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ロング・ウェイ・ホーム
作:みはる



第四章 その2



 2

 そして、とうとう接点が見つかった。
 翌朝の捜査会議で、山口と河村の所属していた暴走族グループが同じだったことが報告
された。十四歳の山口が身を置くようになったときは二十六歳の河村はすでにグループの
リーダーを引退していたが、依然幹部OBとしてグループに影響力を持ち、現役幹部たちの
面倒をみていた。実際、現在の河村の取り巻き連中の一人は、山口がグループに所属して
いた頃のリーダーである。

 山口が少年院を出て原田のもとで暮らし始めた頃、『元今飯店』に山口を訪ねてきたのも
そのグループの仲間だったと思われた。まだはっきりとは特定できていないが、そのとき、
山口とその連中の話を原田が聞いていて、どうやら暴走族仲間らしいと思ったと原田は
記憶していたのだ。心配した原田が杉原に連絡を取り、杉原はすぐに話をつけた。おかげで
連中の訪問はそれきりだった。

 会議のあと、鍋島と芹沢は『元今飯店』に原田を訪ねた。河村忠広の取り巻き連中の三人の
身元が判明したため、河村の写真とともに確認を取るためだった。

 開店前の多忙な時間だったにもかかわらず、原田は嫌な顔ひとつせずに二人を迎えて入れて
くれた。
「──早速ですが、原田さん。泰典くんを訪ねて来た昔の仲間というのが、この中にいませんか?」
 仕込みで厨房を離れられない原田に、カウンター席から取り巻き連中の写真を差し出して
芹沢は言った。
「ちょっと拝見」
 原田は手を洗うと写真を受け取った。そして三枚の写真を一目見た瞬間に言った。
「もうちょっと若い連中でしたよ。泰典と同じくらいの」
「じゃあ違いますか」
「あ、でも」と原田はそのうちの一枚を見つめた。「この男には見覚えがあります」
「どの男です?」
「この男です」
 原田はその一枚を刑事たちに向けた。三人のうち一番年上の、岸田きしだという三十歳の男だった。
「ここへ来たことがある、ということですか?」
「ええ。客としてね。……春頃やったかな。また別の男と一緒に、あそこの 隅っこの席に
着いて普通に食事してました。特に何も言いませんでしたが、泰典がちょっと動揺していた
ようなので気になって、あとで誰なのか訊いたのを覚えています。泰典は知らないと
言いましたけど」
「そっちの二人とは違うんですね?」
「違います。この男と同じくらいか、少し年上のようでした」
 原田は言うと三枚の写真を芹沢に返してきた。
「ひょっとして、この男ですか」
 今度は鍋島が河村の写真を出した。原田は受け取った。
「──ええ、そうです。この男です」
「間違いありませんか?」
「……うん、ええ、はい。間違いありません」
 鍋島に写真を返し、原田はまた手を洗うと中華包丁を持ち直して言った。
「やっぱり、その連中も仲間やったんですか」
「ええ、まあ」
 二人の刑事はどちらからともなく顔を見合わせた。これで完全に山口と河村のつながりが
確認できたのだ。山口を訪ねて昔の仲間が店に来た。杉原がその連中を追い払ったあと、
しばらくして河村が子分を連れて現れた。山口は動揺した。そしてきっと、もう一度杉原に
相談したに違いない。

 そんな推測を巡らしている二人に、仕込みに戻っていた原田が突然思いついたように顔を
上げ、そして驚くべきことを言った。
「──そうや。確かそのとき、杉原さんご夫妻も来られてたな」




 大教室は学生でいっぱいだった。麗子が後期から受け持ったこの講義は、前期は別の
助教授が担当していた。その頃はこの教室にこれほどの学生が出席したことなどほとんど
無く、あったとしても四月の一週目の講義か、前期試験の直前の週くらいのものだったろう。
しかも、今日は八割近くが男子学生だった。もともと男子の多い学部ではあったが、麗子の
講義はやはり男子に人気が高かった。

