♯1
求めよ、されば得られん。
捜せ、されば見出さん。
叩け、されば扉開かれん。
――新約聖書・マタイによる福音
風車が回っている。
まだ夜の温もりが残るコンクリートの上へ、少年は仰向けに身を横たえた。潮風が鼻腔をくすぐり、朝日が瞳孔を萎ませる。
抜けるような青空、という表現が、少年は大好きだった。空には果てもなければ天井もない。透き通り、どこまでも見通せてしまえそうな青色。もしも自分があらゆるしがらみから解き放たれたなら、一日中空を見上げて過ごしたいと、少年は思っていた。
いつも、見上げれば空があった。そして見下ろせば、海があった。
右を見ても左を見ても、見えるのは細波を湛えた大海原。寄せては引く波飛沫は、東の空から燦々と照りつける朝の日差しを浴びて、銀色に輝いている。
「この海の向こう側には、何があるんだろう?」
きっと何かがあるはずだ、と少年は思う。海は空とは違う。空には天井が無く、海には底がある。
空には果てが無いのだ。だから、きっと海には果てがあるはずだ。水平線の向こう側には、何かがあるはずだ。
「何も無いわ、コルク」
少年の姉が言った。
「この星に大地は無い。全部当の昔に沈んじゃったのよ」
「嘘だ! オレは信じない!」
「貴方が信じなくても、大地は無いの。私たちに残されたのは、この巨大な浮島だけ」
「大人はいつもそう言うんだ。世界の全部を見て回ったわけでもないくせに。探せる力があるのに探そうとしないんだ」
「無いものを探すより、在る場所で生きる方が何倍も大切で、有意義なの。コルク、貴方ももう十四歳なのよ? 私たちには両親がいない。理解しなきゃ、大人にはなれない」
「セコいんだよ、ずるいんだよ、みんな」
少年は姉を睨んでいた目を伏せて言う。
「姉ちゃんだって、昔は言ってたじゃないか。水平線の向こうには、大地があるって。いつか一緒に捜しに行こうって、約束したじゃないか。なのになんでそんなこと言うんだよ!」
「……学校に行く時間よ」
姉、クリスは、突き放すように短く言うと、軍警察の制服を翻し建物の中へと消えた。パンプスの靴音だけが、何度も何度も、少年の耳の中で反響していた。
この星には大地が無い。あるのはどこまでも無限に広がる、大海原のみ。人間はかつて大地を踏み締めて生きていた。だが、その事実は記録の中からも、記憶の中からも、既に消え果てて久しい。
人々は洋上に浮かぶ巨大な浮島の上を生業の場としていた。海底から掘り上げた資源で建物を作り、遥か先祖から受け継がれた種を潮風の当たらぬ場所で育てた。プランクトンや藻類を培養し、魚を獲った。そして彼らは産まれ、生き、死んだ。
この浮島においては、それが当然だった。
日差しが少しだけ鬱陶しいと、陽の差し込む教室でぼんやりと暇を殺していたコルクは思った。
「メガ・フロートは大まかには三層で構成される。最下層の工業ブロック、中層の農業ブロック、そして今我々のいる最上層、居住ブロックだ。このような分類になった理由の分かる者はいるか?」
コンピュータ・グラフィクスの描き出した概略図の下から上へと指示棒を動かしながら、初老の教師が言う。疎らに挙がる手の一つが、彼の質問に答えた。
「農業ブロックが最上層に無いのは、潮風に植物が耐えられないためと、藻類やプランクトンの培養には人工的な空間の方が適しているからです」
「概ね正解だ。ふむ、だがそれでは最下層でもいい、ということにはならないかね? 農業ブロックは中層だ。その理由が分かる人はいるかい?」
また教室のあちこちで手が挙がる。教師はそのうちの一人を指す。コルクは、窓の外を眺めている。
「工業ブロックが最下層なのは、爆発等の緊急事態が起こる可能性が高いからです。もしもそういう状況が発生したら、危険な区域のみを切り離して海底に沈めることができます。あとは単純に、資源の供給元である海底に近いからです」
その通り、と教師は言った。
「最上層に我々が暮らしているのは、ある意味では消去法の産物だ。だが、かつてもこれからも人間は太陽の下で生きてきたし、生きていく。効率を考え必然として収まった場所が人間にとって最も自然な場所だというのは、非常に興味深い。自然界における自然淘汰のような現象が、人工物であるでも起こっている、とも言えるね」
じゃあ、と言葉を切り、教師は授業の終わりを告げようとする。気配を察知し早くもざわめきだす生徒達のなかで、コルクはゆっくりと右手を挙げた。
「コルク君? 意見があるのかね?」
「……ここは、人間にとって本当に自然な場所なんですか?」
「本当に自然かというと、そうではないかもしれない。しかし、限りなくそれに近い。私が言いたかったのはそういうことだ」
「でも、偽物です」
「時を経れば、本物を知らなければ、偽物は本物になる。大地を知らない人間は知らないことを自然とし、やがてはが我々の母なる大地となる。子供が大人になるのに、少し似ている」
「そんなの只の諦めか、錯覚じゃないですか!」
「そうかもしれないね。だけど……時が経てば君にも分かるよ、コルク君」
またこれだ。時が経てば、大人になれば分かる。この文句をもう何度聞かされたことか。
(大人はみんなそうだ。時間を楯に言い訳ばかりをするんだ。大地がどこかにあるかもしれないのに、探そうとしない。諦めるんだ。それでが人間にとって自然な場所だと錯覚するんだ。歳をとるってのはそういうことなのか? 大人になるってのはそういうことなのか? だったらオレは……)
大人になんかなりたくない。コルクの小さく呟く声を遮るように、教師は授業の終わりを宣言した。
区切られた時の終わりを。
湿気を含んだ空気は重い。吹きぬける潮の香りも、鼻を衝くばかりで不快でしかない。メガ・フロートの最上層、碁盤の目のように道路の整備された市街地をコルクは歩いていた。立ち並ぶ背の低い建物の隙間からは相変わらずの海が見える。防錆仕様の塗料のお陰で、街は何か鬱積しているかのような印象を見るものに与える。
空は抜けるように青い。
立ち止まり、コルクは天を仰いだ。
大地があると信じることは罪か?
