第二章 その5
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「──昨夜の九時半頃に、五、六人の男たちによる喧嘩騒ぎを蒲生署が一件通報を
受けている。場所は太閤園近くにあるマンションの駐車場。交番から駆けつけたときには、
もう誰もいてなかったらしい。通報者はそこの住人や。行ってくれ」
今日もまたかなり遅めの昼食を摂りに入った食堂で、鍋島と芹沢の二人は席に着いた途端に
鳴らされた携帯電話でこの命令一つを下され、流し込むように定食を平らげてこのマンションにやってきた。
電話を受けてからここへ来るまでの二人はほとんど口を利かなかったが、だいたいは
同じようなことを考えていた。
この二人は一見すると好対照のコンビのようだったが、実際は共通点も相違点と同じくらい
持ち合わせていた。
その代表的なものが、警察官という職業については二人ともどこか冷めた意識で臨んでいる
という点だった。
情熱や感情をあまり表に出さず、勤務中は鍋島はどちらかと言えば淡々と、そして芹沢は
冷ややかな態度に終始していた。出世欲などはかけらも持たず、かと言って無気力な事なかれ
警官でもない。普段は周囲に対してできるだけ明るく、剽軽に振る舞いつつも、その一方で
消すことのできない絶望感を胸の奥深くに抱き、ともすれば放棄したくなるような地味で
危険な刑事稼業に人生の大半の時間を費やしている。これが二人に共通して言えることだった。
その二人が揃ってさっき、そういった普段の姿勢とは少し違ったことを考えていた。
警察官といえどもしょせんはサラリーマンである以上、そこそこ出世しないと値打ちが
ない、なるべくならそれなりの役職について、部下を将棋の駒のように動かしながら部屋の
デスクで一日過ごすのもいいんじゃないか、ということだ。
インターホンを押してもなかなか出てこない通報者の住人に苛立ちを覚えながら、鍋島は
またゆうべの麗子の言葉を心の中で反芻し、その意味を推し量ろうとしていた。いくら
考えたところで答えの出ないことを暇があればつい思い出し、いつまでもくよくよするのが
彼の悪い癖だ。
そのとき──
「はい」
とインターホンから男の声がした。
「──あ、お忙しいところをすいません。西天満署のものですが、長沢辰雄さんは
ご在宅でしょうか?」
「お待ち下さい」
インターホンの受話器を置く音がしてまた静かになった。十秒ほどしてドアが開き、
刑事たちと同年代くらいの一人の男が姿を見せた。紺のジャージ上下にボサボサの髪、白い
大きなマスクで覆った顔色が悪い。一目瞭然で風邪をひいていると分かった。
「なんでしょうか」インターホンの声と同一人物だった。
「長沢辰雄さんですか」
「ええ」
鍋島はGジャンから警察手帳を取り出し、開いて男に見せた。
「西天満署刑事課の鍋島と言います。ゆうべの駐車場での喧嘩騒ぎのことで、お伺いしたい
ことがあるんですが──構いませんか?」
「……ああ、あのことで」と長沢は頷いた。「どうぞ。お入り下さい」
「いえ、お休みのご様子ですから、玄関で結構です」
芹沢が言った。どうやら換気の悪そうな部屋に入って、長沢の風邪が感染るのを恐れて
いるようだ。
「構いませんよ。というより、立ってるのがしんどくて」
長沢は首を振ると激しく咳き込んだ。
「……じゃあ、お邪魔します」
部屋の間取りは2LDKだった。単身者にしてはやや広めだが、二人が通されたリビングの
散らかりようから見て、長沢は所帯持ちではなさそうだった。
「さっそくですが、喧嘩の通報をなさったのは長沢さんですね?」
鍋島が訊いた。聞き込みや取り調べなどで、会話のイニシアチブを取るのはほとんどの場合
鍋島の役目だった。二人の間ではっきりとそういう取り決めがなされたことはなかったが、
鍋島の方が刑事としての経験が多少は長いこともあるせいか、いつの間にかそうなっていた。
