僕は完全に包囲されていた。
これがまだ、相手が狼男であるとか、凶悪な殺人犯であるとか、はたまた極の道を往く方々だとか、それならまだ救いがあっただろうか。
僕を取り囲んだのは、男がひいふうみい……五人。
勿論、戦隊ヒーローではない。どこにでもいる、ごく普通の高校生だ。
「おい、ツバ。わかってんだろーなぁ?」
そのうちの一人――戦隊でいえば差し詰めレッドだろうか――が、ずいと距離を詰める。反射的に僕は後退ったが、壁に阻まれ動けなかった。
「え、ええと、あの。僕の名前は『翼』なんですけど……すみません」
何とか話題が逸れないだろうかと、そんなことを言ってみる。
「ああ!?テメエなんか、ツバで充分なんだよ!このヨダレ野郎!」
あんまりなレッド(仮名)の発言に、僕は黙りこくった。どうやら怒らせてしまったらしい。
「ちょーどムシャクシャしてたんだ。
躾は大事だもんな、このチビに立場ってもんを教えてやろーぜ!」
ぐい、と僕の胸倉を掴みあげ、ひとりがそう声を飛ばす。
苦しさのあまり、ぐえ、と喉から声が漏れた。
――躾っていうか、どちらかといえば虐待じゃないか。
そう思っても、声なんて出ない。僕はいつものように、タコ殴りにされるしかないのだ。次に襲うであろう痛みを覚悟し、目をぎゅっと瞑った。
ところが。
「ちょっと、いい加減にしなさいよ」
耳に飛び込んだのは、少女の声。
「……あんたたち。
そうやって、大勢でひとりに寄ってたかって、何が楽しいわけ?」
痛みは、来ない。
恐る恐る目を開けると、そこには見慣れたクラスメイトの姿があった。
「ミサキ……さん」
無意識に、僕の口は彼女の名を紡ぐ。
後ろで結い束ねた長い髪。切れ長の目が凛々しいその少女は、僕を掴んだままの男を静かに睨み上げている。
「んだぁ?神凪じゃねーか。何か文句あんのかよ?」
不意に、呼吸が楽になる。僕の制服を掴んでいた手は、握り拳をつくり、少女に襲い掛からんとしていた。
あっ、と、声をあげそうになるが――もう遅い。
ごきごきべきっと鈍い音、続いて何かが落ちるような音が届く。
「……あ」
顔を覆った両手の間から、そうっと見れば、
……アスファルトに突っ伏している、男の姿があった。
それから数分後。僕とミサキさんは並んで歩いていた。
「まったくもう。ちょっと目を離すとこうなんだから」
「……ご、ごめん。僕、ミサキさんにまた迷惑かけて」
合わせる顔がなく、俯いてしまう。こん、と頭に何かが降ってきた。
「馬鹿ね。悪いのは翼じゃなく、あいつらでしょ?
それに――困ったときはお互い様よ」
僕を小突いた手を左右にひらひらと振って、少女は微笑む。
彼女の名は、神凪ミサキ。家が隣同士で、所謂幼馴染みである。彼女は由緒ある神社の家系で、合気道に弓道、薙刀に至るまで、道場の師範が一目置く程の達人なのだという。今日のようにいつも可笑しな連中に絡まれてしまう僕を、事ある毎に彼女は助けてくれた。
そして、『困ったときはお互い様』彼女がこの台詞を発するときは、大抵相場が決まっている。
「ええと……夕飯、食べていくんだよね?」
「ん、よろしく」
ミサキさんと僕は、なんとも微妙な関係だった。恋人と呼んでいいものかどうか、彼女に尋ねるだけの勇気も甲斐性も、僕にはない。
僕も彼女も、家庭の事情というやつで両親が家を空けがちである。お陰で勉強もスポーツも苦手だった僕に、家事という特技が備わったのだけれど。しかし反対に、ミサキさんは成績優秀で見ての通りの強さだったが、全く家事ができなかった。
毎日コンビニや外食で済ます彼女を見かねて、夕食に招いたことがきっかけ。
以降、僕が彼女の食事を作ったり、神凪邸の掃除をこなすことが少なくなかった。
「まあ、一人分作るも二人分作るもあまり変わらないし。上がって」
緋天坂と書かれた表札。僕は家の鍵を開け、ミサキさんを通す。
お邪魔するわ、と短く告げると、彼女は勝手知ったるといった様子で家へ上がり込み、リビングのソファへ陣取ると、テレビのリモコンを点けた。
静かだった部屋には、テレビ番組のBGMと男性の声。
『おのれ吸血鬼め!この十字架をくらえ!』
『ふはははは、このようなものがワタシに効くと思っているのかね?』
放映していたのは、子供向けのアニメ番組だった。
「吸血鬼ねぇ……」
ミサキさんはリモコンをくるくる手の中で転がすと、背中越しに僕のほうを見る。
……心なしか、視線がちくちくと痛いような。
「あんたも、このくらい言ってみせたらどうなの?