大地がないと認めないことは子供か?
自分に正直なことは悪か?
「オレは、ここにいていいのかな……?」
呟いたその時、爪先に何かが触れた。
「何だ、これ?」
石ころか、建材の切れ端か。あるいは、何かの種。黒く、非金属な光沢を持つその物体を、コルクは摘み上げた。
大きさは五センチ程だろうか。種にしては大きい。見た目は果実のように見える。だが、それにしては妙な重量感があった。
影が横切った。道を行く車両と、三メートルほどの人型をした機械だ。咎められたわけでもないのに、コルクは慌ててその黒い物体をズボンのポケットに隠した。
Mechanizationed Diving Suits for special operations at deep sea。深海特殊作業用機械化潜水服、通称MeDiSだ。メガ・フロートという特殊な環境化において、潮流が不安定な場所での海底資源の採掘やメガ・フロート自体の拡大・補修工事の為に、単独で活動でき自在に動く五本指のマニピュレータを持つMeDiSは必要不可欠な存在だった。その名の通り、潜水服の発展系であり、操縦するというより感覚は装着する、の方が近い。
運用初期は海中での使用のみを想定しており腕部と背部の推進器並びにバッテリのみが肥大化したような姿だったが、現在は水上、フロート上にも活動範囲は広がり、装着者の動きに同期して駆動する、強靭な脚部を持つようになった。
今、コルクの脇を通り過ぎたMeDiSは軍警察仕様の、白黒に塗装された物だ。
もしもMeDiSを純粋に戦闘の為に用いたら、〈EDN-01〉には、対抗できる兵器は無いだろう。そもそも、〈EDN-01〉には兵器と呼べるものが殆ど存在しない。地上に上がった作業用MeDiSが軍警察に転用されるまでは、である。大型の兵器が必要になるような組織的犯罪や、ましてや戦争など、起こったことが無い。誰もそんなことは望まないし、戦争しようにも相手がいないのだ。〈EDN-02〉も、まだ計画段階だ。
ならば何故、軍警察はMeDiSに銃を持たせて配備したのか。そうまでして戦う敵が、守らねばならないものが在るとでもいうのか。だとしたら、それは何だ。
海を臨む広々とした公園の一角に、コルクは腰を下ろした。ハマエンドウの紫の花が、緩やかな潮風に揺れている。
コルクに出せる回答は、唯一つだった。
「監視してる……?」
この〈EDN-01〉から、誰も逃げ出さないように。MeDiSは管理者だ。コルクには、あの巨体は楽園の名を冠する牢獄を監視する看守のように見えて仕方なかった。
(誰もここから出したくないんだ。だったら、出た先には何がある? 大地だ。決まってる! 大地はあるのに、大人は隠してるんだ。ここの暮らしが唯一のものだと錯覚させて、自分たちだけ地面の上で暮らしてるんだ。そうに違いない!)
ポケットの中から、先刻の黒い物体を取り出す。右手で摘んで宙に掲げ、やや西へ傾いた太陽に重ねた。
空と、海。青一色で塗りつぶされた、誰かが描いたキャンバスのようなこの世界から抜け出したいと、コルクは願う。そして掲げた黒い塊を握り締めた。
その瞬間、電流が弾けたかのような衝撃がコルクの身体を奔った。そして何かが見えた。見えるはずの無い、見渡す限りの緑のビジョンだった。何処か、遥か遠くの見たことの無い景色。
思わず手を離す。黒い物体は足元を転がり、草に加速度を殺されて止まった。
「何だ……今の?」
拾い上げ、もう一度握り締める。
瞬間、視界が崩壊し再び存在しない景色が像を結んだ。闇の内に光が広がる。空があり、海があり、大地があった。
見渡す限りの深い緑の森の上を、コルクの身体は飛行していた。鳥の群れが舞う。肥沃な土砂を取り込んだ、濁った大河が流れ行く。地上には獣が走る。木々は実を付け、雨露が滴る。全ての地を這うものが、己が力の全てを懸けて生き抜いている。川の中には魚類や両生類がうごめく。全ては産み、殖え、地に満ちていた。
森が途切れ、一面の草原が広がる。彼方には冠雪した山脈、他方には海原、そして澄み切った青空。風になびき、寄せ引く波のように揺れる草原へと、コルクは降り立つ。
背後から声が聞こえた。知っている、覚えがある声だったが、誰の声なのかは思い出せない。
コルクは振り向く。視線の先にいたのは、一人の少女だった。クセの強いコルクの髪とは対照的な、ストレートの黒髪に磁器のように白い肌。真っ白なワンピースに麦わら帽子を被った彼女の姿は、何所か超越していて、妖精か天使のようにも見える。直ぐ目の前にいるはずなのに、厚い壁を隔てているかのように遠く感じる。顔が可愛いとかキレイだとかいった単純な概念ではない。生の痕跡、言うならば汚れが何一つ感じられないのだ。
「わたしは待ってる」
少女は言った。
「早く来て。わたしを捜して」
少女は笑った。
「青の彼方で、あなたを待ってる」
「キミは……誰?」
コルクは彼女の身体へ手を伸ばす。少女は微笑んでいる。心が洗われるような、何もかもを無に帰すような笑顔だった。
手が触れるか触れないか。体温の欠片を感じるほどコルクの手が近づいた瞬間、再び鈍くも鋭い衝撃が奔った。
気が付くと、先刻の公園だった。海上は資源採掘船や仰向けのMeDiSが行き交い、時折海中からもMeDiSが浮上し、また深海へと潜行していく。
何時もと変わらぬ〈EDN-01〉の景色だった。
「幻……?」
掌の中には黒い果実がある。再び握り締めても、先刻のような映像は浮かばない。だが、あの微笑には幻だと決め付けるには強すぎる、不可思議な引力があった。
青の彼方、と彼女は言った。待っていると、彼女は言った。
この青一色の世界の彼方。海の向こうに広がる大地。そこで誰かが待っている。
(そうだ! 海の向こうの大地で、誰かが待ってるんだ! やっぱり大地は在るんじゃないか! 隠していただけなんだ。これはきっとメッセージ・ボックスだ。大地に住む人が流した、小瓶に入った手紙なんだ!)
