中
ルークの言った言葉が、頭から離れない。父を捨てて、悪魔になれ。と言ったルーク、若く綺麗なまま残したい。と言ったルークの真意がわからなかった。
左手の薬指にはめられた赤い薔薇の指輪。バレンタインの日に渡された初めての愛の形。目に見える愛の姿である赤い指輪。
琴葉が信じていたのは何なのか。淫魔でも、悪魔だっていいと。琴葉は、ルーク自身を信じたはずだった。
優しさ…ううん、何より自分にむけてくれる愛を信じたのだ。すべてを捧げられているようなそんな直向な想いを信じた。しかし、その想いすら疑うような言葉をルークは言った。
パチっと乾いた短い音が響いて、父が居間にはいってきた。父が現れて、琴葉はいつの間にかあたりが暗くなっていることに始めて気づいた。夕飯を作って、一杯の湯のみを持ったまま、電気もつけずに物思いにふけっていた。
「なんだ、暗いままで」
暖かかったお茶はもう、今は冷えきっている。湯のみから手を離した。手の平がお茶と同じように冷たくなっている。
父の言葉に、琴葉は夕飯の用意をしようと立ちあがる。そんな琴葉に、父は問いかけてきた。
「ルークはまだ帰ってないのか?」
「うん。彼女でもできたんじゃない」
琴葉は父の言葉に平然を装うと言った。複雑な思いなど感じさせないように琴葉は取り繕う。
琴葉が「顔も見たくない」と言ってから、ルークは帰ってこない。大学にも来ていない。セルシーの所にでもいっているのかもしれない。淫魔は淫魔同士がお似合いだ。
「課題があったら早く片づけなさい」
父は琴葉とルークが喧嘩をしていることを何となくわかっている。あんなに兄妹仲がよかったのだ。互いを思いあって、すれ違っているのだ。と父は考えていた。
しかし、直接それを諌めなければならないほど、二人はもう子供ではない。だから、わざと課題と言う言葉で示した。
「何も課題なんてないわ。なんだか、疲れちゃった」
「暖めるだけなら、父さんにもできる。琴葉、課題を仕上げるためにはたくさんの意見が必要だよ」
琴葉の言葉にそうかえして父は台所に行こうとした。冷静に話し合いなさい、と言われたことに気づいて琴葉は、そんな父の背中に「ありがとう」と言うと、部屋へともどった。
実は、部屋にはいたくない。あそこは、ルークとの思い出がつまりすぎている。特にベッドの上は、二人だけの物だった。
部屋に戻った琴葉は、ベッドに横たわる。ダブルベッドの広さが、心を孤独にさせる。失ったようで、もう、届かないのだ。と思い知らせようとしているかのように。愛されていたことが夢のようにさえ感じてしまう。
今になって思う。いや、考えないようにしていたのかもしれない。ルークは私のどこを愛してくれたのだろう。香代大祖母の魂というだけ。若い見た目だけ。
ううん、きっと失った人の面影を追っているだけだったのだ。若くしてなくなった香代大祖母。その姿を追いかけているだけなのだろう。始めから、代わりだった。
考えようによっては、愛されているのだろうけど、それでは満足できない。そこには琴葉の存在はないから。同一人物だといくら言われても、琴葉にその頃の記憶がないのだからまったくの別人だ。
「でも、責められないわよね…」
琴葉は赤い指輪を見つめながら呟く。ルークに求める愛を、琴葉はルークにあたえてあげられない。実際、父をおいてルークについていく何てこと琴葉にはできないから。
全てを捧げられるほど、自分もルークを愛していない。それが、ルークのいない生活でわかったこと。
側にいなくて、たしかに心に穴が開いたような気持ちになるけど、追いかけようとは思わない。父を一人にはできない。その想いがルークへの思いを上まわっている。
それでも、外すことのできないもの。琴葉の指に光っているのは、愛の証ではなく、愛着の証なのかもしれない。琴葉にとっても、ルークにとっても。
愛を重ねてきたと思っていた行為や時間は、まやかしの心地よさに浸っていただけ。子供のする“ごっこ”と同じだったのだ。模倣しただけの物だからこそ、少しでも障害があると罅がはいって砕けてしまう。
だから、自分は何も捨てようとせず、真にあたえようとせずに、相手から欲しがってばかりなのだ。そして、最悪なことにそんな自分では、最後に相手を責めてしまだけ。現実に今、ルークを思うと責めること問うことばかりだ。自分勝手な思いばかり。
「…だれ?」
窓辺に人の気配を感じて琴葉は、身を起こした。闇から現れたのはルークだった。琴葉は目に複雑な陰をうつす。1ヶ月ぶりのはずのルークの姿に素直な嬉しさはない。
「何しに来たの」
冷たく響く言葉は愛の終わりを装っているかのように響いた。琴葉の言葉に、愛を求める余裕はルークにはない。
「オレとともに魔界に来い」
高圧的に告げられた言葉に、琴葉は他所をむくとその言葉を否定する。父を置いていけない。琴葉は物心がつく前から、父のことが世界で一番大好きだ。自他ともに認めるファザコンだった。
寂しい思いなんてさせたくない。父とルークなら、父をとる。
「つっ、ヤダって言ってるじゃない」
ルークが手首をつかんで琴葉を連れて行こうとする。抵抗する琴葉に、ルークは言った。今までのルークとは、あまりにも別人のようだった。
「黙れ、オレの決めたことに従っていればいい」
ルークは有無を言わさず魔界に連れて行くつもりだ。そして、悪魔にする儀式を行うつもりでいたのだ。もう、時間がないのだ。焦っていた。少しでも早く手を打ちたかった。
「やだ。行かない。ここにいる」
琴葉は必死に抵抗するが、手が解かれることはなかった。きつく掴まれた手首に血の流れが止められているような感覚。手の甲の色が変わっている。強引な態度と、揺るぎない力に琴葉は危機感を感じる。
「ヤダ!助けてっ、おとっっ」
騒ぎ始めた琴葉の頬を、ルークが叩いた。琴葉は何が起こったのかわからず、一瞬、黙った。ルークはそんな琴葉の姿に、一瞬、躊躇いと共に力が緩んだ。思わず手をあげてしまったことに、言い知れない罪悪感が襲う。