 数日ぶりに教壇に立って、麗子は調子を取り戻すのに内心では緊張していた。
 しかし一方では、改めて若い学生たちを前にして、圧倒されそうなまでの清々しさを
感じてもいた。
「──今日はこの辺で終わりにします。ちょっと急いでしまいましたが、何か質問は?」
 麗子はテキストを閉じ、眼鏡のフレームを少し上げて階段状になった座席の学生たちを
見渡した。
「先生」
 最前列に座っていた学生が手を肩のあたりまで挙げた。
「はい、どうぞ」
「前回の司法試験では、今日の講義の最初のところの──」
「私は大学で講義をしているのです。司法試験の受験校で教えているのではありません」
 麗子は学生の言葉を冷たく遮った。「他には?」
「センセーイ、先生は学生の頃何度もモデルのスカウトを断ったっていうのはホントですかぁ?」
 陽に灼けた茶髪の軟派学生が大声で言った。教室が笑いの混じった話し声でざわめいた。
麗子は溜め息をついて眼鏡を外し、テキストを閉じると大きな鞄を教壇の前に置いて言った。
「……もういいわ。本当に質問のある人は、あとで私の部屋に来て下さい。じゃ、これで
おしまい」
 学生たちはそれぞれに話しながらぞろぞろと出入口に集まり、やがて出て行った。

麗子は黒板に書いた自分の字をひとときのあいだ眺めると、黒板消しを取ってゆっくりと
消し始めた。休み明けの最初の講義が一番心配だった彼女にとって、やっとリラックスした
気分になれたような気がした。
「麗子」
 名前を呼ばれて、麗子は振り返った。眼鏡を外していたのですぐには声の主を見つける
ことが出来なかったが、最後列の座席のそばで、紺ブレにジーンズをはき、ヴィトンの
ショルダーを肩に掛けた女子学生が立っているのがぼんやりと見えた。
「誰……?」
「麗子、あたし……」
 女子学生はその場から動かずに言った。麗子は眼鏡を掛け直し、顔を上げた。
 女子学生だと思っていた人物は、実は真澄だった。


 研究室に真澄を招き入れ、麗子はコーヒーの準備をした。
「今の講義、ずっと出てたの?」
 部屋の三分の一近くを占領しているデスクの前を行ったり来たりしながら、麗子は
照れ臭そうに訊いた。
「終わりの二十分ほど」とソファに腰掛けた真澄は頷いた。「でも、何のことか全然
解らへんかったけど」
「学生たちだってよく解ってないんじゃない」
「でもスカウトの話なんてよう知ってるね。やっぱり麗子は人気があるんやね」
「先生なんて呼ばれてたって、結局この歳でしょ。学生たちと六、七年しか違わないのよね。
ナメられてるのよ」
 麗子は憤慨したように言ったが、すぐに小さく首を傾げた。「仕方ないか。しょせんは
まだ人に教えるような器じゃないってことよ」
「そんな──」
 真澄は困ったように溜め息をつくと、足下に視線を落としてぽつりと呟いた。
「……この前はほんまにごめんね」
 腕組みしてデスクにもたれかかっていた麗子は、片方の手を天井にかざすように上向けると
言った。
「あんたから先にそう言われると困っちゃうわ」
「麗子……」
「謝らなきゃならないのはあたしの方よ。男に捨てられてヤケになってたのね。それに免じて
許してくれる?」
 真澄は大きく頷くと、安心したような笑顔を見せた。

 コーヒーが入って、二人はまたもとの姉妹のような仲の良さに戻って楽しくお喋りをした。 途中、一人の学生が質問に訪れ、麗子は丁寧に、しかも的確にそれに答えていた。それを
見た真澄は、やはり麗子には若くして人気講師になるだけの実力があるのだろうと思った。