早く来て、わたしを探して。儚げな、少女の声が木霊する。
コルクは立ち上がり、一直線に駆け出す。右手には、黒い果実を握り締めたままに。
♯2
ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。
――新約聖書・ルカによる福音
メガ・フロートの最上層は、人々の生活区画だ。コルクが住む家や学校、病院、商店等が碁盤の目状に、計画的に整備されたコンクリート張りの上に並んでいる。
彼は姉、クリスとの二人暮らしだった。両親は以前、最下層、工業区画での爆発事故で死亡している。
その事故に、幾つか不審な点があった。
事故現場のみならず、工業区画には完全な耐水圧が成されていたのに加え、安全管理にも万全の注意が払われている。単純なヒューマン・エラーだけでは重篤な事故が発生するはずは無いのだ。では機械・ハード面、即ちに問題があったかというと、そうでもない。よって、事故調査委員会が出した結論は『原因不明』だった。
残された選択肢は、何らかの目的で人為的に起こされた事故、という説だ。事件後、軍警察の関与がまことしやかに噂された。何かを隠しているのではないか。二人は口封じに殺されたのではないか。
クリスはそれを解き明かすためだけに軍警察へ入ったと言っても過言ではない。周囲には、自分たちのような不幸な子供を増やさないためだと説明していたし、周囲も彼女をそう理解していた。彼女の真意を知る者は、コルクを置いて他に無かった。
海を臨む公園を発ったコルクは、各階層を貫通するエレベータで最下層へ向かった。乗用車数台を優に収められるほどの大きさであり、工業・農業区画で労働に従事する人々の生活の足となっている。つまり、十四歳の少年が昼間に乗り込んでいても咎められることは無い。
只の子供がを脱出する手段は限られている。船舶は免許が無い。生身では無論不可。手漕ぎボートなども実現性が無さ過ぎる。ならば、MeDiSだ。軍警察のMeDiSを奪うのが一番だ。
自身の身体の延長なのだから、操作自体は自動車などより遥かに簡単だが、残る問題は航続距離だ。内臓バッテリに予備を加えて、持って七十二時間。MeDiSの速度で、果たして陸地まで辿り着けるのだろうか。
(考えてたって始まらねえ。オレは行かなきゃならないんだ。オレを待ってるんだ。早く行かなきゃ行けないんだ!)
工業区画の、外延部の一角に軍警察の施設がある。一流のMeDiSドライバーであるクリスに連れられて幾度か立ち入った経験があったので、コルクにも土地勘はあった。
呑気な警備兵の目を盗み、フェンスをよじ登って施設内へ。そもそもが軍警察施設へ潜入しようなどという者がいないため、驚くほど警備は緩い。
目的地は直ぐに見つかった。各種事務処理を行っている建物とは別に、メガ・フロートの壁面と融合している、倉庫にしては背が低くガレージにしては大きい、一種異様な建物がある。あれが、MeDiSの格納庫だ。
息を殺し、建物側面の小さな通用口を潜り抜ける。すると、目の前には大きく開けた空間が広がる。軍警察の白黒のMeDiSが、左右二列、向かい合うようにして整列していた。中には、今しがた帰還したばかりと見える機体もある。
(姉ちゃん、どこにいるのかな……?)
資材箱の陰に隠れたコルクの目は、無意識のうちにどこかにいるであろう姉の姿を探している。
だが、見つからない。整備に当たっている人々の中にも、ドライバー達の中にも、コルクの良く見知った黒髪の女の姿は見出せなかった。
(とにかく、ここじゃダメだ。機体に乗り込む前に捕まっちまう)
無理矢理に、姉の存在を振り払ったその時、誰かの足音が、コルクが身を潜めている資材コンテナの方へ近づいてきた。
見つかる。早く、どこか、別の場所へ移動しなければ。慌てるコルクの目に、一枚の扉が映った。並ぶコンテナに遮られ、広場の方からは死角になっている。まるで、誰かがこの扉を隠すために作為的に積み上げたかのようにも見えた。
だが、扉にどのような意図があろうと、コルクには開く以外の選択肢は無かった。気取られぬよう静かに、そして素早く、いつの間にか背後にいる野良猫の動きを思い出しながら、ドアノブを掴む。鍵は掛かっていないか? 向こう側には誰もいないか? 不安は全て、捨て去るしかなかった。
(求めれば得られるはずだ。探せば見つけ出せるはずだ。扉は叩けば開かれるはずだ!)
