第三章 その4
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午後になって、鍋島は一人で杉原信一が収容されている病院を訪れた。事件発生当日の朝に
杉原の妻を伴って来て以来の訪問だった。
杉原の容態に変化はないのは毎日の課長からの報告で知っていたし、わざわざ行った
ところで杉原自身とは話せるわけでもなく、したがって何らかの事実が判明することなどは
期待できなかったのだが、それでも鍋島は病院に行くことにした。一度、ちゃんと杉原を
見舞いたいと思ったのだ。こんな風に思うのは、今までの事件ではなかったことだ。やはり、
被害に遭ったのが身内であるという特別な事情が彼を病院に向かわせたのかも知れなかった。
それより少し前、タツという男から鍋島に連絡が入った。四日前に心斎橋のラーメン屋で
川辺明美の男性関係を探るように依頼した、あの男だ。鍋島は病院で落ち合うことにした。
芹沢がこの前の売人の一件で検察庁に行ったきりしばらく帰って来そうになかったので、
タイミングとしてはちょうど良かった。
タツは鍋島の情報屋で、本名を龍川と言った。歳は鍋島より三つ四つ上で、ミナミの
キャバクラで用心棒のような仕事をしながら、パチンコでも同じくらいの収入を得ている。
鍋島とは、酔っ払って堂島のブティックのショウ・ウィンドウを壊し、店員に怪我を負わせて
逮捕されたときからのつき合いで、彼は鍋島のどう見ても警官らしくないところが気に入った
のだ。
それ以来、タツは頼まれもしないのに自分が仕入れたミナミの裏情報を鍋島の耳に入れる
ようになった。鍋島は最初、情報提供者と言えば聞こえはいいが、しょせんは密告者、スパイ
であり、そんなものを抱えるのは自分の性分に合わないと思って相手にしなかった。しかし、
大阪府下全域を管轄とする本部の捜査員とは違って、一所轄署の刑事にすぎない鍋島に
とっては、なにぶんミナミは管轄外である。普通に捜査するにはたいして支障はないが、
少し脇道にそれて情報収集する場合などは、そのためにいちいち所轄署に話を通すのも面倒
だし、かと言ってそれをせずに調べてまわるとなると、途端にやりにくくなるのが堅気の世界
と違うところだ。警察もどこかと同じで、縄張りがものを言う社会なのだ。強行犯係の刑事
としての経験を積むにつれてそのことを実感した鍋島は、いつの間にか情報屋としてのタツの
存在を受け入れることに抵抗を感じなくなっていた。
いろいろな材質と長さの管やコードで繋がれた杉原をICU室のガラス越しに眺めたあと、
鍋島は一階のメインロビーに下りて来た。
タツは処方された薬の引き渡し窓口の前に並んだ長椅子の一つに座っていた。どこか具合の
悪い患者を装ってか、大きな背中を丸めてかがみ込むように腕を組んでいる。ご丁寧にも
大きなマスクまで着けていた。
鍋島が近づくと、頭を下げて場所を空けた。患者仲間の関係を演じているつもりらしい。
腰を下ろした鍋島が長椅子脇のマガジンラックから取った週刊誌を広げてすぐ、タツはその
誌面の上に一枚の写真を置いた。
写真には高級外車から出てきたところの一人の男が写っていた。
「──河村忠広。門真出身の三十二歳。新歌舞伎座の近所で若い子向けの『クラブ』
っちゅうのをやってる男ですわ」
「ヤクザやないんか」
「違うね。気の荒い若いのをはべらしてるとこなんか、それっぽいけど。というのも、十年ほど
前まで大阪の北部一帯をまとめてた走り屋のヘッドやった」
「族あがりか」
鍋島は写真を手に取った。仕立ての良さそうなスーツに身を包み、長めの髪を自然な
ウェーヴに流して格好つけてはいるが、言われてみれば顔つきはもろにヤンキーだ。
「親父がちっちゃい不動産屋やってたんやが、かつてのバブルでそこそこ懐温まったらしい。
新大阪あたりの箱庭みたいな土地にビル建てて、この息子に任せた。そしたら意外にも息子は
商才を発揮してな。ビデオレンタルやらテレクラやら、なんやしょーもない店ばっかりやった
