下
花のヘアピンを短い髪にとめて、バルーンスカートのワンピースを琴葉はきている。淡いピンクのワンピースには、黄色に近い黄緑のリボンがついていて、桜みたいな服で春の季節にぴったりな気がして着てきたのだ。
琴葉は待ち合わせ場所で、もう30分も立ち尽くしたまま待ち人を待っている。約束の時間より10分早くきたから。相手の遅刻は20分というところだ。
腕時計を何回も見ながら、人ごみに目をやる。今日は、絶好のデート日和で半そででも充分なうららかな春の気候だった。
「悪い、悪い」
すまなさそうに頭をかきながら、20分も遅刻した智樹が現れる。琴葉は遅れてきた智樹に拗ねて言った。
「遅い。ずっと立ちっぱなしだったんだから」
別に怒ってはいない。しかし、少しくらい苦情を言っても罰はあたらないだろう。朝から気合を入れて、それでも遅れてはいけないと必死に努力してきたのだ。
「わるかったって。そう怒るなよ」
智樹も琴葉が本気で怒っていないことは知っている。だから、軽い言葉でかえしてきた。もう、と怒りを納めるような仕草をとった琴葉に智樹は手をさしだす。
「手つなごうぜ」
智樹の言葉にすんなり従うと手をさしだした。智樹がしっかりと握りかえしてくる。二人は手を繋ぎながら人ごみに紛れていく。
智樹を見るといつもよりオシャレしている気がする。少し雰囲気の違う智樹を見ながら、琴葉は本当に恋人になったんだ。と実感していた。
智樹に告白されたのは1ヶ月前のことだった。これまで友達としか思っていなかった智樹に、そんなことを言われたのは純粋に驚きしかなかった。しかし、琴葉はOKをだした。
智樹は優しくていい奴だし、父が亡くなった後もよく気にかけてくれた。だから断る理由がなかったというのが一番の要因だった。
父が突然亡くなって、どうしていいのかもわからず失意の中にいた琴葉に、智樹は毎日家にきてくれた。これと言って何かをしてくれた訳ではなかったが、あの家で一人でいることを思えば、どれほど救われたか。
今日は付き合って初めての正式なデートだ。これまでも学校の帰り道とかちょっとしたデートはした。でも、前もって約束して、待ち合わせをしてのデートは初めてだった。
「遊園地って久しぶり〜」
琴葉はチケットを持ったまま園内にはいると言った。遊園地なんて、小学生以来かもしれない。
「オレは去年きた」
「誰と?」
「野郎だよ。友達4人できたの」
「ムサイ」
琴葉は、大の男4人が遊園地のアトラクションに乗っている姿を思い浮かべて呟いた。
「それより、コースター系乗ろうぜ」
智樹はそう言ってはぐれないように手を握ってきた。琴葉は、あからさまに嫌な顔をする。絶叫系が苦手だ。怖いのもご免こうむりたい。
「やだ」
「何だ。怖いのかよ」
智樹のからかうような表情にムッとしたものの挑発に乗るような馬鹿なまねはしない。本当に苦手なのだ。しかし、智樹に連れられて気がつけば椅子の上。
「ヤダァァァァァァ―――――――ッッッ」
琴葉の絶叫がこだました。ジェットコースターが止まった時には、涙を流していて化粧がとれてしまった。
「ううぅ、立てない…」
情けなくも涙を流しながら琴葉は言う。智樹は、しかたないな。と言うように琴葉を抱き上げた。抱き上げた腕に微かな振るえを感じて、智樹は言う。
「情けないな。お、思ったより軽いじゃん」
「うう、本当に情けない」
琴葉は智樹に横抱きにされながら階段を降りていく。まわりが注目していることに情けなさを感じた。ジェットコースターに乗って腰が抜けるなんて。
「おとなしめがいいな」
「お願いします」
琴葉は智樹の提案を丁重に受けいれる。琴葉が立てるようになるまで、ベンチでジュースを飲みながら他愛無い会話を楽しんでいた。その後、おとなしめのアトラクションに乗って、パレードを見て、あっという間に時間が過ぎていった。気がつけば暗くなっている。
父のことがあって、こんなにたくさん笑うことは最近なかった。今日は何気ないことでも楽しくてしかたない。久しぶりの晴々としたスッキリ感を味わっている。
「もう、そろそろだな」
携帯の時計を見ると智樹が言う。
「うん?何?」
琴葉の疑問に答えず、琴葉の手を引っ張る。智樹に連れてこられたのは観覧車。そして、智樹はエッヘンと二枚のチケットをだした。
「何?」
琴葉がよく見るとそれは、カップルシートの予約券だった。ここのカップルシートは有名で、入園前に整理券を買わなければならないほどだ。しかも、ちょうどイルミネーションの時間帯。
「乗ろうぜ。初デートの記念にさ」
智樹の言葉に、琴葉は嬉しそうに笑った。智樹がこんなことするなんて、琴葉には想像できない。やっぱり友達の時とは違うのだろう。
「わぁ、やっぱり綺麗だね」
ここで上空から夜の遊園地を楽しめるのは、この観覧車と打ち上げられてしまうコースターだけだ。絶叫系ではゆっくり見てなどいられない。
遊園地はライトアップして、キラキラしている。琴葉は楽しげで綺麗なその光景を見下ろしながら言った。ゆっくり、ゆっくり動く観覧車はもうじき頂上にくる。
「琴葉、知ってるか?」
「うん?何が…」
観覧車の外の景色に目を離すことなく琴葉は答える。そんな琴葉に智樹が言った。
「頂上でキスすると結婚できるんだって」
「誰と誰が?」
琴葉のボケたかえしにガクっと肩を落としたが、気をとりなおす。
「琴葉とオレが」
琴葉は「え?」と声を漏らすと智樹を見た。智樹の顔が直ぐそこにあって、どうしていいのかわからず固まる。
「頂上だけどしてもいい?」
智樹の聞いたこともないような声が届いて、琴葉のパニックは深刻度をましていく。
返事がかえってこないことを肯定と受けとると、智樹はゆっくりと近づく。琴葉はあまりの緊張感に目をつぶってしまった。
「うんっ」
唇に生暖かい息がかかる。琴葉はその瞬間、鼻から抜けるような声を漏らしていた。ゆっくりと智樹が離れていく。
「ごめん。焦りすぎだよな」
智樹の胸を琴葉の腕が押しかえした。智樹の言葉に、何だか罪悪感にも似た感情が沸き起こってきたが、琴葉はどうすることもできない。
琴葉は自分の胸に手をあてると軽く握りしめた。心臓はドキドキと脈打っているのに、何かが足りない感覚。初めてだったから怖かったのかもしれない。
少し気まずくて、再び窓の外に目をやると空から黒い羽根が一枚降ってきた。ふわり、ふわり、と落ちていく羽根を琴葉は不思議な気持ちで見ていた。綺麗だと思う気持ちとぎゅっとくる感じ。
その後、二人はいつものように、馬鹿なことをしたり他愛無いことを話したりして過ごした。智樹が気を使ってくれたお陰で、気まずい思いをすることはなかった。
家まで送っもらって、智樹と別れる。琴葉は、そのまま化粧を落として、シャワーを浴びる。そして、自分の部屋へともどった。
襖を開けて真っ先に目につく大きなベッドを見て、無駄に広い。と思う。襖を開けるといつも思うことだ。一人では広すぎる。
部屋の真ん中に置かれたそのキングサイズのベッドに、これを置いた時の自分の神経を疑う。でも、ベッドを買った時の記憶は曖昧で。ベッドだけじゃない。ここにある物は大半の物が、記憶が曖昧だ。
琴葉は父の形見である青いビー玉を手にとる。蛍光灯の光りを透けさすと七色に光って綺麗なのだ。葬儀の後、こうしてビー玉を覗いたまま涙を流していた。
父はどうしてこんな物を渡したのだろうか。父と最後の会話になったはずなのにそのこともよく思いだせないでいた。
小さな引き出しを開ける。ここに入っている物は二つだけ。銀の短剣と何も書かれていない封筒。封筒は糊でしっかりと封がされている。丸い何かが入っているのだけど。
「開けてみようかな」
大切そうにしまわれたその封をあける。封筒からでてきた物には覚えはなかったけど、なんだか温かい感じがした。曖昧で失った物の象徴のようなそれ。
琴葉はそれを握りしめるとそのままベッドに横になる。眠りについてしまう。いけないと思いながらも、そのまま布団もかけずに眠ってしまった。ああ、ちゃんと服きないと。
朝から琴葉は蒼白な顔をしていた。少し眩暈もする。最近、体調が悪かったが、今朝は特に酷い。眩暈が酷く立っていられない。冷たい床に座りこんで、額を押さえたままどうすることもできなくなってしまった。
父のこともあり心労で体調が悪いのだろう、と思っていた。体がだるかったり、手足が冷たかったり、貧血のような症状だったから甘く見ていた。
「え?」
床に落ちた赤い丸い染み。琴葉は驚いて手を鼻に持っていく。鼻血が出てきたのだ。