扉は呆気なく開いた。少々拍子抜けしながらも、コルクは慌てて内部へと滑り込んだ。
そこは、酷く薄暗い空間だった。人の気配は全く無い。何か、人を寄せ付けない薄ら寒い空気が漂っている。まるで生が拒絶されているか、空気が殺されているかのようだった。
壁際に、幌のかけられた何かが横たわっている。シルエットから察するに、MeDiSだ。背後の壁には専用の発進ゲートまで完備されている。
「渡りに船とは、このことだね」
掛け金を外し、カーキ色のシートを払いのけて足元へ無造作に放る。下にあったのは、果たして一体のMeDiSだった。
だが、雰囲気が異様だった。まずは塗装。民生用のMeDiSならば、通常の重機と同様街中で目立つようにビビットな色合いで塗装されたり、水中で目立つように暖色・白色系が多い。軍警察の機体ならば、伝統的に白と黒のモノトーンだ。
だが、この機体は一面の黒。水の抵抗が少ないよう曲線主体のフォルムなところは共通だが、黒以外の色が見当たらない。
そして、何より異常なのは腕部だ。MeDiSは作業用機械であり、ダイナミックかつ精密・繊細な動作が望まれてマニピュレータを発達させた。手指こそがMeDiSをMeDiSたらしめているのであり、他と一線を画した作業用機械としてアイデンティティを確立しているのだ。
だが、この機体には手が無い。代わりに、腕の肘から先は先端に行くにしたがって徐々に細くなる筒状の何かが取り付けられている。
「これは……銃? 何でこんなモンがメディスに……?」
自分がいる場所も忘れてコルクは考え込み、呟く。軍警察は何故こんなものを造ったのか。MeDiSには不要なはずの武器を、何故持たせたのか。銃口を向ける敵は、何処にいるのか。
迂闊、と言わざるを得ない。彼女の存在にに気付いた時には既に、銀色の銃口が向けられていた。
「動かないで、コルク」
「姉ちゃん……?」
MeDiS乗り用の特殊繊維製耐衝撃服を身に纏った姉、クリスの姿が一人、そこにあった。
「どうやってここに忍び込んだかは問わないわ。でも、これはあなたが見てはいけない物なの。あなただけじゃない。誰の目にも触れてはならない」
「……その銃で、オレを殺すの?」
「聴いて、コルク。父さんと母さんが死んだのは、これの所為なの」クリスは黒光りするMeDiSを目で示して言う。「これを見てしまったから、二人は軍警察によって事故に偽装され、殺されたの。武装は禁忌。誰にも知られてはならない物だから」
「どうしてこんなもの造ったんだよ!」
「人間は愚かだから」クリスは静かな声で言う。「持つことが出来る力は全て持たずにはいられない。持ったらそれを振るわずにはいられない。だからこのMeDiS〈ナイトメア〉を造った。その名の通り、悪夢しか呼ばないものだと気付いていながら」
「……」
「わたしはいつかこれを秘密裏に廃棄させるつもり。存在を公開したら、第二第三の〈ナイトメア〉が生まれてしまう。それだけは許してはならない。父さんと母さんのためにも。でも、一介のMeDiSドライバーでしかないわたしには、まだ出来ない」
「だから……オレも殺すの?」コルクは問う。
「殺したくないわ。あなたはわたしの大切な弟だもの。でも秘密は守らなきゃならない。だから今すぐここを立ち去って。今ならまだ、全てを忘れて、元のコルクにあなたは戻れる」
「……」
コルクは何も言えなかった。両親を死に追いやった存在である異形のMeDiSを目にしているからではない。世界にたった一人の姉が、自分の味方だったはずの姉が、自分に銃を向けていると言う事実が理解できなかったから。
「姉ちゃん……」コルクはやっとの思いで声を発した。「大地は在るんだよ」
「まだそんなことを……!」
「在るんだよ! オレは見たんだ。この海の、青の向こう側で、オレを待ってるんだ! 見つけて欲しいって言ってるんだよ!」
「何故あなたはそうやって、叶わない夢ばかり見るの?」
「頼むよ、オレを行かせてくれ! このメディスがあれば、辿り着けるかもしれないんだ!」
「そんな我儘を!」
「行きたいところへ行くことの何が我儘なんだよ!」
「子供の理屈よ」
「理屈をこねるのはいつだって大人じゃないか!」
コルクは姉を睨みつける。クリスの表情は先刻、動かないでと告げたときから全く変化していない。オートマチックの拳銃も、変わらずにコルクの左胸を照準し続けていた。
(理屈をこねるだけで何もしないから、何も変わらないんだ!)
だから。
「オレはここを出るんだ!」
コルクは叫び、足元に折り重なっていたシートの端を掴んで、引き摺るようにして自分の姿を覆い隠す。
「コルク!」
クリスは拳銃のトリガーを引く。だが、標的を見失った弾丸はシートを貫き、壁に当たって火花を散らした。膨らんだ化学繊維の生地が空気を撹拌し、音を立ててまた折り重なっていく。
「またな、姉ちゃん」
コルクは〈ナイトメア〉に乗り込む。頭部の直径四十センチ程の穴に足から潜り込み、少々つっかえながらも両手両足を収める。成人男性用に作られたものだけあって、少し大きい。
左側頭部のスイッチを頭突きで思い切り叩く。一般的な、MeDiSの起動法だ。応えて乗り込むのに使った穴の半分が展開していた装甲で、もう半分ほどは強化樹脂製のバイザーで覆われた。バイザー越しの視界は、やや暗い。同時に手足の締め付けが強くなり、丁度身体にフィットする程度に調節される。
手の先には普通なら五指を収めて使うマニピュレータの操作ハンドがある。だが、この機体にはそれは無く、グリップが一つと、親指のところと人差し指のところにスイッチが一つづづ有るだけだった。
コルクは身を起こす。同調して、〈ナイトメア〉もまた、やや億劫そうに上体を起こし、そして立ち上がる。クリスがまた銃を撃つが、黒い装甲は難なく弾丸を撥ね返した。苛立ち紛れに彼女がありったけの残弾を連射しても、結果は同じだった。
「いける、いけるぞ……オレは外へ出られる!」
バイザー越しの視界が突然クリアになる。横長の長方形の視界の左上にバッテリ残量表示が点る。表示は三段。一番上の強調された数字はコンマ刻みに減少し、下二つは『72h00m00s』のまま静止していた。
(予備バッテリか。だとしたら一つ七十二時間で……九日間も補給なしで動けるのか!)
