プロローグ
Prologue
開け放った窓に広がる情景は、平和そのものの日常だった。
眼下の公園には、今日も穏やかな時間が流れている。時折あがる、快活な犬の鳴き声、
転がるような子供の笑い声。それらの声の主が、くるくると広場を走り回る姿が、
小さな手鏡のように陽の光を反射する葉をたたえた大きな樹の間から見え隠れする。
少し離れたところのベンチでは、営業職のサラリーマンらしきスーツ姿の若い男が、
ちょっと早い昼食の弁当を膝の上に広げている。そばには缶入り飲料とコンビニの袋。
こんなに天気が良い日は、こうして外での食事も悪くはないのだろう。男の顔からは、
子供たちの騒がしさに眉をひそめる様子は伺えなかった。
──無縁な場所だ、と彼女は思った。
この部屋からさして離れているわけではない。普段はマンションの住人とその関係者が
使うだけの、車が行き交うには少し狭いくらいの道路を一本隔てたすぐ向こうに、
その公園は広がっている。子供のための児童公園を名乗っているわけでもないから、
誰だって出入り自由だ。現に、あのスーツの男だってああして一人で気楽な食事を
楽しんでいる。
けれども彼女は、一度もあの公園を訪れたことはなかった。買い物の帰り、
大通りからこの前の道に入り、右折してマンションの玄関に向かう代わりに
数メートル先の公園の入り口まで足をのばすことは、動作としてたいした違いはなかった。
時間にしてもほんの数秒。三階のこの部屋まで上がってくることと比べれば、むしろ
公園の方に早くたどり着けるくらいだ。
結局は、気持ちの問題なのだった。
あそこへは行かない。行こうとも思わない。行く理由がない。
彼女はそう考えていた。心の中で、自宅と公園の間には大きな隔たりがある。
かつてのベルリンの壁よりも厚く、三十八度線よりも長い、見えない巨大なシールドが……。
遠くなった空からまっすぐに降り注ぐどこまでも明るい陽光に負けてしまったかのように、
彼女は部屋の中に顔を向けた。
そばの白いワードローブの棚に、フォトフレームが一つ。今日の空などは比較にならない、
どこまでも澄んだ海に浮かぶヨットの上で、彼女と夫が白い歯を見せてカメラに笑っている。
一年前の、青い夏の日。
お互いの思いは、今でも変わらないと信じている。
しかし、だからこそ辛かったのだ。
考えに考え抜いたつもりだった。決して自分だけを守るためではなかった。あの人を
守るため。ただそれだけのため……。
心の中で何度も言い聞かせながら、膝の上に一時間以上も握り締めていたコードレスの
電話をゆっくりと持ち上げ、震える手でボタンを押した。
一方では、破滅を望んでいたのかも知れずに。
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