「──ところで、話は変わるけど」
 学生を帰したあと、麗子は真澄に言った。「あんたはどうするの?」
「どうするって、何を?」
「勝也のことよ」
「勝ちゃんの……」
「自分のことが駄目になったからってわけじゃないけど、あんたたち、このままじゃいつまで
たっても平行線よ」
「……うん」
 麗子は立ち上がってコーヒーのおかわりを入れに行った。「勝也もあんたの気持ちには
気づいてるわよ」
「そんなことないわ。やめてよ麗子」
 真澄はこの前の鍋島の態度を思い出して言った。
「だって真澄は何かって言うと『勝ちゃん、勝ちゃん』だもの。いくら鈍い勝也だって
分かるわよ」
 麗子はデスクの椅子に座ると肘を突き、したり顔で真澄を見つめた。
「──あんた、あたしと喧嘩したあとも勝也のところへ行ったでしょ?」
「……勝ちゃんが何か言うてた?」
「ううん。実は昨日、勝也の相棒──芹沢っていったっけ?彼に偶然会ったのよ。そしたら
彼が、あんたが勝也のところへ来たって言ってたから。でもそれだけよ」
 真澄は不安げな表情で麗子を見た。
「麗子、勝ちゃんのことどう思う?」
「どう思うって、あたしが?」
「麗子は勝ちゃんとつき合い長いから。あたしなんかよりずっと」
「いいヤツよ」
「それだけ?」
「それだけって──それで充分だもの。あたしにとっては」
 麗子は肩をすくめた。
「そうよね」
 真澄は俯いて考えていたが、やがて何かを決心したかのように麗子を見据えて言った。
「ねえ、勝ちゃんがつき合ってた女の子ってどんな人?」
「どんなって、誰のこと?」
「しらばっくれちゃって」
「ごめんごめん。でも、何人かいたわよ」麗子は煙草に火を点けた。
「そこやねん、引っかかってるのは。勝ちゃんて、彼女ができてもあんまり長続きしいひん
って、前に自分で言うてはったわ。むしろ最近では彼女のいない時期の方が長いって」
「まあ、ね……」と麗子は言いにくそうに頷いた。「確かに、あいつにはそういうところが
あるけど──でも、最初からってわけじゃないのよ。それはあいつの名誉のためにも言って
おくわ」
「というのは?」
「……あいつにはね、浪人時代から三年半つき合ってた彼女がいたの。同じ予備校に通ってた、
ひとつ年下の現役コースの女の子よ」
 麗子は灰を落とした。「三回生の冬だったかな。その子が短大を卒業して半年ちょっと
経った頃よ。親の薦める相手とお見合いさせられて──結婚を迷ってるって言ってきたのよ」
「勝ちゃんがいるのに?」
「もちろん、その子も勝也の方が好きだったのよ。勝也もそれが分かってたし、何とか
思いとどまらせようとしたわ。でも、大学生の勝也に何ができると思う? あいつだけじゃ
なくて、みんなまだヒヨッコだった頃よ。その上、あいつはあの通りの優柔不断でしょ」
 真澄は黙って麗子の話すのを聞いていた。
「結局、勝也は彼女に何も言えなかった。なまじ大切に思ってたから、自分なりに彼女の
幸せを考えたのよ。でも本当は、たとえ何も約束できなくても、結婚するなって言うべき
だったのに。彼女もそんな勝也を見て、責めることなくお見合い相手と婚約したわ。彼女にも
勝也の気持ちが分かってたのね。だから何も言わなかった」
「……そう」
「そのあとあいつ、そりゃあひどく落ち込んでね。本当はどうするべきだったか、彼女が
どんな言葉を待ってたか、それが分かってたから。あたしも最初はあいつを卑怯だって
責めたけど、すぐに何も言えなくなったわ。言えないっていうより──近寄れない感じ。
それからよ。あいつが誰とつき合ってもあまり長続きしなくなったのは」
 麗子は顔をしかめて煙草を消した。「辛かったんだろうけど──七年も経ったのに、
あいつったらまだ引きずってるのかしらね」
「……あたしなんかではあかんわ」
 真澄はすっかり自信喪失して言った。
「さあ、それは分からないわよ」
「ううん、あかんわ」
 麗子はそんな真澄を見て溜め息をついた。
「さっきも言ったとおり、勝也は自分のこととなるとほんとに優柔不断な奴だから。真澄、
あんたから積極的に行かなきゃ」
「……それができたら苦労せえへんわ」
 真澄も大きく息を吐いた。