「ああ、最悪〜」
琴葉は何とか立ち上がると、ふらふらの体でティッシュをとりにいく。そして、座りこんで鼻を押さえるようにティッシュをあてた。
しかし、いつまでたっても鼻血は治まらない。出血する量もいっこうに減る気配を見せず、あっという間に一箱がなくなっていく。夥しい出血のついたくず紙に、琴葉は怖くなって電話に手を伸ばした。
「すみません、救急車をよんでもらえませんか…鼻血が止まらなくて、眩暈も酷くて動けないんです……住所は……」
『もしもし、大丈夫ですかっ。もしもし』
琴葉はそこで意識をなくした。電話を握りしめたまま琴葉はもう何も答えることができない。
「琴葉っ、琴葉っ、目を開けろ」
琴葉の顔を叩きながら呼びかける。しかし、琴葉に反応がない。すぐさま琴葉の握りしめている受話器を奪うと電話にでた。
「住所は、東京都○○区×××の28−1だ。意識を失っている早く来てくれっ」
受話器ごしに細かい状況の説明を求める声と指示がだされる。言われたとおりにした。そして、救急隊員が家にはいってくる。
「親族の方ですか?」
問われて「兄です(・・)」と肯定すると「一緒に乗ってくれ」と言われた。琴葉の青白く冷たい手を必死で握りしめる。香代が病で亡くなったように、また失ってしまうのか。
琴葉が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。目を覚ましてしばらくすると医者が来て、身内のいない琴葉に病状を説明してくれた。具体的な病名はまだ、わからないが一刻を争う状態なのはわかった。後は検査の結果まちだそうだ。
琴葉が入院して、3日が立っていた。血液の進行癌で余命が3ヶ月しかない、と告知されたが、これと言ってショックはなかった。何だか小難しい名前の病名を言っていたが、覚えられなかった。それだけ関心がないからかもしれない。
自分でも不思議なほど冷静でいる。父がいなくなり、天涯孤独な身になった所為かもしれない。それに、智樹をどうするかも問題だった。このまま付き合っていく訳にはいかない。病名をふせて別れた方がいいかもしれないと思っている。
暇をもてあました琴葉は売店で雑誌や本を3冊買う。しかし、レジの前で財布を落としたことに気づいた。
「えっ、嘘!財布がないっ」
レジの前で何度もポケットを確かめたが、財布はなかった。どうしよう、と思っているとスッと千円札がレジにおかれた。
「使ってください」
振り向くと黒髪の長身の男の人がそう言って微笑んでいる。綺麗に整った顔が優しく微笑んでいて、琴葉は思わず俯いてしまった。
「でも、悪いです」
「じゃあ、後でかえしに来てください。C頭の205号室ですから」
彼も入院患者なのだろう。琴葉と同じように病院のパジャマを着ている。琴葉は「すみません」と言うとお金を借りることにした。C頭の205号室は隣りの部屋だ。
「あっ、あの名前を聞いてもいいですか?」
「琉羽琥です。あなたは?」
「琴葉です」
そんな会話を交わしてから琴葉は自分の部屋に帰った。病室に帰ると食事の時間になっていて、食事を終えてからお金を帰しにいった。
その頃、ルークは病室のベッドに横になりながら来客と対峙していた。来客といっても偽看護婦だ。
「先生には、呆れますわ。そこまでするなんて」
ルークの手の中には、小さながま口財布があった。そう、ルークが琴葉から掏ったのだ。そして、同じ入院患者として隣りの部屋いる。
琴葉のように人見知りの激しいタイプは、はいりこむ切っ掛けがいる。しかも、律儀な琴葉の性格を考えて、恩を売るような切っ掛けがよかった。
「邪魔するならしてもいいぞ。その時は命の保障はしないがな」
ルークの言葉にセルシーは心底呆れる。食事もとらず、無駄に力を使って消耗している体で何を言っているのか、とさえ思っていた。今の状態ならセルシーでも充分、押し倒して力ずくで抱くことができる。
「そんな餓死に近い状態で何ができますの」
「オレは燃費がいいからな。一度たらふく食ったら5年はもつ」
「いくら燃費がよくても力を消費していては同じでしょう」
セルシーは人がはいってくる気配を感じるとルークとの会話をやめた。そして、カーテンを開けて、振り返りながら言う。
「我慢できなくなったら、私を食べさせてあげますわ」
ルークは、セルシーの言葉を鼻であしらった。セルシーといれかわるように琴葉が現れた。琴葉は遠慮がちにこちらを覗いている。
「あの、お金ありがとうございました」
琴葉はそう言って千円札をさしだした。かわりにルークは、がま口財布をさしだす。
「えっ、どこにあったんですか?!」
驚いている琴葉にもっともらしく装いながらルークは言った。
「売店の本売り場の所に落ちていましたよ。琴葉さんのかな、と思って持ってきたんです。よかったですね」
重ね重ね世話になってしまった琴葉は、「ありがとうございます」とルークに言う。そして、ルークが考えたとおりの言葉を言った。
「何かお礼をしないと…」
「いいですよ。お礼なんて、たいしたことしてないですから」
ルークは一応断る。これも作戦のうち。律儀な琴葉のことだ。絶対にここでは引かない。それにすんなりお礼を貰うだけでは、親切にしてくれた人で終わってしまう。
「でも…」
困った顔で言った琴葉に、ルークはわざと考えたふりをして、それから言った。
「じゃあ、また会いにきてください。身よりもないから、入院していると退屈なんです」
琴葉はそれを聞いて、自分と同じなんだ、と思った。琴葉も父をなくし、母は生きているけど離婚して疎遠状態だから身内がいない状況だ。おんなじ状況の彼にぐっと親近感を覚えた。
「それじゃあ、またきます。琉羽琥さんも遊びにきてください」
琴葉はさんざんルークと会話を交わしてからそう言って、自分の部屋にもどった。そろそろ体が辛くなってきたのだ。医者にも「無理はしないでください」と言われている。
ルークは琴葉が去ったカーテンを見ながら呟く。
「ここからが勝負だ」
琴葉の余命は3ヶ月。琴葉の命が尽きるまでに、もう一度、愛してもらう。そして、今度こそ魔界に連れていく。
琴葉を見つけて、琴葉が自分を「好き」だと言ってくれた時に決めていた。永遠に琴葉と共にいようと。そのためには、寿命の差を埋める必要があった。寿命という概念がない悪魔と最高でも寿命100年の人間では話しにならない。
あれから二人は毎日、顔をあわせている。朝、給湯室にいく時にはなぜか、鉢合わせになるし、部屋が隣りということもあって廊下ですれ違うことも多い。そして、顔をあわせると長いこと何気ない会話をする。
「やだ、なにこれ」
「でしょう。オレも見つけた時、思わず笑いました」
今も中庭のベンチに座って話している。ルークが可笑しな物を見つけたと言って見せてくれたのだ。そして、くすくす笑いあいながら楽しい一時を過ごしている。ルークといると気持ちが落ち着く。
「琴葉…」
不意に呼ばれてふりむくと智樹がいた。智樹はできるだけ毎日、見舞いに来てくれる。入院して一ヶ月。琴葉は、智樹に病気のことを隠している。
そして、智樹に別れを告げる切っ掛けを見つけられないでもいた。でも、いつまでもそんなこと言ってられない。刻一刻と命は尽きていっている。
恋人を別れて失ってしまうのと、死んでしまうのとでは大きく差がある。別れを通り過ぎるには、死はあまりにも大きなことのように琴葉には思えた。
「それじゃあ、オレはこのへんで」
ルークはそう言うと潔く立ち上がり去っていく。琴葉は、智樹に隣りに座るように促す。そして、智樹に別れ話をきりだした。
「智樹、別れよう」
琴葉の言葉に、智樹の思考がとまる。琴葉がなぜそんなことを言いだすのかわからなかった。重い沈黙がしばらくつづく。
「…はぁ。理由は?」
大きな息を吐いて告げられた言葉に、琴葉は押し黙る。いい理由が思いつかなかった。そして、何とかだした答えを告げる。
「智樹のことは好きだけど違ったの。だから、もうここには来ないで」
智樹は、友達としか見られなかった、と告げられてそれ以上なにも言えなかった。そして、そのまま立ち上がると離れていく。
出口へとむかう暗い冷たい廊下に、琴葉と話しをしていた男が壁にもたれて立っている。琴葉と同じ入院患者の男。
「オレが琴葉を奪った」
自信と高慢に溢れた声が投げかけられて、智樹はくっと息をのんだ。強く拳を握りしめる。そして、相手の男の胸倉をつかんだ。
「病人じゃなかったら殴ってやる」
壁に押しつけるようにして吐き出した智樹の声を涼しい顔をして受け止めながらルークは言う。