同時に右下に上から『R300』『L300』『R3』『L3』の表示。それぞれの横には銃弾と、ロケット弾の模式図が描画されていた。
「戻りなさい、コルク!」
「うるさい! オレは……」コルクと〈ナイトメア〉は外壁の方を向き直る。「外の世界を見たいんだ!」
右手親指のボタンを押す。電灯のスイッチを入れるのと同じくらいの軽い感触と共に〈ナイトメア〉の右脹脛部が展開する。
「ブッ飛べよ!」
ロケット弾が一発飛び出し発進ゲートをハッチごと吹き飛ばす。轟音、一瞬炎が巻き起こり、直後に海水が押し寄せる。背後を窺うと、既にクリスの姿は無い。
『R3』の表示は『R2』に変わっていた。
下には闇が、上には光が見えた。前には海が、後ろには壁が見えた。
ブースト・オン。背中と両踵のスクリューがバッテリから流れ込む電力で駆動し、前進上昇の推力を作り出す。白い泡の尾を引いて、〈ナイトメア〉は海に差し込む光を目指して進む。
「水深三百メートル。速度十八・三ノット。このバイザー、各計器の出力機も兼ねてんのか」
水深計、速度計。レーダー、ソナー、熱探知。そしてバッテリ残量に武装残弾数。それらを一瞥し、コルクは更に機体を加速させる。コルクの視線を受けた速度計だけが強調して表示されている。二十ノットを突破。
ソナーに感。即座に駆動音をコンピュータが分析し、データベースと照合する。レーダーの索敵範囲に敵機侵入、警報音が鳴る。
追っ手は六機。全てが軍警察の〈A-1改〉と表示されていた。
画面上に敵戦力の表示が躍る。主武装は手持ちのライフル、装弾数百、水中での有効射程は十メートル前後。電磁加速式だが、連射は利かない。
〈A-1〉は軍警察では白黒塗装で運用されており、民生用にも利用されている。先刻コルクが街中で見かけたのも〈A-1〉だ。その、武装を積んだ改良型、純然たる戦闘用ということだろうか。
何のために、とコルクは問う。MeDiSが何故に武器を持つのかと。〈A-1改〉もまた、人間の愚かしさなのかと。
或いは、向けるべき敵がいるのか。
(敵になり得るもの……この〈ナイトメア〉か? だとしたら、こういう事態を軍警察は予測していた……?)
敵機接近、エンゲージ。表示が切り替わり、戦闘に不要なものは一斉に消え失せる。代わりに、声が聞こえた。
『〈ナイトメア〉を捕捉。交戦開始』
ノイズが多いが、敵同士の会話だ。
『こちらも捕捉した。有効射程内までテンセカンド』
『敵現在位置はヒトマル・ヒトマルゴ・フタロクハチ』
『全武装の使用を許可する』砂嵐の向こうで、忘れようの無い声が言う。『機密保持を最優先。ドライバーの生死は問わない。機体は破壊しても構わないわ』
やっぱり、とコルクは呟く。
「オレを殺すんだね、姉ちゃん」
どこかの装甲に弾丸が当たり、部屋の扉を軽くノックされたかのような音がコルクの耳に届いた。
「だったらオレも、『また』なんて言わない。『また』は無いんだ。今度は、本当に……」
さようなら、姉ちゃん。伝える代わりに、人差し指に掛かった引き金を引いた。
〈ナイトメア〉の右腕と一体化したハンドガンから電磁石を通して加速された弾丸が、〈A-1改〉の一機に襲い掛かる。乾いたリズミカルな発射音。三発づつの三点バースト射撃だ。
〈A-1改〉の体勢が乱れる。乗じて左腕も向けようとしたが、左後方からの射撃。肩の辺りに立て続けに数発着弾し、鈍い衝撃が走る。
「何で邪魔するんだよっ!」
体ごと弾丸の飛んできた方へ向き直り、そこにいた二機へ左腕を向けて射撃。だが、即座に散解、ダメージは与えられない。
下方に敵。レーダーの警告にコルクが反応するよりも早く、踵に着弾。左脚の推進機構に異常、との赤文字の警告がバイザーの裏側に流れる。
「ちくしょう、ちくしょうっ!」
右、左、上、下。目に付く敵へと眼盲滅法に両腕のハンドガンを乱射するも、一向に決定打は与えられない。残弾数が百を切る。両手が灼けつくように熱い。
『コルク。あなたは決してしてはならないことをした。父さんや母さんと同じよ。あなたは悪夢を現実のものにしようとしている。それは赦されることではないの。本当の悪夢は叶わない夢。それが夢だと分かっている夢。眠りながら、目覚めていると思い込んでいる。悪い夢は棄てなきゃいけないの。赦されざる悪だから』
三、三、三。ワルツを舞い踊るように残弾がその数を減らしていく。体が熱い。この熱はなんだろう。両手が抉られるように熱い。
いや、痛い。
四方八方から一斉射撃。衝撃に、額をバイザーにしたたかに打ち付ける。瞼の上から血が流れる。痛い。
正面、敵一。ハンドガンのトリガーを引く。命中。だが、九発で弾切れになった。『R000』『L000』の表示が明滅する。〈A-1改〉は背と踵のスクリューで必死に体勢を立て直している。
左手親指のスイッチを押した。ロケット弾が電磁加速で飛び出し着弾。爆発、白黒MeDiSの、咄嗟の動作で胴を庇った両腕が吹き飛ぶ。
もう一度押した。ロケット弾が電磁加速で飛び出し着弾、白黒MeDiSの、腹部の装甲が捲れる。
もう一度押した。ロケット弾が電磁加速で飛び出し着弾、ドライバーの腹腸が引き裂かれ、両腕の無い〈A-1改〉が胴体から真っ二つに千切れる。