いじめられっ子のヴァンパイアなんて、この番組の制作会社が見たら泣くわね。いや、笑うかな」
「そ、そんなぁ……」
――そう。
彼女の言うように、僕は吸血鬼――ヴァンパイアの末裔である。
父は人間、母は誇り高き吸血姫。しかし哀しいかな、僕はその力を受け継ぎながらも、父親似の小心者。血を見るのも苦手、虫も殺せない有様なのだ。
「私だって、今でも信じられないもの。こんな情けないヴァンパイア」
……返す言葉もございません。
僕は取り敢えず、料理に専念することで逃れようとする。包丁が野菜を刻む音が、たん、たん、と軽快に響いた。
やがてテーブルに、ずらりと食事が並ぶ。
「ミ……ミサキさん。ご飯、できたよ」
彼女は、いただきます――と白飯の入った茶碗を手に取る。そこで、怪訝そうに首を傾げた。
「焼魚に浅漬け、大豆の煮物にお味噌汁――
で、餃子?何でここだけ中華なのよ」
「え。だ、だって餃子、美味しいじゃない」
喜色満面で餃子をぱくつく僕の耳が、ちいさな溜め息を拾う。
「ニンニクが大好物のヴァンパイアも初耳だわ……」
突っ込みを入れるのに疲れてきたようで、ミサキさんは黙々と食事を平らげるのだった。
幼い頃から吸血の習慣もなく普通の人間として育った僕は、先程のアニメ番組に登場した吸血鬼のように耳がとがっているわけでも、日中出歩けないわけでもない。辛うじて、牙というより八重歯と表現したほうが良さそうな歯がある程度だ。
にもかかわらず、彼女だけが僕の正体を知っているのは――
七年前だったろうか。一度だけ僕が血を摂取し、『魔性』を現した現場に、彼女が遭遇したからである。
小学校の校外学習。昆虫を捕まえようとしていた生徒の中で、草で手を切ってしまった子がいた。慣れない痛みに泣き叫ぶクラスメイトを前に、僕は先生か別の生徒を探すも見当たらず、咄嗟に本で読んだ応急処置を施した。
クラスメイトの指を口に含み、それから。
ぐらりと視界が揺らいだかと思えば、まるで強大な何かに吸い込まれるように僕は意識を失った。
……今、思い出してもぞっとする。
僕が意識を取り戻したのは、ミサキさんの膝の上。そこで彼女から、何が起こったかを聞かされたのだった。
僕が自我を失い、クラスメイトに襲い掛かろうとしたこと。それを彼女が止めてくれたこと。
そして、彼女――神凪ミサキが、祓魔師と神社の若巫女を両親に持ち、その能力を受け継いでいることも。
空になった食器を洗いつつ、僕はぼんやりと考えていた。
彼女は僕を始末するでもなく、いつも助けてくれる。しかし、僕にできることといえば……。
両手には、洗剤とスポンジ。知らず溜め息が漏れた。
男の癖に情けない。罵る声が脳裏を掠め、唇を噛みしめる。相手がほかの誰でもない、ミサキさんだったからこそ――余計に。
きゅ、と蛇口を閉め、リビングへ戻る。いやに静かなのが気になった。
「ミサキさん……?」
ひょいと顔を覗かせる。
そのまま――僕の頭は真っ白になった。
「……、み、ミサキ……さん」
何とか名前を呼ぼうとして、喉から出てきた声は不自然に上擦ってしまう。喉がいっきに水分を失ったかのようだ。
視界に飛び込んできたのは、ソファで気持ち良さそうに眠るミサキさんの姿だった。
僅かに身じろぎすると、制服のスカートから彼女の白い太腿がちらつく。思わず背けた顔が熱を帯びるのを感じ、僕は自己嫌悪に苛まれた。
「……。あ、あの、ミサキさん……こんなところで寝ると、風邪ひく――っていうか、制服に皺がつくっていうか、ええと……ッ」
早口で一息に捲し立てる。しかし、返事代わりの寝息が漏れるのみだった。
何度か呼びかけるも、一向に彼女は目を覚まさない。仕方がないので、ミサキさんをベッドに運び自分はソファで眠ることにした。
「ん、っ……」
腕に抱えた彼女の艶やかな髪が、さらりとおちる。桜色の唇が寝言を発するたび、僕の心臓は跳ね上がった。
どさり。
