ロング・ウェイ・ホーム(19/34)縦書き表示RDF


ロング・ウェイ・ホーム
作:みはる



第四章 その4


 4


 翌朝の捜査会議で、山口紫乃が九月の終わり頃からミナミのクラブで働いていたことが、
一係の島崎巡査部長から報告された。
「クラブの名前と所在地は」
 植田課長が訊いた。
「宗右衛門町の『ドルジェル』です」
「──つながるねえ」
 最後列の席で、芹沢は小声で鍋島に言った。
「うん」
 頬杖をついて煙草を吹かしていた鍋島は軽い返事をした。
「特定の客はいたんか?」
「特定と言えるかどうかは分かりませんが、週に一回程度、四十前後のヤクザ風の男が閉店
一時間ほど前に顔を出して、彼女と一緒に帰っていたそうです」
「その男が誰か分かってるんですか」誰かが訊いた。
「まだ分かりません。店の連中もよう知らんと言うてました」
「──河村の仲間か、どっかのヤクザか」
 鍋島は独り言のように呟いた。
「四十前後のヤクザ風なんて、大阪のおっさんの半分がそうだろ」
 芹沢は素っ気なく答えた。「ここにだってウジャウジャいるぜ」
「ちょっと待て、そこの店は確か──」
「河村忠広の女が勤めてる店です」
 課長の言葉に芹沢が答えた。
「河村……そうやった。ということはその四十男が河村か」
「いや、河村は確かに元暴走族ですが、風貌はヤクザっぽくはありません。若者相手の方の
クラブを経営してますから、むしろやさ男と言う感じです」
「おまえとええ勝負か」
 すぐ前に座っていた湊巡査部長が振り返って笑った。
「あの程度じゃ俺の相手にゃなりませんよ」
 芹沢は肩をすくめてふんと笑った。
 島崎が報告を続けた。「それから、医師の診断によると山口紫乃は覚醒剤の常習者である
らしいことが分かりました」
 芹沢はちっ、と舌打ちした。
「奇行の原因はそれやな」
 鍋島は短くなった煙草を口から抜くと煙を吐いた。「ヤクをその男から買うてたんかな」
「これで杉原さんと山口泰典がコソコソ動き回ってたことの説明がつく」
「ああ。河村も一枚噛んでるな」
 そのとき、ドアがノックされて、刑事課の庶務を担当している婦警の市原香代が顔を出した。
「失礼します。鍋島巡査部長にお電話です」
 香代が言うと、その場の全員が鍋島に振り返った。鍋島はいくぶん居心地の悪さを感じ
ながら、課長に会釈して席を立った。ドアに向かう途中で誰かが、「携帯持ってへんのかいな」
と言ったのが聞こえた。

 部屋を出ると、鍋島は香代に訊いた。
「誰から?」
 香代はくすっと笑うと、その答えを耳打ちで鍋島に教えた。
「……アホか」
 鍋島は電話の相手に呆れながら廊下を戻った。
 デスクに戻った鍋島は、香代に礼を言って保留中の電話の受話器を取って耳に当てた。
「もしもし」
《鍋島さん?》男の小声が囁いた。
「……もうちょっとマシな名前を思いつかへんのか。スズキイチローなんて、偽名がバレバレや」
 鍋島は溜め息混じりに言った。「おまえに詐欺は無理やな」
《すんませんな。咄嗟に出てけぇへんかったんや》
 声の主はタツだった。
「めずらしいな。そっちから掛けてくるなんて」
《……手短に言いまっせ。あんたに頼まれた河村を探ってたら、ちょっと危なっかしいオマケが
ついてきましたんや》
「どう言うことや」
《河村のやつ、ゆうべから子分連れてずっと徹マンやってるんやけどね。その麻雀屋の隣の
路地に、三十分ほど前から妙に意気込んだガキが潜んでるんですわ》
「意気込んだガキ? 何やそれ」
《知るかいな。でもあのガキの面構えはちょっとただごとではないで。俺もさっきまで麻雀屋に
いて、今は店には河村の一行しか残ってないはずやから、ガキはおそらく河村に何か仕掛ける気や》
タツは早口で言った。《鍋島さん、ええから早よ来なはれ》
「分かった。場所どこや」
《千日前。国際劇場の裏手の麻雀屋。俺は外の公衆電話からです》
「すぐに行く」
《俺、このまま消えまっせ。そろそろ感づかれそうでヤバいし》
「ああ、またこっちから連絡する。ありがとうな」
《……あんたも気ぃつけて》