「殴ってもかまわない」
「つッ!」
智樹は手を離すとそのまま背をむけて病院を出て行った。琴葉にふられて、それで終わってもよかった。でも、ルークは嫉妬心でこうするしかなかった。
自分以外触れてはいけないはずの琴葉に、あいつは触れたのだ。恋人になりキスをしただろう。もっと先、セックスだってしたはずだ。それを想像するだけで、気が狂ってしまいそうなほど嫉妬にかられてしまう。
琴葉はなんて酷いことをしたんだろうと罪悪感に俯いていた。泣きそうになる自分を懸命に律する。泣いていいような立場ではなかった。
懸命に耐えて頑なになっている体に、ふわっと温かい腕がまわされる。琴葉は驚きでさらに身を硬くしたが、そんな琴葉に振ってきたのは優しい声。
「琴葉さん、我慢しないでください」
ルークの言葉に琴葉の肩が微かに震える。こんな風にされては、泣いてしまう必死に涙を抑えているのに。ぽろぽろと涙が膝の上に落ちていくのを見ていた。
優しく抱きしめてくる腕を握りしめながら琴葉は涙を流しつづけた。琴葉が泣いている間ずっとルークは何も言わずただ抱きしめていてくれた。そして、琴葉が落ち着いて。
「琴葉さん、オレと付き合ってくれませんか?」
ルークの言葉に驚きの瞳だけを投げかける。するとルークは、自分を皮肉るように微笑んで言う。
「こんな時に卑怯だって思うけど、でも、オレには時間がないから」
「どうして…」
琴葉がたずねるとルークは切なげに目を細めた。微笑を浮かべたまま。
「オレは後2ヶ月しか生きられないんです。だから、好きな人とも別れたのに、こんなに琴葉さんのことが気になるなんて、酷い奴ですよね?」
琴葉とまったく同じ選択をしたことを知る。この人も自分と同じで、命が短く、恋人と別れることにしたのだ。きっと、琴葉と同じ想いだったはずだ。
「私は琉羽琥さんのことを」
首をふって答えを伝えようとした琴葉に、ルークは唇に手の平をあてた。その先の言葉は聞きたくないと。
「それでもいいんです。オレと“恋人ごっこ”をしてくれたら、それで満足なんです」
「でも…」
それは不誠実な気がして琴葉は呟いた。しかし、ルークは悪戯っぽく笑うと琴葉に言う。
「それに、オレみたいな体じゃ、エロいことはできないし安全でしょ?」
琴葉はその言葉に困った顔をする。どう返答していいのかわからない。するとまた、困るようなことをルークは言った。
「あ、でもキスはできますね」
琴葉は恥ずかしくなって真っ赤になって俯いてしまう。そんな琴葉の耳に唇を近づけるとルークは囁いた。
「琴葉さん、愛してます」
「や、やめてください」
「どうして?こんなに愛しているのに?愛していますよ、琴葉さん」
琴葉はその恥ずかしい言葉の羅列にさらに真っ赤になる。智樹はそんなこと言わなかった。告白の時に「好きだ」とは言ったが、ルークが言うようなことを言わなかった。
「なんだか、恥ずかしいから…それは…」
困ったような琴葉の声に、くすっとわからないように微笑む。そして、ルークは取引をもちかけた。
「琴葉さんがオレと同じ気持ちになってくれるまで言い続けますよ。愛してます、琴葉さん。てね」
琴葉は堪りかねてとうとう言ってしまった。それは、無意識に近い言葉。
「わかりました。お付き合いします」
しまった、と思った時にはもう遅かった。ルークの表情がとても「取り消し」とは言えなくて、本当に嬉しそうに微笑みかけてくる。
「恋人同士になったから、“さん”づけもやめましょう。オレは琴葉って呼ぶから、琴葉は琉羽琥って呼んでください。あっ、それと敬語もやめましょう」
次々と話を進めていくルークの強引さに呆れながらも琴葉は、見事ながされてしまった。ルークに頷いて同意したのだ。
「嬉しい。琴葉、愛してる」
やめてくれる、と言ったのに、ルークはそう言って琴葉の頬にキスをする。琴葉は驚いて、頬を撫でたが嫌な感じはしなかった。でも、変な感じがして。
「体が冷えるから病室に帰ろう」
ルークがそう言って手をひいてきた。琴葉は立ち上がる。嬉しそうに琴葉の手を繋いで歩いているルークを見ていた。何だか、手の平がむずむず痒いような、ぽかぽかと暖かいような変な感じで、つい俯いてしまう。
琴葉に初めての抗癌剤治療が始まった。これまでの治療は体力の回復をはかるものだったが、やっと抗癌剤に耐えられるほど体が回復したのだ。
ポタポタ落ちる透明の液体を見ながら副作用がないといいな、なんて思っている。抗癌剤は悪い細胞も殺すが、健康な細胞も殺してしまう。そして、それが副作用だ。
点滴をして6日後。副作用によって高熱がでた。琴葉は荒い息を吐き出しながら朦朧とする意識で、苦しみに耐えていた。ただぼんやりと副作用だ、と思っている。
口には口内炎ができ、胃もムカついて食べ物を受けつけない。そこへ高熱がでたのだ。体力は減っていてこのまま死ぬんじゃないか、と思うほど苦しかった。
病室の扉が開く。はいってきたのは看護婦ではない。ルークだった。ルークは苦しそうに目蓋を閉じている琴葉の傍らによると、そっとその額に触れた。
額は熱く、汗ばんでいる。半開きにされた唇からは苦しげな息がくりかえされて、唇を乾かしている。苦痛に歪められた眉間に、硬く閉じられた目蓋に、ルークはそっと口付けた。
「頑張れ、愛している」
ルークは朦朧とした意識の中にいるだろう琴葉に囁くと唇に口づける。ルークの唇が離れた頃、琴葉の息は整い、眉間にあったシワもなくなっていた。今あるのは安らかな寝息だけ。
ルークはそれを見て、ほっとすると病室をでていった。寝こみを襲って、唇を奪ったことを知られては、嫌われてしまうかもしれない。
病室にもどり、ルークは疲れた体を横にする。琴葉の苦しみをとるために力を使ってしまった。回復する見込みはあるのだ、とわかっていても、ああせずにはいられなかった。そんな所へあらわれたのはセルシーだ。
「先生には本当に呆れますわ」
セルシーの冷たい声に目蓋を開ける。目蓋を開けることすら億劫になってしまうほどルークは消耗していた。
「何だ、邪魔でもしにきたのか?」
ルークは強がって平気なふりをしようとしたが、繕えるはずもなかった。本当に体が動かないのだ。
「邪魔?そんなことしませんわ。先生の思いどおりにことが進んでいて喜んでいるんですもの」
白々しいセルシーの言葉に、鼻で笑いかえす。そして、負けないように虚勢をはる。
「ああ、お陰さまでな。スムーズにことは進んでいる。そのうち、すぐにでも、お前のはいる隙はなくなる」
セルシーはその言葉を聞いて何が楽しいのか、くすくす笑った。そして、ルークの胸に手をあてると唇を重ねてきた。無遠慮な舌がルークの口腔を荒らす。体中に力がゆきわたる感覚。
「…最後の切り札はちゃんと用意していますのよ」
セルシーの言葉にぞくっとした物を感じながら、それでもふてぶてしくルークは睨みつけた。そんなルークを背にセルシーはでていった。
あの花火祭りの日。セルシーから聞かされた重大なこと。それがなかったら、ルークは父が寿命をまっとうするまで、この話をきりださなかった。
あの夏の日。
「先生は気づいてないでしょうけど。あの家畜、もうすぐ死んでしまうもの」
セルシーの言葉を信じられない思いで聞いた。険しい声がでる。
「どういうことだ?」
「さあ、知りませんわ。でも、寿命がつきかけているのは、嘘じゃありません」
その言葉に香代のことが脳裏に走る。たしか、香代も今の琴葉くらいの年齢で病にかかり亡くなってしまったのだ。
「ほっといても先生が手に入るんですもの。今はあの家畜ちゃんに譲ってあげますわ。永遠に先生の隣りにいられるのは私なんだから、寛大になろうと思いましたの」
セルシーの楽しげな顔に苛つきつつルークは、琴葉のことを思った。今は、まったく普通だ。命がなくなるとはとても思えない。そうなると事故か、それとも、やはり病なのか。どちらにしろ、今さら琴葉を失ってしまう訳にはいかない。
「ふっ、どちらでもいいさ。遅かれ早かれ、そうするつもりだった」
ルークは自分の考えを嘲うように呟く。ルークの言葉に怪訝な表情を浮かべたセルシーは、ハッと気づいた。ルークが何をしようとしているのか。そして、苛立ちと羨望に満ちた瞳でルークを睨む。
「まさかっ」
ルークが命をかけて琴葉を人間から悪魔にしようとしていることに、嫉妬と困惑を滲ませる。どうして、そこまであの家畜に拘るのか。昔の先生はこんなのではなかった。何者にもとらわれず、冷酷で冷静な人だった。自分の快楽しか考えない悪魔らしい悪魔。