彼女をベッドに横たえ、布団をかけようとするが――
「――う、わっ!」
バランスを崩し、がくんと上半身が沈む。慌てて手をついたので、彼女の真上に突っ伏すことは回避された。
しかし。
(こっ、この状況って――……)
まるでベッドに押し倒したような体勢。もし、こんなときに彼女が目覚めたら、或いは誰かがこの状態を目の当たりにしたら……弁解は苦しいだろう。九九パーセント、乗り切る自信は、ない。
文字通り目と鼻の先に、ミサキさんの顔がある……。
(もし、……もしあと一瞬でも、手をつくのが遅れたら、
……この、唇に……)
不謹慎にも、彼女の柔らかそうな唇が、自分のそれに触れる感触を想像してしまう。
「……う」
知らず、喉がごくりと鳴った。
昆虫が花の蜜に吸い寄せられるように。艶やかに潤うふたつの花弁に誘われ――そうになって、首を激しく横に振った。
(な、何を考えてるんだ、僕はっ……)
僕は顔を逸らそうとして、次の瞬間、しまったと心から後悔する。
薄暗い部屋の中、制服の白いワイシャツと白磁の肌が、女性らしい胸のふくらみがやけに眩しい。
透ける滑らかな白絹の肌も。その長い睫毛も。身体の中で疼くものを焚き付けるには充分で。
盗み見るよう視線をずらせば、襟元からちらと、胸の谷間が覗いた。
びくんと僅か、指が震える。
(う……だ、ダメだっ!落ち着け僕!!)
ごすっっっ!!!
殴られたわけではない。衝動に負けそうになった僕は自ら、そのまま頭をベッドのサイドにぶつけていた。
そのまま脱兎の如く寝室を出て、ばたんとドアを閉める。息を切らし、背中をドアに預けた。次第に僕の身体はへなへなと、力なく崩れる。
「……っは、危なかったぁ……」
彼女は僕の家を別邸とでも認識しているようで、こういった危機は何度もあった。断りなく着替えをはじめたり、シャワーを――いや、やめておこう。
それにしても、今回は流石にヤバかった。緋天坂翼、最大のピンチだったかもしれない……。
「部屋には……戻れないしなぁ。制服のままだけど、寝よう」
僕はソファに身を預け、はふと息をついた。
――つい先刻まで、ミサキさんが眠っていたソファ。不意に彼女の愛用していたシャンプーが鼻孔を掠め、先程の出来事が脳裏に蘇り、頬が上気する。
「……う。いかんいかん。寝ろ、寝るんだ僕っ」
がばっと毛布代わりの膝掛けを被る。目を閉じ、余計な考えを追い出そうと羊を数え始めた。
(ひ……羊がさんじゅうさん、ひつじがさんじゅうよん……)
羊――『シープ』と、眠るという意味の『スリープ』をもじったというから、日本語で数えても意味はないかも知れない。が、何かを頭に詰め込まないと、頭が男子高校生らしいあれこれで一杯になってしまいそうだ。
「ひつじがさんじゅう――ろ、くぅッッ!?」
硝子が割れるような音が、幾つも耳を貫く。次いで突風が、僕を壁まで叩きつけた。
「な、なななななななっ」
破片に手をつきそうになり、寸でのところでドアの取っ手を掴む。
起き上がろうとした僕の眼前。家ごと吹っ飛んでしまいそうな轟音と共に、寝室のドアが顔面に激突した。
はっとして、知らず――僕は叫び、足は動いていた。
「ミサキさんっっっ!!!!」
なりふり構ってなどいられない。彼女に万が一のことでもあったら――僕は。
「……つ、ばさ」
彼女はベッドの上に膝を立て十字架を構えたまま、窓の外を睨み据えていた。
「大丈夫。……掠っただけよ」
シーツは柘榴色に滲み、ざっくりと刃物のようなもので切り裂かれている。脚を切ったようで、白いふくらはぎに、紅のラインが痛々しい。
彼女の肌に刻まれた、アカ。それを目にした途端、僕の中で激しく揺さぶられる感情があった。
「ミサキさんに、怪我を――」
……どくん。
「これはこれは、運のいいお嬢さんだ。
ワタシにまぐれとはいえ、手傷を負わせただけのことはある」