けど、これが当たった」
「ふうん」
「それから十年ほどの間に次々と店を出して、全部そこそこ軌道に乗せてる。ゲーセン、
カラオケボックス、最後に今のクラブや。鍋島さん、クラブって知ってました?」
「昔で言うディスコやろ。有名なDJがいたりする」
「そう。それ」とタツは意外そうに鍋島を見た。「案外ちゃんと知ってるんやな」
「かろうじてまだ二十代やからな」
「せやけどまぁ、ディスコみたいなとこって言うたら、裏ではいろいろありそうや」
「せやな。おんなじ子供の溜まり場というても、カラオケやらゲーセンとは違うか」
そう言いながら鍋島は頭の中で考えた。子供の溜まり場。少年課の刑事。漠然とでは
あるが、一応は繋がる。
「明美はクラブの客ですわ。店の女の子連れて来て、派手に遊んでくれる。その中で一番
年増は明美やけど、前も言うたみたいに気のええ女ですし。自分とこの若い連中の面倒見も
良かったんで、同じように親分肌の河村は気に入ったらしい」
「レディースのトップに通じるとこあるんとちゃうか」
と鍋島は小さく笑った。「走り屋やってたころの前科は?」
「そんなん知らんがな。そっちで調べなはれ」とタツは迷惑顔で鍋島を見た。
「そらそうやな」
「ただ、若い連中はほとんどが鑑別所か少年院経験者みたいですよ」
「へえ」
ということは、その中に杉原の世話になった人物がいるかも知れない。
「鑑別所出るときも、親に見捨てられて迎えにも来てもらわれへんような子供は、ひねくれて
しもて結局立ち直られへん。保護観察員の前から姿をくらませて、ヘタしたら誘惑に負けて
元の世界に戻ってしまう。そうなったらまた塀の向こうに逆戻りや。そんな行き場のない
連中が黙って受け入れてくれる河村のもとに集まって来たという噂ですわ」
「せやけど、タダでは面倒見てくれへんやろ」
「ええ。そういう連中の中には、河村のためやったら何でもやるっていう危なっかしいのが
いるそうやから──」
タツは鍋島に顔を寄せて小声になった。「汚い仕事なんかはそいつらにやらせるとかね。
想像やけど」
「一宿一飯の恩義か。やっぱりヤクザやないか」
「とにかくまぁ、そんなとこですわ」
タツは言うと、ここで初めて身体を起こした。「ここへは仕事ですか。それとも誰か入院
してるんですか」
「まあ、ちょっとな」
はっきりと答えない鍋島に、訊いた自分が間違っていたのだとタツは納得した。そして
ゆっくりと周囲を見渡しながら言った。
「……病院はどこも一緒やな。清潔で明るいけど、やっぱり陰気くさい」
「ああ」
「思い出すわ。母親が入院してたときのこと」
タツは遠くに視線を移した。「長いこと入ってたんや」
「何の病気や」
「腎臓や。透析の毎日で、最後は炭みたいに黒うて干からびてた」
「亡くなったんか」
「もう十五年も前の話や」とタツは言って愛想笑いをした。
「十五年前か」
鍋島は俯いて呟いた。俺と同じやないか。
「ああ。俺が鑑別所出て半年もたたへんうちやった」
タツは言うと自分に振り返った鍋島を見てにやりと笑った。そして長椅子の背もたれに
掛けていた左手の手首をくるりと裏返し、その手のひらをヒラヒラとなびかせた。
「これだけの告白、福澤センセ一人では安いやろ」
少しだけ間があって、その手にもう一枚の一万円札が乗せられた。
「知らんあいだにおまえの体験談に変わってたやないか」
鍋島は言うと立ち上がった。
タツと別れた鍋島は病院の玄関でタクシーに乗り込み、船場に向かった。そして川辺明美の
マンションでの喧嘩騒ぎを蒲生署に通報した長沢辰雄を勤務先に訪ね、河村忠広の写真を
見せた。しかし長沢は写真の男が喧嘩の中にいたかどうかははっきりしないと言った。鍋島は
たいしてがっかりもせずに、今度は地下鉄中央線で森ノ宮を目指した。森ノ宮には
本山茂樹と岡部美弥の通う高校があった。
高校に着いたのは、ちょうど七時限目が始まった頃だった。
鍋島は最初、放課後まで時間を潰し、校門前で二人のうちどちらかが出てくるのを待とう