右下方の敵機がライフルを構えている。回避、間に合わない。〈ナイトメア〉の右脚に弾丸が命中、ロケット弾に誘爆。右脚部が吹き飛ぶ。
右脚が熱い。痛い。隙間から海水が内部に流れ込んでくる。冷たい。瞼の上から流れた血が右目に入る。再び衝撃、視界が赤く染まる。
左手に奇妙な感触。コルクは、いつの間にかあの黒い果実を握り締めていた。
目の前にクリスの〈A-1改〉がいた。
「眠りなさい。あなたの夢を、醒まさせてあげる」
透き通った声が聞こえた。知っている。この声を知っている。胸にライフルが突きつけられている。
全てが血の色に染まった。
#3
あなたはペテロ。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建て、あなたに天の鍵を授けよう。
――新約聖書・マタイによる福音
コルクは眼を開いた。そして眼を開く直前、自分の身体が大きく跳ねていたことを認識した。
身体は暖かかった。熱くも冷たくも無い。
あれは、夢だったのだろうか。拾った正体不明の塊がら得たビジョンに突き動かされるように、軍警察に隠されていた戦闘用MeDiSを奪い、姉に殺された。そして気が付いたらここにいた。
ならば、今のここも夢なのだろうか。
コルクは、銀色の、棺桶のような狭い空間の中で仰向けになっていた。押し込められていた、の方が正しいかもしれない。棺桶にしてもおかしい。金属製で、銀色で、壁面は緩やかな曲面を描いている。丁度顔の部分だけ、そのカプセルの金属は途切れ、ガラス(のような透明な板)が填め込まれている。
その透明な板を叩くと、瓶詰めの蓋を開けたときのような音を立てて、簡単に外れた。出来た穴は人一人がどうにか通り抜けられる程の大きさがある。
寝ている理由も無いので、外へ這い出し、上半身を出して辺りを見回す。
コルクは、我が眼を疑った。
右、左、前、後。延々と、視界の続く限り、今コルクが入っていたのと同じカプセルが並んでいるのだ。並びには一分のずれもない。
全身をカプセルの外へ出し、とりあえず歩こうと一歩踏み出した時、自分の頭に何かの装置が取り付けられているのに気付く。簡易なヘッドギアだ。そこからケーブルが、カプセルの内部へと続いている。
コルクはヘッドギアを外し、自分のいたカプセルの中へと放り込んだ。
隣のカプセルは空だった。その更に隣には、まだあどけなさが残る少女が眠っている。頬には血色があり、死んでいるようには見えない。そのまた隣には少年が。少女と同い年くらいだろうか。他のカプセルにも、一つに一人づつが収められ、皆昏々と眠っていた。
大人は皆、死んでいるかのように生気が無かった。
「その場所には、以前はわたし達の両親がいたわ」
コルクの後ろから、誰かの声が聞こえた。
「今はその子達。八年前のことね」
どこかで聞いたことのある声だ。忘れるはずが無いのに忘れている。思い出せないのか、あるいは思い出すことを拒絶しているのか。
「あなたは……誰ですか?」コルクは訊いた。
「わたしはクリス」彼女は答えた。
「姉ちゃん?」
「わたしはクリス。わたしはあなたの姉。クリスはあなたの姉。あなたはわたしの弟。わたしはクリス。だけど、クリスはわたしじゃない」
コルクは振り向く。そこには確かに彼の姉、クリスがいた。
「ここは……どこ?」
「ここは夢を見せる場所。青色の世界の向こう側よ」
「どういう意味だよ」
「水没した世界も、〈EDN-01〉も、全てはわたし達がここで眠りながら見ている仮想現実空間なの。肉体を仮死状態にして老化・代謝を停止。そして脳に対し一定の信号を外部から送りつけ、夢を見せているの。争いの無い、青い海に囲まれた平和な世界の夢を」
「そんなことが……」
「出来るわ。わたし達が認識する外界とは、突き詰めれば全てがほんの数ミリボルトの、神経細胞の電位差に過ぎない。頬を撫でる風も、潮の香りも、傷の痛みも、喜びも、悲しみも。だからそれを作り出しているだけ。たとえば目の前にリンゴがあり、それを食べるとき、あなたはリンゴの赤い色や滑々した触り心地や歯ざわり、香り、味を認識する。でもそこにリンゴは存在しない。存在しているとあなたが認識しているだけ」
「錯覚?」
「錯覚ではないわ。あなたは正常に認識しているのだから」
「夢……オレたちが生きていたあの世界は、幻だってのか?」
「或いは、物語。この世界に絶望した人間達が作り出した、夢と憧れの詰め込まれた御伽噺よ」
「絶望……」
「自分の目で見るのが一番確からしいわ。今のあなたは確かに存在しているのだから」
言うが早いが、クリスは並ぶカプセルの隙間を縫って歩き出す。コルクも後に従う。
辺りは薄暗く、空間の全容は窺えない。何の音も聴こえない。滑々した床面にぺたぺたと歩く二人の足音だけが響く。コルクもクリスも裸足だった。服装は、手術衣のような手と肩の部分に穴の開いた薄布が一枚きり。クリスは膝下まで、コルクは踝まで覆われていた。
五十メートルほども歩くと外壁にぶつかる。その間、二人とも無言だった。壁には扉がある。クリスが触れると、扉は音もなくスライドし開いた。
扉の先は、金属の橋だった。幅二メートル前後、長さは百メートル程もある。天井はそれ以上に高く、薄暗くて全てを把握することは出来ない。橋の下も中途半端な暗闇で、冷却ファンのような音が絶え間なく響く。獣の咆哮のようにも聴こえた。