くく、と薄寒い嘲笑。現れたのは、黒いロングコートを纏った細身の男だった。コートがマントのように風にたなびき、そのブーツは大地でも屋根でもなく、空中に『立って』いるように見える。その佇まいは何処となく、中世の貴族を彷彿とさせた。
「アンタ……あのときの夢魔ね。
わざわざ起こしてくれるなんて、親切じゃない」
硝子の破片で切ったのだろう。ぐいと袖で頬を拭って、彼女は立ち上がる。
「あのとき?」
ただならぬ様子に息を呑み、僕は尋ねた。彼女が、両親と同じ『稼業』をしていたことは知っていたものの、まるで映画でも観ているような現実味のない光景に、僕は混乱する頭を小突き、自らを叱咤した。
「先月、仕留め損ねた獲物よ。
わざわざ先方から来てくれるなんて、思わなかったけれど――」
ミサキさんの視線の先、夢魔と呼ばれた優男はくくっと喉で嗤う。
「ええ、とんだ失態でしたね。ワタシとしたことが、こんな小娘に遅れを取るなどと……。
しかし、幸運が二度も三度も続くものではない。ワタシにこんな屈辱を与えたお礼をして差し上げますよ――ゆっくりとね!」
男の口上が終わるや否や、ぐわん、と場の空気が重苦しくなる。
ミサキさんの華奢な体躯が、ぐらりとよろめいた。
「くっ、なんて膨大な邪気なの……!」
十字架を掲げる彼女の周囲を、ヒカリの膜が包み込む。
「結界ですか。そんなもので防げると?」
男が気障な仕草で手を翳すと、無数の刃が現れる。色は――黒、闇、いや、混沌と呼ぶべきだろうか。
ぱちん。夢魔の指が弾けるのを号令に、混沌の刃がミサキさんを狙う!
「きゃ……っ!」
それは膜を突き破り、少女の肩を、腕を、脚を、斬り刻む。
……どくん
「ミサキさん!」
「翼、来ちゃだめっ!」
咄嗟に駆け寄り、彼女の前へ飛び出そうとする僕。しかしそれを制止したのは、ほかならぬミサキさん本人だった。
僕の存在に気づいていなかった――というより、眼中になかったのだろう。夢魔は眉を上げると、僕の顔をじっと覗き込む。ぞく、と悪寒がした。
「おや?
貴方は――人間ではありませんね」
「彼は関係ないわ!アンタの目的は私でしょう?」
僕の存在を隠すかのよう、ミサキさんが両手を広げる。
(……厭ダ)
夢魔はに、と口の端に笑みを浮かべ、目を細める。
「これは……くくく、同族ではありませんか!
もしや、獲物を横取りしてしまいましたか。忍びないですね」
……どくん
乾ききった声が、ひとつの単語を拾う。
「えも……の?」
――ミサキさんが『獲物』?
聞き捨てならない――そう思った。ざわり、何かがざわめく。
「黙りなさい!でなきゃ……その減らず口、叩けなくしてあげるわ!」
少女の足が地を蹴り、夢魔へと突進する。白い十字架は剣へと変じ、神聖な輝きを放っていた。
「はぁっ!」
一閃の気合と共に、振り下ろす。
「――おや」
しかし刀身が相手に重なったと思った刹那、その姿がノイズのように掻き消え、次には彼女の後ろにマント姿が現れる。
「くっ……」
「すまないが、ワタシは少々気が立っている」
男の肘が、白い背中を叩き落とす。だむ、と一度跳ね、その体躯は絨毯に伏した。
「小賢しい真似を……」
男は彼女の前に降り立つと、がしゃん、と十字架を踏みつける。
……それを握っていた、少女の利き手ごと。
「ぁああっっ!」
ばり、ばりん。
短い悲鳴に続いて、陶器のようなものが壊れる音。夢魔の足が床を離れると、鼈甲色の絨毯には、白い粉が無残に散らばっていた。
どくん
「やめ……ろ」
震える声。それが恐怖か怒りかは、わからなかった。
わかるのは、殆ど突き動かされるように、男の前に進み出ていたことだけ。
「――何のつもりですか」
眉を潜め、凍るような双眸で見下ろしてくる男。
制止する少女の声が聞こえる。が、聞いてなどいられない。
「ミサキさんに……手を、出すな」
発した声は、いつもより若干低いような気がした。
ぎっ、と男を睨め上げる。相手は怪訝そうに眉を寄せたが、やがて破顔した。
「……は……はっはははは!!傑作だ!
