第三章 その2
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京都に来るのは久しぶりだった。
大学時代は日常の生活拠点が京都にあった。彼女が受講を終えて教室から出てくるのを、
パチンコや麻雀で時間を潰していた鍋島と萩原が待ちかまえていた。それからよく三人で
北山や河原町界隈に繰り出したものだ。萩原とつき合っていた智子と四人だったことも
しょっちゅうだった。
キャンパスは京都御苑の近所にあったので、時には緑豊かな御苑の芝生に腰を下ろして、
鍋島や萩原に試験のポイントを教えたこともあった。
あの頃は良かったな、と麗子は懐かしんだ。今、自分が仕事場としているのも大学だが、
あの頃と今とではそこに身を置く自分がすっかり変わってしまっている。しかも最近までは
恋愛──あれが本当に恋愛だったのかどうか今となっては疑問だが──という、本来の自分の
目的とはほど遠い関係をそこへ引きずり込み、結局はそれもまたとことんのめり込むまでも
いかず、ありきたりの結果を迎えるに至った。いったい自分は何をしに大学に行っていたの
だろうか。
麗子はあの別れ以来、大学にいるのが辛かった。しかし仕事は仕事だ。
彼女は一年生の基礎演習クラスの他に、後期からは新しく講義を一つ受け持っていた。
それだけでも週に二度は大学に行かなければならないし、自分の研究や講師としての諸々の
用事をこなすとなると、土日以外はほとんど毎日大学に縛りつけられることになる。
それもつい最近までは楽しかった。が、今は違う。結局、女ってものは恋愛における
コンディションが何よりも先に立つ生き物なのかも知れない。自分はそうではないと思って
いたのに、なんてことはない、女の典型だったのだ。
しかも、自分が今取り組んでいる講師としての仕事を勝ち取るために、その「大事な」ものを
失ったのだ。
そのうち、男が別れと引き替えに置いていった土産が今のこの仕事なのだとさえ思えて
きた。「勉強が麗子の恋人ね」と言われた大学時代は、その言葉通りに本当に学問がすべて
だった。恋愛にしろ課外活動にしろ、彼女にとっては学業と引き替えにするほど魅力のある
ものではなかったし、それらすべてをこなせるほど自分は器用ではないと思っていた分、
彼女は潔かったのだ。それが今は何だ。麗子はますます落ち込んだ。何とも虚しかった。
北山通り沿いのこのバーも、学生時代にはよく通ったものだ。ここへは 鍋島とよく来た。
黒く、分厚いカウンターもあの頃のままだ。大学を出てからの五年半をすべて乗り越え、
自分を昔へ戻してくれるような気がして、麗子は思わず足を運んだのだった。
「麗子」
店に入ってくるなり、真澄は笑顔で言った。着物姿が入口の格子戸によく似合っていた。
「ごめん、忙しいのに呼び出して」と麗子も微笑んだ。
「ううん、明日からほら、十一月でしょ。『炉開き』て言うてね、茶道の世界ではお正月
みたいなもんやねん。その準備をしてただけやから。それより、麗子の方こそ、京都で
仕事?」
「違うの。ちょっと懐かしくなってね」
「ここが? そう言えば麗子、学生の頃はここの帰りやて言うてようあたしの家に泊まりに
来たっけ」
「そう。遅くなったから終電に間に合わないって」
バーテンが近づいてきたので、真澄はスコッチのオン・ザ・ロックを注文した。
「真澄は見かけによらず強いのね」
「麗子は見かけによらず弱いもんね」
真澄は麗子のカンパリ・ソーダを見て言った。「大学時代かぁ。あたし、麗子が羨ましかったわ」
「どうして?」
「だってさ、あたしなんかずっと女子校やったから。こんなとこに男の人と二人で来るなんて
こと、なかったもん。せいぜい合コンの流れでカラオケか喫茶店ってとこ」
「あたしが、みんなと同じような学生生活を送ったと思ってるの?」
麗子は笑いながら言って真澄を見た。