かと思ったが、何しろこの高校は全校生徒が千人を超えるマンモス校だ。同じ制服姿で校門を
出てくる多くの生徒たちの中から二人を見つけだすのは自分一人では難しいと判断したので、
ここはあえて校長に面会を申し入れ、二人を呼び出してもらうことにした。
もちろん、学校側は鍋島を警戒した。相変わらず刑事らしくない彼の服装も悪かった。
警察手帳を見せ、丁寧に事情を説明し、あくまで二人は参考人であることを強調したが、
校長はなかなか首を縦に振ろうとはしなかった。
激しい校内暴力や生徒による犯罪などが発生したときなどは、その処理をさっさと警察に
押しつけて自分たちはまるで無関係とばかりに高見の見物を決め込むくせに、こんなときは
やたら教育現場の自治を守ろうとする。子供が学校にいる間はその保護責任は親ではなく
学校にあるのは否定しないが、何も二人を連れていこうとしているわけではない。ちょっと
話を聞くだけなのにこの疑いようは何なんだと、鍋島はもう少しで校長たち──即ちその
向こうには大阪府教育委員会の存在がある──を相手に喧嘩をふっかけるところだった。
結局、校長は西天満署刑事課に電話を入れて鍋島の身分と捜査の意図を確認した。
そのあいだ鍋島は憮然とした表情で校長室の椅子に座っていた。まるで父親のおつかいで
酒を買いに来た子供だ。酒屋の親父は疑って、子供の親に電話して彼の言い分が本当かどうか
を確認しているのだ。いくら童顔の上にラフな服装のせいだとはいえ、やがて二十代最後の年
を迎えようかというのにこの扱いは情けなかった。
「──教頭先生、二人を呼んできてもらえませんか」
受話器を戻しながら校長はそばに立った教頭に言った。
「分かりました」と教頭は頭を下げ、部屋を出て行った。
「刑事さん、話はここで聞いて下さい。私も同席させていただきますので」
「どうぞご自由に」
鍋島は校長を見ずに答えた。
やがて、教頭に引率された茂樹と美弥が校長室の入口に姿を現した。
二人の後ろには、ご丁寧にもそれぞれの担任らしき男性教師が付き添っていた。
校長に促されて部屋に入った二人は明らかに戸惑っていた。たぶん、飛び抜けて悪くも
なければ優等生とも言い難いごく普通の生徒であろう二人にとって、普段から校長や教頭と
面と向かって話をすることなど皆無だったろうし、ましてや名指しで校長室に呼ばれたことも
ないはずだ。それが今、わざわざ授業の途中に連れてこられたのだ。しかも教頭や担任も
一緒についてきて、明らかにただごとではないと思ったに違いない。お互いに先を譲り、
なかなか部屋の中央まで進もうとしない様子にその不安な胸の内が現れていた。
ところが、二人は部屋にいたもう一人の人物の顔を見ると少し安堵の色を浮かべた。
自分たちがなぜ呼ばれたのか、その事情が少しは見えてきたようだった。
「あ、こんにちは」と茂樹は鍋島に挨拶した。
こんにちは、と鍋島も挨拶を返した。美弥を見ると、彼女もぺこりと頭を下げた。
芹沢が一緒でないのが残念そうだった。
二人はソファーに並んで座った。
「ごめんね、授業中に。すぐに終わるから」
鍋島は懐から写真を取り出した。「この前のオヤジ狩り──というか、喧嘩のことやけど」
「オヤジ狩り?」
「喧嘩?」
二人の担任が口々に言った。
「この二人が目撃したそうです。あとで詳しく説明します」
教頭が素早く答えた。担任たちは頷いた。
「その中にこの男はいてなかった?」
鍋島に差し出された写真を、茂樹と美弥は交互に覗き込んだ。
「……分かりません」と美弥は首を振った。
「よーく見て。きみ、一人だけ手を出さずに見てる男がいたって言うてたやろ。その男の
ことはちょっとは分かるんと違うかな」
「はい。似てるような気もしますけど、暗かったから──よく覚えてないんです。すいません」
まともな言葉遣いもやったらできるんやな。それにしてはこのあいだとえらい態度が違う
やんけと思いながら、鍋島は頷いて茂樹に振り返った。
「本山くんは?」
「……たぶん、この人やと思います」
「本当に?」