「──ハックション!……誰か俺の噂してるな。モテる男は辛いねぇ」
 効きの悪いヒーターのせいで車外とさして変わらない冷たいセダンの助手席で、鍋島は
半ばヤケになって言った。
「……そういうこと言ってろ。誰がおまえの噂なんかするかよ。せいぜい課長ってとこだ」
 運転していた芹沢は言った。
「分からんぞ。総務のマミちゃんとか会計課のチエちゃんなんか、俺に気ィあるって感じや」
「何言ってんだ。マミちゃんは俺だぜ」
「……え、ということは、まさか」
 鍋島が振り返ると、芹沢は意味ありげな眼差しを向けてにやりと笑った。
「……呆れるわ」鍋島は溜め息をついて首を振った。
「据え膳食わぬは何とかって言うじゃねえか。人生一度きりだし、愉しまねえとな」
「そのうち痛い目に遭うぞ」
「俺はそんなヘタは打たねえよ」
 鍋島は面白くなさそうに芹沢を睨むと、Gジャンの胸ポケットから煙草を出して口に
挟んだ。

「──けどよ。河村の取り巻き連中が山口のところに現れたのは、山口がシャバに出て来た
去年の春頃だろ。そのときは杉原さんが話をつけて、すぐに連中は来なくなった。それから
一年も経ってから、何で河村はまた店に来たんだろ」
 芹沢は話題を変えた。
「山口を仲間に引きずり込むのを諦めてなかった、ってことやろ」
「でも一年も経ってからだぜ。しかも結局、ただの客を装って山口には何も言わなかった。
それはどうしてだと思う? 杉原さんがいたからか?」
「そうやろな」と鍋島は煙を吐いた。「事を慎重に運ぶためには、刑事のいる前で接触する
のはまずいと思たんやろ」
「そこまでして増やさなきゃならねえ仲間って、何の仲間だ」
「クラブの仕事はちゃんと従業員がいるんやから、それではないやろ。まさか同窓会やる
ために仲間を集めてるなんてはずもないし」
「杉原さんはその内容を知ってたんだろうな」
「ああ。先に知ってたか、あとから聞いたかは分からんけど。それで連中にやられたんや。
長沢辰雄が駐車場で目撃した二人組──最初に隠れるみたいにして潜んでたって言う──
あれは杉原さんと山口とみて間違いないで」
「けど、そこまでやる理由があるか?連中の犯罪の証拠か何かをつかんでるなら、刑事として
摘発すればいいことだろ。非番の日に素人の山口と二人でコソコソやることじゃねえ」
「表沙汰にできひん何かがあった、ということかも」
「例えば何だ」
「例えば──」
 そう言って鍋島は灰皿を引き出して煙草を消した。「姉ちゃんが関係してそうや」
「山口紫乃ね」
「ああ。弟とほぼ同時に姿を消してる。そのこと自体は、この一件と関係があるのは
間違いない」
「看護婦の同僚たちが何か知ってると思うか?」
「いや、思わん」
「──それでも行くしかないか」と芹沢は溜め息をついた。「おまけに、この渋滞だ」
「飛ばしたかったら、パトライト使おか」
 鍋島は悪戯好きの子供のような眼で芹沢を見て、ニタッと笑った。
「警察稼業の醍醐味や」
「──ひょっとして、おまえも『太陽にほえろ!』観てたクチか?」
「いや、『西部警察』や」