 電話を切った鍋島は大急ぎで会議室に戻り、ドアを開けると振り返った課長に言った。
「すいません、ちょっと抜けさせて下さい」
 そして芹沢を見て、「行くぞ」と頷いた。芹沢は渡りに舟とばかりに立ち上がって後ろの
ドアに向かった。
「待て、どこへ行く? まだ終わっとらんぞ!」
 課長は怒って叫んだ。──が、効き目はなかった。




 二人が千日前に着いたとき、アーケード街の店のほとんどは開店前で人通りも少なく、
閑散としていた。
「この筋を入るんじゃねえか」
 三つの映画館が入った国際劇場の東隣の路地に立ち、芹沢は奥を伺いながら言った。
「みたいやな」
 鍋島は少し背伸びをして、路地の奥まで見通そうとした。
「あった、あの看板や。行こ」
「待てよ、ガキが潜んでるって言ってたんだろ。ずかずか行くな」
「……俺が刑事に見えるか?」
 鍋島はジャンパーのポケットに突っ込んだままの両手を広げて、自分の格好をアピールして
見せた。乳白色のサテン地に紺のラインの入ったスカジャンの中は紺のキーネックTシャツ、
ボトムはブラックジーンズに黒のショートブーツ。しかも今日に限って無精ひげを生やしている。
いつもながら、職業とはほど遠いイメージのスタイルだった。
「……まあ、一見して見破れる奴はいねえだろうけどよ」
「やろ。ちょっと見てくる」
 飲み屋の袖看板が重なり合い、前夜のゴミが散乱する路地を鍋島は奥へと進んでいった。
少し遅れて芹沢が続く。

 軒下に赤提灯がぶら下がる一品料理屋の二階が目指す麻雀屋だ。牌の混ざり合う独特の
音が窓越しに聞こえてきて、静かな路地にも響きわたっていた。
 鍋島はその前まで行くと、隣の店との間に出来たさらに細い路地を覗き込んだ。
「誰もいてない」
「タレコミ屋の見間違いじゃねえのか」
「あいつにガセを掴まされたことはない。確信のあることしか言わへんから」
「じゃあ、消えちまったか」
 そのとき、上の窓からぎゃあっ、と言う大声が聞こえてきた。
 そしてすぐに椅子か何かの倒れたような音と、その間を縫うようにガラスの割れる音がした。
「……遅かったか……!」
 二人は一瞬だけ顔を見合わせ、すぐに料理屋の戸口の横から上の麻雀屋に続く薄暗い
階段を駆け上がって行った。