「あ、そうか。勉強一筋」
「まあね。それに、ここへ来るって言っても、好きな男と二人なんてことなかったわよ」
「ほんとにぃ?」
「ほんとうよ。そうね──たいてい勝也とばっかり」
「ふうん……」
真澄はなおさら羨ましくなった。
「ねえ、真澄」
「うん?」
「あたしさぁ、自分のこと過大評価してたみたい」
「なにそれ?」
突然の話に、真澄は戸惑った様子だった。
「大学を首席で卒業して、大学院でも夢中でやったおかげで何とか博士号を取ったと
思ったら、選ばれた人材だけが可能な留学にさっさと決まって、帰ってきてすぐに今の研究室
に呼ばれたでしょ。で、今度は講師。ここまでずっと、止まらずに突っ走ってきたって感じ。
振り返ると信じられないけど、どこかでこれがあたしの実力よなんて思ってたわ」
「麗子の実力よ。さっきもうちの母が言うてたわ。『麗子ちゃんはほんまに偉いねぇ』って」
「……おばさま、あたしとの電話でもそう言ってた」
「でしょ? 弟なんか、『姉ちゃんも麗子さん見習えよ』やて」
「違う。あたしなんか、ほんとはみっともないだけの人間よ」
「……何のこと?」
「がむしゃらに仕事して、勝ちに行くことばっかり考えて。つき合ってた男の気持ちなんか
察しようともしなかった。相手の浮気を知っても、尾行するようなことしかできないの。
取り乱して怒ることも、責めることもしないで、カッコつけてばかり。そのうち男は去って
いったわ。疲れて、妬んで、愛想尽かしたのよ」
吐き出すように一気に言って、麗子はグラスを呷った。
真澄はそんな麗子をじっと眺めていたが、やがて探るように訊いた。
「麗子、つき合うてたひと、いたん……?」
麗子はグラスを置くとふうっと息を吐いた。「そう。つい四日前まではね」
「そうなんや……」
「意外?」と麗子は笑って真澄を見た。
「う、ううん。だって麗子は綺麗やもん。いてない方が意外」
「いいのよ、そんなお世辞」
「大学の人?」
「ええ。同じ研究室」
「で……別れたの?」
「そうよ。ほんとはずっと前に終わってたの。他に女が出来たのよ。その相手とじゃ疲れないらしいわ」
そう言うと麗子はすぐに首を振った。「ううん、違った。その女性には疲れた顔を見せられるし、
疲れたって言えるんだって」
「麗子には言えへんってこと?」
「そう。あたしにはそんな甘えが通用しない気がしたって。そのくせ、思ったことを全部
言わなきゃならない雰囲気が漂ってたんだって。気を使って嘘をつくことさえ許してくれそうに
なかったそうよ」
「……そんな風に思うなんて」と真澄は唇を歪めた。「麗子のこと、ほんまは分かってへんのよ。その人」
「真澄──」
「あたしはそう思うわ」
真澄はにっこりと微笑んだ。暖かい笑みだった。
「ありがとう。でもね、あたしって良く言えばさっぱりしてるんだろうけど、要するにがさつなのよ」
「そんなことないわ」
「自分だけが遠慮や隠しごとが嫌いなのならいいけど、人にもそれを求めちゃうのよね。
正面から気持ちをぶつけ合うのは大いに平気なくせに、根回しとか気配りが苦手なの。だから
自分と関わる相手にもそうあってもらいたいわけ。アメリカ育ちって言ってしまえば格好いい
けど、ただの単純バカよ。相手が今どんな気持ちなのかなんて、事前に慮ることができない
のよ。そんな能力持ち合わせてないの。だからフラれたの」
「そこまで言わなくても──」困った真澄はグラスを見つめた。
「勝也にも言われたのよ。分かり易すぎてあさはかやねん、って」
「勝ちゃんに?」
真澄は驚いて麗子を見た。ここで鍋島の名前が出てくるとは思いもよらなかったからだ。
「そう。あいつのひとことは的確なのよね」と麗子は苦笑した。
「……麗子、勝ちゃんに会うたの?」
「ええ。酔っ払ってあいつの部屋に押し掛けて、気分悪くなったからトイレに駆け込んで──
考えてみたらこれも無神経よね ──そしたらあいつ、水一杯飲ませてくれた後にすぐに