「地下に何があるか気になる?」クリスが尋ねる。コルクは頷く。
「この地下にはね、超大容量の、仮想現実空間を生み出すコンピュータ・シュミレーション・システムや、コールド・スリープを維持するための動力施設があるの。整備も自動化されてるわ。わたしは降りたことが無いけれど」
そう言ってクリスは少しだけ微笑み、また歩き出す。コルクも従う。
一分と少し歩くと再び外壁にぶつかる。壁にはやはり、扉があった。
「あなたが見たかったものを見せてあげる」
「オレが見たかったもの?」
「大地。この世界の本当の姿よ」
クリスの手が扉に触れた。
目に見える全てが、赤と青に二分されていた。果ての無い赤茶けた大地と、くすんだ空の青。何も無い。見渡す限りの平面だった。
一歩踏み出す。乾ききった土が足の動きに合わせて舞い上がる。
「何があったのかは記録されていない。隕石が衝突したのかもしれないし、大熱量の兵器かもしれない。だけど、とにかく何かが起こり、この星の大地は全てが焦土と化した。海は自然の浄化作用を破壊する程に汚染され、かつて宝石の美しさにも喩えられたこの星は、草の一本も生えない、生命を拒絶する星になってしまった。だから残された僅かな人々はここに逃げ込んだ」
クリスは振り返り、今しがた自分たちが出てきた建物を指差す。
端が見えぬほど巨大な、何かドーム型をした建造物だった。
「始めは、この中でみんな平和に暮らしていた。だけど、争いが起こったの。再び彼らを滅ぼしかねない争いが。それほどまでに人間は愚かしく、独善的だった。人々は生を拒絶する星に、赤色の大地に、愚かな自分たちに、絶望したの。だから彼らは夢見た。平和で、武器を持たず争わず、青く美しい大海原に囲まれた地を」
「それが……〈EDN-01〉?」
「そう。人々は夢を見ることにしたの。そしてあの施設を造った。意識のみを残して身体機能を極端に低下させ、自分たちが生み出した夢の楽園[エデン]を生きるために。自給自足、風力・潮汐・太陽光、自然エネルギーで稼動するメガ・フロート。そこには人の形をした巨大ロボットまでいるの。まるで御伽噺でしょう?
だけど、コールド・スリープは寿命を延ばすことにはならなかった。身体は須らくして滅びるの。まるでそれが宿命だと諭されているかのようにね。だから人工子宮を造った。仮想空間内で性交渉が行われ女が妊娠すると、眠る男と女から精子と卵子を抽出し人工子宮で育てるの。全て自動でね。そして意識を持つより早く、赤ん坊にも仮想現実を見せながら、身体機能が完成するまで育てる。さっきの子供達を見たでしょう? 彼らはまだ発育途中なの。勿論、目覚めなければ、あなたも。そうしてわたしたちは世代を重ねてきた」
「……死んだ人はどうするんだ?」
「足元を見なさい、コルク」
言われた通りに足元へ視線を落としたコルクは、小さく息を呑んだ。
激しく乾燥・風化し、触れれば崩れそうな何か。白くて丸みを帯びたそれは、確かに人間の頭骸骨だった。今まで気が付かなかっただけで、周囲には赤い乾いた土に紛れて数え切れない程の白骨が転がっていた。中には、まだ肉の残っているものもある。
「あなたにしてもらいたいことがあるの」クリスは言った。「いや、あなたにして欲しい、あなたがしなければならない、あなたがするべき大切なことがあるの」
「何を……するの?」
「ついてきて」
短く言い残し、先刻のようにクリスは先に立って歩き出す。コルクは黙って従う。
無言のまま、元来た道を引き返す。橋を越え、カプセルの並ぶ空間へ。
自分のカプセルの横を通り過ぎ、隣の空のカプセルの中を覗き込む。
空、では無かった。透明な板越しに良く見ると、死角になっている部分に機械の塊が見える。カプセルの半分ほどの容積を埋めているようだった。
「それはわたしの意識。ここでこうしているわたしは、〈EDN-01〉で軍警察のMeDiSドライバーを務めているわたしの意識を一方的に共有しているの。あちらのクリスはわたしを知らないけれど、わたしはクリスを知っている。あなたの姉のクリスはわたしだけど、わたしじゃないの」
あなたは誰だと尋ねたときの答えが、コルクはようやく理解できた。
「姉ちゃん、オレは何をすればいいの?」
コルクは訊いた。クリスは、一つのカプセルを指差した。
「その人は死んでいる。その人はあなたが殺した。だからあなたが、その人を運んで」
「え……? 運ぶって、どこへ?」
「外へ。見たでしょう? 人は死して、死んだ大地の命となるの」
カプセルの中にいたのは若い男性だった。コルクは透明な板を外し、首を掴み、腰を抱えて彼を引きずり出す。
「彼は優秀なMeDiS乗りだった」クリスが言った。「あなたが殺した。夢の中にあっても争いを忘れられない、人の生み出した『悪夢』で」
コルクは無言のまま、男性の身体を背負った。
「クリスとは恋人関係だった。わたしではない、クリスと」
男性の身体は重い。砂袋を全身に巻きつけているかのようだった。自分の力で自分を支えなければ、人はこんなにも重いのだ、とコルクは思う。噛み締めた唇から血が滲む。一歩一歩、コルクは歩を進める。クリスは隣をゆっくりと歩いている。