「それじゃ、私も悪魔として手を尽くしますわ」
セルシーは口元に嫌な笑みを浮かべる。明らかな脅しに、ルークは冷や汗を流した。いま、ルークは琴葉の近くにいない。琴葉を守ってやれないのだ。
「何を考えている?」
「先生が、悲しむ姿は見たくないですもの。ただ、私のすることに目をつぶってくださればいいのよ」
取引にならない取引。ルークの心は困惑と不安を滲ませたが、それを面にだすことはなかった。取引の中で、少しでも弱みを見せれば、とことん漬けこまれるからだ。
セルシーは無表情なルークの唇に一指し指をあてる。懐かしいルークの唇の形をなぞりながら、囁いた。指の腹には、ルークの柔らかく温かい感触が伝わり、セルシーの体を高揚させる。
「大丈夫、先生が優しくしてくれたら、あの子に手をだすことはしないわ」
ルークが拒絶をせず、自分に身を任していることに気をよくしながらセルシーは言う。さんざん『家畜』と言っていたセルシーが、『あの子』と言ったことに緊迫感を感じる。冗談ではないことを滲ませる。
ルークはセルシーに与えられた力に唾を吐くと起き上がる。むかった先は琴葉の病室だった。ベッドに腰かけて頬に手をあてる。熱はもうなかった。
セルシーに指摘されるまで気づかなかったが、琴葉の命は確実につきかけている。やはり、香代が亡くなった年齢くらいで、命が終わるのだろうか。同じように病に苦しんで。
琴葉に真実を言うことはできなかった。セルシーは確実に自分を脅してきている。馬鹿な行動をとれば父のように琴葉を殺してしまうだろう。
だからこそ、父が亡くなり琴葉が「ルークがやったの?」と問いかけてきた時、何も言えなかった。セルシーの言葉も否定できなかった。
憎しみに満ちていた琴葉の言葉が胸に刺さる。ルークもこのことがなければ、父の寿命が尽きるのを待つつもりだった。
父と何より琴葉の気持ちを考えて、そうするべきだと考えていた。琴葉が、老いても関係ない。それに、琴葉ならシワくちゃになったお婆さんの姿も可愛いに決まっている。姿など関係ないのだ。欲しいのは琴葉だけ。
しかし、その琴葉が死んでしまう。また、生まれてくるのを待てばいい。そんな考えや思いなど湧きはしなかった。次に逢った時、琴葉は琴葉ではなく、また違った人物として人生を歩むのだ。
セルシーの脅し。それだけが、琴葉に真実を伝えなかった理由ではない。根本的に言いたくなかったのだ。琴葉が死ぬ何て、そんなこと伝えたくなかった。言えばすぐにでも現実として起こってしまうようで。
愛している。琴葉だけを。どれほど傷ついても傷つけても離れることができないほど。記憶を失って、智樹のもとにいる彼女をそのままにしておくことが、彼女の本当の幸せだとわかっていた。けど。
「琉羽琥…?」
琴葉が目を覚ました。そして、視線を彷徨わせると時計を見る。時刻は夜の11時をまわっている。消灯時間はとうにすぎていた。
「看護婦さんに怒られちゃうよ」
琴葉の可笑しそうな笑みにルークは目を細めた。一刻も早く魔界に連れて行く。自分の命を分け与えなくては。
「顔を見たかった。もう、大丈夫か?」
「うん、急に苦しくなくなった。不思議、口内炎も消えてるみたい」
琴葉はやっぱり可笑しそうに伝えてくる。そして、琴葉はルークに手を伸ばした。頬に触れると冷たくて気持ちがいい。
「どうしたの?泣いてるの?」
「泣いてない。オレは悪魔だから泣いたら命を失うんだ」
頬に伸ばされた手を握りしめながらルークが答える。琴葉は冗談と思ったのだろう。くすくす笑うと「大変」と言った。ルークは真実を言ったのだが。
悪魔は涙を流せば、魔力を失う。だからこそ、悪魔は何があっても涙を流さない。泣くことで魔力を失えば、悪魔は生きていけないからだ。だから、寿命という概念がない。魔力がすべてだからだ。
「口付けていいか?」
ルークは琴葉の唇をなぞりながら言う。琴葉は困ったような顔をしたが、嫌そうではない。ルークはそれを肯定と受けとると触れるだけのキスをする。そして、離れる。
「くすくす、こんな所でしちゃった。初めてなのに」
琴葉の言葉にルークは「え?」とかえす。そんなルークの表情を見て、琴葉は言った。
「ファーストキスだよ。責任とってね」
「でも、智樹が…」
琴葉の言葉にルークがかえすと琴葉はむくれた表情になって言う。
「智樹とはしてないから。だから、本当のファーストキスだもん」
ルークは本当に?という疑問を顔に浮かべる。琴葉が「疑ってる〜」と拗ねた声をだす。琴葉の表情からは偽りを感じない。
「…確かめていい」
ルークの言葉に恥ずかしそうに俯いたが、ちらっと見あげると少し唇をさしだす。
「どうぞ」
ルークはゆっくりとその唇に口付けた。深い口づけに琴葉は一瞬、驚いたように身を硬くしたが、舌で宥めてやるとすぐに力を抜いた。優しく溶かす唇の感触に、何か心の底からこみあげるような感覚。
「ぅんんっ…」
甘い声が鼻を抜ける。ルークが教えたとおり反応する琴葉。琴葉のキスは、ルークが教えた。声も体も仕草さえも自分の好みどおりに反応するように教えこんだ。
「はぁ…先生に怒られる。体力が弱ってるのに、不衛生だって」
琴葉はそう言うとにっこり笑って。今度は自分からキスをしてきた。驚いたのは、ルークの方で今度は受身になってしまう。
「愛してる、ルーク」
琴葉の“ルーク”と言う言葉に驚いて、琴葉を見つめる。琴葉は複雑そうに、でも、かすかな喜びを滲ませて抱きついてくると言った。
「もし、思いだしたら一緒に魔界に行こうと決めてた」
どういうことなのかわからず、ルークは琴葉を見つめる。思いだした?何を…もしかして。
「オレが何の悪魔なのかわかるか?」
「インキュバスでしょ?一晩中エッチなことしかしなくて、都合がいいからお兄ちゃんになってた私の恋人」
琴葉の言葉にだんだんと確信へと変わっていく。琴葉は思いだしたのだ。どうして、どうやって思いだしたのか。このさいどうでもよかった。ただ、自分を思いだしてくれたことが、これほど。
「愛してる。琴葉、側にいてくれるのか?」
「うん、側にいる。だから家に帰ろう」
ルークは琴葉を抱き上げる。腕についた管は抜いた。琴葉を連れて二人の過ごしたあの場所に帰った。
「ルーク、その引き出しの中の封筒をとって」
琴葉はベッドにふしながらそう言って、小さな引き出しを指差した。琴葉に言われたとおり引き出しを開けるとあの時の短剣があった。その横には、真っ白い封筒。
「ありがとう」
封筒を受け取ると琴葉はそう言って、微笑みながら封を開けた。そして、封筒からでてきた物は、赤い薔薇の指輪。
「どうして…捨てたはずじゃ…」
たしかに指輪はゴミ箱に捨てられたはずだった。ルークが贈った指は、ゴミと同等の扱いを受けて、琴葉はすべてを拒絶して捨てたのだ。しかし、目の前にあるのは、あの指輪だった。見間違えるはずもない。
琴葉は、ふふふ、とおかしそうに笑いながら指輪をはめていく。左手の薬指。いつも指輪がはめられていたその場所に。しかし、病で痩せてやつれた指にはガバガバだった。
「指輪が抜けないように太らないとね」
琴葉はそう言って、指にはめた指輪をルークに見せた。その顔が愛しくて、そして、それゆえにルークを戸惑わせる。
慣れ親しんだベッドの上で横たわる琴葉を信じられない気持ちで見ていた。琴葉の方は、何だが懐かしい気持ちがした。この家で始まって、これで、もう戻ってくることはない。
「本当にいいのか?」
聞いてきたのはルークだ。いつもと違い自信なげな瞳で問いかけてくる。憎しみをこえて、愛してしまった。それは、本当の意味での愛の形なのかもしれない。文字通り、すべてを捧げてしまった愛。
「憎しみをこえて、その先にあるものが無関心だったら…私は終わりにしてた」
記憶を失うその時、考えていたこと。それは、記憶を思いだすこと=ルークを赦そうと。そして、憎しみをこえた先にある気持ちが、もし、愛なら再び、ルークの側に。
「一緒にいよう。ルークと一緒にいたいから…」
琴葉はルークにそう言うと手を伸ばす。体は、少し楽になったけど、それでも辛かった。
「ああ、一緒にいよう。時がなくなるまでずっと…」
ルークは頬に触れる琴葉の手を握りしめながらいった。悪魔は長く生きる。しかし、それは永久の命ではない。寿命がなくても死ぬ時はくるのだ。殺されたり魔力を失ったりしたら死んでしまう。
琴葉は考えていた。父が最後にわたしてくれたビー玉のことを。父は口下手な所があるから、ああしてメッセージをくれるのだ。だから考えていた。何の変哲もないビー玉が、見せる七色の光りのことを。