琴葉はルークの腕をふりはらった。解放された手の平に血液が巡る。琴葉は真っ直ぐにルークを見る。自分の考えを改める。
どこかで、甘い思いがあった。ルークが本気で自分を傷つけないという。甘い考え。最後には言うことを聞いてもらえる、という根拠のない考え。
「私は行かない」
真っ直ぐに自分を見る琴葉の瞳は、いつもの甘えん坊の琴葉ではない。亡き香代と同じように気高く、強い光りを宿していた。以前、ルークが屈したその瞳の強さだ。しかし、今回は屈する訳にはいかない。
「…父さんがどうなってもいいのか?」
ルークの卑劣な言葉に、琴葉は唇を噛んだ。悔しい。今、無力なことが。こんな人を愛した事実が。この体に触れさせたことが。信頼をよせた分だけ、悔しさが募った。
「連れて行くなら、連れて行けばいい」
震える唇で、涙をこらえる強い瞳に、ルークは言葉を失う。無理やりでも、どんな手段を使ってでも、連れて行く覚悟だった。それなのに、目の前の琴葉の姿に早くも覚悟が揺らいでいる。
「…1週間後に迎えに来る。それまでに、整理しておけ」
ルークはそれだけで精一杯だった。これ以上、ここにいては、自分はまた屈してしまう。あの瞳に。
ルークがいなくなり琴葉は、ベッドに身を投げた。そして、声を殺して泣いた。悔しい、どうしてこんなにも。
琴葉はそれでも外すことのできない指輪を握り締めながら、涙の中で眠りについた。広いベッドの上で、小さく身を丸めながら。
いつものように朝がくる。ルークとの約束の朝。
琴葉の気分とは違い、今日の天気は快晴。この夏、見た海のような青がひろがっている。愛している人はここにはいない。愛した人その者が幻覚だった。
「ありがとうね。お父さん」
玄関で靴を履いている父に琴葉が言葉をかける。これで最後だ。今日からもう、父には会えなくなる。魔界に行くから。
「どうしたんだ。急に照れるじゃないか」
「うん。ただ言いたくなっただけ、行ってらっしゃい」
父の照れたような嬉しそうな優しい笑顔に、琴葉はそう答える。心の中で、これまで育ててくれた感謝と一人にしてしまう罪悪感で一杯だった。親不孝な娘でごめんなさい。
ついこの間まで、幸せで満たされていた。どこで間違えたのだろう。どこで、狂ったのだろう。いや、始めから間違いで、始めから狂っていたのだ。悪魔を愛したこと事態が狂乱だった。
「そうだ。これを琴葉にあげよう。よく見ると綺麗だよ」
父は言って、琴葉に手をさしだす。琴葉が受け取ると玄関からでて行った。
琴葉は父のいなくなった玄関で、渡された物を見る。それは青いガラス玉だった。親指と人差し指で丸を作るほどの大きさの物。けど、特別綺麗な物ではない。ただのガラス玉のように見える。
琴葉は、今日いなくなる。父が最後にくれた物。これだけを持って、魔界に行こう。そして、このガラス玉に祈りを捧げよう。父の健康と幸福を祈りつづけよう。
父をルークに殺させはしない。その境界線だけは守りたかった。自分のためにも父のためにも。
琴葉は台所の机の上に一通の手紙をおく。内容は、探さないでくれ。忘れて欲しい。というものだ。
父になにかあるくらいなら、蒸発した親不孝な娘になる方がいい。例え、父が一人になってしまったとしても、父には生きていて欲しい。
琴葉はそのまま洗面所にむかう。鏡に映る自分は冴えない表情をしていて、まるで負けているような気がして、わざと口角をあげた。でも、それは琴葉の思い描く表情とは違う姿が映ってしまう。
「……苦しいよ」
一杯、一杯の心は今にでも割れて壊れてしまいそうだった。知らない所にいくことも愛していた人に裏切られることも何もかもが、琴葉を壊そうとしている。
まわりに漂う空気さえも琴葉を苦しめるためにあるのだ。鏡も琴葉が触れるすべての物が自分を拒絶しているように感じたが、それでも、琴葉は睨むように自分を見つめた。まだ、負けた訳じゃない。終わった訳じゃない。
無理やり奮い立たせて自分を懸命に支えていた。今、倒れる訳にも泣き崩れてしまう訳にもいかない。自分には父を守るという義務にも似た強い思いがある。
天を仰ぎ、深く肺に空気を送りこむ。肩から、髪がぱらぱら落ちて、琴葉は長く伸びた髪の存在を意識した。
ルークがきてから一回も髪を切っていない。伸びた髪は、長くなって琴葉の心に錘をつけている。髪の重さは、ルークへの想いそのもののように感じた。踏みにじられた時間の象徴。
ガラガラ。と扉の開く音が聞こえた。琴葉はルークがきたのだ。と思い居間へとむかった。しかし、居間にいたのはルークじゃない。
目の前には、横たわっている父の姿。そして、傍らに立つセルシーの不気味な笑顔。
琴葉は何が起きたのかわからず、言葉もでなかった。父はどうして、こんな所にいるのだろう。会社に行っているはずだ。今頃は電車に乗って居眠りでもしているはずなのに。本当にそこにいるのは父なのだろうか。
「…セルシーっ」
静かな揺らめきとともに発せられた声はルークのものだった。しかし、琴葉の耳には届かない。目の前で横たわっている父の姿しか目にはいらなかった。耳を澄ますのは、父の心音を確かめようとしているだけ。
「…先生、私いい子でしょ?先生の邪魔者を壊してあげたの」
セルシーの言葉に琴葉が、ピクっと反応する。そして、眉間にシワをよせ、困惑に満ちた瞳でルークを直視した。ルークがセルシーに命じたのだろうか。父を殺すように。
「ルークがしたの?」
地を這うような冷たい声に、ルークは答えない。瞳だけを動かして、セルシーを見るとセルシーは含むように口元を歪めている。ルークに弁明などできる訳がなかった。
「…だとしたら?」
セルシーが琴葉に告げる。琴葉の瞳が大きく見開いて、ルークはとっさに泣くと思った。しかし、琴葉はそのまま止まって、何も言わず、何も語らず、そのままただ自分を数秒見ていた。流れた空気は重く、永くつづいている。