「わたしはここの管理者なの。八年前からね。そのときのわたしも、十四歳だった。父さんと母さんが死んで直ぐ、わたしもあの黒い塊を拾った。あれはオリーブ、という植物の果実に似せて作られているらしいわ。本物を見たことは勿論無いけれど、ね。あれはかつてのこの星の記録。その映像に、十四歳のわたしを合成したの。そうしてわたしはあるとき目覚めたらここにいた。そして前の管理者から権限を引き継ぎ、意識の一部を分離させたの」
男性の身体を背負ったまま、コルクは呻き声一つ上げずに只淡々と歩く。クリスは語り続ける。
「管理者の仕事はここの死体を外に運び、棄てること。それだけ。他には何も無いの。一日一度、機械がわたしの身体に必要な栄養と、精神のバランスを保つための薬物を注入する。だからわたしは気が狂いそうなこの生活でも仕事を続けられるの。何故この仕事だけを自動化せずに残したのかは分からない。でもわたしはこう思うの。これは、愚かな自分達自身への戒めなんだ、ってね」
壁面へ到達する。クリスが触れ、扉は開いた。目の前には再び、薄暗い橋が見えた。
コルクは進む。全身の筋肉が鉛だった。それでも一歩一歩、男性の遺体を背負って進む。
橋の下から生暖かい風が吹き上がってくる。楽園を生み出していた地下の巨大コンピュータから発せられる音が、眠り続ける人の声にならない呻きのように、コルクには思えた。
「さっき、赤ん坊は意識を得ると同時に仮想現実を見せられる、って言ったわよね? だけど、全てが上手くいくわけじゃないの。確率論の問題で、必ず失敗する子供はいる。そういう子供達は、意識の奥底で世界を疑うの。本当の自分が居る場所はここでないと、気付いてしまうの。わたしや、あなたのように。彼らの元に、オリーブは届けられる。オリーブは新たな世界への鍵なの。そして目覚めた人間は、ここの管理者になる権利を得る」
最後の扉の前に辿り着く。足取りは、足枷が嵌められているかのように重い。額から汗が流れ、滴り落ちて点々と足跡を刻んでいた。
クリスが扉に触れ、開かれる。再び荒れ果てた大地が視界いっぱいに広がる。深呼吸すると、砂の味がした。
赤い大地の上を、コルクは歩く。一歩づつ、何かを確かめるように歩く。
七歩進み、コルクは遺体を棄てた。
天を仰いだ。太陽が高い。砂煙で霞んでいるが、空は確かに青かった。
「あなたはよくやったわ、コルク」
クリスが微笑んだ。コルクは表情を変えない。
体が自分のものではないようだった。疲れ果て、筋肉が全て丸太に変わってしまったかのようだ。コルクはよろめく。倒れそうになる身体を、クリスが支えた。
力が出ない。成すがままに、コルクは姉の背に負われていた。
「姉ちゃん……」
「昔はこうしてあなたをおんぶしてあげたのよ? 本当の、本当に昔」
クリスは笑った。コルクもつられて笑った。我ながらぎこちない、とコルクは思う。
橋を越える。
「姉ちゃん。オレ、久しぶりに笑った気がする。笑い方を忘れるくらい。なあ、姉ちゃん。オレは……どんな風に笑ってた?」
「疑うことを知らないみたいな、真っ直ぐで綺麗な笑顔だったわ。今のあなたも同じ」
再び扉を開き、カプセルの並ぶ部屋に入る。数歩進み、クリスはコルクを背から下ろした。離れかけた身体が戻ってきたような気がした。
「聴いて、コルク」クリスが言った。「今のあなたには二つの選択肢がある。わたしの代わりにここの管理者になるか、全てを忘れてもう一度眠るか」
「姉ちゃんの代わりに……?」
「そう、わたしを殺して。わたしも前任の管理者を殺して、ここにいる。管理者は一人でなければならないの。罪を贖う者は孤独でなければならないから。或いは真実を忘れ、夢の中へと還る。あなたの意識を再構築すれば、あなたは疑うことを忘れられる。悪夢に苛まれることも無くなる。だけど、あなたは死んでいるから、あなたはあなたでは無くなる。あなたの意識は存在するが、あなたは別の誰かになる。関係性が変化するの」
「姉ちゃんは、どうして?」
「わたしは……」初めて、クリスは言い澱んだ。「耐えられなかったの。〈EDN-01〉で死んだわけではないから、わたしはわたし。だけど、たとえ忘れられるとしても、いいえ、忘れてしまうからこそ、わたしは再び夢を見ることが怖くて、耐えられなかった。一度疑うことを知ってしまったから、疑わないことが怖かった。だからわたしは前任者を殺して、管理者を引き継いだの」
オレは、と呟きコルクは拳を握り締める。
「どうしたらいい……?」
「あなたが決めるの。わたしを殺すか、全て忘れるか」
クリスは懐中から拳銃を取り出し、コルクへ差し出した。
「さあ、決めて、コルク。『あなたはどうしたいの?』」
#?
信仰は望むことを確信させ、見えないものを真実とする。
――新約聖書・ヘブル書
「この海の向こうには何があるの?」
少女は言った。彼女の目の前には、果ての無い海原が広がっている。ハマエンドウの紫の花が潮風に晒され、揺れている。
「何も無いよ」少年は言った。「この星に大地はない。全部当の昔に沈んじゃったんだ」
「そうなんだ……」と少女は言った。
「学校行く時間だよ」
少年が言う。うん、と少女は応え、二人は手を繋いだ。
風車が回っている。 |