 磨りガラスの入った安っぽいドアを開けると、小さなレジカウンターの中で中年女が屈み
込んでいた。飛び込んできた二人を見て、強張った顔をさらに引きつらせた。
「おばちゃん、ちょっと人捜しや」
 鍋島がそう言って、二人は煙草と酒の臭いの充満するフロアへと向かった。
 全部で十ほどある麻雀卓のうち、奥にある窓際の一つの周辺で騒ぎは起こっていた。三人の
男に向かって、一人の少年がごついナイフを突きつけている。三人のうち一人がもう一人の男を
かばうように立ち塞がり、少年を睨みつけていた。残りの一人は右肩から血を流し、ガタガタと
歯を鳴らして腰を抜かしている。
 かばわれている男は河村忠広だった。
「……あいつや。とうとう会えた」
 鍋島は男たちを見ながら呟くと、そちらへ向かった。
「おい、何してる」
 男たちは一斉に二人を見た。振り返った少年は、原田に見せられた山口泰典の写真の顔だった。
「ちくしょう、あのおばはん、サツに……!」
 河村はそう叫ぶと雀卓の牌を掴んで二人に向かって投げ、自分をかばっていた男の腕を
押し退けて窓に向かった。
 芹沢が追いかけようとしたが、残された男がしがみついてきて邪魔をした。
 山口はしりもちをつきながら後ずさりをしていたが、なんとか立ち上がると店の入口に向かって
逃げ出した。鍋島が後を追おうとすると、どういうわけか肩に怪我を負った男に体当たりされ、
前のめりにひっくり返って顔面を思い切り床に打ちつけた。
「くっ、なんでや……」
「離さねえか、このっ……!」
 芹沢がもがきながら言った。その間にも河村は部屋の突き当たりまで逃げ、開けた窓ガラスに
足を架けて今にも乗り越えようとしていた。
「鍋島、表だ! 表に回ってくれ!」
 ようやく邪魔者を振り解いた芹沢は、窓際の河村を追いながら叫んだ。
「分かった!」
 鍋島も自分に体当たりしていた男に肘鉄を食らわすと、入ってきたドアへと走った。

 窓から飛び降りた河村の後を追って芹沢が窓枠に手を掛けたとき、また後ろからさっきの男が
飛び掛かってきてフロアに引き戻された。そこでまた掴みかかったり振り解いたりの格闘になり、
互いに一歩も譲らない攻防が続いた。
「くそっ、しつこい、な……!」
 搾り出すような声で言いながら、芹沢は喉元に回された男の右腕を掴み、空いた腕で男の
腹に肘鉄を食らわせた。男が思わず腕を放して屈み込んだところをさらにその顎に空手三段の
蹴りを見舞うと、男は床に崩れ落ち、そのまま伸びてしまった。
 芹沢はその様子に目もくれず、窓を乗り越えて路地へ飛び降りた。
 しかしとうの昔に河村の姿はなく、先に表に出たはずの鍋島も見当たらなかった。芹沢は
忙しく辺りを見回しながら、足早にアーケード街へ出た。

 そのとき、パン、パン、と乾いた銃声が二つ響いた。芹沢は咄嗟に拳銃を抜いた。
「鍋島! 鍋島! どこだ!」
 芹沢は大声で叫び、闇雲に走り出した。
 千日前の通りに出た芹沢は、斜向かいのパチンコ屋の隣にある派出所から飛び出してきた
警官を見つけるなり言った。
「西天満署に連絡してくれ! あと救急車もだ!」
 警官は黙って頷くと、くるりと振り返って交番に戻って行った。

 芹沢はパチンコ屋と工事中の建設現場の塀との間に伸びる通りに入った。向こうから来た
女性が彼の持つ拳銃を見て凍りついているのが、駆け足の彼にも見て取れた。
 突然、足もとに血痕が現れた。ひと目見て、たった今誰かがここで落としたと分かる新しい
ものだった。
「鍋島! どこにいる!」
 芹沢はもう一度叫んだ。しかし返事はなかった。
「まさかな……冗談じゃねえぞ……」
 血痕を追って四つ角に出た。すると、『有料駐車場』と書かれた塀の足もとに倒れている
鍋島の姿が目に飛び込んできた。
「鍋島っ!」
 芹沢は拳銃を直しながら駆け寄った。
「……くそっ、痛ぇ……」
 鍋島は肘を使ってゆっくりと起き上がり、そのままうずくまった。
「大丈夫……なわけねえか」
 芹沢は鍋島の肩を掴んで抱き起こそうとして、その手を止めた。
 左の脇腹から吹き出た血が広がり、着ているスカジャンを真っ赤に染めていた。その範囲は
どんどん広がりつつあった。
「──りざわ、キツイぞ、これ……」
 鍋島は血だらけの手で芹沢の腕を掴んだ。
「……そうみてえだな」
 芹沢は静かに鍋島を起こし、その上半身を自分の膝で支えた。そのとき、右の太股にも傷を
負っているのが分かった。だが銃弾によるものではなかった。あたりには血溜まりが出来て
いて、芹沢はジャケットのポケットからハンカチを取り出し、気休めだと分かっていたが、
鍋島の腹に当てた。