琴葉は何も言わず、左手をだした。ゆっくりとさしだされた指には、あの日、ルークがはめた紅い薔薇の指輪がはめられている。その指輪にルークは愛を誓った。
人差し指と親指で挟まれて、ゆっくりと指を滑っていく指輪。琴葉はそれを抜き取り、部屋の隅に置かれたゴミ箱へと、ぽとん、と落とした。ゴミの間に滑るようにして、指輪は姿を消していった。それが、答えだった。
バレンタインの日、ルークが琴葉にはじめて送ったプレゼント。それに、口付けてルークは愛を誓った。変わらぬ愛を。
「…来ないのか?」
「………」
答えない琴葉に、ルークはさらに言葉をかけた。
「私の側にいないと仕返しもできないぞ。私を殺すなら、ここに銀を指さないといけない」
ルークはそう言って、心臓を押さえる。銀の傷は治りが悪い。つまり、それで刺されれば、心臓が完治する前に死んでしまう。
ルークの言葉に、ビクッと琴葉の体がゆれた。琴葉の感情が読めないままそれでも、ルークは琴葉を見ていた。父が死んだことで、琴葉が自ら命を絶つのではないか、と思うからだ。
琴葉はルークに背をむける。そして、ゆっくりと足を動かして、台所へと消えていった。セルシーは、ぴくりとも表情を動かさない。しかし、その奥には楽しげな色が浮かんでいる。
ルークは忌々しくセルシーを睨んだ。しかし、そんなルークにセルシーは言葉を投げる。
「これで、先生の望みどおりになりますわね。あの子には、もうここに何も残っていないんですもの」
よかったですね。とでも言いたいのか、セルシーの言葉が虚しくルークに響いた。たしかにここには、何も残っていない。ルークにも琴葉にも。
琴葉は、自分と来ることを選ぶだろう。無言で指輪を捨てた琴葉に、ルークはゾッとした。自分への愛を捨てられたからではない。もっと根本的なものを失うような、奈落の底の底から冷えてくる感覚。
だから、こそあんな言い方をした。自分に復讐すると言う希望を持たせたのだ。琴葉が自分を憎しみの目で見つめるなら、それが生きる糧となる。確実に琴葉を生に縛りつけるための手段はそれしか思いつかなかった。
「ふん、琴葉はもう私を離しはしない。お前もそれが望みなのだろう」
魔界で過ごしていた自分をとりもどすように、魔界にいた時の言葉を使う。琴葉と過ごした日々の中で、自分が変わっていったモノをすべて壊すように。
冷徹とした自分の欲望のみに生きる悪魔らしいその心を取りもどす。自分の欲のためなら、もっとも愛した者さえも壊せる。
「ええ、これで先生が愚かなことはなさらないでしょうし」
魔界にいた時のように振舞うルークに満足げに微笑む。セルシーが愛していたルークがもどってきたのだ。冷徹で怠惰に満ちたあの瞳が大好きだった。
ルークが生きている限り、琴葉は生きている。お互いを愛することをやめた二人では、人間を悪魔にすることはできない。琴葉が生きつづけるもう一つの方法。琴葉は躊躇わずにその方法をとるだろう。そして、ルークもそれを望んでいる。
魔王との取引。死してもなお、あの肉体に魂を留めることができるのは、魔王しかいない。そして、その契約によって琴葉は、動く死人になる。
にっこりと笑うセルシーに、ルークは視線を外す。琴葉がまだもどってこない。きっと台所から廊下へでて部屋に行ったのだろう。荷物をまとめるために。
ルークは視線を二階にむけるとそのまま二階へとむかった。きし、きし、と軋む階段をあがり、自分たちが過ごした部屋の襖をあける。
「!!!」
ルークの瞳孔が開き、目が一点を凝視する。弾かれたピンのようにルークはベッドへと駆け寄っていく。
「琴葉ッ、おい、琴葉ッ!」
ルークは琴葉の頬を叩く。
ベッドの上には、琴葉が蒼白な肌をして目蓋をつぶっている。ベッドの下には、血に濡れた包丁が落ちていた。
琴葉の手首を押さえ、冷静さを失ったルークが縋りつくように傷を押さえる。流れては落ち染みになっていく真っ赤な血を止めるために傷口を押さえつけたが、ルークの指の間から血は零れて失われていくばかりだ。
「琴葉ッ、琴葉ッ」
必死に名前を叫ぶ。しかし、躊躇いなく切られた傷の所為で、琴葉は意識を失っていた。心音が弱く弱くなっていく。
「なぜだっ!!琴葉ッ!」
叫ぶルークのもとにセルシーが異変に気づいて現れた。セルシーは琴葉の姿を見て瞬時に状況を把握すると、ルークを弾き飛ばした。
「何してますのッ!こんな傷っ」
セルシーは琴葉の手首に口づける。真っ赤な血で顔が汚れることも厭わず、そのまま傷をふさいでいく。ルークは怯え竦む子供のようにただセルシーの行動を見ていた。
痕もなくふさがった手首から顔を離すとセルシーは、琴葉の心臓に耳をあてる。そこは一切の生命の音を失っていた。
心臓の上に手を組み、振動をおくる。5回衝撃を与えては心音を確かめるという行動を2、3回くりかえした時、とくん。と音がした。かすかに弱い音と空気を吸いこむ胸の膨らみ。
「もう、大丈夫ですわ」
ルークに言ったわけではない。
「琴葉っ、琴葉っ」
弾かれたように手を握ってその蝋燭のような肌に額をつけているルークの姿を、セルシーは見ていた。そして、それ以上、何も言わずにでていく。
それから、日が沈み。琴葉はゆっくりと目を覚ました。生死のどちらかわからず、視線を彷徨わせる。視界の先に吊り下げられた袋と管を見つけて、生きているのかと思う。
どうやら神様は琴葉を拒絶したようだ。それも、そうか。悪魔と一時でも愛しあった者を神様は赦してはくれないだろう。ああ、死にたかった。あのまま。
「なぜ、死のうとした…」
ルークの声が横から聞こえて、琴葉はゆっくりと視線をむける。管は腕に繋がれて、その処置をしたのは、きっとルークだろう。セルシーが自分を助ける訳がない。
「うれしい…ここまで執着されて…」
琴葉の言いたいことがわかわず、ルークは眉を寄せた。なぜそんなことを今言う。あの指輪を捨てたくせにどうして今。
「答えろ。私に復讐するのだろう。死ねば叶わないではないか」
琴葉は、ゆっくりと首をもどすと零すように「叶うわ」と呟いた。色を失った琴葉は死んだまま言葉を発しているようだった。