帰れって言ったわ」
真澄はじっと麗子を見つめた。すでに胸中穏やかではなかった。
そんな彼女の気持ちに気づく気配すらない麗子は続けた。
「親友だからって、いちいちあたしの相手なんかできないって。仕事で疲れてて誰とも
話したくないときだってあるんだって。当たり前よね。あいつの方が肉体的にも精神的にも
数倍過酷な仕事してるのに、あたしったらいつもの調子であいつに甘えて。何年経っても
変わらないと思ってるのよ。あたしとあいつの間の空気は」
麗子は言うと小さく首を振った。「──無神経な女」
「麗子……それ、いつ?」真澄は静かに言った。
「いつって、勝也に会ったのが?」
「うん」
「五日前よ」
「何時頃?」
「……よく覚えてないけど、確か十時半頃だったかしら。でもどうしてそんなこと──」
そこまで言って、麗子ははっとして真澄に振り返った。
「真澄、あたし──違うのよ」
「違うって、何が?」
言葉こそ普通だったが、そう言って麗子を見据えた真澄の表情はもうそれまでとは違って
いた。嫉妬という一言では片づけられない、いろんな負の感情で暗く混濁していた。
「だからごめん、あたし、いま気がついたのよ。そう、そうよね。五日前って言えば、
あんたが勝也に電話した日よね。昼間はあたしに何度も電話くれてたっていう、あの日。
でも誤解しないで、別にあいつと約束してたわけじゃないし、だから当然隠してたわけでも
ないの。あいつだってそうよ」
「分かってる。今さっきそう言うたやない、勝ちゃんの部屋に押し掛けたって」
「そう、そうよ。嘘じゃないからね」と麗子は真澄の顔を覗き込んだ。
その直後、 『時すでに遅し』という言葉が頭に浮かんだ。
「別に何も疑ってへんわ。麗子と勝ちゃんのことはもうずっと前に理解してる。勝ちゃん
かて、麗子とのことであたしに嘘なんかつかはったことないし、つく理由もないでしょ」
真澄は平静を装って言った。しかし、声はうわずっていた。
「そうよ。その──だからね、真澄」
「麗子ね」
と、真澄は強く言った。正面を向いたままだった。
「え、うん」
「さっき自分のこと無神経な女って言うたけど──それ、どこまで自覚してるの?」
「……してるわよ、じゅうぶん」
「嘘。してない」
「してるわよ。今回ばかりはあたしだって……」
「してない!」
「真澄……」
麗子は驚いていた。驚くと同時に、ひどくいやな予感が全身を包み始めているのを感じて
いた。自分がとんでもない過ちを犯してしまったことは十分承知していたが、だからと
言って、こういう事態になるなどとは思ってもいなかっただけに、この先の展開が怖かった。
自分はただ、誰かに愚痴を聞いてもらいたかっただけなのだ。
真澄は手元のグラスに視線を落とした。そして言った。
「……ひどすぎるわ、麗子」
「………………」
「あたし、麗子のことずっと羨ましかった。今でもそうよ。麗子は頭がいいし、綺麗やし、
いつも自信に満ちてて──あたしみたいな世間知らずの籠の鳥とは違って行動的で意志も
強いし、欠点なんか何一つないし……麗子とあたしは雲泥の差、月とスッポンで」
「なに言ってるのよ真澄」
「そやから麗子が勝ちゃんとどういうつき合い方してても、どう見ても恋人同士にしか
見えへんでも、二人が断固としてお互いを親友やて言うのやったらそう思うことにしようと
決めた。麗子はあたしなんかでは当然考えも及ばへんことができる人なんやと思うから。
実際そうやって他にちゃんと彼氏がいたんやから、やっぱり勝ちゃんとは親友なんやって
ことが分かった。でも──」
そこまで言うと真澄はグラスを口に運んだ。さっきの麗子と同じように大きな溜め息を
つくと、思ったことを忘れないうちに全部言ってしまおうとしているかのようにまた一気に
続けた。
「でも、親友やったら何してもいいの? 九年も前から知ってるから何でもありってことなん?