 通りの向こうからさっきの警官が走ってきた。
「すぐ応援が来るそうです!」
「救急車は?」
 警官は倒れている鍋島を見ると立ち止まり、顔を強張らせて言った。
「そちらも手配済みです……」
「おい、もう少しの辛抱だぞ」
 芹沢は鍋島の顔を見て言った。しかしその顔からは血の気が引き、その分が腹から流れ出て
いるのが手に取るように分かった。
「……あいつは……?」
 鍋島は息を荒らげて言った。
「どっちのことだ。河村か、山口か」
「河村や。山口は……俺をこんな目に遭わせて逃げてった」
「そっちも逃げられた」と芹沢は舌打ちした。「ってことは、河村はおまえに向かって発砲
したんじゃねえのか」
「……ああ。おそらく、山口に……」
「じゃあいつは、おまえを刺したあと河村を追ったんだな」
「あいつ……たった二回で……刑事を半殺しの目に遭わせるやなんて……ええ根性してる……
な……」
 鍋島は途切れ途切れに言って小さく笑った。
「喋るな。俺の言うことだけ聞いてろ」芹沢は言った。「いいか。もうすぐ救急車が来る。
もうすぐだぜ。それまで何とか我慢して、気をしっかり持つんだ。うっかり目なんか閉じるん
じゃねえぞ」
 芹沢は必死で鍋島に語りかけ、何とか気を強く持たせようとした。そしてそれはまた、
自分自身に掛けている暗示でもあった。
 パトカーと救急車のサイレンが猛スピードで近づいてきた。
芹沢は警官と顔を見合わせて頷いた。
「おい、あと少しだぞ」芹沢は鍋島に振り返った。
 しかし鍋島はすでに目を閉じており、返事をしなかった。



手術室の前の長椅子に座り、芹沢は両手を組み合わせて俯いていた。
 鍋島が病院に運ばれて二時間が過ぎた。その間芹沢はずっとこうしてここに座っている。
今日の彼の服装は、薄いサーモンピンクのストライプシャツにキャメルカラーのジャケット、
ボトムはジーンズと言う、彼にしてはカジュアルな格好だった。そして今はそのあちこちに、
鍋島の流した血が赤黒く固まって残っていた。

 山口と河村の二人とも、その後の緊急手配網には引っかからずに行方をくらませていた。
発砲したのが河村かどうかの確証は得られていなかったが、河村の手下の一人は肩に怪我を
して鍋島と同じ病院に収容されていたし、もう一人も公務執行妨害で手配され、そのうち
尻尾を出すだろうと思われた。そうすれば河村の拳銃所持についての嫌疑がはっきりするし、
一方では捜査令状が取れ次第、河村の自宅とクラブ『マグナム・J』に乗り込むことになっていた。

