「ねえねえ、何かないの?何か」
凪沙はオカルト系のサークルに所属するひとつ後輩で、数週間前に僕のアパートに転がり込んできてなし崩し的に居候している。
「あるでしょう?センパイ、私より1年長く生きてるんだから」
凪沙の言う”何か”とはサークルで研究している「不思議体験」つまり僕の人生の中で起こったオカルト的な出来事のことである、らしい。
「教えてくれるまで、私出ていきませんよ」
「ウチ来た時からそれ言ってるよな」
軽くいなして、今日も2人分の皿を片付ける。数は足りているのだが、どれもこれも1組しかないので流しには色とりどりの皿が溜まっている。
凪沙が僕に好意を持っているという噂は小耳に挟んだことがある。しかし家に転がり込んできた凪沙はそんな素振りは全く見せず、ただ毎日「不思議体験」の催促をしてくるだけだ。不器用なんだろうか。でも体よく家に転がり込める程であるからそうは思えない。ならあれはただの根も葉もない噂だったのだろうか。しかし、そう考えるとこんなに長きにわたって男の家に居座るのもおかしい。
「無いものは無い。俺、もう寝るからな?」
そう言い残して寝床に向かう。このアパートは家賃に見合った狭さと古さだが、広めの押し入れといった感じで納戸がある。特にしまう荷物も無いので、凪沙が来てからの僕はそこで寝ることになってしまっている。どこか解せないし、窓も小さくて正直つらい。
生活スペースとの区切りとなる引き戸を閉めて寝るための身支度をする。いつものことなのだが、今日は少し違った。擦りガラスの格子でできた引き戸の向こうに、白いTシャツを着た人影がある。凪沙だ。
「センパーイ、入るよー?」
返事を聞く前に入ってきた。僕が素っ裸だったりしたらどうするつもりだったのだろう。まあシルエットが分かるから大丈夫なのだろうが。
「ねえ、本当に不思議体験無いんですか」
「無いったら無い」
「言ってくれるまで本当に出てかないよ?」
「言ったら出て行くのか?」
「あー、やっぱりあるんだー」
「子供の会話かよ」
うう、そう言って体育座りの体勢で黙り込んでしまう。こうなると融通が利かない。
正直なところ、凪沙に話せる不思議体験は、ある。ひとつだけだが。そのひとつの話は、できるだけしたくない。あまり、触れたくない。
「うう、あるもん、あるもん……」
子供みたいな口調はそのままに、すべてを知っているようなことを言う。こいつが僕の何を知っているというのだろう。
ただ、凪沙のこの確信は正しいわけだが。
頭を横に向けて、床に近づける。そうして凪沙の顔色を伺うと、今にも泣きそうな顔をしていた。こんな表情を見るのは、初めてだ。
目に涙をいっぱいに溜めている。表面張力が重力に負ければもう涙が零れてしまいそうだ。そんな目をこちらに向けて、凪沙は言った。
「話してくれる?」
根負けした。自分でも驚くぐらい、あっさりと。
「なんの話?」
「俺を俺にした奴の話だ」
あまりにも抽象的で怪しすぎるその返答には、意外にも突っ込まれなかった。
凪沙の顔からは、さっきまでの泣きそうな表情は吹っ飛んでいて、いつものようにただニコニコしてこちらを見ていた。
◆
あれは小学2年の春だったから、7歳のころのことだっただろうか。
僕は自室から繋がる広い物干し台で、毎日のように星を見ていた。
前の冬休みに従兄弟がやってきて、僕に星の知識を吹き込んでいったのだった。北斗七星すら知らなかった僕は自尊心をくすぐられ、やたら悔しがっていた記憶がある。その悔しさから僕は学校が始まるや否や図書室に入り浸って天体に関する本を読み漁り、6月の誕生日には天体望遠鏡を買ってもらう約束もしていた。
夜の11時まで、ひとり物干しで星を見続ける小学2年生というのもなかなか気持ち悪いものがある。
そんな気持ち悪い僕の前にあいつは現れた。
実家の物干しは避難ばしごが常に垂れているという防犯のぼの字もないような造りになっていて、そこを伝ってよく友達が遊びに来ていた。
そこを、何やら真っ白なワンピースを着た白い塊が上ってきていたのだった。
あいつだ。
「誰……」
思わず尋ねる。
「誰でもいいじゃない、そんなこと」
なんだよこいつ、と思ったが、あいつのただならぬ雰囲気に僕は何も言うことができなかった。
「ついてきて」
暗がりにいても判るような綺麗な鳶色の瞳で見すくめられて、僕はつい、ふらふらとついて行ってしまった。
その日から5日間、僕はあいつと、今考えても夢であるかのような夜を過ごすことになる。
「ねえ、どこに行くの」