ただ、相手が若い女などで、芹沢を選んで話してくるような場合には、応対をするのは自然と
芹沢の担当に変わっていた。
「ええ。でも蒲生署にですよ。西天満署じゃありません」
「承知してます。で、その時のことを詳しくお聞かせ願えませんか」
「詳しくって、あまりたいして知りませんけど」
長沢はソファーで足を組み替えた。「九時前頃に帰ってきて、車を停めて降りたら、駐車場
の隅っこに男が二人いました」
「二人ですか」
「ええ、二人です」
「どんな感じの男でした?」
「暗かったし、僕の車から少し離れてたからよく分かりませんけど──若いのと中年の二人
連れだったように思います」
「心当たりはありませんでしたか。ここの住人とか、以前に見掛けたことがあるとか」
「いいえ」
「具体的に、幾つくらいか分かりますか」
「さあ……。向こうは隠れてるのが見え見えやったし、こっちもあんまりじろじろ見なかった
から。何してんのか知らんけど、関わらんとこうと思て、さっさと部屋に帰りました」
そう言うと長沢は二人を見た。「ほら、おたくらみたいな人かと思たんです」
「刑事ということですか?」と芹沢が顔を上げた。
「ええ。と言うても、具体的に刑事がどんな感じなのか知ってたわけやなかったですけど」
「じゃどうしてその二人が刑事だと?」
「何となくそう思たんです。隠れて誰かを見張ってるように見えへんこともなかったし。
でも間違いやったみたいですね」
と長沢は肩をすくめた。「印象なんてあてにならへんということですよ。だって実際、
おたくらみたいな人が刑事なわけでしょう。悪いけど、お二人とも僕にはとてもそうは見えません」
「別に悪くはないですよ」と鍋島は微笑んだ。「つまり、その二人が喧嘩しているってこと
ではなかったんですね?」
「ええ、違います。喧嘩は──風呂から出てしばらくした頃やったかな。車に仕事の書類を
忘れてきたことを思い出して、取りに出たんです。そしたら下からなにやら大声が聞こえて
きて。部屋の前の廊下から見下ろしたら、駐車場でさっきの男たちがどこからか現れた別の
連中ともめてました。結構派手にやってましたよ」
「別の連中は何人いましたか?」
「四人くらいかな。ちゃんと数えてへんから分からんけど」
「それで通報なさったんですね?」
「ええ。僕の車からそう離れてないとこでやってたし、傷つけられちゃかなわんと思て。
新車なんですよ。それに、あのままでは書類を取りに行かれへんから」
「別の男たちの方には、心当たりはありませんでしたか」
「ありません。けど、ちょっと怖そうな連中やなかったかな」
「というのは?」
「言葉遣いが荒っぽかったから。先にいた二人連れがボコボコにやられてたみたいやし。
さっきも言うたみたいに、僕はその二人を刑事かなと思てたから、刑事をボコボコにするや
なんて、まっとうな人間のすることやないでしょ。それに──」
と言って、長沢は口をつぐんだ。
「それに、何ですか」
「いや、何でもありません」
「思い当たることは何でもおっしゃって下さい」
「いえ、あまりいい加減なことは言えませんし」
「ご心配なさらなくても、おっしゃったことをそのまま鵜呑みにするようなことはありませんよ。
事実関係はきちんと確かめますから」
長沢は二人の刑事を交互に見比べた。それから大きな咳を一つすると、もったいつける
ようにゆっくりと、声を低く落として言った。
「──このマンションに、ヤクザの愛人らしいのが住んでるって」
「愛人、ですか」
鍋島は内心拍子抜けした。芹沢は黙って腕組みをすると、乗り出していた身体を椅子の背に
預けた。彼も同じ気持ちらしい。
「ええ。前にエレベーターで乗り合わせた奥さん連中が喋ってるのを聞いたことがあります」
「どの部屋の住人のことを言うてるのか分かりますか」
「さあ。そこまでは」
「そうですか。ありがとうございます」
