第二話
「おい、秋起きろ、もう着くぞ」
聞きなれた兄貴の声でうっすら目を開けると、同時に見たこともない数の人間が私の寝ぼけ眼に飛び込んできた。
「さすが東京だな、こんな人の中、本当に歩けるのか」
兄貴は車内の窓から見える人に釘付けになりながら、もそもそと降りる準備を始めていた。
どうやら私は寝てしまったみたいだ。右手がやけに温かい。
けれどいつの間にか右手は兄貴のポケットからは出ていて、もし自分で振りほどいたのなら、と思うと少し胸が痛んだ。
東京は既に春の陽気の中にあってお気に入りのマフラーを外さねば歩けそうもなかった。
マフラーを外すと首の周りにはじっとりと汗をかいており、兄貴が動くたびに通り過ぎていく風が私を冷やし簡単に現実に引き戻していった。
「秋、降りるよ」
兄貴は私を呼ぶとスタスタと出口に向かって歩き出していた。
ああ、もう手を引いてはくれないのだな、私はこれから一人で歩くのだ、と改めて思う。
ホームに降り立つと、思っていた以上に人の流れが速く、兄貴までも見失いそうになる。
真っ直ぐ歩くコツが分からず、人にぶつかってばかりでなかなか追いつくことが出来ない。
だめだ、思考を止めたらだめなのだ。
朦朧とする頭の中で声がうねりを上げた。
頷くだけで分かった気に浸っていた自分が痛々しかった。
それまでの恩さえ振り返ることなく、一人でだって何でも創っていけると思い込んでいた自分の浅はかさが痛々しかった。
自分が一番何もかもを分かっているような気になって、大事な人の手の重ささえ振り払ってしまった幼稚な心が痛々しかった。
思考を止めたら私は飲み込まれてしまう。
兄貴の持つ、大きな世界にただ引きずりこまれてしまう。
私は邪魔なマフラーをゴミ箱に捨てると勢いよく兄貴の背中目掛けて走り出した。
「やっと追いついた」
少し膨れながらそう言うと兄貴は私の頭を小突きながら、これからは一人で歩かなきゃなんないんだぞと言った。分かってるよ、と言いかけてやめた。
もう私と兄貴の間に無駄な言葉なんていらないんだ。
目の前に透明なアクリルの厚い壁が見えた気がした。そこに写る兄貴はまるで別の人みたいに不透明で遠い存在だった。
ふと声が漏れたと思うと、突然兄貴が立ち止まって私の方を振り返った。
何、と聞き返すと目の前に手を差し出してすっきりした顔の彼が見える。
「ん、手、やっぱり繋ご、俺が不安」
ごつごつしているのにスッと長い少し色黒の手が私の方に伸びている。
彼はいつものように少しはにかんで笑っていた。私は迷うことなくその手を取った。
手に重みが加わった。いつもの心地良い重みだ。
もう私が持つことのない重み、忘れていく重みなんだ。
「間に合ったみたいだな」
アパートに着くとまだ引越しのトラックは来ていないみたいだった。
ポケットから新しい鍵を出してドアに差し込むと、改めてもう元には戻れないのだと思う。
鍵を持つ人差し指と親指がジンジンして少し震えた。
眠っていた錆の音を響かせながらドアが開くと、小さな部屋たちが一斉に私を見た。
「おー、結構良いじゃん」
不安げな私に気づいたのか兄貴は不自然なほど大きな声を出して、私を押し抜け部屋に入っていった。
「さあ、早速少し掃除でもしながら荷物待つか」
彼は色褪せた緑と黒のボーダーの袖を捲くると買って持ってきた雑巾を早速搾り出した。
そうだ、不安がっている場合じゃないのだ、後悔を嘆いている場合ではない。
もう、間違いたくはない。
私は兄貴の隣に立つと同じく冷たい水で雑巾を搾り出した。
頭の斜め横で彼が微笑みながら私を見ているのを何となく感じていた。
慌しく荷物が運び込まれ、殺風景だった部屋が少しずつ安心して息をし始めた。
要領のいい兄貴のおかげで思ったよりも早く部屋が片付いた。
初めてのことだらけでまだボウッとしている私の脇で、兄貴は叔母さんに引越しが無事に終わったことを報告してくれているようだった。
西日も沈んだ部屋の中は暗く、付けたばかりの電球さえ暗く無機質に感じる。
「さあどうしよっか、とりあえず何か食いに行く?」
電話が終わると兄貴はまた裏返った大きな声で言う。
そんな兄貴を今、どうしようもなく感じたこともないくらいに愛しく思う。
どうにも出来ない歯痒さの中にいるのに彼の暖かさを知っていることに幸せを感じた。
だが目を瞑り深呼吸すると目の中の汚い私の川が氾濫しそうになった。
(ここで泣いたら何もかも全部台無しだ)
何とか冷たく乾いた部分に水分を送りこむようにぐっと飲み込んだ。
聞き慣れない音がして振り返ると、兄貴が浮き足立ちながら靴を履いてドアを開けた所が見えた。
すると引きずられるように知らない音が耳の中で反響し始め、とうとう足は指令を無視し出した。
それでも強引にバッグを手に取ろうと屈んだ瞬間、パタッと一滴畳の上に水滴が落ちるのを私は見た。
何でこんなに不安なんだ。
待ち望んでいたはずの生活がとても魅力のないものに思えてきた。
「秋、何してんの? 早く行こうよ、腹減っちゃった」
兄貴が勢いよくドアを開けて戻ってきた。
うん、ごめんと謝りながら急いで振り返ると、兄貴が少しびっくりした顔をして私を見ていた。
(そうだ、しまった、涙を拭くのを忘れていた)
ハッとして手の甲でさり気なく頬の涙を拭ってみたが意味がなかったようだ。
兄貴は深々とため息を付くと少し呆れたような顔をして笑いながら言った。
「頑張れよ、秋」
私は彼のこの顔が大嫌いだった。困ったような、でもとても私を心配している顔。
私のことをとても好きだと言ってくれている顔。きっと彼は私が今頼めば結婚だってしてくれるだろう。でもたぶんこの顔をするんだ、この顔をしながら、うん、いいよ、秋と言うのだろう。
私は急いで台所へ行き、周りに水をビッチャビッチャと飛ばしながらもの凄い勢いで顔を洗った。
「よし、行こうぜ」
顔も濡れたまま照れ笑いをする私にタオルを差し出しながら兄貴は笑っていた。
そうだ、この顔が好きなんだ、この顔をずっと見ていたいんだ。
何度も何度も盗み見ては安心してきたこのひまわりのような顔をずっと覚えていたいんだ。
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