大差ないわ。それでも
たいていの子供は育つのね、とりあえずは」
「智子も、経済的な理由から再婚を決心したのかも知れんな」
「それだけじゃないにしても、再婚はいろんな意味においていい解決策になると思うわ。
経済的に楽になって、豊の養育費に頼らなくて済む。育児の点でも智子ちゃんが美雪ちゃんと
一緒にいてあげられる時間が増える。そして何より、両親が揃ってるってことよ。
美雪ちゃんのこれからのことを考えると、むしろこのことが一番意味のあることかも知れない
わよ」
「でも、美雪は俺の方がええって言うてるんや」
萩原は子供の言い訳のような言い方をした。
「その点では、再婚相手に勝ち目はないわね」と麗子は微笑んだ。
「いや、逆に美雪がそんなこと言うてへんかったら、俺もあっさり諦めてたかも知れん。
けど美雪がこれから新しい父親になつかれへんまま暮らしていくのかと思うと、あの子が
不憫で──そのうち次の子供もできるやろうし」
「萩原、ほんまにそれだけか?」鍋島が訊いた。
「え?」
「おまえ、美雪ちゃんにおまえ以外の男をパパって呼ばせとうないのと違うか」
「それは──」と萩原は口ごもった。「それもあるかも知れん」
「そういう気持ち、あって当然やろ。けど、今一番に考えてやらんとあかんのは、今さっき
麗子も言うたように、美雪ちゃんのこれからのことや」
「俺は何も──」
「やっぱり、両親が揃ってるってのは大事なことや。自分の話になるけど、俺はガキの頃に
母親を亡くしてるやろ。ガキて言うても中坊やったし、それほど母親が恋しい年頃でも
なかったけど、うちのおふくろの場合はその前の入院期間も長かったから、俺はもう十歳
くらいからおふくろとは離れて生活してたんや。その頃、よう思たよ。おふくろがいて
くれたらなって。俺でさえそうやったのに、四つ下の純子なんかまだまだ母親が必要やったと
思う」
「勝也……」
麗子は困ったように呟いた。彼女はさっき、萩原の問い掛けに答えるつもりで、子供に
とって両親が揃っていることがいかに意味のあることかについて発言したが、そのことが
鍋島の心を多少なりとも痛める結果となっていたことに、迂闊にも麗子は気づかなかったのだ。
九年も彼の親友をやっていながら、何ということだと彼女は内心で激しく自分を責めた。
そんな気持ちを知ってか知らずか、鍋島は続けた。
「まあ、それでも何とか今までやって来たけど、純子ももう二十四で、そのうち結婚の話が
出てくるやろう。その時になったらいよいよ母親のいてへん、男所帯の頼りなさを
思い知らさせることになると思う。せやから俺は、美雪ちゃんを智子から引き離すような
話にはみすみす賛成でけへんのや」
「おふくろが美雪の母親がわりになるって言うてくれてる」萩原は言った。
「それでも実の母親とは違うんやって。それに──こう言うと語弊があるけど、おまえの
おふくろさん、もうすぐ還暦やろ。美雪ちゃんが嫁に行く頃には幾つになってはる?」
「……そうやな」
「智子が再婚を決心したのも、逆に男親の必要性を感じたからと違うか」
萩原は溜め息をついた。そして、麗子を上目遣いで見た。
「おまえ、どう思う?」
「勝也とまったく同感ね」と麗子はあっさり言った。「それにあんた、美雪ちゃんを
引き取ったらそれこそそう簡単には再婚なんて考えないことよ」
「そうやな。智子が再婚することよりもっと難しいやろな」
「豊。ここは自分の気持ちはちょっと脇に置いといて、美雪ちゃんのことだけを考えて
あげなくちゃ。女の子には、女親の必要な時期がたくさんあるものなのよ」
「……分かってる」
「一度その再婚相手って人に会ってみるのもいいかも知れないわ。
決心がつくかも知れないし」
「そう、それも一つの考えかもな」と鍋島が言った。
「今はあかんわ」と萩原は首を振った。「とても冷静でいられる自信がないんや」
鍋島と麗子は顔を見合わせ、深いため息を漏らした。
「可愛くなってるんでしょうね、美雪ちゃん」
麗子がぽつりと言った。
やがて萩原は今日のような休日でも仕事があるのだと言い、もう少し退屈そうな鍋島の
相手をするのに残ると言った麗子を置いて帰っていった。
そんな彼を見送りながら、麗子も鍋島もやはり彼が娘を引き取るのは難しいことだと、
それぞれの胸の内で結論づけた。
鍋島と二人になったとき、麗子はさっきの発言を謝った。
「ごめんなさい。さっきあたし、あんたに悪いこと言っちゃったわ」
「何を?」と鍋島は顔を上げた。
窓の外を見ていた麗子は振り返った。「分かってるんでしょ?」
「ああ──両親が揃ってる方がいいって話か」
「やっぱり引っかかってたんだ」
と麗子は溜め息をついた。「ほんとにごめんなさい」
「ええって。別に偏見があって言うたわけやないんやろ。
あいつを説得しようと してただけで」
「そう言ってくれると助かるわ。でも、デリカシーに欠けてたのは事実よ」
「もうええって、しつこいぞ」と鍋島は笑った。「これ以上病人に気ィ遣わせんなよ」
麗子もバツが悪そうに微笑んだ。が、またすぐに真顔に戻ると、今度はもっと臆病な
眼差しを鍋島に投げ掛け、そして言った。
「──ねえ」
「うん?」
「真澄から聞いた?」
「何を」
「……あたしの話よ。つまり 真澄と喧嘩した理由」
「ああ。そういや、何か言うてたな」
「どう思った?」
「どうって」鍋島は腕を組み、ちらりと麗子を見た。「おまえもやっぱり普通の女やったんや
なって」
「茶化さないでよ」
「ごめん。でも、そこからなんで真澄と喧嘩になったのかが分からんけど」
「……そうね」
麗子はベッドのそばの椅子に腰掛けた。鍋島の顔は見ず、膝の上に乗せた両手を見つめて
いた。真澄が自分と鍋島の関係を激しく嫉妬したからだとは言えなかった。言えば、大切な
何かがきっと失われてしまう、そんな気がしたからだ。
「けどもう大丈夫なんやろ?」
「何とかね。結局は這い上がるしかないもの」
「ま、いろいろあるて」鍋島は麗子を見た。「俺かて、こんなアホな目に遭わされてる」
麗子は顔を上げた。
「もうちょっとで這い上がれへんままに終わるとこやった」
そう言った鍋島の顔は真顔で、しかもいくぶんかの恐怖に強張っていた。
麗子は思わず息を呑んだ。
「勝也──」
怖かったのね、と言いかけて麗子はその言葉をのみこんだ。本当はその言葉を言って
しまいたいのは鍋島の方で、けれども彼は決してそうはせずに、ただじっと我慢しているのが
分かったからだ。
「そうなってたら、せっかくのおまえのアホ話の感想も言われへんとこやったな」
彼はやっとと言う感じで言うと頬を緩めた。
「……バカ」
麗子はその細く白い手で握りこぶしを作ると、布団の上から鍋島の足をめがけて小さく
打ちつけ、ベソを掻きながら笑った。
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