「…執着されればされるだけ、私の復讐は叶うわ」
ルークは琴葉の言葉に、冷たいものを感じた。生に縛るために与えた言葉が、琴葉を死に縛りつけている。
「別に死ねばいい。私はまた、お前を見つける。そして、今度こそ私から逃しはしない」
ルークは酷薄な言葉をかけた。そんなことしても意味がないのだと。何もかも忘れた魂が、憎む相手を求めるようにしむけると。
「…そうね。そこまで考えてなかった」
しばらくして、琴葉が言う。たしかにそうだ。こんなに憎んでいる相手に再び、抱かれるかもしれない。心から。そんな浅はかな自分を嘲う。
ルークは静かに瞳を閉じた琴葉を見て安心した。もう、琴葉は死にはしない。自殺などしないだろう。
屈辱的な来世を思えば、死ぬことを拒絶する。
香代は気高い人だった。どんな場面でも堕落して屈することはない。自分の意思を貫く強さとしなやかさを持っていた。
香代がそうだったように、琴葉もまたそれを受け継いでいる。気が強くて、しっかりしていて、決して芯を曲げない。琴葉もおなじだ。
だから、優しく守りたかった。無防備に甘えてくる琴葉の態度が何よりも嬉しかった。あの時、自分ができなかったことを取りもどしているような気さえしていた。
「魔界にはいかない」
告げられた言葉に、ルークが静かに答える。
「許さないと言ったら」
琴葉も同じように静かに返してきた。強い意志をこめた言葉が部屋に響く。
「抱かせるわ。ルーク以外の悪魔に」
ルークは息をのんだ。琴葉の言うとおりだ。琴葉に執着している自分が、誰かと共用できるはずもない。他の者が琴葉に触れることを耐えられるはずがない。
襖の開く音が聞こえて、琴葉は深い眠りについた。体は動くことを拒絶している。それでも、動いている心臓が疎ましかった。
そして、一ヶ月がたち。琴葉はすっかり回復していた。琴葉の日常はもどっている。昼には大学に行って、智樹とバカなことを言いあったり遊びにいったりする。
智樹もまわりもルークのことを忘れていた。まるで始めから存在していなかったように。何もなかったように、皆はルークを忘れていたのだ。
まるで、ルークがいない頃に戻ったみたいだった。ただ、あの頃の名残をのこしているとしたら、深夜に訪れる陵辱だけ。
寝静まった住宅街に羽音が静かに響く。黒い翼を煌々と広げ、降り立つ悪魔を琴葉は向かいいれた。黒髪に紅い瞳が自分を見つめている。
「やはりお前には紅い瞳が効かないんだな」
紅い瞳のルークは琴葉の頬に手をあてながら呟く。インキュバスの紅い瞳は、女に淫欲を起こさせる。強力な媚薬と同じ作用があった。
琴葉はルークと会話を交わすつもりはない。さっさと自分を抱いて、帰ればいい。いなくなればいい。この時間だけ、性欲を満たすための人形になる。
驚くほど冷めた目で琴葉は、ルークを見あげていた。インキュバスを拒絶する瞳の冷たさに阻まれないように告げたルークの言葉は、琴葉にはどう響いたのだろうか。愛することの動機だった瞳の冷たさ。
「早く終わらせてくれる。明日も早いから」
琴葉は冷たく告げるとよりいっそう冷めた目をむけてきた。
出会った頃、この瞳をむけられると熱情がわきあがった。それは、インキュバスのプライドを刺激されてか、純粋に興味を持ったものなのか、今ではどちらでもいいことだ。
しかし、今は、この瞳の冷たさにルークは血液から冷えていくようなジリジリした感覚を味わう。執着にも近い熱情は起こらない。
「ふん、そうだな。たかが食事だ」
身を奮いたたせてルークは告げると琴葉の首筋に唇を落とす。舌で舐るように這わせると歯をたてて紅い鬱血を残す。それは、ルークの最後の儀式だった。
食事ではない。以前のような意味なのだと真摯に伝える儀式。しかし、一方通行で決して、わかりあえることのない儀式でもあった。
「っ…」
琴葉の喉から音が聞こえ、軽い苦痛を伝えてくる。ルークはそんな体を抱くために服を脱がしていく。
一糸まとわぬ琴葉は、恥らうこともなくただルークの次の行動をまった。指先が触れていく。そのたびに肌は粟だって、鳥肌のように、駆け抜けるように、生理的に生まれる快楽を脳に伝える。
「…ぅん…ぁっ…」
「気持ちよさそうだな。どこに触れても反応を返してくる。自分でも淫乱だとは思わないか」
感覚だけが琴葉の思いを裏切る。そんな自身の体に嫌悪や違和感を覚えない訳ではなかったが、それを気にしていてもしかたない。と頭の中で論理武装するのみだ。大人しく言うことを聞きながら機会を待っているだけだ、と。欺くために必要なだけだと。
あれ以来、肌をあわせることもなくなった。ルークはセックスの時に、服を乱すことはない。それだけの行為なのだ。彼にとっても自分にとっても。
「ゃぁ…ぅぅんっ…はぁぁっ…ゃ、ひゃぁぁんっ…」
体の中にルークがはいってくる。熱く猛って、脈打っているそれを受け入れることが、屈辱であっても、抱かれれば抱かれるほどに足掻う気力を失っていく。
「はしたない下肢だな。こんなに銜えて、これほど厭らしく吸いついてくるのは始めてだ」
ルークの詰るような言葉も琴葉は、聞きはしない。言葉の意味を理解することを放棄して、一心に快感だけを追いかけた。体の感覚だけを追いかけて深い淵にはまる。
ただ最後の抵抗は、彼を見ない。ただ感覚だけを侵食させる。この瞬間、体が求めているのは彼じゃなく、快楽と堕落していく気持ちよさだけ。それを伝えることが、琴葉に残された唯一の抵抗だった。
「琴葉っ…」
ルークが達する瞬間、酷く甘い声が自分を呼ぶ。しかし、琴葉は硬く閉じた目蓋を開けることはなかった。死ぬことも許されず、憎い相手を殺す術すら知らない。
憎んでいる男の腕の中で、嫌悪感を覚えながらそれでも、確実に体は快楽を貪っているその事実に必死に目をつぶって耐える。
父を殺したルークを赦せはしない。いくら贖罪の言葉をならべても、いくら謝罪を尽くしたとしても、赦せはしなかった。