「連れて行ってルークの世界に」
琴葉の言葉に静かに頷こうとした時、開けたままの入り口に立っていたのは、亡くなったはずの父だった。二人は驚いて父を見る。
「琴葉、ダメじゃないか。病院をぬけだして。琉羽琥も、琴葉にもしものことがあったら」
父は何事もなかったようにそう言った。琴葉は、生きていたことに喜びがこみあげて、口元を覆った。
ルークは複雑な気持ちだった。また、ふりだしにもどった。いや、完敗する。そんな気がしていた。父に勝てるはずがない。今の琴葉の表情を見ていればわかる。
「よかった」
琴葉が小さく呟いた。目には涙を浮かべている。ルークはやっぱり、と思って父と琴葉を見ていた。そして、たしかに最後の切り札だと思った。セルシーは最後の最後でとんでもないカードを引いたのだ。
「さあ、病院に帰ろう。琴葉」
父がそう言って、部屋に入ってこようとした。琴葉は、自力で何とか起き上がると父にむかって首をふる。
「お父さん、私、病院には帰らない」
父は琴葉の言葉に困惑で眉をよせる。しかし、琴葉は怯むことなく伝える。伝えなければならないと思った。生きていてくれてうれしかった。そして、もう一つ伝えなきゃ。
「お父さん、好きな人がいるの。神様は祝福してくれないってわかっていても好きで好きでしかたない人がいるの」
琴葉はゆっくりと告げた。ルークは琴葉の言葉に父と同じように驚きの目をむける。琴葉はギュッとルークの手を握った。そして、父に永遠の別れを告げる。
「ごめんね。お父さん…ルークを愛してるの。だから、彼と一緒にいたい」
父にとって、琴葉とルークは双子の兄妹だ。そんな、告白。残酷なだけだとわかっている。でも、伝えなければいけないと思った。
娘の真剣な瞳に「冗談か」とも聞けなかった。余命いくばくもない娘の最後の願いを父はどう受け止めるべきかわからなかった。いつから、とかも思い浮かばない。ただ感情は無でしかなかった。あまりのことに、感情も追いつかないのだ。
言葉もでない父に、琴葉は「さよなら」と告げた。ルークは琴葉を抱きかかえて、窓がひとりでに開く。黒い漆黒の翼を広げて、闇の世界へともどっていった。
一人残された父の元にセルシーが現れた。そして、父の瞳を手の平で覆う。記憶を捏造するために。
「あなたの娘は1年前に病で亡くなりました。琉羽琥なんて始めから存在しなかったわ」
手の平で隠された瞳から涙が溢れていた。そして、自分も姿を消す。もうここにはようがなかった。
ルークは琴葉を自分の屋敷で休ませると急いで魔王のいる宮殿にむかった。儀式には薬がいる。なぜその薬がいるのか細かいことはわからないが、どうしてもいるのだ。そして、その薬を作れるのは魔王しかいなかった。
「魔王様、今もどりました。至急、用意していただきたい物が」
ルークは挨拶もそこそこに焦る気持ちを隠しもせずに、早口にまくしたてていく。琴葉の体がもつか心配だった。魔界は人間にとって異なる場所だからだ。陸にあげられた魚と言ってもいい。
「話しは聞いている。これを持っていけ」
魔王はルークの言葉を聞き終える前にそう言うと二つの小瓶をわたした。ハートとダイヤの蓋のついた小瓶。そして、もう一つ砂時計だ。
「ハートを人間に、ダイヤをお前が飲め。13時間後、砂時計の砂が落ちる前に二人が目を覚ませば成功だ」
魔王は簡単に説明をした。本来なら薬を作るためには1ヶ月かかる。しかも、薬は当人から申し出がないと作らない。しかし、報告者の熱心な申し出があり薬を作っておいたのだ。
ルークは二つの小瓶を受けとると、そうそうに立ち上がりでて行こうとする。そんなルークの背中に魔王は言葉をかけた。
「必ず成功しろ。あれに友を作ってやりたいからない」
魔王が言った言葉にルークは頷く。必ず、成功させるつもりだ。しかし、もし失敗するなら、琴葉だけ生き残っていればいい。ルークは漆黒の翼を広げて、琴葉がまつ屋敷へともどった。
「支離滅裂だな」
魔王はセルシーが柱の影に隠れていることに気づいていて、ルークがさった後に言った。ルークのことを逐一報告し、儀式に必要な薬を作るように願い出ていたのは、他ならぬセルシーだった。その反面、できる限りの妨害もしていたようだが。
「悔しかったんですわ…でも、完敗でした」
セルシーはスッキリした顔で言う。気持ちが妙に晴々としていて、憑き物が落ちたような気持ちだった。
それに、あの時に負けたと思った。琴葉が自殺をしたあの時。ルークが我を取り乱して、何もできずに叫び続けていたあの姿を見た時に完敗だと思ったのだ。
今にでも涙を流しそうになっているルークの姿と死を選んだ琴葉の姿に、自分では敵わないと感じだ。
セルシーには、ルークのように誰かの為に涙を流すことはできなかった。悪魔には寿命がない。しかし、悪魔の涙は死に直結する。そして、同時に琴葉のように死を選ぶこともできないということを示していた。誰かの為に命をかけられはしない。
だから、あの時。琴葉の命を必死に繋いだ。このまま彼女が死ねば、永遠にルークは彼女から囚われて、決して戻りはしないから。
悔しかった。自分の方が先に好きになった。それなのに、琴葉に勝つことはできなかったから。ルークの中から琴葉をおいだすこともできなかった。
「まあ、しばらくはサキュバスらしく、フリーを楽しみますわ」
セルシーはそう言って、魔王の元を去っていった。儀式の結果がどうなるのかわからないが、もうセルシーにはどうでもいいことだった。後は二人の問題なのだ。
屋敷に戻ると琴葉の側に駆けつけた。琴葉は、目蓋を閉じて身動き一つしなかった。まるで、魂の抜けた抜け殻のようでルークは震える指を伸ばした。
「お帰りなさい。ルーク」
琴葉は触れる指先の感触にそう告げる。切羽詰った切ない目をむけてくるルークに、安心させるように微笑んだ。自分はこんなにも愛されている。その想いが、琴葉を満たすけど、ルークを不安にさせていることにも気づいていた。
「ただいま。愛してる」
時間がない。琴葉は弱っている。ルークはそう思い。手にしたハートの瓶の蓋を開けた。そして、琴葉の口元に持っていく。
「これを飲んでくれ」
ルークの言葉に頷くと琴葉はゆっくりと飲み干していく。たった一口にも満たない液体が体の中に入ってくる。味はしなかった。ルークは琴葉が飲み込んだのを見ると自分も薬を飲みこむ。
「…ルーク、キスして」
視界が微かにぼやけてきたことを感じとりながら、琴葉はルークに告げた。しかし、ルークは戸惑う。今の琴葉はあまりにも死の色が濃すぎた。まるで、
「大丈夫だから…終わりや死じゃなく、始まりと生を…」
琴葉はそれ以上言葉を発することもできずに目蓋を閉じた。ルークは琴葉に静かに口付けるとそっと離れて、琴葉の胸に顔を埋めた。心音が聞こえてくる。トクン、とくん、と心音は弱まって、消えていこうとする。
ルークは必死に大丈夫だ。と自分に言い聞かせながら、何度も「愛している」と呟いた。だから、目を覚ましてくれ。再び、自分の側で、笑ったり怒ったり泣いたりして欲しい。
願いつづけながらルークもいつの間にか意識を失っていた。13時間後、共に目を覚ます。そのことばかりを願いながら。
「ぅ……」
重い体と意識の浮上。それを感じながらルークは目を覚ました。琴葉の体に縋りつくように抱きついたまま目を覚ましたのだ。そして、意識がしっかりし始めると、血の気を失った。心音が聞こえない。
「時間はっ」
ルークは砂時計を見る。まだ、砂は残っていた。とりあえずそのことに少しほっと息をつく。まだ、失敗と決った訳じゃない。
「琴葉、頼むから目を覚ましてくれ」
ルークは零れていく砂を見つめながら必死に願った。琴葉の手に触れ、額に口づけ、何度も語りかける。目を覚ませ、と呟きつづける。しかし、無常にも砂は零れて、とうとう。
「…目を覚ましてくれ」
悲痛な想いは弱々しく響き、目を覚まそうとしない。愛しい人の耳には届かない。
「琴葉、頼む。まだ、間に合うから」
現実だとは認めたくない。琴葉はきっと意地の悪いことをしているのだ。目を覚ましているくせに、意識を取りもどしているくせに、ルークをからかってそんなフリをしているだけ。
「琴葉?冗談にも程かあるだろう…もう、わかったから…」
いくら話しかけても、体を揺さぶっても、琴葉は目を覚まそうとしない。
失敗。そんな現実が押し寄せてくる。悲しい何て感じている余裕がないほどの現実が重くのしかかってきた。