「芹沢くん……!」
 突然名前を呼ばれて、芹沢は顔を上げた。
 長椅子から少し離れたところに、ひと目で長い距離を走ってきたと分かる荒い息をしている、
スーツ姿の髪の長い女性が立っていた。その瞳は何かを探しているように左右に泳ぎ、潤んで
さえいる。鍋島の妹の純子じゅんこだった。
「純子ちゃん」と芹沢は立ち上がった。
「お兄ちゃんは?」
「今、まだ手術中なんだ」
 そう言って芹沢はそばの大きな鉄の扉の上に点灯した『手術中』の照明を見上げた。
「それで、どうなの? 助かるの?」
「ああ、大丈夫さ。内臓を損傷するほどの深手じゃなかったから。ただ、ちょっと出血がひどい
みたいで、輸血に時間を取られてるって。さっきここから出て来た看護婦が言ってたよ」
「良かった」
 純子は肩を使って大きく溜め息をつくと、芹沢に促されて彼の隣に腰を下ろした。
「ごめんよ、俺も一緒にいながら」
「芹沢くんの責任と違うわ。お兄ちゃん、運が悪かったんよ……お父さんがそう言うてた」
「親父さんと連絡ついたのか?」
「うん、芹沢くんが電話くれたあとすぐに連絡がついたわ。芹沢くんがうちの家に掛けて
くれたときは、出先からまだ帰ってなかったみたい」
「で、こっちに来られるって?」
「ううん」と純子は首を振った。「これも刑事の宿命やから、そんなことでいちいち家族が
騒ぐことないって。どうせお兄ちゃんも来て欲しくないやろうしって」
「往年の刑事 気質かたぎってやつかな」
「違うわ。父子おやこのつまらない意地の張り合いよ」
 いくぶん腹立たしげに言って足下に視線を落とした純子を、芹沢は一種の共感を覚えながら
見つめた。
「──お兄ちゃんも、いつかはこんな目に遭うって覚悟してたみたいやけど……」
「警官だったら、たいていの連中がしてるよ」
「お兄ちゃん、ああ見えて臆病なのよ。ほら、今年のお正月にサラ金強盗に腕を切られたときも、
あとで結構弱気なこと言うてたもん」
「あのときは俺も足の骨を折ったし──だから、この次もしやられるとしたら、それはきっと
俺だって思ってたんだけど」
「何で?」
「俺は射撃が下手だからさ」
「本当?」
 芹沢は苦笑して頷いた。しかしすぐに顔を曇らせ、俯くと言った。
「──実は、今抱えてる事件の被害者もうちの署に関わりのある人間でね。それでみんな
ちょっと参っちまってる。だからここで鍋島にまでもしものことがあると、相当キツイ話だな
なんて思ったりして……」
「ふうん」
「あ、悪りぃ。縁起でもねえよな」芹沢は慌てて手を振った。
「ううん、芹沢くんの気持ち、あたしにも分かる」
 そう純子は言ってくれたものの、どう考えても失言だったというバツの悪さを拭うことは
できなかった。我ながら、相当こたえているようだ。

 そのとき、さっき純子が来たのと同じ方向から、今度は高野警部補と島崎巡査部長が早足で
やってきた。
 芹沢が振り返ると、二人は神妙な顔をして頷いた。
「どうや、まだ終わりそうにないか?」
 高野が心配そうに訊いた。
「ええ、まだ」と芹沢は立ち上がった。「それで、奴らの方は?」
「あかん。緊急手配の範囲を広げてるんやが、まだ掛かったっていう連絡は入ってない。
この分やと、どっかに潜伏してるな」
「そうですか」
「それより芹沢、おまえに言うとかんならんのは──」
「分かってます。今回は明らかに俺たちの暴走です」芹沢は即答した。
「このままもし奴らに逃げおおせられた場合は、いつでも手帳は返す覚悟です」
「……分かってたらええんや」と高野は溜め息をついた。
「こちらのお嬢さんは?」
 島崎が純子を見て言った。
「鍋島の妹の純子です。兄がいつもお世話になってます」
 純子はぺこりと頭を下げた。
「……ご心配でしょうが、彼を刺した男は必ず逮捕しますから」
「はい」
「ところで取れたぞ、令状」高野が言った。
「そうですか」芹沢の顔に生気が戻ってきた。「じゃあ──」
「ああ。今からガサを掛ける」
「踏み込んだところで奴らはおらんに決まってるが、何か出てくるかも知れん。それでおまえを
迎えに来たんや」
「俺も行っていいんですか?」
「課長はあかんと言うたが、この際人手は一人でも無駄にできんと言うて俺が突っぱねた。
だいいち、ほっといたところでおまえは一人でも動くやろ」
 高野は苦笑した。
「当然です」
 芹沢は頷くと、純子に振り返った。「純子ちゃん、俺は行くけど、ここ一人で大丈夫かい?」
「大丈夫。手術が終わったら連絡するわ」
 純子は気丈に言うと芹沢をじっと見つめた。「芹沢くんも気をつけてね。間違っても
お兄ちゃんのために無理なんてせんといて」
「分かってる」
 そして三人は静かに、しかし足早に廊下を去って行った。
 純子は彼らの後ろ姿をぼんやりと眺めていたが、やがて我に返ったようにくるりと振り返って
手術室の扉を見つめた。