「はい。この人でした」と茂樹は言ってすぐに首を捻った。「と、思うけどなぁ……」
美弥が茂樹に振り返って顔をしかめた。余計なことを、と言いたいのが鍋島には分かった。
そうか。もう関わり合いになりたくないんやな。学校に知れたから、ちょっと面倒に思い
始めたんや。
「本山くん。自信がないならそう言えばええんやで」
校長が言った。「ええ加減なこと言うたら、刑事さんも困らはる」
「あ、はい。でも、きっとこの人です。間違いないと思います」
「──分かった。ありがとう」
そう言うと鍋島は茂樹に頷いた。そして写真をブルゾンの内ポケットにしまうと、
立ち上がって校長に向き直った。
「お手数掛けました。私はこれで退散しますけど、あとでこの二人をあれこれ問い詰めないで
あげて下さい。二人は何も悪いことはしてません。ただ公園を散歩してて、偶然に喧嘩を目撃
したっていうだけなんですから」
「ええ。分かってますよ」
いや、絶対に分かってないでと思いながら、鍋島は校長室を後にした。
少年課の書類キャビネットを開け、調べ終わった捜査資料と新しい資料を入れ替えていた
ところへ、うしろでカタリと遠慮がちにドアの開く音がした。
入ってきた人物はがらんと静まり返った部屋を見て、所在なさげに立ち尽くした。小柄な
中年男だった。男のところからは、並んだデスクが死角となってキャビネットのそばに
座り込んでいるこちらが見えなかったようだ。
「──はい、何か」
刑事が立ち上がると、中年男は大きく驚いて後ずさりした。
「あ、あああ、あの……」
「はい。何でしょうか」
刑事はできるだけ穏やかに言って口許に笑みを湛えた。そしてそのあいだに相手を観察した。
身長一六○センチ前後、色黒、白髪混じりの短髪、四十五から五十歳、ダークグリーンの上着
に黒のスラックス。いくぶん泳いだ目と何か言いたげに開いた口の明らかに戸惑った表情
から、いわゆる悪人の雰囲気は感じられなかった。
「あ、あのちょっと相談が……」
「あいにく、ここの者は全員席を外してまして──」
刑事は漠然と誰もいないデスクを見渡した。そして手にした資料を脇に挟むとキャビネット
の扉を閉め、すぐそばの来客用ソファーを示して言った。
「どうぞ。こちらへお掛けになってお待ち下さい。ちょっと席を外してるだけですから、
電話で呼び戻します」
男はそろそろと足を進めてソファーの前まで来た。明らかに萎縮している。刑事が何度も
座るように進めたので、ようやく端っこに腰を下ろした。子供が非行に走って困り果てて
いるのだろうか。それとも家出か、家庭内暴力か。学校や児童相談所に相談してもどうにも
ならなくてここへやって来たのだろうが、警察に来るのは誰でも勇気の要るものだ。
刑事は一番近いデスクの前に行き、受話器を取って会議室の内線番号を回した。杉原の
事件の捜査チームの『帳場』となっている部屋だった。そこには常時何人かの捜査員がいて、
三十分ほど前に彼が顔を出したときにも、少年課の刑事がいたのを確認していた。
電話が繋がるのを待ちながら、刑事は何気なく男に訊いた。
「どう言ったご用件ですか?」
「はあ。実は」と男は頭を掻いた。「うちの店の従業員が、ここ何日か無断で休んでまして
……そのことで、ここの刑事さんに相談しようと」
「その方は未成年ですか」
「いえ、もう成人しています」と男は首を振った。「……昔ちょっと、ここの刑事さんに
お世話になったんで」
「そうですか。じゃあその刑事を呼んだ方がいいですね。誰ですか?」
「杉原さんです」
その瞬間、刑事は受話器を置いた。
「……杉原信一刑事ですね」
「ええ、そうです」と頷きながらも、男は刑事と、彼が切った電話を交互に見た。どうして
電話が切られたのかが分からないのだ。
刑事は男のそんな疑問を十分承知しているというような表情で一度だけ頷き、デスクを
廻って来た。
「そのお話、僕がお聞きします」
「あの、でも」
「杉原刑事は長期休暇を取ってまして、ここ数日の間に出て来ることはありませんので」
「……でもおたくは、少年課の方ではないと──」