父とルークとの穏やかな生活が幸せだった。ルークを本当に愛していた。信頼して、何をされてもまだ、どこかで信じていた。愛されていると。また、愛していることを諦められなかった。
しかし、今は憎悪が渦巻いて自分を焼き殺そうとしている。愛した分だけ、信頼していた分だけ、幸せだった分だけ、深く深くルークを憎んでいる。
毎晩、食事のために抱かれる。セルシーの言ったように自分は家畜となったのだ。いや、家畜よりも自身を貶めてしまった。
憎悪に身を焦がしながら復讐する糸口すら見つけられない。言われたまま足を開いて、粘膜の侵入を許す。商売女の方がまだましだった。
行為が終わり、琴葉は闇空に消えていったルークを見ていた。行為が終わればさっさと去っていくルークは留まることをしなかった。
ルークがいなくなり、快感の余韻が去っていくこの瞬間。琴葉は目には見えない涙を流す。麻痺した脳が正気にもどり行為のいやらしさ汚らわしさを認識するこの瞬間が、一番消えて、死んでしまいたかった。
記憶ごと消し去るようにシャワーを浴びにいく。熱い水ではなく、冷たい水で身を清めるようにシャワーにうたれていた。
壁に手をついて、鏡の中の自分を見ると醜い顔をしている。憎しみに染まる醜い顔。性欲に勝てなかった己の体が疎ましい。
キュッと蛇口をひねりシャワーをとめる。長く伸びた髪からは、水がつたわり浴室の床へと落ちていく。体に張りついた髪の拘束感に堪えられず、琴葉はハサミを手にとった。
そして、ひと房。また、ひと房。と切り落としていく。床に散らばる髪の房たちが、また一つ増えるたび、琴葉の決意は固まっていく。
自分の命にかえても憎い相手を殺そう。その後、自分がどうなってもかまわない。これ以上、憎しみに耐える術がわからなかった。
指ですくうこともままならないほど短くなった髪。身を拘束していた髪がなくなり琴葉は、その体に力をえたような気さえしていた。
バスタオルだけを肩にかけた琴葉は、引きだしを開ける。その引き出しにはいっている物はふたつ。一つは何も書かれていない封筒と銀の短剣だ。
悪魔は「銀で死ぬ」と聞いて購入した物だ。ルークの言葉が嘘か本当かわからない。嘘であるような気がしている。それでも、もうどうでもいいことだ。彼が死ななかったら、自分がこの剣で死のう。殺されてもかまわない。
そして、その後はどうなってもかまわない。ルークに再び囚われるとしても、もう、そんなこと考えたくはなかった。今ですら、琴葉の心は。
琴葉はそっと枕の下に短剣を隠した。そして、そのまま身を丸くして眠りにつく。明日の夜になればすべてが終る。終わりにする。これ以上は耐えられないから。
彼に支配されているこの体も、憎しみに支配されている自身の心も。琴葉には、もう耐えられそうになかった。
「…ゆっくりと眠りたい」
琴葉は最大の願いを呟く。何も考えずただ、優しく包まれて眠りにつきたかった。眠りにつく瞬間だけでいい。だから、優しい記憶に包まれて眠りから覚めなければいい。
しかし、目蓋の裏と脳裏に浮かぶのは、父の倒れている姿と悪魔の黒い羽だけだ。
一時の安息すら得られず、磨り減っていく精神を維持しつづけるだけの力はもう、琴葉には残っていないのだ。耐えられない。これ以上は、終わりにしないと眠りにすらつけないのだ。
毎夜、同じようにルークが現れる。そして、決意を秘めた今日もルークは変わることなく現れた。琴葉は何事もないようにいつもと同じようにルークをむかいいれる。
「…髪を切ったのか」
無残に短く切られた琴葉の髪に触れてルークは言う。その表情からは何も伺うことができなかった。今さら髪などどうでもいいではないか。
「ええ、長かったから」
琴葉は素っ気なく答えると背をむけた。そして、ベッドに腰かける。ルークを見上げて、ルークの出方をまっていた。
何もしらないルークは、何の疑いもなくベッドの上で琴葉にのしかかっていた。いつものように琴葉は、視界を閉ざし素直に体をさしだす。服を脱がされることにも躊躇いがない。
首筋に顔を埋めたルークの動きが止まる。そして、行為の始まりを告げる儀式をおこなわずゆっくりと顔をあげた。
「「…………」」
二人の間に言葉にできない沈黙が流れた。琴葉は緊張して身を硬くしたが、ルークは何もなかったように再び、顔を埋めた。甘く噛まれて吸いつかれる。いつも以上にこの感覚を素直に感じていた。
行為の始まりを告げる儀式が終る。今日が最後だ。最後のセックスだった。今日ですべてから解放される。この行為のおぞましさからも、自分の心に渦巻いた憎悪の炎からも、すべてから解放されて無にかえる。
「ひゃぁぁん、ぁぁっ…」
触れる肌の感覚に琴葉は、驚いて目を見開いた。快感に沈んでいた肌に伝えられたのは、生地の冷たい感触ではなく人の肌だった。生温かい人の肌が、急に琴葉の体を包んだのだ。
「やだっ…辞めてっ…」
目を開いた琴葉の瞳に映ったのは、素肌を晒すルークの姿。琴葉と同じように生まれたままの姿で、慈しむように抱きしめてくる忌々しい素肌。
琴葉はパニックになった。どうして、今さらこんな。いつものように抱いて欲しい。食事をするようにあっけなく。それなのに、今のルークはあの頃の再現をするように自分の体に腕をまわしている。
「琴葉…」
その声が何かを伝えようとしている。理解したくない。背中にまわされて、優しく引き寄せる腕の力も理解したくはなかった。
「私を見て、感じていろ」
ルークは言う。琴葉は困惑して嫌で抵抗するけど、ルークに優しく諌められて、優しく悦楽を与えられる。繋がった下肢が揺さぶられる。
「ややぁぁ…ひどいっ、ひどいっっ…やだぁっ…」
今さらどうして、こんなに甘く優しく抱くのだろう。そんなことされれば琴葉は、壊れてしまう、なけなしの強がりを失ってしまう。
「綺麗だ。快楽に染まる肌も、私を求める体も…綺麗で可愛い…」
これ以上、酷い抱き方があるだろうか。こんな酷いセックス。琴葉は泣きじゃくりながらルークを拒絶していた。