いつの間にやら僕は右手を握られ、強く引っ張られて連れて行かれる格好になっていた。
「どこでもいいじゃない。それよりあんた、いくつ?」
「7歳だよ。2年」
「じゃああたしよりひとつ下ね」
「3年なの?」
「8歳よ。あんた、いつもああやって星を見てるの?」
「そうだけど」
早足で歩きながら、会話はあいつのペースで進んでいく。不安になった僕はなんとかかんとか尋ねてみた。
「ねえ、僕、帰らないと。いつまで歩くの」
「あんたが寝る時間には帰してあげるわよ。で、星が好きなわけね?」
「そうだよ」
いつの間にやら、僕らは高台のような所にやって来ていた。
「だから、ここに連れて来てあげたの」
なんだろう、と思ったが、急に明るくなった空にすぐに気付いた。
そこから見る星は嘘みたいに綺麗で、僕は何も答えることができなくなった。あれほどまでに沢山の星は見たことがない。両親に連れられて東京に行った時の空の暗さと星の少なさから見れば、家に戻ってきた日にみたいつもの星の多さと綺麗さを改めて思い知らされひどく驚いたものだったが、この時の驚きと感動はそれを上回るものがあった。
「どう?感謝してよね。すごいでしょう」
「ああ、うん……」
「何とか言いなさいよ。ねえ、どうなの」
「うん、綺麗だよ。すげえ。ありがとう」
あんなにも素直に物が言えたのは、あの時が初めてだったかも知れない。
「じゃあ帰るわよ」
「えっ、ちょっと待って、もう少し」
「早く!帰らないとまずいんでしょ?」
強く手を引かれ、やっと我に返った。このままだと僕はイエデショーネンでユクエフメイでソーサクネガイになってしまう。
帰り道も、僕たちは手を握ったままで走った。行きよりも帰りのほうが、あいつの手は温かかった気がした。
程なくして家に帰り着く。はしごの下で、あいつは言った。
「また来てあげるから。あそこへは、あたしが一緒じゃないと行っちゃダメ」
「わかったよ、ありがとう」
そう言うとあいつは少し目を伏せて恥ずかしそうな素振りを見せた。強気の口調とそのリアクションとのギャップが、子供なりにしっかりと感じられた。
「タカシー、もう寝なさーい」
母親はもう僕が星を見ていることに慣れているので1階からそう言うだけだし、父親は単身赴任で家にいない。こんなに簡単に夜外に出られるなんて親としてどうかと思うが、助かることこの上ない。
「やべっ、じゃあまたね」
しかし帰らないわけにもいかない。はしごに手足をかけてそう言った時には、あいつは真っ白なワンピースと背中まで届くような長い髪を夜風に揺らし、背を向けて走り去っていた。
急いで部屋に戻って、母親には適当な返事をしておく。物干しに散らばったままの道具を片付けて、パジャマに着替えて歯を磨く。あんなに奇妙な所に行ったのに、あんな奇妙なほど綺麗な星を見たのに、僕はその間じゅう、あいつのことばかり考えていた。もっとも、あいつも充分奇妙だったのだけれど。
思い出すのはただ、ワンピースの白。周りが暗かったにしても、あまりにも白かった。その白が、脳裏に変に焼きついていた。
◆
次の日目が覚めると夢だった、なんてことはなく、僕は授業中ずっと昨晩の出来事を反芻しながら、太陽が無駄に明るい窓の外を見ていた。二度三度当てられたが答えられなかったが、それさえあの星空に、そしてあいつに比べたらどうでもよく思えた。
少し高台に上がったからといってあんなに見え方が変わるとも思えなかったし、あれほど多くの星が肉眼で見られたということもなかなか信じがたかった。
明るいうちに訪れてみようにも、暗闇の中で一度だけ、しかも手を引っぱられて連れて行かれたのだから道順など覚えていられるはずがないから、それもできなかった。
とにかくあいつに会わないと仕方がない、そう結論が出た時にはすでに夜になっていた。物干しに出て行って古ぼけた木の椅子に座り、文字通りうわの空で暗い夜空を見上げる。そう長くしないうちに、長い髪をなびかせて白い塊がはしごから顔を出す。今日もまた、まばゆいほどに白いワンピース。昨日と全く同じ格好だった。
「本当に来たんだ」
「ちゃんと来るって言ったんだから、来ないわけないじゃない。あたしだって、嘘つきじゃないんだよ?」
「でも、今日来るとは言ってなかったじゃんか」
「でもあんたはこうやって待ってた」
「毎日こうしてるだけだよ」
少々の不毛な言い争いのあと、しばし沈黙。昨日出会ったばかりの、名前も教えてくれない年上の女の子と普通に話していることがなんだか不思議だった。
沈黙を破ったのは、あいつのほうだった。