「僕が言うた、なんて誰にも言わないで下さいよ。それに、ただの噂かも知れんから」
「分かってます。それで、話は戻りますけど、喧嘩の通報をされてから長沢さんはどう
なさってましたか」
「廊下から騒ぎを覗いてました。五分もしないうちにパトカーのサイレンが聞こえてきて、
そしたら連中もすぐに逃げていきました」
「どの方向に向かいましたか?」
「みんな散り散りでした。駐車場の塀を越えていくものもいたし、表通りを別れて逃げて
いくのもいたし。最初にいた二人のうちの一人が結構ひどくやられてたみたいで、足が
もつれて何度か転んでましたけど。でもみんな逃げる方が先みたいで、構ってませんでした」
「それは若いのと中年、どっちですか」
「中年の方です。そう、確かその男は表通りを西に行きましたよ」
「桜宮橋の方向ですね」
「ええ。だったと思います」
「若い方はついて行かなかったんですか」
「それが、その頃には僕もパトカーの方に気が行って、よく覚えてないんです。一緒だった
ようにも思うし、違うようにも思うし」
「で、それっきりだったんですね」
「ええ。パトカーから警官が降りてきて、駐車場を見回ってましたからね。戻って来られへん
でしょう。通報した僕もどうしようかなって思ったくらいですから。みんなおらんように
なったし、いたずらやなって怒られるんと違うかなって……でも結局は下りて行きました
けど。あれこれ聞かれて湯冷めして、それでこのとおりです」
「それはお気の毒でしたね」
「余計な正義感は損ですわ。書類のためとは言え、おせっかいがとんだアダになった。結局
こうして会社を休む羽目になったんやから、仕事なんか持って帰るだけ無駄やった」
そこでまた長沢は激しく咳き込んだ。「……すいませんね」
「いいえ。こちらこそ」
ほとんど同時にそう言って、鍋島と芹沢の二人は自分たちの健康のためにそろそろ引き揚げる
ことを考えていた。
そのあと、鍋島と芹沢は管理人に会ってマンションの入居者の情報を提供してくれるように
交渉した。念のため、長沢の言っていたヤクザの愛人らしき人物を調べようとしたのだ。
ところが管理人はあっさり突っぱねた。
駐車場での喧嘩騒ぎだけでも迷惑な話なのに、入居者のプライバシーを侵すような行為には
たとえ相手が警察だろうととても協力などできないということだ。
「──こう言うちゃなんやけど、特に警察は信用でけまへんな」
と管理人は二人に面と向かって言い放った。鍋島はおっさん、ちょっとそれは失礼この上
ないんとちゃうかと思ったが、管理人の義務としては当たり前だし、刑事を目の前にしても
まるで怯まないその職業意識も見上げたもんだ。こちらも令状を取る手間を省こうとしている
という弱みがないわけではなかったし、ひとまず二人は引き下がったのだった。
車に戻り、芹沢は携帯電話で植田課長に報告した。
「──管理人に名簿を提出させるには、令状が必要です。けど──」
《そんな令状が下りるだけの確たる理由は今のところはなしか》
芹沢の言葉を植田課長が引き継いだ。
「ええ。マンションの駐車場でヤクザっぽい男を含む数人が喧嘩をしていた。このマンション
にはヤクザの愛人らしき人物が住んでいるらしい。それだけで名簿の提出に応じさせるには
かなりの無理があります。ましてや令状となると、それなりの証拠が必要です」
《それやったら名簿提出なんかに頼ってるより、自分らで一軒一軒聞き込みにまわった方が
早いと言うわけや》
「……今から、それをやれって言うんですね」
芹沢は溜め息をついた。鍋島も助手席のシートに倒れ込む。
《いや、ひとまず帰ってこい》
「会議ですか、また」
《せや。あと十分したら始める。速攻で戻って来いよ》
そう言い残して課長は電話を切った。芹沢は手の中の電話を見つめながら、
「鵜飼いの鵜だな。情けねえ」
と呟いて電源を切った。
「今頃気づいたか」