「魔界に行かない」と言った琴葉に、ルークは「毎夜抱く」と言った。そんなルークを琴葉は何も拒絶しはしなかった。言葉ですら拒絶を見せなかった。
そんな琴葉が初めて声を荒げて、ルークを拒絶している。狂ったように体を暴れさせて、声を荒げる。
「やだっ、触んないでっ…やっ、やぁっ」
そんな琴葉の体を押さえながらルークは犯していく。しかし、力ずくで暴力のように犯すのではない。優しく髪をすかし、泣き叫ぶ唇に口づける。同じように肌を晒して、琴葉を抱きしめる。
「大丈夫だ。怖がることはない。ただ気持ちよくなっていればいい」
機械的に快楽を生じる行為ではなく、それに意味を込めるようにルークは優しく丁寧に愛撫を施していく。琴葉の体の隅々を慈しむ指先。涙を拭う唇の感触。耳を弄る舌。
「はぁっ、やだだぁぁぁぁっ………」
琴葉が達したことを感じとるとルークは雄を抜いた。そして、怯えて泣きながら身を丸くしている琴葉を見つめる。
短く切られた髪も、何もかも、全身で自分を拒絶している。そんな琴葉に今さらこんな抱き方をするなんて、酷なことをしている自覚はある。しかし、どうしても押さえられなかった。
今日だけは、衝動的に抱きたいように抱いてしまった。琴葉を守るために、極力機械的に触れていた。想いをこめるような触れ方は避け、これまでしてきたように快楽をあたえるだけの愛撫を施した。
そうすれば、琴葉は自分を責めはしないだろうと考えたからだ。愛などちらつかせても、苦しめるだけだとわかっている。
しかし、今日はどうしても自分を抑えることができなかった。琴葉が髪を切った所為かもしれない。琴葉のすべてを愛している。髪の一本だって愛しい。それを失ったことへの失踪感をわかって欲しかったのかもしれない。
泣き叫びながら全身で拒絶して、ルークとのセックスから逃れようとした琴葉に、ルークは満足感を感じた。そして、今も残酷なことに、怯えて震えている琴葉の姿にもいたく満足している。
ルークという存在を消すように姿を映そうとはしなかった琴葉。何をしても、声を殺す所かわざと声を漏らして、その快楽に素直に従順した琴葉。紅い瞳に冷たく冴えた瞳をかえしてきているにも関わらずだ。
だが、今日は違う。自分に抱かれることを認識して拒絶して見せた。声が嗄れるほど叫び拒絶したのだ。たしかに今日の行為には、ルークも琴葉もいた。
「…ああ、琴葉」
思わずうっとりとした溜息をついてルークは、琴葉の肩に触れる。唇でその肌の感触を味わうように口づけた。
「やだっ。もうっ、やめてっ」
ビクッと体を硬くして、ヒステリックな声をだす琴葉に、ルークは笑みまで零してしまう。どんな形にしろ自分を意識している。その事実が驚くほどルークの気持ちを高揚させる。
「大丈夫だ。今夜はもうしない」
ルークはそう言うと、ちゅっと唇を鳴らした。そして、ゆっくり琴葉から離れていく。
「ひっ。くぅっ…ああっっ…」
琴葉は蹲るようにして涙を流しつづけた。どうして今さら、あんな抱き方をしたのか。琴葉には理解できなかった。何かを感じとり嫌がらせでやっただけかもしれない。しかし、琴葉にはこれ以上のダメージはなかった。
優しく抱かれて、優しく甘い感覚に支配されるのだけは嫌だった。まるであの頃の感覚を呼び覚ますように触れられた言葉と手。引きずり込まれないように抵抗すればするほど、ルークの行為はエスカレートしていった。
泣き疲れて、力を失ったように横たわっているとルークがもどってきた。そして、ベッドに腰かける。ベッドサイドにおかれた蜂蜜の独特の甘い香り。
「飲め。声が嗄れている」
喉と疲れを癒すために、ビタミンと甘い糖分。火傷をしないように温度まで調節してあった。あの頃も、今も、こうして琴葉に尽くすことに生きがいすら感じている。
ルークは琴葉に起きるように促すとそう言って、さしだしてくる。琴葉は首をふってそれを拒絶した。こんな心遣いいらない。
「琴葉の意思は関係ない。飲め」
無理やりにでも飲まそうとするルークに悲痛で表情をゆがめる。そんなことまでしないで欲しい。これじゃ、まるまるあの時の再現ではないか。
まだ、幸せだった頃、無理をさせたりした後や機嫌をとったりする時に、ルークはこうして、甘い飲み物や食べ物を持ってきた。いらない、と言っても宥めながら口に運んできた。
ベッドの上で飲み食いする習慣がなかった琴葉は初めこそ抵抗があったが、その後は気にもしなくなった。ルークに変えられてしまったことはたくさんありすぎる。その前の自分がどんな者だったのかわからないほどに。
「酷い…どうして、ここまで…」
批難の声をあげる琴葉にルークは、コップをさしだすことをやめる。そして、コップに口をつけるとそのまま液体を口に含んだ。
「…っ…ぅんっ…」
琴葉の髪を鷲掴みにすると上向かせる。そして、そのまま口づけて液体を流しこんだ。こくん、こくん。と鳴る喉の音に満足して唇を離した。そして、再びコップに口をつける。
琴葉は、流れこんできた蜂蜜とレモンの香りに泣きやんだ瞳から再び、大粒の涙を流した。どうして、ここまでの仕打ちをされなければならないのだろうか。
「……………」
無言のまま二口目の口付けを受けいれる。嫌という言葉さえ今は発する気力がなかった。懐柔されてしまいそうなそんな蜂蜜とレモンの香り。
「泣くな」
そう告げられて、柔らかな唇が眦に触れてくる。その唇から、蜂蜜の香りとレモンの香りがして、思わず抱きついて縋りつきたくなる。
自分を傷つける者に縋りつくなんて馬鹿げている。そう思いながらもくりかえされる行為に衝動が大きくなるばかり。憎い相手なのに。
「…大丈夫だ。こうしててやる」
震える指先で弱々しく抱きついてきた琴葉にルークは優しく声をかける。琴葉は、ルークの胸を涙で濡らしながら、ただ子供のように震えて泣いた。どうかしている。
こんな自分どうかしている。憎い相手にしがみついて、涙を零して宥められる。こんなことおかしいと思いながらも琴葉は、縋りつく腕を離すことができなかった。優しく背を撫でる手の平の温かさ。ふわりと包みこむ香りの心地よさ。何もかもが手ばなせない。