 おとといからねぐらにしている公園の、生い茂った常緑樹のせいで昼間でも薄暗く人気のない
手洗い場で、山口泰典は血のついたシャツを洗いながら全身を駆けめぐる激しい恐怖におののいていた。

 人を刺してしまった。今度は本当に刺してしまった。盗みに入った先で家人に見つかり、
思わずナイフを振り回した三年前とは違って、今度はそれが目的で人に刃物を突きつけたのだ。
しかも、肝心のあの男には何もできず、やったのはあいつの子分と──おそらく警察官。

 警察官は死んだかも知れない。子分を刺したときよりも、はるかに手応えがあったから。
追いかけられて、必死で逃げて、もう恐怖と疲労で足が言うことを聞かなくなって、とうとう
何かにつまづいて倒れたとき、彼はすぐ後ろに警察官の姿が迫ってきているのを視界の一角で
捉えた。咄嗟に「刺せ」と頭の中の自分の声が確かな意志を持って言い切り、それに
衝き動かされたように彼は振り返った。立ち上がると同時にナイフを握り締めた手が前に出て、
先端を警官の太股に突っ込ませた。硬めのチャーシューを切ったみたいな錯覚を覚えた。
 呻き声とも叫び声ともつかない音を漏らし、途端に動きが止まった警官の腹をめがけて、
何の躊躇もなくもう一度刺した。幅三センチ、刃渡り十センチほどのイタリアンナイフの、
その刃の半分以上が相手の身体の中に埋まったような気がする。
目の前で見た警官の顔は一瞬、真っ赤になったがすぐに暗く歪み、そしてなぜだか
分からないが、まるでどこかに忘れ物をしてきたことを思い出したときのようながっかり
した表情になって、
「……ちょっと待てや」と呟いた。
 その意外さに彼は驚き、両手を離してしりもちをついた。後ずさりしようとしたが、腰が
抜けていて動けなかった。
 警官はゆらりと身体を揺らすと一歩だけ前に出たが、そこですとんと両膝をついた。
信じられないことに自分でナイフを抜き、まるでそれ自身が勝手に彼の腹に突き刺さって
きたかのように恨めしげに見つめていたが、引き抜いた後の傷口の痛みに耐えかねてか、
放り投げるようにして手から離したかと思うと、脇腹を押さえてうずくまった。その拍子に、
ボタボタと音を立てるように血が落ちた。

 彼はようやく我に返った。逃げなければならなかったのを思い出した。足もとのナイフを
掴んで、アスファルトから引きちぎるように身体を起こし、一目散に走り出した。

 後ろを振り返りたくなかった。もしそうしたら、またあの警官が追いかけてきているのを
見てしまうような気がしたからだ。
 もしもあの警官が、自分の知っている警官と同じ種類の人間だったら、それはもう間違い
なく彼が逃げられないということなのだった。肝の据わった警官ほど強くて、恐ろしいものは
ない。こちらがどんな手で太刀打ちしようと、それはすべて無駄なのだ。彼はそれを知っていた。
三年前までは分からなかったが、その後つくづく思い知らされた。
 杉原信一という警官によって、彼は警察官に対するそれまでの甘い思い込みを捨てざるを
得なくなったのである。

 気のせいかも知れないが、あの警官も杉原と同じ匂いがしたのだ。

 彼は無心でシャツを洗った。返り血はなかなか落ちなかったが、それでもやめようとしなかった。何かに没頭していなければ自分が壊れてしまいそうで怖かったのもあったが、それよりも
ただ純粋に、あの警官の血を落としてしまいたかったのだ。

 そのうち、彼は泣き出した。












ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう