第三章 その5
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時計はすでに八時半を過ぎており、二階の貸付課で残っている行員といえば萩原と上司の
斉藤課長、それに一課の山本だけだった。萩原は青山という渉外課の新人が取引先から
帰ってくるのを待ちながら、果たして今日は何時になればここから出られるのだろうかと
考えていた。
電話の内線のブザーが鳴った。萩原はボタンを押して受話器を取った。
「貸付二課です」
「萩原係長?」青山の声だった。
「青山くん?ちょうど良かった、ちょっと上がってきてほしいんやけど。例の新規の件で」
「ええ、でも、その前に……お客さんなんです」
「あ、そう、ほなそれ終わったら頼む」
「いえ、係長にお客さんが来られてるんです」
「俺に?」こんな時間に誰だろうと萩原は思った。「誰?」
「日下さんとおっしゃる方です」
「えっ?」と思わず萩原は声を上げた。
「……お忙しければ、帰っていただきましょうか?」
青山は少し弱気な声を出した。入行二年目で、しかもこの春から外回りを始めたばかりの
彼は、まだ未熟な融資に関して何かと迷惑を掛けている萩原に気を使っているようだった。
「いや、すぐ下りるよ。待たせといて」
「分かりました」
緩めたネクタイを締め直しながら、萩原は一階へと下りて行った。
窓のシャッターがおり、ほとんどの行員が帰った後の広々としたフロアを彼は見渡した。
すると、ちょうど彼の前方にある通用口のドアの前に、薄手のハーフ・コートを着た智子と、
黒いベルベットのワンピースに真っ白のフェザー・ジャケット姿の美雪が立っていた。
「パパァ!」
萩原を見つけた美雪が智子から手を離し、一目散に駆け寄ってきた。
「美雪」
萩原はしゃがんで、飛び込んでくる美雪を抱き留めた。そして左腕で彼女を抱き上げると、
フロアにいてこちらを見ている二、三人の行員に向かって愛想笑いを浮かべた。
「娘さんか」
中央のデスクにいた預金課長が微笑んで言った。
「ええ。俺に似ず可愛いでしょ」
そして萩原はゆっくりと智子に近づいて行った。先日会ったばかりの二人がわずか数日で
訪問してきたことに驚いていたし、動揺さえしていた。この前、自分が突然美雪を引き取り
たいと言い出して口論になったことと何か関係があるのだろうかと思い巡らせた。
「ごめんなさい、突然」
智子は小声で言った。
「いや、構へんよ。わざわざ出てきたんか?」
「いいえ。食事に出てきたんやけど……美雪が急にあなたに会いたいって言いだして聞かへんの」
「美雪、どうしたんや」萩原は美雪を見て嬉しそうに笑った。「この前もパパと会うたやんか」
「だって、会いたいもん」
「美雪、パパお仕事中なのよ。もう抱っこしてもらったからええでしょ? 帰ろうね」
美雪の顔を覗き込み、智子は言い聞かせるように言った。
「いや!いや!」
美雪は足をバタバタと動かして叫んだ。目にはうっすらと涙を浮かべていた。
その表情を見て、萩原は美雪がいつになく強情になっているのが気になった。もともと
頑固な子だったが、普段逢うときは、別れ際にこんなに駄々をこねたことはなかった。いったい
今日はどうしたのだろうと不思議に思った。
「この調子なのよ。それであたしも困り果てて……迷惑なのを承知でここへ」
「そうか」
萩原は美雪を抱いたままで腕時計を見た。
「あの、係長」
青山に声を掛けられ、萩原は振り返った。
「僕──まだちょっと別の仕事がありますから、係長、良かったらお嬢さんと一緒にいて
あげて下さい」
「え、でも」
「本当に。ね?」と青山はにっこり笑った。
「……悪いな。ほな、三十分したら戻ってくるから」
「ええ。ごゆっくり」
銀行を出た萩原は、智子に食事を誘った。しかし智子は自分も美雪も済んでいると答え、
自分は遠慮するから美雪を連れて食事を摂るようにと萩原に勧めた。そして三十分後にこの
通用門の前で落ち合う約束をして別れた。
食事をしながら、萩原は美雪との不意の晩餐を喜びながらも、一方では戸惑っていた。
そして先日あんな別れ方をしたにもかかわらず、智子はどうして自分と美雪を二人にして
くれたのだろうかと考えた。
「パパ」
プリンを口一杯に頬張った美雪が言った。
「ん?」
萩原は美雪の口許についたプリンを指で拭いながら返事をした。
「パパはさあ、なんで美雪やママと一緒のお家にいないの?」
とうとう来たか、と萩原は思った。美雪と永遠に逢わなくならない限り、いつかは彼女に
この質問を投げ掛けられるだろうと覚悟していた。しかし、その答えをどう彼女に話して
聞かせるかは、まだ彼の中で用意できないでいたのだ。
「……パパはお仕事が忙しくて、美雪と一緒にいてあげられへんからなんや」
萩原は苦し紛れの返事をした。
「ふうん?」と美雪は首を傾げた。「でも、ママもお仕事してるよ」
「……そやな」
「ママはね、『ママとパパが喧嘩したから』って言うてた」
「そうか」と萩原は頷いた。「パパはママのこと大切にせぇへんかったから、ママを怒らせて
しもたんや」
美雪は大きな瞳で萩原を見つめていた。身勝手な大人の嘘は厳しく見抜いてやろうとでも
言わんばかりの強気な眉を見て、萩原は本当に自分に似ているなと思った。
「だから、もうすぐ新しいパパのところへ行くの?」
「え?」と萩原は耳を疑った。「新しいパパ?」
「ママがそう言うてたよ。美雪とママで、新しいパパのところへ行くって」
「……ほんまか」
萩原は相手が美雪であるのを忘れ、深刻な顔つきで呟いた。
「ほんと。でね、今日、新しいパパっていうおじさんに会ったの」
そう言うと美雪は俯いて目をぱちぱちと瞬かせた。
「……美雪、もうパパに会えへんようになるの?」
──そうか。そう言うことやったんか。それで美雪は突然俺に会いたいと言いだしたのか。
「そんなことはさせへんよ」と萩原は強く言った。「美雪、もう食べられた?」
「うん」
「ほな、もう行こう。あんまり遅くなると美雪は眠くなるやろ?」
美雪は頷いて椅子から降りた。そしてにっこりと笑って萩原を見た。萩原もつられて笑い、
立ち上がると彼女の手を取った。
「美雪はねぇ、新しいパパよりパパの方が好き」
絶対にこの娘を知らない男に渡してなるものかと萩原は思った。無意識に伝票を持つ手に
力が入っていた。
銀行に戻った萩原は、通用口の前に立ってこちらを見つめている智子を見つけ、黙って
近寄っていった。
智子も彼らに向かって二、三歩足を進めたが、怖い顔をした萩原を見ると思わず立ち止まった。
智子の前まで来ると、萩原は低い声で言った。
「……随分なことやってくれるやないか。子供に言わせるなんて」
「何のこと?」
「おまえがどんな男と結婚しようと、俺にはどうこう言う権利なんてない。けど、その相手が
美雪の父親となる以上、話は別や」
智子も萩原の言葉の意味が分かったのか、溜め息をついて言った。
「どうしろって言うの。あたしの夫になるっていうことは、この娘の父親になるっていうこと
なのよ」
「俺は絶対に許さへんぞ」
「何を?」
「この前言うたこと、これではっきりと決心がついた。俺はこの娘を引き取る」
「それは断ったはずよ」
「今はこの娘の前や。これ以上の議論はやめとこう」
そう言うと萩原は美雪からそっと手を離し、早足で通用口に向かった。
「待って」と智子は萩原に駆け寄った。「……この娘は何て言うてるの?」
萩原は振り返ると、冷たい視線を智子に向けて言った。
「自分で訊くんやな」
重い鉄のドアが閉まり、智子と美雪は暗い舗道に取り残された。
彼女は約束の五分前に、その場所に来た。
十一月初めの大阪は夜になってもまだそれほど冷えてはいなかった。
それでも彼女は高価そうな黄金色の毛皮のハーフ・コートを羽織り、中には目の醒める
ような赤いワンピースを着ていた。エナメルのパンプスと爪の色も同じ赤で、左手には
シャネルのバッグを持っていた。
決して自分の趣味ではなかった。しかし黙って相手の好みに合わせることが、残された道を
探るためには必要なのだと自分に言い聞かせ、言われるがままの洋服に腕を通した。
駅の周りはいつもの夜の賑わいがそろそろ静まってきた頃で、これからは泥酔者と浮浪者、
そして犯罪者がこの街の主役にのし上がってくる時間だった。
彼女は腕時計を覗いた。午前一時だった。一瞬静かになった駅の構内から、電車の出発を
告げる笛の音が聞こえてきた。どこかへの最終電車だろうかと彼女は思った。
突然、背後から肩を叩かれた。彼女は一瞬びくっとしたが、すぐに笑顔を造って振り返った。
そのとき、茶色に染めたウェーヴのロング・ヘアーが大きく広がった。
「待ったか」
立っていた男は低い声で言った。
「い、いえ ──少しだけです」
彼女は男の不気味な声に少し怯えたが、すぐに気を持ち直し、自分も声を低くして言った。
「……持ってきていただけましたか」
「ああ。俺が忘れたことがあるか?」
「いえ、それならええんです」と彼女は俯いた。「それで──どこへ行きますか」
男は黙って前の大通りにかかる横断歩道に向かって歩き始めた。彼女はその後を追い、
素早く男の腕を取って自分の手を回した。
「あ、あの……どこへ 」
男は立ち止まり、彼女の顔を見下ろした。青白い白目が暗い夜空に光ったように見えた。
やがて男はゆっくりと言った。
「──今、それを知ってどうする?」
「あ、いえ別に」
「誰かに知らせたいのか?」
「いいえ。誰にも」
彼女は勤めて平静を装いながらまた造り笑顔を見せた。
左目尻の泣きぼくろが哀しげで、妙に色っぽかった。
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