「そうです。でもお話を聞くことはできます」
そして刑事は場所を変えて話を聞くことを提案した。男は明らかに躊躇していたが、
杉原がいないとなれば、どのみち誰か他の人間に聞いてもらうしかないと判断したのだろう。
それが嫌ならここで引き返すしかないのだ。しかし男はそうしなかった。どうせ杉原でない
のなら、どこの課の刑事だって同じだ。そう思ったかどうかは分からないが、男は刑事に
ついてきた。
刑事課の来客用ソファーに座り直して、男は部屋を見渡した。
部屋には多くの人間がいたが、刑事ばかりではないようだった。明らかに犯罪者と分かる
人相の悪いのもいた。目が合うと、何を見てるんだと言わんばかりにガンを飛ばしてくる。
男は慌てて目を逸らした。やっぱり少年課で話をすれば良かったと思った。
さっきの刑事は窓際のコーヒーメーカーの前で簡易型のカップにコーヒーを注いでいた。
別の刑事が彼に話し掛け、しばらくそれを聞いていた彼はカラリと短く笑うと相手に何か言った。
その様子からはまるで緊張感が感じられない。さっき自分が杉原の名前を口にしたときの
あの鋭い表情は何だったのだろうと男は考えた。
やがて刑事はコーヒーを二つ持って男のもとへやって来た。
刑事は向かいに腰を下ろし、コーヒーを男の前に置くと、上着の内ポケットから名刺を
差し出した。
「申し遅れました。刑事課の芹沢です」
「原田と言います。十三で中華料理の食堂をやっています」
「それで、原田さん。従業員の方のことで杉原に相談したいというのは?」
「うちの従業員が……ここ五日間、黙って店を休んでるんです。アパートに電話をしても誰も
出ないし、他の心当たりも当たったんですが、なしのつぶてで」
「その従業員の方は えっと、名前をお訊きしておきましょうか」
芹沢は手帳を取り出した。
「山口泰典と言います。今年で二十歳です」
「山口さんは、杉原とどういう関係ですか」
「昔、ちょっとやんちゃしてましてね。警察に捕まったことがある子で──そのとき杉原さんの
お世話に」
原田は言うとコーヒーに口をつけた。「暴走族に入ってたことがあるんです。その仲間と
盗みの真似ごとみたいなことをやっては逃げる途中で事故を起こして。逮捕されたときは
まだ十五歳でした」
「逮捕したのは杉原ですか」
「はい。ほんまにお世話になりました。私はあの子ら──いえ、姉がいるんですけどね。
その両親とは旧知の間柄でした。同じアパートに住んで、隣同士やったんです。けどあの子が
八歳のときに母親が事故で死んで、父親はそのあとすぐに蒸発したんです」
「それで原田さんが親代わりに」
「いえ、父親が蒸発してすぐに姉弟は母方の親戚に引き取られて行きました。それから
しばらく会うことはありませんでした。けど泰典が逮捕されたときに、どういうわけか
私のところに連絡が入ったんです。同じアパートに住んでた頃から、私は今の場所で店を
やってましたから」
「親戚の方というのは?」
原田は首を振った。「……泰典が暴走族みたいなもんに入ってしもたのも、その親戚の
ところが嫌やったからでしょう。杉原さんがそう言うてはりました」
「親戚は親代わりにはなってくれなかったんですね」
「ええ。その二年ほど前に姉が中学出て看護学校の寮に入るためにその親戚の家を
出たんです。泰典はそれも寂しかったようです」
原田は大きく溜め息をついた。「よう我慢した方やと思います」
「それで、泰典くんは逮捕のあと──」
「鑑別所に入りました。一年ほどで出てきて、うちで引き取りました。店でも働くように
なったんです。けど半年ほどでふらっとおらんようになって──また逆戻りです。今度は
一人で強盗ですよ」
芹沢は黙って聞いていた。
「独り暮らしのお年寄りの家に忍び込んでは少額の金を盗んでたんですがね。ある日入った
とこで家人に見つかって、脅しのために持ってたナイフでお婆さんを切りつけたんです。
お婆さん、指の大事な神経が切断されて、動かんようになった」
「今度は少年院ですか」