鍋島は煙草を吹かしながら芹沢を一瞥した。
時間はあっという間に過ぎていった。
萩原は車を比較的低速で守口方面へと走らせていた。
約束の時間より四十分も早かったが、娘の美雪を彼女の母親のところへ送り届けるところ
だった。
美雪は今、助手席でシートベルトを緩く締め、萩原の方に首を傾けて小さな寝息を立てて
いた。少し茶色かがった長い髪を綺麗に編み上げ、透き通るような白い肌に赤い頬をして
いる。七月生まれの彼女が「美雪」と言う名を授かった由来の一つだ。そのきめ細やかな肌と
同じ白い丸襟のブラウスに生成りの編み込みのカーディガンを羽織り、赤とグリーンの
タータン・チェック柄のプリーツスカートをはいていた。レースの折り返しのあるソックスに
黒いエナメルの靴が、萩原と逢う今日という日が彼女にとって特別な日であることを証明
していた。
萩原はいつも美雪をおめかしさせて自分に逢わせてくれる前妻の智子に感謝した。
女の子のどこが可愛いと言って、こうしてよそ行きの服を着て親を楽しませてくれるという
可愛らしさがある。智子もそんな親の楽しみをよく分かっているからこそ、自分にもこんなに
可愛い美雪を見せてくれているのだと萩原は考えた。
駅前の通りから三百メートルほど北へ入ったところに、智子と美雪の住むマンションが
あった。萩原はマンションの前に車を寄せ、美雪を起こしてしまわないようにゆっくりと
抱きかかえると、そっと背負って静かにドアを閉めた。
そして彼女の重みを心地よく感じながら、一歩一歩踏みしめるように玄関の階段を上がった。
マンションの中に入るのは初めてだった。柔らかい照明の下でメールボックスの名前を一つ
ずつ確かめていった萩原は、上から三番目の列に「日下」の名前を見つけた。エレべーターの
ボタンを押し、ドアが開くと中に入って3のボタンを押した。エレべーターが上へ動く小さな
振動にも、背中の美雪が目を覚ますのではないかと心配した。
三○五号室は一番奥にあった。インターホンを押し、小さく深呼吸した。
ロックを外す音がして、ドアがゆっくりと開いた。中から、二時間ほど前に美雪を預かる
際に会ったときと同じ服装をした智子が顔を出した。
「……ルール違反よ。こんなところまで来るなんて」
智子は顔を強張らせながら冷たく言った。
「いや、違うよ。ほら 美雪が寝てしもたんや」
萩原は身体を斜めにして、背中の美雪を智子に見せた。
「あ、やっぱり。幼稚園に行った日は、このくらいの時間になると疲れるのよ。もう九時前
やし、いつもなら寝てる時間やわ」
智子は萩原の背中から美雪を抱き上げた。美雪は智子の肩に顔を埋めた。ぐっすりと
眠り込んでいる。萩原は彼女の小さなポシェットと彼のプレゼントの入った紙袋を、玄関脇の
シューズボックスの上に置いた。
「──あら、ありがとう。いつもごめんなさいね」
「ええんや。こんなことぐらいしかできひんから」
「……じゃあ、おやすみなさい」
「あの」と萩原は一歩前に出た。
「なに?」
「良かったらその……ちょっと歩かへんか」
「そういうことやったらあたし──」智子はゆっくりと首を振った。
「い、いや、別にそれでどうこうってことやないよ。その……」
智子は訝しげに萩原を見つめていたが、やがて笑って言った。
「ええわ。でも美雪が目を覚ましてあたしがいてないと分かると不安がるから、少しだけね」
「ああ、分かってる」
萩原は軽く頷き、スーツのポケットに両手を入れて下を向いた。
智子は美雪を布団に寝かせるために部屋の中へ入っていった。萩原は廊下で待っていた。
マンションを出た二人は、背の高い街灯が両側に並ぶ広い道をゆっくりと歩いた。
「美雪もだんだんしっかりしてきたな」
「再来年は小学校やもの。あたしが働いてるのも労ってくれるのよ。仕事が終わって母の
ところにあの娘を迎えに行ったら、『お疲れさま』なんて言うてね」