憔悴しきった心では、例え残忍で酷薄な悪魔であっても、優しくされれば手を伸ばしてしまう。自分は決して強くはないから。
琴葉は、ルークにしがみついたまま力のない声で泣きつづけた。声か嗄れて、涙が涸れたのはいつだっただろうか。
ルークが気づいた時には、目をつぶり眠りに落ちていた。涙に濡れて疲れきった顔で、それでも、琴葉は安らかな寝息をたてている。
琴葉をベッドに寝かせ、体が冷えないように布団をかけてやる。そして、離れようとした時、手をつかまれた。小さな子供が大人の指をつかむように伸ばされた指先にルークはどういう表情をしていいのかわからない。
ぎゅっと必死につかんでくる指先の力に振りほどけるはずもなく。ルークは観念して、この指が離れるまで側にいることにした。琴葉の隣りで体を横たえる。もうしばらく、琴葉の寝顔を見ているのもいい。
きっとこんな風に過ごせる時間など限られている。これが最後でなければいい。と願わずにはいられないほどに。
ルークは枕をよせて、もたれかかる。その時、わき腹のあたりに何か硬い物があたった。何かと思いそこに手を伸ばすと、手が捕まえた物は短剣だった。銀の短剣。
琴葉の意思を明確に読みとり、ルークは短剣をそっともとにもどした。そして、何事もなかったように琴葉の寝顔を見つづける。もう、しばらくだけ。
そんな儚い願いを浮かべながらルークは思った。今だけはいい夢を見ていればいい。きっとそこに自分はいないだろう。父と何気ない会話を楽しんでいる夢だといい。
琴葉は目を覚ました。いつの間にか泣き疲れて眠りについてしまったことを知る。
心が弱っている。そうでなければあんな失態を犯すことはなかった。広く寂しいベッドの上でそんなことを考えながらまどろんでいる。
久しぶりだった。こんな穏やかなまどろみを感じるのは。夢を見ていたような気がする。とても幸せな夢だったような気がするのに。内容をまったく覚えていない。でも、優しくて穏やかで幸せな感覚だけが、優しく心に溢れている。
まどろみながら手を伸ばすとシーツが温かい。冷たくさらっとしているはずのシーツには人肌のぬくもりがあった。琴葉は驚いて上体をおこす。
そこにはルークが仰向けになって眠っていた。すやすやと聞こえる寝息にしばらくほうけた(・・・・)ように見とれてしまう。
黒い艶のある前髪が目蓋にかかっている。美しく整った顔が眠りにふけっていた。かすかに開かれた唇の隙間からは、規則正しい呼吸音。
あの頃の自分は、優しく穏やかな気持ちでこの光景を見ていた。こんな風に眠りについているルークを見ると、それだけで心が満たされていくようなそんな優しい穏やかな気持ちになった。
でも、今はそんなルークが怨めしい。まるで琴葉のことなど何も脅威には感じていない証拠のようだった。命を奪おうとするほど憎んでいるそんな相手の隣りで、これほどまで無防備に眠りにつくなんて。
野に舞う蝶、よくて蚊くらいにしか思われていないのだろう。どちらにしろ彼らのあたえる危害など取るに足らない。そんな物と同列に扱われている。それが悔しかった。
琴葉の命も行動も何もかも自分の意のままにできるのだ、と言われているようで、琴葉は悔しさと静かに込み上げてくる敗北感を感じていた。
音を立てないようにそっと枕の下に手を伸ばす。そして、銀の短剣を手探りで探し鞘を抜いた。蒼く光る刃の妖しさに、眠っているルークが映る。
柄を両手で握りしめる。手がかすかに震えるのは、人を刺したことがないから。悪魔は人の形をしているから、いま自分のしようとしていることが、これから殺人を犯すように錯覚している。
震える手を押さえつけるように琴葉は、短剣を強く強く握りしめる。震える自分の不甲斐なさを情けなく感じながら、そっと心臓に刃の切っ先をあてた。しかし、まだ触れてはいない。
位置を確かめるようにしてそこから振りあげた。心臓を一刺しすれば、悪夢も終わり、悪魔も死ぬ。息を大きく吸い込み、とめると振り落とした。
ザクッと音を立てて刃が突き刺さる。突き刺さった刃から震える手が離れていく。琴葉は荒い息をつき、息をのんだ。ルークを見つめる。目蓋を閉じたままのルークを。
息を殺すために手の平で口を押さえる。涸れたはずの涙はまた、溢れて指を濡らしながら、ぽつっとルークの肌に落ちた。
「どうして、刺さなかった」
ルークは眠ってなどいなかった。ずっと起きていた。琴葉を見ていたのだ。琴葉が起きる気配に、目蓋を閉じて狸寝入りをしただけ。
ゆっくりと告げられた言葉に琴葉は反応できない。
「…ぅ。ひっく……ふぁ…ぅぅっ…」
指先が白くなるほど口を押さえて声を抑える琴葉の姿から目をそらすように、ベッドに突き刺さった短剣を抜きとる。手の平に、ずっしりと重い鉄の感触が伝わる。
「琴葉……」
ルークは促すように呼びかけると口を押さえている手に触れた。びくっと震えて、ゆっくりと戒めを解いていく。
「…ここだ」
短剣の柄を握りしめる自分の手に琴葉の手の平を重ねるとルークは告げた。琴葉は、ルークのとった行動に驚いたように目を見開く。
大きな瞳から涙を零す琴葉の姿を見ながらルークは思う。泣かせてばかりだと。あれほど守りたいと思っていたのに、こんな風に泣かせてばかりだな。と。
琴葉は、驚きとともに困惑していた。ルークが「ここだ」と言って、手を持っていったのは心臓の真上だった。琴葉の手を導くようにして支えられる手の感触。
「どうして…」
これでは自殺とかわらない。どうして、どうして、こんなことをするの。
「ここを刺せばすべてが終わる」
琴葉の手で死ねるのならそれは本望だった。香代の時には、自分が愛する人の命を奪った。今度は愛する人に命を奪われる。いや、捧げることができる。これほどの甘美な幸福があるだろうか。
手を震わせて、「どうして」と問う琴葉に、穏やかな微笑みすらかえしてしまう。そして、優しく諭すように言った。