崇高なる闇の眷属が、ブタと戯れるなどと!気でも触れたか!?」
「なんだと!?」
相手の胸倉を掴もうとするが、虚しく空を掴んだ。
さも当然といったように、続ける夢魔。
「人間など我等が食糧、家畜にすぎぬ。
同属かと思ったが――ふん、ただの腑抜けのようだな」
全身の血がごう、と沸騰する。
今の僕は、一般の人間以下のチカラしか持たない。闇の眷属に太刀打ちできるはずもなかった。それでも。
――コノ男ダケハ許サナイ……殺シテヤル!!!
身体は動き出す。拳を見舞おうとするが、あっさり弾き飛ばされた。
背中に痛みがはしる。でも――こんな痛みじゃ、足りない。
「あの馬鹿、……どうしたらいいのよ、ったく!」
苦しげに膝をついたまま、頭を掻き毟る少女。
「――……そうだ」
やがてふと、顔を上げた。
「……っ翼!私の血を使いなさい!」
通る声が、風通しのいい部屋に響く。
「ミサキさん!?
そんなの……できるわけないじゃないか!」
思わず僕は振り返る。彼女の提案は、到底頷けるものではなかった。
それはつまり、僕に彼女の血を吸えということ。そんなことをすれば、仮に夢魔を倒せたとして、ミサキさんの身が危うい。
「前みたいに、正気を取り戻せる保障なんてないんだ!
もし、……もし、僕までミサキさんを――」
そこで、言葉を飲み込み、かぶりを振った。
――考えたくもない。
「仕方ないでしょ!?今日は他の武器ないんだから!
どのみち、このままじゃ殺されるだけじゃない!」
でも、と告げようとした僕の背中は、不意に宙を浮き、壁に激突する。
「翼っっ!!」
ミサキさんの悲痛な叫びが、やけに遠く感じられた。
「言ったでしょう。私は気が立っている。
別れの言葉は手短に願いたいものだ――」
どくん、どくん、どくん
「早くしなさいよ!
つべこべ言うと――纏めて調伏するわよ!!!」
僕の襟を掴み、恫喝する彼女。
こつ、こつ、こつ……そんな間にも男の靴音は、絨毯に響く。
「――ッ……
ミサキさん、ごめんッッ!!!」
僕は意を決し、少女を抱き寄せる。
白磁の首筋に吸いつくよう、牙を立て――
「……、あ」
掠れるような少女の声を、刹那、聞いた。
とさり。
彼女の身体が崩れる。
「おや、……『食事』が済んだのなら、そちらの人間は明け渡して頂けませんか?人間風情がワタシを愚弄した罪、償って頂かねばなりません」
たゆたうような、深遠の闇を映す双眸。それは――夢魔のものではなくて。
「――断る、インキュバスよ」
床に刻まれる旋律は、『俺』の足跡。
そう、『俺』――闇の眷属、ヴァンパイアたる緋天坂翼の。
「貴方は……そうですか。それが本来の姿なのですね」
先程とは異なり、今の俺は夢魔と頭が並ぶだけの長身となっている。男は何が可笑しいのか、手を顔の前に宛てて笑い出した。
「く、くく……素晴らしい。その精悍な面差し、まさに吸血鬼一族のもの。
人間と飯事などお止しなさい、貴方には似合わない」
芝居じみた所作が鼻についた。俺は苛立ちを隠すでもなく、一蹴する。
「歌劇でも上演するつもりなら、劇場へ行け。貴様のような下級魔族の道楽に付き合う程、俺は暇ではない」
下級、という行に相手は顔を引き攣らせるが、知ったことではない。
「――去れ、下衆が!」
言い放つ俺を、後ろで呆然と眺める姿があった。
「う、うそ……あれ、ほんとに翼なの?」
信じられない、といったミサキの物言い。まあ、無理もないだろう。
暫く沈黙していた夢魔だったが、突如狂ったように高笑いをあげた。
「……ふ。っははははははは!!
同族といえど……度重なる侮辱、捨て置けません。
滅するがいい!」
夢魔は両腕を交叉し、四方に闇の刃を生み出す。それは各々が意思を得たように、放物線を描いて、俺に降り注いだ。
「貴様如きの赦しなど、求めると思うか?