自分の従妹がその人のこと好きって知ってても、自分はその従妹よりずっと前から相手を
知ってるから、辛いことがあったら夜に部屋に押し掛けてもいいと思ってるの?」
「違う、思ってない」
「要するに、自分たちの友情の前ではあたしの気持ちなんて二の次ってことなんやね」
「真澄、聞いて」麗子は真澄の腕に手を掛けた。
真澄はさっと腕を引っ込めると、恨めしそうな眼差しで麗子を睨みつけた。
「……あたしがいつもどんなに不安な気持ちでいたか──」
「ごめん……」麗子は俯いた。
「きっと麗子には一生分からへんでしょうね。自分にはとうてい勝ち目のない女性が身近に
いる普通の女の気持ちなんて。しかもその女性は自分の従妹で、自分の好きな人と一番仲良く
やってるのよ。愛情じゃなくて友情やとか言って」
真澄の言葉には、押さえきれない怒りが露わに吹き出していた。麗子は必死でそれを鎮めようとした。
「ほんとに愛情じゃなくて友情なんだから。親友ってそういうことでしょ。真澄もそれは
認めるって今、言ったじゃない」
「言うたわ。けど聞き飽きた」と真澄は吐き捨てた。
「……分かった。この際それ以上なのは認めるわ。親友よりも親密だけど、真澄が心配してる
ようなのとはほんとに違うの。そう、兄妹みたいなもんなのよ」
「でも兄妹じゃないでしょ」と真澄は冷たく言い放った。
「真澄……」
「だったらさっさと気持ちを告白したらええやないって思ってるんでしょ。でもそれが
できひんから悩むんやない。麗子のことは別として、実際にあの人があたしをどう思ってるか
なんて分からへんもの。麗子みたいに、好きになった相手とは確実につき合えるような、
そんな確率百パーセントの女とは違うのよ、あたしは」
「あたしのどこが確率百パーセントだって言うの? 現にこうしてフラれちゃったじゃない」
「フラれたって言うけど、ほんとは最初から相手にもしてなかったんでしょ。その人のこと」
「……どう言うこと?……」
「その人が、麗子の前では安らげへんかったってことは、麗子にその人を受け入れてあげる
気持ちがなかったからやないの? その人のために麗子は何の用意もしてないってことよ。
要するに、最初から相手にしてへんかったのと一緒よ」
真澄は顔を背けた。「……二股かけられて当然やわ」
グラスを見つめる麗子の顔色が変わった。さらに真澄が言う。
「最初の目的通りにしてたらええのよ。一番大切なのは研究なんでしょ? そのために大学に
いるんでしょ? 男の顔色見に行ってるんじゃないでしょ? 勝つつもりでやってるんでしょ?」
真澄は嫌悪感を剥き出しにして言った。険悪な空気が二人を完全に覆い尽くしていた。
「……真澄もそんな風に思ってたのね。あたしのこと」
麗子は呟くと淋しそうに──あるいは悔しそうにも見えた──笑った。
真澄は黙っていた。自分がかなり辛辣な言葉を投げ掛けたのは分かってはいたが、撤回する
つもりはなかった。
「……そうね。あなたの言うとおり。あたしはたかが恋愛ごときで自分を変えることなんて
できないのよ」
麗子は煙草を口に運びながら言った。意地になり始めていた。
「たかがって言うけど、人生を豊かに送る上で大事なものの一つやわ」
「そうかしら」
麗子は鼻をふんと鳴らした。
「そうよ。あたし、麗子が失恋したって言うから驚いたし、おまけに相手に別の女がいた
なんて事情を聞いたらちょっと腹も立ったから、精一杯慰めてあげようと思ったけど、
そんな考えなんやったら慰めもしいひんし同情もしいひんわ。たかが恋愛なんて言う人は、
どうせまた同じことを繰り返すに決まってるもん」
「……またずいぶん哀れまれたもんだわ」
麗子は下を向いて笑った。「結構よ。きれいごとしか言わないガチガチの箱入り娘さん
なんかに慰めてもらおうと思ったあたしが確かにバカだったんだから」
「……あたし、帰る」と真澄が立ち上がった。
「そうね、帰った方がいいわ」と麗子も頷いた。「帰って、どうやったら自分のウジウジした
気持ちを勝也に伝えられるかよく考えることね」
真澄は黙って財布から千円札を出し、自分のグラスの横に置いた。そして最後に麗子を
睨みつけると、くるりときびすを返して格子戸へと向かった。
「ねえ真澄」
麗子が真澄を呼び止めた。真澄が振り返る。
前を向いたままの麗子は煙草の煙をゆっくりと吐き出すと、それから真澄に冷たい視線を
投げかけて言った。
「……あんた、本当に勝也のことが好きなの? あたしへの競争心でそう思ってるだけ
なんじゃない?」
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