ルークは琴葉の冷たい頬を両手で包み込む。まるで陶器の人形のように、ゾッとするほど無機質に冷たい肌をしていた。琴葉の額と自分の額をあわせる。熱が伝わるように、冷たくなった体を再び温めるように。
「わかったから…」
ルークは呟く。熱い何かがこみあげて溢れていきそうになる。
「オレも連れて行って」
ルークはそう呟くとキスをした。冷たい唇に、自分の熱を伝えるように、せめて彼女の側にいけるようにと願いを込めた。何もいらない。ただ側にいたい。
喉の奥が震えて苦しい。グッとつかまれたように苦しかった。それらが限界まで溢れて、流れて落ちていく。溢れる雫は死を告げるモノ。しかし、それでよかった。
「側にいさせて」
ルークは琴葉に縋りつく。側にいさせて、とその耳元に囁く。ルークから零れ落ちた涙は、琴葉の体を濡らしていった。深く染みをつくるように、何度でも、零れて染みこんでいく。
ルークは抱きしめたまま涙を零す。音を奏でなくなった胸の上で、ゆっくりと目を閉じる。死ぬなら一緒がいい。側にいられるなら、どこでもよかった。光り輝く天国だってかまいはしない。
ぴくっと指先が動く。ゆっくりと両腕がもちあがり優しく包み込む。黒い髪、紅い瞳の悪魔を守護するように、彼の体に腕をまわした。彼の溢れさせた熱情を包み込むように守ろうとするように。
ゆっくりと目蓋をあける。心臓は確かに心音を刻んでいる。新しい命を告げるように、強く刻むようにトクン、トクン、と何度でも音を響かせている。
「……………」
ルークはそのことを感じとりゆっくりと目蓋を開けた。そして、琴葉を見つめる。
「…おはよう」
琴葉はそう言いながらルークの黒髪を撫でつけた。少し長めの黒い髪が、瞳にかかっていて、その奥が切なげに歪められている。濡れたその瞳は見たこともない色をしていて、琴葉は優しく微笑むしかなかった。
「おはよう…琴葉、愛している」
ルークは震える声で伝えてきた。琴葉は、ふふふ、と微笑む。ルークが生きていると思う。ただ愛する人が息をしているそのことだけで、歓喜に体が震えていた。当たり前のことが、これほどにも喜びに溢れている。
「知ってる」
琴葉はそう呟くと再び、ルークに腕をのばして包み込む。ルークを体内に抱えるように抱きしめた。ルークはその体に力強くしがみつく。もう、二度と離れないように。
「うんっ、ルークっ」
琴葉は自分の上で、愛を貪るように口付けているルークを呼んだ。琴葉が生きていることを確かめるようにすべてに愛撫をくわえているルークに、体の芯からゾクゾクと震えて、我慢できない。
離れていた時間分。分かり合えなかった時間分。それだけ、体が飢えている。それは琴葉も同じで、一番深い所で感じたいのに、ルークはもう、何時間も指で唇で舌で触れるだけだった。
「琴葉、愛している」
熱に浮かされたように何度も囁く言葉。そのたびに、深く深く積もって、深く深く刻み付けられていく。熱く熟れた体以上に熱い想いが琴葉の想いをこえて溢れていく。
「愛してる」
ルークはそう言って離れてしまう。どうして、と思いながら琴葉は体を起こした。重ねられた体の重さも熱も失って、急に寂しくなる。ルークの熱が再び触れたのは、琴葉の足の甲だった。そのことに驚いて、琴葉はルークに手を伸ばそうとする。
「ルークっ、何して」
「結婚してくれ」
ずっと琴葉を支配したいと思っていた。こうして、足の甲に口付けたのは2回目だ。1回目は、駆け引きの道具のような物だった。しかし、2回目は隷属を誓う。支配されたいと、自分のすべてを捧げさせてくれと。自分は君次第なのだと。
「奥さんになるってこと?」
琴葉は実感のわかない言葉をルークに問いかける。想像もしたことなかったから、現実味がない。ルークは琴葉を見つめたまま「ああ」と答えた。
「オレを愛して」
ルークは琴葉の寵愛を受けたいと縋りつくような瞳をむけた。そこにはプライドも何もない。
「…幸せにしてね」
琴葉がはにかむように言った。
「結婚してくれるのか?」
ルークが確かめるように言う。琴葉は頷いた。嬉しくて、なんだか照れてしまう。
「愛してる、琴葉」
ルークはそう言って、再び愛撫を始める。誓いをたてるように足にキスをして、その指に舌を絡める。足を擽るような感覚に、むずむずしたこそばゆい感覚と甘くじ〜んと痺れる快楽。
「ぁっ、もう、だめっ…」
ルークの愛撫は体を焦らして、それ以上の我慢なんて効かない。ルークに降参するように、足を広げて、潤んだ瞳で見つめる。
「はぁ、きて…」
紅く濡れた蕾をさらして、甘い切なげな声で囁いてくる。ルークは、抗うこともできなくて溶ける蕾に、自身の雄をあてがい。深く沈みこむ。
「っ、あああっ」
深く侵入されて、指で慣らされていても一瞬の抵抗に甲高い声を散らした。どれほど抱かれても、この一瞬の抵抗感と瞬時に馴染もうとする肉の動きには慣れないようだ。
「やぁぁっ。ルーク、まってっ、ああっ…へんっ」
そのまま性急に動き始めたことよりも、いつもと違う感覚に琴葉は戸惑いを見せる。深くルークを感じる。でも、いつもより生々しくその存在を伝えてくるのだ。
「わかるのか?琴葉」
いつもの余裕のあるルークの笑みが問いかけてくる。何がどうなっているのかはわからないが、何かが違うということだけはわかる。
「あっ、やぁ、いつもとちがっ…やぁぁ」
いつも以上にダイレクトなその感覚に琴葉は、乱れて髪を振り乱した。ちょっとした動きが信じられないほど大きく体に響いてしまう。脳髄まで溶かされるような熱い甘さが蕾からひろがってしまう。激しくされたら。
「凄いと思わないか。オレたちを隔てる物は何もないんだぞ」
「うんっ…わかんない…」
甘い揺らめきに思考がまわらない。もっとわかりやすく教えて欲しくて、琴葉は尋ねた。
「このままやれば、子供ができるかもしれないということだ」
ルークの言葉に驚いて、快楽の熱に魘されていた思考が目覚める。そんな琴葉のようすにルークが動きを止めた。
「子供?ルークとの間にできるの?」
と言うより、今まで避妊してたんだ。という純粋な驚きがあった。全然、気づかなかったからだ。それに、異種族の間に子供ができる訳がないと思っていただけに、琴葉には衝撃だった。鳥とトカゲが自然交配で子供を作れるといわれたような驚きがあった。
「ああ、できるぜ。悪魔と人間の間に子ができることは珍しいことじゃない。それに、もともと淫魔は人間に悪魔の子を宿させるのが仕事だしな」
初めて聞いた新事実に、琴葉は言葉もでない。そして、だから避妊してたのか。と妙に納得してしまった。でも、同時にそれは凄く大切にしてくれていたことの証だった。
「やっぱりこの方が気持ちいいな」
「ああっ、ルークっ」
ルークはそう言って嬉しそうに腰を揺らした。再び、熱に浮かされそうになって、琴葉はルークを諌める。それがわかると変に恥ずかしい。いつもと違うということが、変に羞恥を起こさせた。
「究極のセックスって感じがしないか?」
そう言われれば、そうかもしれないけど。琴葉はそう思いながら自分に覆いかぶさっているルークを見た。
「ぷっ、くすくす」
「何を笑っているんだ」
琴葉が急に笑い出したのを見て、不服そうにルークは言った。どうして、この場面で笑う。
「ごめん、ごめん。だって、ルークがお父さんって想像つかなくて」
本当はルークそっくりな小さな息子を想像して笑ったのだ。ルークみたいにふてぶてしくて、色気ムンムンなのに、小さくて可愛い。そんな姿を想像するだけで、メロメロになりそうだった。でも、ルークには言わない。
「琴葉そっくりの娘かぁ。いいな。琴葉、すぐに作ろうな」
ルークも同じことを想像したのか、嬉しそうに言うと腰の動きを再開し始める。体の奥から生まれる感覚に琴葉は、声を漏らした。
「ぁぁっ…るーく、もっと、ゆっくりしてぇ…やぁ」
ドクドクと脈打つ熱いそれが体の芯にあるだけでも感じてしまうのに、ルークはそれでいい所を中心に擦りつけてきたりするのだ。
「違うだろう。もっと、強くしてって言えよ、琴葉」
すっかりいつもの調子を取りもどしているルークは、自分の好きなようにするつもりだ。
「いっぱい、るーくがいっぱいになってるっ」
舌が熱でまわらなくなってきている。それでも、琴葉は同じように感じているのか知りたくて言った。
「ああ、最高にいいぜ。イケよ、琴葉。イってオレを締めつけてくれ」
ルークの挑発的な言葉に、深く打ちつけられた熱い楔に、琴葉は甲高い声と突き抜けるような悦楽に背をしならせて、体を強張らせた。
「ひゃあああああぁぁぁっ…ぁぁ、ぁ…」