「頭がええんやな。きみに似てる。その……目のぱっちりしたとこや髪の色なんかも」
「顔の輪郭や気の強そうな眉なんかは、萩原くんそっくりよ」
智子は笑顔で言った。萩原も照れ臭そうに笑うと俯いた。シャツのポケットから煙草を
取り出し、ライターを手で覆って火を点けた。
「──今こうして、月に一度しかあの娘に逢わんようになってつくづく思うんや。アメリカに
行ってた三年がもったいなかったって。俺ときみがこんなことになるんやったら、俺一人で
行くんやなかったって」
「残れと言うたのはあなたよ。それに──」
智子は足下を見つめたままだった。「一緒に行ってたら、別れてたかしら。あたしたち」
「そうやな」
「離婚してからもしばらくはあたしにも美雪にも逢おうとせえへんかったやない。仕事が
忙しいとか言うて」
「……そうやった」
「あの時はすごく辛かったわ。ああ、ほんまに捨てられたんやなと思て。あたしは良くても、
あの娘が可愛そうで。今さら恨みごとになるけど」
「悪かったと思ってるよ」
「今ごろ言うてもらったかて遅いわ」と智子は吐き捨てた。
萩原は口もとの煙草を手に持ち替え、智子に向き直った。
「なあ、何でそんなに突っかかってくる?何を怒ってるんや?」
「怒ってないわ」
「俺が部屋まで行ったのがそんなに気に食わへんのか?」
「違う」
「約束を破ったのは悪いと思うけど、今夜は仕方がなかったやろ?」
「違うわよ。そんなことで怒ってるんと違うの」
「ほな、何で──」
「萩原くんの気持ちが読めるのよ。何かあたしに言いたいことがあるんでしょ? でないと
わざわざ外に連れ出したりしいひんはずよ」
「いや……」と萩原は口ごもった。
「違うの?」
「……分かるのか」
「あなたのこと、十年も前から知ってるのよ」智子は小さく笑って腕を組んだ。
「何なの。相変わらず、言いにくいことがあるときは回りくどいんやね」
「分かった」
萩原は小さく溜め息をついた。そして智子をじっと見つめると言った。
「その……美雪を引き取らせてほしいんや」
智子は唖然として萩原を見上げていたが、突然思い出したように「話にならへんわ」と
呟くと、後ろを向いて来た道を歩き出した。
「待てよ、冗談で言うてるんやない」
萩原は智子の腕を掴んだ。その手をさっと振り解き、智子は萩原に向き直った。怖い顔をしていた。
「あなたにあの娘の面倒が見られるとでも言うの?」
「実は、係長昇進と、法人部への異動の内示を受けたんや。栄転や。早かったら来月の辞令で──」
「それ、どういう意味?お給料が上がるて言いたいの? あたしはお金のこと言うてるんや
ないのよ。あなたからは今でも充分なだけ貰ってるし、それには感謝してるわ。でも、
あたしも銀行員の妻やったから分かるのよ。あなたいったいどれだけあの娘と一緒にいて
やれるって言うの? ましてそんな忙しいとこに異動になったらなおさらよ」
「だから俺は今、実家に戻ってるし。実家にはおふくろが──」
「ご両親は承知なさってるの? あなたのそう言う気持ち」
「………………」
「あなたのお母様があの娘を育てて下さるっておっしゃってるの? あたしとそっくりの目と
髪をしたあの娘を」
「両親にはまだ……話してへんのや」
「でしょうね」と智子は溜め息をついた。「萩原くん。いつからそう思うようになったの?」
「それは……」
「ねえ、いつ?」
智子はじっと萩原を見据えたままだった。
「──今夜、あの娘に逢うたときにはっきりそう思ったんや。もしかしたらずっと前から
潜在意識の中にあったのかも知れん」
「相変わらずね。あなたはいつも思いつきで行動するのよ」
「思いつきなんて、そんなええ加減な気持ちとは違うよ」
「言い方が悪かったら訂正するわ。あたしの言いたいのは、あなたにとってはその場その場の
気持ちがすべてやってことよ。今そう思ったからそうしたい。前のことは前のこと、なのよ」