「私は長く生きて、倦惰と廃退に沈んでいた。しかし、愛することを知って変わった。これほど懸命に他者を愛したことはない…香代にもう一度会いたかった。香代を愛しているから。だから、琴葉が終わりにしてくれ」
本当は“琴葉を愛している”と言いたかった。しかし、その言葉を言うことは魔王にそむくよりも恐ろしいことのように感じた。
だから、かわりに“香代”と言った。“愛している”と何度でも伝えたかった。言葉にしたかった。もう届かない言葉であっても。もう白々しく響くだけであっても。宙に儚く消えてしまっても。それでも、琴葉に“愛している”と言いたかった。
「愛している。誰よりも」
ルークはそう言って、手に力をいれる。琴葉が刺せないのならそれでもいい。かわりに自分が導くだけだ。
「……っっ」
刃の切っ先がルークの肌にあたり、肌を傷つける。刃の先から零れるように紅い血が零れていく。胸をつたって紅い線が一直線にひかれていく。
琴葉はその光景を見ながら、血が赤い。と思う。悪魔も人間と同じ紅い血が流れるのだ。ピンクや緑ではなかった。ぼんやりと感心していたが、腕に力をいれた。
ルークの導いた刃が進まなくなる。琴葉が力をいれて抵抗しているのだ。これ以上、刃が刺さらないように。
「…やめて」
小さくかすかにしか聞き取れない声。それでもたしかに琴葉は「やめて」と言った。
ルークにはわからない。琴葉が何をしたいのか。殺したいと思うほどに憎んでいるくせに。どうして、みすみすチャンスを逃すようなことをするのか。もう、愛してなどいないくせに。
「…はなして」
小さく弱々しい声に促されて、手の平の力を緩める。琴葉は刃をおくと手を離す。
何もかも忘れて愛し合うことなどもう無理なのだ。わかっている。それでも、琴葉はルークを愛していた。
「私を殺そうとしていたのだろう。躊躇うことなど何もない」
ルークの言葉に押し込めていた感情が溢れだす。憎しみという重い蓋で、隠して押しこめてきた感情。
父を殺され、物のように扱われながら抱かれて、それでも、愛していたのだ。だから殺せない。初めからどれだけ憎んでもどれほど怨んでも殺すことなどできなかった。
愛している。だから、琴葉は自分から命を絶つことを選んだ。それを阻止されて、ルークを殺すように言われたけれど、始めから答えなどわかっている。
愛している。今でも。それに目を伏せながら、それでもこの胸に渦巻く憎しみに、琴葉は身をまかせることもできなかった。琴葉が苦しんでいたすべては愛憎それだった。琴葉の神経を蝕んでいるモノはそれなのだ。
ルークを殺し、復讐を遂げても苦しみは終わりはしない。愛した人を手にかけて、生きていける訳がなかった。後悔、そんな言葉では言い尽くせないほどの苛めを受けることになる。
「ゆるせない…」
「ああ」
琴葉の呟きにルークが答える。だからこそ、終わりにしよう。もうこれ以上、苦しまなくていいように
「私を琴葉の手で殺せ。憎い相手を殺すことくらい何てことはない」
再び短剣を手にとるように促す。しかし、琴葉は手を握りしめるとそれ以上は動こうとはしかなった。
ルークは何もわかっていないのだ。琴葉はルークの言葉を聞きながら思う。どれほど、琴葉が愛しているか。どれほど、そのことが琴葉を苦しめているか。わかっていないからあんなことが言える。
琴葉は短剣を握りしめるとルークがしたように自分の胸に切っ先をあてた。
「琴葉っ」
叱るように告げられる声に、琴葉は切実な目をむける。
「殺して…愛しているから…」
琴葉から告げられた愛の言葉にルークは息を呑んだ。これほど心を締め付ける言葉はなかった。
「ルークを愛しているの、どれだけ憎んでも」
琴葉は言葉を告げるたびに涙が零れた。愛憎のこもった涙は涸れることを知らない。愛と憎しみを零していく。
愛し憎んでいるから自分の手にかける。そんな発想、琴葉にはなかった。愛は与えつづける物だと思っているから。愛しい人を手にかけるそんなこと考えられなかった。愛し憎んでいるから、だから殺して欲しい。
そして、少しでもその人の中に何かを残せたらそれでよかった。香代大祖母のように思ってくれたら、それは何て幸せなこと。
「……………」
琴葉の言葉にルークは無言になる。愛しているから殺せない。憎んでいても愛しているから殺せない。それはルークも同じだ。
愛していから手にかけることができない。今まで玩具のように弄んできた人間の命。同じものであっても琴葉はまったく別の物なのだ。生きて欲しい、どんなことがあっても。
「琴葉…忘れよう…」
ルークは唇を寄せながら囁いた。そして、さらにつづける。
「憎しみも愛も、すべてを忘れて…」
ルークの言葉に、この人も殺せないのだ。と悟った琴葉はゆっくりと頷く。そして、眠りにつくように目蓋を閉じた。これまでのルークへ思いをすべてゆだねるように。
互いに命を奪いあえないのなら、最後の選択はそれしか残されていなかった。
「…愛している。だから、忘れよう」
目蓋を閉じている琴葉に最後の言葉をかける。愛しい琴葉の唇を指でなぞりながら、何度も交わした口付けを交わす。最後だった。
結局、自分は琴葉に屈するようにできているのだ。琴葉が決めたことが絶対で、跪いて許しをこい求めるしか、自分には許されていない。
琴葉が生まれる何千年も前に生まれていても、ルークは琴葉のためだけに生まれてきたのだ。魔王よりも絶対的な王に従うためだけに生まれてきたのだ、と深く思い知る。
ゆっくりと合わさる唇。啄ばむことも舌を絡めることもない、純白の口付けをしながら琴葉から記憶を奪っていった。
もし、思い出せたら、その時は・・・・
朝になればルークの存在など完全に消え去っている。
気を失い、体から力の抜けた琴葉の体をベッドへ寝かせる。こんな事態になってもまだ思うのは、自分が欲どしい悪魔だからだ。
どうか、誰のモノにもならないでくれ。誰にもその心に立ちいらせたくはない。 |