何度も言わせるな――立ち去れッッ!」
俺の手が虚空を握ると、そこに真紅のサーベルが生まれる。俺は刃のひとつを前へ跳躍してかわし、ひとつを頭を横へ遣って回避する。そうしてステップを踏み間合いを詰める。
「……甘いっ!」
ばっと次の一撃を放つ夢魔。
地震にも似た、辺りを揺るがす爆音が轟けば、部屋じゅうを黒煙がたちこめる。
しかし視界が晴れるも、そこには何者も見当たらなかった。
「なにっ!?ど……何処へ、」
ばっと辺りを見回す男。
「――ここだ」
かちり。
声がその背から届くと、ほぼ同時。
サーベルの刀身が、夢魔の喉元へ突きつけられていた。
「ひっ――」
「三文芝居だったな。これでは観劇料は払えない」
刃物にも似た響きは、冷淡におちる。
「やっ……やめろ!やめてくれ、
滅びたくな――」
ぱすん。球体がひとつ跳ね飛ぶ。
ごろんと赤黒い塊が絨毯を転がったと思えばやがて――蒸発するかのように、霧散した。
……口ほどにもない。
そんなことを頭の片隅で考え、俺はくるりと身を反転させる。
「……あ、つばさ……なの?」
不安げに見上げてくる、ミサキの瞳。いつも強気な彼女のこんな表情は、はじめて目にしたかも知れない。
「ああ。――信じられないか?」
「そんなことは、ない、けど……」
上目遣いに見つめられ、俺はふと、あることに思い至る。
「そうだな。いつもの『翼』なら――」
壁に片手をつき、少女を壁際へ追い詰める。
「こういうことも、できないだろうから――な」
くい、と反対の手で顎を上げさせ、顔を寄せた。
「え、ちょ、翼……!?」
ミサキの頬に、朱の色が差す。可愛らしいそんな反応に、俺はにっと口の端を上げる。そして、俺はそのまま、距離を詰め――
ぐらり。
貧血に似た感覚。そのまま彼女へもたれかかる形で、崩れた。
「え……つ、翼!しっかりして!!」
身体を強く揺さぶられる。
遠のいていた意識が、ゆうらりと呼び戻されていく。
そして。
「…………、へっ!?」
目を覚ました僕は何故だか、ミサキさんの腕中にいた。
「翼!?……よかったぁ!」
弾む声と同時に、強く抱きすくめられる。むぎゅ、と柔らかい感触。なかでも――
「うっ……み、みみみミサキさん、あの、そのっ……!」
(そ、そんなに強く抱き締められたら……胸が……ッ、)
流石に心の叫びを発することはできず、僕は口籠る。
「びっくりさせないでよ、もう……!」
「ご、ごめん……ミサキさん」
常ならぬ彼女の態度に、つい怯んだ。
(か……可愛い……
って、そうじゃなくって!)
「それはそうと、あの、ミサキさん!
……あの、ぼ、僕は大丈夫だから、は、放し――わあぁぁっ」
(だ、誰か助けてぇぇぇっっ!!!)
彼女の抱擁は止むどころか、ますます固くなる。ふんわりとした弾力を感じる度、思わず呻き声が漏れ出た。
その中でじたばたともがきながら、ふと安堵する。彼女を守りきれたことに、僕の手で彼女を傷つけずに済んだことに。
――よかった。本当に……ほんとうに。
「ねぇ、ところで翼」
唐突に腕を放し、ミサキさんはこう言った。
「運動と貧血の所為かしら。お腹空いたわ。
何か夜食になるものない?」
「へっ?ぎ、餃子ならいくつか……」
彼女はその返事に、あからさまに『また餃子?』という顔になる。
「コ、コンビニで何か買ってこようか……?」
僕はおずおずと申し出た。貧血に関しては確実に、僕に責任があるわけで。
「ま……いいわ、この際餃子続きでも。
邪気祓いになるっつっても、流石に飽きたわよ。明日はニンニク使わない料理にしてよね」
要するに明日も夕食を作れということらしい。
「……ほうれん草のソテー作ります、はい」
僕に選択肢はなかった。
翌日――。
「おい、ツバ!てめ、昨日はよくもやってくれたな!」
「ひぃっ!ぼ、僕は何も……!」
僕はやはり包囲されていた。
……昨日、ミサキさんにこてんぱんにノされていた同級生たちに。
「ちょっと、あんたたち!いい加減にしなさいよ!学習能力ないわけ?」
こうして僕の日常は、変わらず続いていく。
今日も、きっと明日も、その先も――また。 |