「そんな風に言わんといてくれよ」
「だってそうやないの。あなた、離婚のときかてそうやったわ」
「えっ……」
「違う?離婚の理由を問い質したあたしに、あなた言うたわね。『悪いけど、今はもう別れる
ことしか頭の中にはないんや』って。『今まで愛してたことには嘘はない。でも、俺は今の
気持ちを大切にしたい』って」
萩原は黙ってしまった。
「結婚したからとか、父親になったからとか、そういうことの責任感はあなたにはまるで
無いのよ。いつも自分の気持ちが一番大事。あたしにもそれを分かってもらって当然やと
思てる。萩原くん、あなたいつまであたしに甘えたら気が済むの?」
萩原の頭に、離婚のとき智子に言われた言葉が蘇った。
クズよ、あんたは──。
「あたしはもう、あなたの奥さんじゃないのよ」
「分かってる」
「言いたいのはそれだけ。悪いけどあたしここで。さよなら」
智子は早足で帰っていった。その背中に萩原は声を掛けた。
「来月も、美雪に逢えるかな」
智子は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「それは約束やから。また連絡します」
「……ごめん。きみにはほんまに──悪いことをしたと思てる」
智子は淋しそうに萩原を見つめた。そして言った。
「あなたの中には……永遠に続く愛情ってあるのかしら」
萩原は何も言わなかった。言えるはずがなかった。
智子はくるりと萩原に背を向けて、街灯の下を歩いていった。
萩原はしばらくその後ろ姿を見送っていたが、やがて俯くと唇を噛みしめた。足下に煙草を
落とし、踏み潰す。そして智子のマンションの前に停めた車に戻るために歩き始めた。
途中、閉まった酒屋の前にある自販機で缶コーヒーを買い、ちびちびと飲みながら歩いた。
車の前まで戻った萩原は、ポケットからキーを取り出し、ドアの鍵穴に突っ込みながら
空き缶を投げ捨てた。缶は乾いた音を立てながら舗道脇の溝に落ちた。
彼はマンションを見上げた。だが、智子と美雪の部屋がどれなのか分からなかった。
車に乗り込み、エンジンを掛けた。西宮までがやたら遠くに感じられた。
ホテルの十八階にあるスカイラウンジで、麗子は店と同じ名前のカクテルを飲んでいた。
窓の外ではすぐ近くの超高層ビルが美しい光を放ち、昼間のビジネス街の冷たい雰囲気を
振り払うように輝いている。反対方向ではライト・アップされた大阪城の天守閣が、時代の
ギャップを強調するかのようにどっしりと腰を下ろしていた。
時計の針は九時を少し前を指していた。彼と逢うとき、麗子はいつもこうして少し早く
やってきて一人の時間を作り、気持ちを彼との時間にだけ向ける準備をするのだった。
思えば、そんなことをしなければならなかったこと自体、二人の関係にはどこかしら無理が
あったのかも知れなかった。
今夜はもう一時間も彼女は一人でここに座っていた。
彼女は今夜こそ自分の見たことを彼に話そうと決心してここに来た。ここひと月の間、
逢うたびにそう考えていたが、相手の顔を見た途端にいつもその決心は脆くも崩れていった。
つまり、好きだという気持ちとはそういうものだ。相手に自分への気持ちがもう残っていない
と分かっていても、それを認めるのが怖いのだ。相手を失いたくないというより、自分が
傷つきたくないだけなのかも知れない。そういう意味では、彼女の彼を好きだと思う気持ちも、
もはや疑わしいと言わざるをえなかった。
「──今夜限りで、僕たち終わりにしないか」
そう言ったのは飯塚の方だった。
「えっ」
不意を衝かれた麗子は、思わず小さく声を上げた。
「ずいぶん驚いたようだけど」
「え、ううん、そんなこと」
「きみの言いたいことは分かっているよ」
飯塚瑛二は言った。「何であなたの方からそんなことが言い出せるの、って。違うかい?」
「それは……そうね」
俯いて答えた麗子を見て、飯塚の顔には少しばかりの落胆の色が見えた。そしてすぐに