それを追いかけて、ルークが中で弾ける。初めて感じる熱くとろとろとした感覚に、琴葉は再び体を小刻みに震わせて、ちいさな声で喘ぐ。今までしたセックス以上に満たされて、琴葉は満足げに睫毛を震わせた。
このまま、ルークとゆっくり眠って、ご飯をたくさん食べて。明日は魔界を案内してもらおう。琴葉がそう思って目蓋を閉じようとした時、ルークが再び、腰を揺らめかした。
「え?…やだぁ」
「まだまだこれからだろう」
戸惑って慌てて体を起こそうとした琴葉にルークはそう言って、チュッとかるく頬にキスしてきた。
「待って、もう、無理っ」
行為を再開しようとしているルークに琴葉は告げる。しかし、ルークは琴葉を自分の膝の上に座らせると突き上げるような動作を2、3回。
「やだぁぁ、もう、だめだってば」
そんな琴葉の首筋にキスをするとルークは、欲望に染まる真っ赤な目で琴葉を見つめてきた。琴葉がその瞳に危機感を感じてももう遅い。見てしまった。
「琴葉も子供欲しいだろ?じゃあ、いっぱいしないとな」
いや、たしかに子供は欲しいけど。自然とできればいいかなぁ〜。なんて。
「でも、今日はもう体がっ」
ルークを引き離そうと髪を引っ張ってもビクともしない。それ所か、胸を弄り始めて困ってしまう。
「ああ、そうだ。男はいらないからな。絶対、女を産めよ」
ルークは乳首を転がしていた唇を離すとそう言いつける。何で?と琴葉がルークを見ると、ルークはにやっと笑って言った。
「琴葉に愛される男はオレだけだからな」
ルークの的外れな独占欲に喜んでいいのか、悪いのか。判断をつきかねていると妖しい腰の動きが開始される。
「やぁ、これが終わったら、寝かせて…はぁん…」
この1回は諦めた。こうなってしまっては、ゴールしないと琴葉も辛い。だから、譲歩を見せて琴葉は言ったのだけど。かぷっと噛み付かれてしまった。どうしてっ。
「まさか。最低3日は覚悟しとけ…オレとしては、何ヶ月でもこうしてたい所だがな」
嘘。もう声にならなかった。ルークが3日というなら、本当に3日だ。さっきまでのしおらしいルークはどこにいった。
「ああっ…いやぁ、るーく、ふうんんっ…ぁぁっ」
琴葉が心の中でいくら叫んでも、ハイテンションなルークには通じない。それに今はもう、言葉を紡ぐこともできない。甘い響きをもつ音だけを零して、それがルークをよりいっそう煽っている。けど、とめられない。
主導権を握っているのはルークだ。艶やかな表情で快楽に涙を零しながら琴葉は、お願いだから3日にして。とルークを見つめたが、正しく受け止めてくれているかは謎だ。
琴葉は何日、ルークに囚われていたのかわからなかった。意識を失って目を覚ましては、時間を確かめるように伸ばす手を絡めとられて、また囚われる。その繰り返しだった。そのお陰で時間の感覚などすっかり狂っていた。
「え?これから?」
「そうだ。さあ、服着て支度しろ」
純白のドレスを手に持って、嬉しそうにルークは言う。さんざん好き勝手に抱かれて琴葉は、体がだるいし、力が入らないんだけど。それに。首もとが大きく開いたそのドレスはちょっと。
「立てないんだけど…」
「大丈夫。ちゃんと抱っこしてやるからな」
琴葉は素直に、ヤダと思った。こんな体中キスマークをつけて、足腰立たない状態を見れば何があったのか直ぐにわかるではないか。それこそ、周知の事実ではなく、羞恥の事実だ。
「ドレスが似合わないからやだ」
ドレスにかこつけて琴葉は言った。ルークは、それじゃあとでも言うように違うドレスをとってきた。ルークとしては、いつ誰に手をつけられるかわからない危険な魔界で、確固たる契約をさっさと結んでしまいたかった。
「オレとしては、ロングの白がいいんだけどな」
白がどうしても欠かせないのか白い短い丈の物をもってきた。前が詰まっている分、背中がきわどい所まで開いている。結果を言うと隠したいキスマークはでたままだ。というより、足についたマークまで見えるから。
「さっきのドレスでいい」
しぶしぶ琴葉は妥協した。ルークが妙に浮かれているし、嬉しそうに満面の笑みでいるから、妥協せざるおえない。
「やっぱり、ロングがいいな」
ルークは上機嫌でそう言うと額にキスしてきた。そして、手には口紅を持っている。花と音符を飛ばしているルークは、琴葉の唇に口紅を塗ると琴葉を抱き上げて部屋をでて行った。どこにいくんだろう。と思いながら、琴葉はもう逆らう気もおきない。
ルークが琴葉に「式を挙げるぞ」と言って、つれてきたのは魔王の玉座の前。魔王から人間界でいう婚姻届を貰うためだ。魔界の秩序に関することはすべて魔王の管轄だ。
山羊の椅子に座る男とルークとの会話を大人しく聞いていた。綺麗な人だなと思いながら見ているのだけど、恥ずかしい。人が多いのに、ルークに横抱きにされたままこんなドレスを着て、人前に晒されるのはやっぱり抵抗がある。
「ルーク、この間はガザガザと汚らしい姿だったが、今は艶々してるぞ」
魔王のからかいともとれるその言葉にルークは誇らしげに言う。ルークは魔王に気に入られている。魔王にとっては親しい会話を交わす数少ない者の一人だ。
「ええ、すっかり艶々ですよ。愛されてますからね」
ルークはそう言って、琴葉の頬にキスをした。人前でこの状態と言うだけでも恥ずかしいのに、これはないだろうとキッと睨みつける。しかし、ルークはどこ吹く風だ。
しかも、ルークを見ると誇らしげに堂々としているものだからこれ以上何も言えなくなってしまう。それに、琴葉が口をだしてルークの立場を悪くすることは避けたい。
「琴葉、彼が魔王だ。挨拶して」
ルークは優しい声で言う。琴葉が怯えていると思ったからだ。一応上級の魔物ばかりだから美形揃いだが、尻尾が生えていたり皮膚が蛇や獣だったりするから怯えているだろうと思ったのだ。
「魔王さん?」
琴葉は、二人の会話を聞いていて不意に呟いた。琴葉の言葉に、まわりはぎょっとした。周りだけじゃないルークもだ。微妙に敬意も糞もない名称だ。というより“さん”をつけることで馬鹿にしている。
「こ、琴葉!!?」
ルークは慌てて諌めようと目をむけると、何も知らない子供のような目で、何?と見つめかえしてくる。
「ぷっ、くくくく」
凍てつく場の空気に、響く場違いな笑い声。その声の持ち主が魔王本人であることが救いだ。琴葉を見て、可笑しそうに笑い出した魔王は、腹をかかえて爆笑している。
彼女のもった性質なのだろう。まったく嫌味がなく、子供のように素直に響いた。他の者が言っていたら間違いなく首を刎ねている所だ。
「面白い奴だな。いいぞ、結婚を認めてやる。持っていけ」
魔王はそう言って無地の白紙をわたした。琴葉はそれが特別な物には思えなかった。ルークは恭しく受けとって、礼の言葉をのべるけど。不思議そうな顔をしている琴葉に魔王は言った。
「私にも妻がいる。今度、相手をしてやってくれ。きっと気が合う」
「はあ」
琴葉はどう答えていいのかわからず、曖昧に答えた。まだ、もうひとつここで生活していく実感が持てない琴葉だった。周りを見ると何か生えてたり、空想上の生き物がいたりで夢物語みたいなのだ。
ルークは腕の中で生返事をかえしている琴葉を見て、心の中でたじろいでいた。第68代目魔王は気難しくて有名だ。その彼に瞬時に気に入られてしまった琴葉には、やはり勝てそうになかった。
ルークの家に帰ると琴葉はまじまじとその紙を見ていた。何の変哲もない白い紙をルークはどうしてわざわざ貰ってきたのか。
「これで結婚式が終わったの?」
琴葉は不思議な気持ちで聞いた。想像していた式とはあまりにもかけ離れていて琴葉は拍子抜けだ。もっと黒魔術的な儀式があるのだと思っていた。
「まだだ。悪魔は契約社会なんだ。自由と快楽をこよなく愛する悪魔は基本的に、約束は守らない。だから、こうしてリスクと拘束を伴う契約をする。そして、リスクと拘束性の高い契約は魔王からこうして白紙の紙を貰わないといけない」
ルークの説明に「ふ〜ん」と琴葉は感心して、返事をかえした。これからこちらの常識を学ばないといけないのか。と思いながら。
「オレたちの結婚の決まりごとは何がいい?オレとしては、浮気・不倫は絶対赦さん。子供よりオレを優先して欲しいとかだけど」
細々と言い始めたルークに、琴葉は考える。そんなに細々と決めると窮屈ではないのだろうか。それに何だか信用されてないような気がしてきた。
「細々と決めるのやめようよ。何か信用されてない気がするんだけど」
「だが、決めておいた方がわかりやすいだろう?」