 楠田病院の看護師寮は、JR片町線の鴫野駅から北東へ五分ほど歩いたところにあった。
 こぢんまりとした瀟洒しょうしゃな三階建ての単身者用マンションで、セキュリティもしっかり
していた。各階に四つの部屋があり、中央にある吹き抜けの小さな中庭を囲むようにして
並んでいる。その分だけ各部屋の独立性も高くなっているようだ。入居するのが全員女性で
あることと、勤務時間が不規則な職種であることを病院側がきちんと考えてここを選んだ
ということが伝わってくる、現代女性の寮としては理想的な住まいだった。
 黒瀬看護師長は「小さなアパートを借り上げただけ」と言っていたが、彼女はよほどの
豪邸にでも住んでいるのだろうかと芹沢は思った。

 事前に連絡を入れておいたので、寮で一番古株の看護師が中へ入れてくれた。入居している
十二人のうち五人が在室しており、二人はその一人一人について一階から順に部屋を訪れて
紫乃の最近の様子や突然の失踪の心当たりなどを聞いて廻った。

 そこで出て来たのは、近頃の紫乃の“奇行”にまつわる話だった。

 ここひと月ほどの間にそれは現れ始めた。最初は簡単なミスから始まり、そのうち真面目で
穏やかな今までの彼女からはとても想像のつかないような行動をとるようになってきたと
言う。夜勤でもないのに夜中に病棟に現れ、一時間ほどてきぱき働いたかと思うと突然何かの
きっかけで機嫌を損ねて、ぷいっと帰ってしまう。あるいは勤務時間中に入院している
妊産婦と涙を流しながら話し込み、そのあとの仕事が手につかなくなる。そして極めつけは、
医師に対する横着なまでの馴れ馴れしさ。それは患者たちの間でも不快な光景として囁かれ
始めていたようだ。
 これらの“奇行”に出るときの彼女は、ひとことで言うと情緒不安定の状態で、同僚たちは
彼女に何か深刻な悩みがあるのに違いないと考え、何度となく聞き出そうとしたが、彼女は
その都度何もないと言って笑顔を見せるだけだったそうだ。
 しかし紫乃の現在の行方については、どの看護師も反応は鈍かった。 それはつまり、病院が
このマンションを寮として選んださっきの理由がそのまま影響しているからだと思われた。
 最上階の一室に最後の看護婦を訪ねた二人は、彼女からも同じような 話を聞いた。ただし
彼女は、毎日紫乃の部屋のチャイムを押して紫乃が戻ってきているかどうかを確認しており、
最後にその確認をしたのはゆうべ彼女が夜勤明けで帰ってきた時だったと言う。しかし
相変わらず部屋には鍵が掛かっていて、外から伺う限りにおいては中には人の気配がなかった
そうだ。

 そのあと二人は山口紫乃の部屋の前に立った。エレベーターを降りて ちょうど右側奥に
あるその部屋は、そこに用のある人間以外がドアの前を通ることはないはずの配置になって
いた。さっきの看護師の部屋はその手前で、彼女はエレベーターを降りると自分の部屋の前を
通り過ぎて紫乃の部屋まで確認しに行っていたことになる。

 二人は何気なく顔を見合わせると咳払いをした。
「──さっきの彼女、何時頃確認したって言ってた」
 芹沢は小声で言った。
「夜中の一時」
「それから自分の部屋に戻って、風呂入って寝たんだったな」
「ああ。ほんでつい三十分前までは熟睡や」
「──十一時間半ってとこか」
 芹沢は腕時計を見ながら呟き、反対の手でドアノブを握るとゆっくりと捻った。
 するとその手は確かに回転した。
「……ほら。開いてるぜ」
 鍋島は芹沢の手をじっと見つめていた。「うん」
「拳銃、持ってる?」
「もちろん」と鍋島は力強く頷いた。「銃弾たま入ってへんけどな」
「大門軍団としたことが、どうしちゃったんだ」
 芹沢はゆっくりとドアを開けた。すぐ脇の壁に背をつけて立った鍋島は左の懐に手を入れて
中の気配に神経を集中させた。 一帖ほどの小さな玄関には造り付けの下駄箱と細長い
ステンレス製の傘立てがあった。靴は出ておらず、傘も綺麗に整えられたブランド物が一本
入っているだけだった。すぐ正面に磨りガラスのはめられた引き戸があり、その奥に
ダイニングキッチンとフローリングの洋間の二部屋、そしてトイレなどの水周りがあることは
他の部屋を巡った後なので分かっていた。
「山口さん、いらっしゃらないんですか?」
 芹沢は声を張って言い、開いたドアをノックした。中からは何の応答もなかった。
「お留守ですか? 中に入らせてもらいますよ」
 芹沢は言いながら部屋の中に入ってガラス戸を開けた。
 部屋は明らかに荒らされたと分かる散らかりようだった。キッチンの戸棚の扉が開き、
数枚の皿がその下で割れていた。
 ダイニングテーブルの一輪挿しが倒れて水が零れ、椅子も一つはひっくり返っている。
その横に小ぶりのフライパンが落ちていた。
「……新手の引越屋でも来てたか」
 芹沢の後に続いていた鍋島が言った。
「それともちょっとはしゃぎ過ぎのパーティーの後か」
 芹沢もそれに答える。
「奥の部屋はどうや」
 鍋島は部屋に上がると、拳銃を持ったまま奥の部屋への戸を開けた。
 そこも同様に荒らされており、むしろダイニングよりもひどかった。ドレッサーの前に
ぶちまけられた化粧道具が特に目を引いた。鮮やかなピンクのマニキュアが鏡を汚し、
ファンデーションやアイシャドウの粉が椅子に散りばめられている。その横のハンガーに
掛かった洋服にも飛び散っていた。泥棒が入ったというより、激しい争いのあとなのは
明らかで、ベッドの脇には血痕らしき汚れが二、三箇所目落ちている。開け放した窓から
吹き込む風が厚手のカーテンを揺らしていた。
「鍋島」
 鍋島が振り返ると、ダイニングから顔を出した芹沢が、手にした携帯電話でどこかへの
ダイヤルを押しながらこっちへ来るようにと目で合図をした。スーツの上着が濡れていた。
「何や」
「いた。風呂場だ」
 芹沢は流し台のすぐ横にある小さなドアを親指で示した。
「死んでるんか」
「いや、死ぬにゃまだ時間はありそうだ」
 芹沢は言うと電話を耳に当てた。「杉原さんと同じだ」
 鍋島は芹沢が示したドアに近づいて、ゆっくりと開けた。後ろで芹沢が繋がった電話の
相手に救急車を呼ぶように言っていた。
 中の浴室に、山口紫乃はいた。びしょ濡れで、着ているのはキャミソール一枚、それも
肩紐の一本がちぎれている。浴槽にもたれかかるようにして膝をたたんで横たわり、全身には
無数の傷。首を壁の方に傾け、顔の右半分はよく見えない。そしてその顔を集中的に殴られた
ようで、左目は腫れ上がった頬と瞼の間に陥没していた。湯船に三分の二ほど溜められた水が
薄いピンク色に染まっているところを見ると、彼女がそこに入っていたことが分かる。
芹沢が彼女を引き揚げたのだろう。だからスーツが濡れていたのだ。
 鍋島は無表情で紫乃を見下ろしていたが、やがて静かに拳銃をホルスターにしまうと
Gジャンを脱ぎながら言った。
「何か着せてやらんと。男二人に見せられる格好やない」
「ああ」
 電話を終えた芹沢も上着を脱いだ。












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