微かな笑みを浮かべた。
「知ってたんだね。僕にきみ以外の女性がいることを」
「ええ」
「いつから?」
「ひと月ほど前からよ」と麗子は答えた。「髪の長い、可愛い女性」
「……悪いと思ってる」
麗子は目を閉じた。飯塚のその言葉は、つまりは麗子への最後通告だったからだ。
「あたしって卑怯ね。何も気づかない振りして」
「なに言ってるんだよ」と飯塚は首を振った。「いま言ったろ、悪いのは僕の方だ。きみじゃない」
「いいのよ。あなたにそうさせたあたしに原因があったことは間違いないんだから」
「そうじゃないよ」
「最後くらい正直に言ってくれない。あたしってそんなに──」
「僕はいつだって正直だったさ」と飯塚は麗子の言葉を遮った。
「飯塚くん……」
「そう、僕はいつも正直だった。なぜって、きみは何もかもお見通しだったからさ。気遣いが
細やかで、僕の気持ちを全部理解してくれて。だから僕はきみに正直でいるしかなかった。
嘘やごまかしなんて通用しないきみには、気持ちのすべてをさらけ出すことしか許されなかったんだ」
飯塚は言うと麗子をじっと見つめた。「それに、疲れたって言っても、きみには理解して
もらえないと思ってた」
「……どうして?」
麗子は小さく首を傾げ、口の端で微かに笑みを作って訊いた。飯塚のその言葉こそが理解
できないでいる、そういう表情だった。
「きみが疲れたって言ってくれなかったからさ」
「あたしが?」
「僕とのことだけじゃない。研究のことも、仕事のことも、きみはいつだって完璧にこなしてた。
それでも弱音なんて一言も聞いたことがないんだぜ。そして、いつも眩しいほどに綺麗だった」
「……そんなことないわ」
「僻んでたわけじゃない。そりゃ、僕より年下のきみが僕よりどんどん飛躍していくのを、
同僚として焦りがなかったわけじゃないけど、妬ましく思ったことなんて一度もなかったよ。
むしろ誇らしかったくらいさ。ただ──どうしていつもそんなにパーフェクトでいられるん
だろうと思うと、それがきみのスタイルなんだって、きみはそうじゃないと嫌な人なんだ
って、そんなこと考えてしまった。すると僕は、自分もまたきみの完璧な人生のために
必要なコマのひとつみたいに思えてきてしまったんだ」
「……そんな風に思ってたの。あたしのこと」
麗子は顔を上げて飯塚を見た。「そんなはずないじゃない」
「そうさ。それもわかってるんだ」と飯塚は頷いた。「やっぱり、僻みだったのかな」
「──その女性とだと、疲れないのね」
「疲れるときだってあるよ。でもそんなときは、そう言える。あるいは少しくらいなら
気持ちをごまかすことだってできるんだ。そして、彼女はそれを咎めたりしない──
気づかないだけなのかも知れないけど」
「……そう」
それから長い沈黙があって、やがて飯塚が口を開いた。喜劇のエピローグ、あるいはすでに
カーテンコール。
「──きみとはこれからも仕事を通して互いに刺激し合っていきたいと思う。きみみたいな
人がいてくれて、研究者としては本当に良かったと思ってるよ。これは僕にとってこの上ない幸運だ」
麗子にはもう何も言うことはなかった。いつだってこうだったからだ。彼女と付き合う男は、
いつも最後に同じことを言う。きみに落ち度はない、悪いのは僕だ、僕の方がいけなかったんだ、
これからもきみには頑張ってもらいたい──結局はこの一言。
「じゃあ、僕はこれで」
飯塚は椅子を降りて帰って行った。
これで終わりだった。
それから一時間、麗子はこうして一人でカウンターに座っている。
あたしにどう頑張れっていうの? たった今あなたを失ったこのあたしに。
そう考えて。
グラスの隣に置かれた一輪挿しの薔薇が、艶めかしい赤い色を放っていた。
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