「もちろんです。十七でした。十七で本物の悪人になってしもたんです、あの子は」
「杉原はその事件も?」
「いえ、それは違いました。よその警察に捕まったんです。でも心配して何度も足を運んで
下さいました。警察にも裁判所にも、少年院にも」
「少年院を出てきたのはいつですか」
「去年の春です。出てきたときは、今度こそ真面目になるって、私と家内とあの子の姉と、
それから杉原さんの前で誓ったんです」
「それが駄目だったんですか」
「いいえ。ずっと真面目でした。今度こそ心を入れ替えたんです。店を手伝う姿勢も前のとき
とは全然違いました。それで、そろそろ仕込みを手伝わせてもええかなと思い始めてたんですから」
「なのに突然、店に出てこなくなったと」
芹沢は言って原田を見た。「お姉さんに心当たりは?」
「ないようです。でも看護婦ですから、勤務時間が不規則で普段からあまり会えてないみたい
でした」
「本人は一人で住んでるんですか」
「ええ。半年ほど前に私のところを出しました。自立させるのも大切やと思たんです。
杉原さんに相談したら、それがええと言わはって、部屋を借りるときの保証人になって
くれはったんです。おかげで、それに見合うだけの立ち直り方をしてくれました」
「交友関係はどうなってました?」
「……そういう経歴がありましたから、ほとんど友達はいないようです。少年院を出てきた
直後に昔の友達のようなのが何度か店に訪ねてきたことがありましたが、杉原さんが知って
話をつけて下さったんです。そしたらその連中も来なくなりました」
芹沢は溜め息をついた。杉原の尽力ぶりに、今さらながら頭が下がる思いだった。たった
一人の暴走族上がりの少年をここまでフォローしているとは。今まで関わった子供の全員に
対しても同じなのだろうか。じゃ、みんな合わせるとどうなっちまうんだ。芹沢にはほとんど
信じられない話だった。同時にこの二日間、ひたすら面倒だと思いながらおざなりに捜査資料
を目で追っていただけの自分が世界一のアホに思えてきた。
──なあ若造、書類を読んで何か特別なことが分かったか?
「それじゃあ、いなくなった理由がまるで分からないと」
「ええ。何かの事故に巻き込まれたんやないかと思うほどです。
新聞やニュースを気にして見てますが、あの子の名前が出てくるようなこともなければ、
それらしい身元不明の死人が出たって言うこともありません。それで、杉原さんに相談しようと
思ってここへ」
「そうでしたか」
「杉原さんはどう言う事情で休暇を?」
「それはちょっと、申し上げるわけにはいきません」
「……そうですか」
と原田は俯いたが、すぐに顔を上げて芹沢を見た。「でも杉原さん、そんなこと何も
おっしゃってませんでしたよ」
「えっ?」
「あの人、普段から自分のこといろいろ話される人でしょう。
最近うちの店によう来られてましたけど、長期休暇のことなんか何も言うてはらへんかった
けどね」原田は言うと首を傾げた。
「最近、お店によく来られてたんですか?」
「ええ。普段は月に一、二回顔を見せてくれはるんですけどね。
ここ十日ほどは二日に一回くらい来られてました」
「二日に一度?」と芹沢は聞き返した。「多くないですか」
「ええ。せやから泰典のことも何か知っておられるんと違うかと思たんです。あの子が最後に
店に出てた日も、来られてましたし」
「それはいつです?」
「六日前です」
「十月二十六日ですね」
「え、ええ」
原田は芹沢が日付を即答したことに少し驚いていた。
芹沢は黙って頷くと、軽く頭を下げて立ち上がった。自分のデスクに行き、電話を取って
もう一度さっきの会議室につながる内線番号を押した。
受話器を耳に当てて顔を上げたとき、鍋島が帰ってきた。
鍋島は間仕切り戸を開けて部屋に入ってきた。そして電話をしている芹沢と目が合った
とき、芹沢が小さく頷いて言った。
「ちくしょう、ビンゴだ」
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