「そろそろ行くわよ。あんた、今日はどの位大丈夫なの」
「えーっと、今8時半だから、あと2時間は大丈夫かな」
「そう、よかった」
「何が“よかった”のさ」
口をついて出たのであろう言葉に思わず突っ込んでしまった。また何か怒られちゃうかな、なんて思っていたが、あいつは言葉に少し詰まりながらも普通の返答をした。
「何がって…あんた昨日10分間ぐらい黙って突っ立ってたのよ」
「黙ってちゃいけないの」
「当たり前よ。何も話せないなんて耐えられないわ」
「あ…ああ、そう」
言い回しに少し違和感を抱きながら、黙って差し出された手を黙って握る。はしごを下り、真っ暗闇の中、ふたりの世界にふたりで走る。並んでみるとよく判った。あいつのほうが、少し背が高い。
昨日感じた恐怖は無くて、その分だけ心はわくわくしていた。
すぐに例の場所に着く。道順は、やっぱり覚えられなかった。
でもそこから見る景色は変わらず綺麗で、僕たちの立つ地面まで薄明るく照らしていた。月もまんまるで兎がはっきりと見える。今日は満月だったっけ。
走っている間はほとんど口をきかずに、ずと着いたら何をしようか考えていた。春の夜空の星といえば、まずは春の大曲線。その弧の中心に位置するのがしし座で、α星はレグルス。そして十二星座占いでは自分の星座であるふたご座。神話に従ったのでα星の兄・カストルがβ星の弟・ポルックスより暗い。
到着してからの僕は、性懲りも無く無言のままで、自分の知識をそうやってひとつひとつ経験に変えていった。
1時間ほどそうしていただろうか、ずっと黙っていたあいつが口を開いた。
「飽きない?」
「飽きない。それよりさあ、お前は星、見ないの?」
「“お前”なんて使うんだ。“僕”のくせに」
「話そらさないで。星は見ないの」
たまに目をやると、あいつはいつも空ではないどこかをじっと見つめていた。その対象は時々僕にもなるらしく、二度三度、目が合っては互いに逸らすことを繰り返していた。
「だって、あたしは星を見にきたんじゃないもん」
「こんなにキレイなのに」
「星見るんならひとりで見るわよ。もともとここはあたしひとりの場所なのよ」
「友達いないんだ」
「うるさいわね。それより、あんたに聞いてほしいことがあるの」
「そのために僕を呼んだんでしょ」
「分かってきたじゃない」
1番大きい木の根元に、ふたりで座る。ふたりでもたれてもまだなお大きいその木に思い切り体重を預ける。
隣を見ると、まばゆい白。座ってもやっぱりあいつのほうが少し背が高くて、それに気づいて少し姿勢を正した。
◆
「座高は高かった、なんてもっとヘコむじゃない」
「座っても低かったっつってんだろ」
「そんなところに目ェつけてたんだ」
「足が短いって確信と実感があったんだよ」
「否定はしませーん」
「ガキの頃の話だってのに」
ほとんど独り言のようにつぶやく話を、凪沙は驚くほど黙って聞いていた。もう日付が変わろうとしている。明日も大学だし、凪沙を待っていたら通学にも時間がかかるし、朝食も明日は僕が作る番だし、昨日も2時を回るまで凪沙とふたりでゲームをしていたから眠い(聞けば聞くほど彼女が同棲しているみたいに聞こえるが、そこは考えたら負けなので考えないことにしている)。だからとりあえずこの辺りで話を切って明日以降に持ちこしてあわよくばうやむやにしてやろう、なんて考えていたのに、凪沙はまだまだ元気そうだ。それはちょっと困る。
「で、センパイ、続きは?」
「もう明日だ明日。寝かせてくれ」
「またそうやってうやむやにする。全部話してもらいますからね」
「まだまだ続くんだよ。明日にしてくれよ」
「ダーメーでーすー」
そう言って凪沙は冷蔵庫から酒を持って来た。本気で僕を巻き込んで起きておくつもりらしい。持ってくるや否やもう飲み始める。ナチュラルに強引な奴だ。
「わかったよ、もう」
こうなれば抵抗しても無駄だろう。もう腹をくくった。明日は明日の風が吹くさ。そう思うことにする。
「ほらセンパイも飲んで飲んで」
お節介にもプルタブまで引いてくれる。ぐい、とひと口飲んで、息をつく。僕も凪沙もさっきまでの位置に戻って、また、物語は続く。
◆
軽くへこみつつも話を続ける。
「で、何の話なの?」
「夢の話よ」
「寝てる時のほう?将来のほう?」
「聞けばわかるわ」
「じゃあ早く話してよ」
「言われなくても話すわよ」
あいつはそう言ってぽつりぽつりと話し始めた。変てこな、それでいてどこか不思議な話。
「気がついたら波打ち際にいたの。きれいな海で、きれいな砂浜だった」