ルークは他の奴が手をだせないようにとあれこれ言っているのだが、琴葉はどうやら気に入らないらしい。
「それじゃ、今までと“変わらぬ愛を”でどうだ?今の気持ちがオレらのすべてだろう?」
琴葉はルークの言葉がピンとこない。ここがピークだと思わないからだ。結婚は始まりとか聞くし、ここがピークってどうよ?て気分になる。う〜ん、と唸りながら琴葉はいいスローガンを考える。決まりごとなのだが、琴葉にとってはスローガンのような物だ。
「あっ!」
琴葉はいいことを思いついて、ポンっと手を叩いた。
「ルーク、いいの思いついた。“限りない愛を”これにしようよ」
「限りない愛を…か」
ルークは思案するように呟く。琴葉はこれが絶対いいと思いながらルークに言う。
「ねえ、これにしよう。もっと深く慈しみ愛し合えるように。これが一番いいよ」
琴葉は、ルークに説明する。ここがピークではない。今まで以上の試練があるかもしれない。それを二人で超えていけるように、そんな願いをこめた言葉だった。
「そうだな。琴葉がもっと愛してくれるのはいいな」
すっかり目尻が下がっているルークはそう言って同意してくれた。荷物のように抱きかかえるとルークは椅子に座った。琴葉を抱きかかえてペンを取る。
「字も覚えなきゃいけないんだ」
琴葉はルークの書く文字を見ながら思った。まったく見たことのない文字だったからだ。
「そうだな。よし、こうしよう。一つ覚えたら、ご褒美に気持ちいいことしてやる」
ルークの言葉にこけそうになって、気をとりなおす。
「それはルークのご褒美でしょ。そうだな。お願い一つ聞いてもらうのがいいなぁ」
甘えたような声をだして、軽くふりむいて言う。あまりの可愛さに思わず、くらっとした。すっかり馬鹿になっている。
「はい、日本語でいいからここにサインして」
ルークにペンを渡されて、指示されたところに名前を書いた。琴葉が名前を書いた途端、紙に青い炎があがって山羊のマークが現れた。
「おお、すごい。そう言えば、リスクって何?」
「命。破ったら命がなくなる」
「へぇ〜」
色々と思わず感心してしまう。しかし、関心も束の間。ルークに抱きかかえられて、どこへ行くのかと顔を見ると、ルークがにやっと笑った。すごく嫌な予感がする。
「きゃっ。ルーク!」
ベッドに放り投げられて、抗議の声をあげる。しかし、ルークは嬉しそうに微笑んで、文句を言う口をふさいでしまった。舌のねっとりとした動きと感触にすっかり言葉を封じ込まれてしまう。が。
「無理…絶対、今日は無理だからね」
何をしようとしているのか察知して、琴葉は唇を離すとそれでも追いかけてこようとする口を手の平で覆った。ムッとした瞳とかちあったが、琴葉もこんなことばかりしてられない。というより腰が痛い。
「新婚だぞ。新婚がまずすることといったら、新婚初夜だろう」
「いや、まだ昼だし。さんざんやったじゃない」
「大丈夫だ。そうのうち夜になる」
その言葉にぞっとして、琴葉は本気で逃げようと暴れ始める。まだまだ日が高い。それが夜になるまで。
「絶対ヤダ!絶対なにがあってもしない」
琴葉の断言にルークもむきになる。新婚だぞ。式を終えたばかりだぞ。真白な純白のドレスを脱がして、乱れた姿を楽しみにしていたルークは、絶対に諦めないと意気込んだ。
「あっ、卑怯者」
真っ赤な瞳が勝ち誇った光りを宿して琴葉を見つめた。琴葉は、その卑怯な手口にルークを詰った。しかし、ルークは勝ち誇った笑声まで付け足して言う。
「何とでも言え。うんとトロトロにして、気持ちよくなろうな」
「ヤーダー。絶対っ…やぁん」
起き上がろうとして、背中のファスナを下ろされる。ぐいっと下げられたドレスから、零れるように露になった胸に、ちゅうぅと吸い付かれて声があがる。
胸に手を伸ばされて揉まれる。指先で乳首を転がしたりしながら、唇は肌の上を荒らしていた。新たについた紅い痕を舐めたり擽ったりしながら、さらにまた新しい痕をつける。
「もう、こうなったら無理だよな」
ルークはそう言って、跨ったまま起き上がると上着を脱ぎしてた。ぐったりとして横たわっている琴葉は、手を動かすのも億劫になっていた。そして、ルークの裸体に、ずくんと体に重たい衝撃が走る。
紅い瞳に煽られて、すっかり体の奥が疼いているのだ。さらに、胸をしつこいくらいに弄られて玩ばれては、息も上がって白旗を揚げるしかない。
「このバカ。壊れるんだからっ、ぁぁっ」
指先で耳朶を弄られて、それだけで反応してしまう自分が憎い。ルークはくすくすと楽しそうだが、琴葉は屈辱だった。
「愛してる、いっぱいオレの愛を受けとれよ」
切なげな甘い声が囁いてくる。耳の奥まで犯そうとしているルークに琴葉は、必死に首をふった。本当に今日は体が辛いのだ。
「ルーク、もう、無理…つぶれちゃう」
琴葉は縋るように見つめて、やめてと訴える。未知の領域だった。前日前夜つづけられる行為と感覚が琴葉のキャパシティーを超えているのだ。その恐怖がある。
「先生!お仕事ですわよ!!!」
無遠慮に扉を開けて現れたのはセルシーだ。琴葉はこんな場面に現れたセルシーに驚いて思わず、ルークを蹴り飛ばしてしまった。ベッドの下で尻餅をつくルークは、セルシーを睨む。いい所だったのだ。
「仕事?そんな物しるか!」
自分の立場をまったく無視したその発言に、セルシーは託された紙を突き出す。それを見て、ルークは青ざめた。
「ちょっと待て!親父はどうした!それにオレは長になることを承認した覚えはないぞ」
「魔王様がぜひやらせろとおっしゃったので、喜んで辞任しましたよ」
セルシーの言葉に愕然とする。悪魔は怠け者だ。地位が上がれば、その分権力や特権も増すが、半面、仕事が多くなり自由を束縛される。
だから、最高位につくと適当に任期をこなして、さっさと後継者を作ってバトンタッチして特権だけを誇示する。それが上級悪魔のやり方だ。
「100年分の仕事が滞納されていますわよ」
セルシーはそう言ってルークを捕まえた。ルークは琴葉に救いを求めるように手を伸ばしたが、琴葉はさっきの仕返しでパシッと叩き落とす。
「だいたい、今夜は初夜なんだぞ。遠慮はないのか」
「何が初夜なんですの。一週間もやってれば充分ですわ」
「うん?」
セルシーの言葉に反応したのは琴葉だ。ルークはマズイと表情を焦らせた。琴葉がルークから聞いていたのは3日だった。
「3日って言ったよね?」
琴葉はルークに告げる。もちろん笑顔満開だ。ルークは口元をひくっとつらせながら弁明しようとする。
「あれ、おかしいな。いいじゃないか、気持ちよかっただろ」
「死ねっ!この色情バカ!!」
枕が見事、ルークの顔面に直撃する。そして、セルシーに琴葉は言った。
「連行して」
「わかっていますわ。みっちり仕事してもらいますからね、先生」
セルシーはそう言うとずるずるとルークを引きずっていく。琴葉はそんなセルシーにずっと言おうと思っていた言葉を思いだして、セルシーを呼び止めた。
「セルシー」
セルシーは呼び止められてふりむく。琴葉はそんなセルシーに頭を下げて言った。ずっと言おうと思っていた。
「ありがとう」
セルシーはその言葉に驚いて一瞬、固まる。琴葉が言った意味がわからなかったのだ。しかし、セルシーはすぐに何を言いたいのか理解して、琴葉から表情を隠すと言った。
「あなたみたいなムカつくバカには勝てませんわ」
そして、足早に去っていこうとする。セルシーは父を殺さないでいてくれた。それに彼女がいなかったら、琴葉は今ここにいなかった自信がある。結果よければすべてよしだ。
「100年ほったらかしの仕事など今さらしなくてもいいだろう!オレの初夜をかえせ!」
ぎゃあ、ぎゃあと騒いでいるルークの声が遠ざかっていく。琴葉は、悶々としたままの体をベッドに横たえる。体の火は燻ったままだが、セルシーが現れたインパクトで何とかなりそうだ。さっさと鎮火して、眠りにつこう。
悪魔のしかも淫魔の旦那様をもったのか。と思うと、くすくす笑みが漏れて、大変だなぁ。と思ってしまった。
「子供たくさんできそう」
琴葉はルークを思ってそう呟く。大変そうに言ったわりには表情がゆるんでいる。
ルークと出会って、たくさん泣いたけど、たくさん笑ったし、これからだってたくさん幸せになれるのだろう。笑ったり泣いたり怒ったり喜んだりしながら一緒にいられる。それは幸福なことで素敵なことだった。
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