「寝てる時の夢だね」
「黙って聞いて。…それで、あたしは楽しくなって海で遊ぶの。そしたら、自分が自分じゃなかったのね。背が高くなってて、髪も短いの。でも海がきれいだったから、それでいいかなって思った。しばらくひとりで遊んでたけど、ちょっと飽きてきたのね。でもまだ楽しかったから、誰か一緒に遊んでくれないかなって思ったの。あとあたし泳げないから浮き輪とか誰か持ってないかなって。だから、周りをきょろきょろ見てみたら男の人が遠くにひとりだけいたのね。声かけようと思ったけど、遠くて、手に何も持ってなかったし、Tシャツとジーパンで、遊んでくれそうじゃなかったのね。だからやめた。で、またしばらく遊んで、なんとなく後ろを見たら、そっちにも海があって、あたしは海と海にはさまれてたわけよ。陸地は砂浜だけ。ずーっと遠くまで、本当に砂浜だけなの。そう思ったら急に疲れてきて、砂浜に横になって、寝ちゃったの」
「夢の中でまた寝るなんて変なの」
「黙ってって言ってるでしょ。……で、目が覚めたら砂浜がかなり狭くなってたの。潮が満ちてきてたのよ。いつか潮は引くって分かってたんだけど、あたし怖くなって、さっきの男の人の所に行って助けてもらおうと思ったの。なんとかしてくれるような気がして。それで周りを見て男の人を探したら、もっと遠くに行ってた。で、あたしの所にはまだ横になれるくらいの砂浜が残ってたんだけど、男の人の所にはほとんど、っていうか全然無かったの。だからあたし助けてもらうんじゃなくて助けなきゃって思って、男の人のところに走ってった。でも自分の体じゃなかったからうまく走れなくて、何回か転んだの。血は出てこなかったけど痛くて、ちょっと泣いちゃったの。あ、夢の話だからね?でもやっぱり、助けてもらうのか助けてあげるのかなんてどうでもよくなって、とにかく行かなくちゃって思って一生懸命走った。泣きながら。そしたらだんだんもっと砂浜が狭くなってって、走りにくくて大変になってきたころに、やっと男の人のところに着いたの」
夢のことをこんなにはっきり覚えていられるものだろうか。他人の夢の話ほどつまらないものはないと言うが、あいつの話にはそれが当てはまらない何かを感じた。
「それでね、あたし言ったの。『危ないから、潮が引くまであっちの広いところで一緒に居ましょう』、って。そしたら男の人は『潮はもう引かないよ。海はどんどん広がる。深くなる。どこにも、逃げられない』って言った。あたし、すごく怖くなって、『そんなのイヤ。ねえ、どうしたらいい?』って聞いたの。そしたら男の人は、あたしの転んで赤くなって、砂もついてるほっぺたにそっと触って、『海に入れば、もう転ぶことなんてないんだよ。いつまでも、いつまでも』って言って、あたしの右手をつかんだ。そしたらあたしたちの立ってた地面が急に消えて、あたしたちは海に沈んでった。赤くなった所がしみるかなって思ったけど全然しみなくて、冷たいと思ってた海は温かくて気持ちよかった。でも海の底はまっくらで、右手は男の人につかまれたままだったけど何も見えないし、海の中だから何も喋れなかった。不思議だけどそれでも怖くなくなってて、つかまれてた手を握って、もう離れませんように、って思った」
そこまで言って、長い沈黙。怒られること覚悟で、聞いてみた。
「おしまい?」
「そうよ。文句でもあるの」
「べつに」
「じゃあそろそろ時間ね。帰るわよ」
時計なんて持っていないのにどうしてそう言いきれるのだろうか。そう思いながらも、手を握る。家まで走るその前に、もう一度だけ空を見た。太陽の消えた空は昼ほどの明るさはないまでも、数え切れない星くずで明るすぎるくらい明るかった。
帰る途中、一瞬だけ木に空が覆われて、そこを抜けると、空はもとの暗さを取り戻す。 なんだか切なくなって、何の気なしにあいつの手をぎゅっと握ると、あいつも握り返してきた。そんな風にしながら、一緒になって足を動かす。はしごの下には、意外に早く着いた気がした。
「明日も来るから。明日も」
「わかってるよ」
「じゃあね」――それだけ言うと背を向けて走り出す。星々の自己主張も控えめないつもの空の下に戻ってくると、やっぱりあいつの白は目立つ。
はしごを上り終えて、ふと考える。あいつ、今日は挨拶したな。じゃあね、だけだけど。
自分もしたほうがよかったかなあ、なんて思いながら身じたくを済ませ、窓の外をちらりと見やると、暗い空には三日月が輝いていた。
さして気にも留めずに、布団に入った。日本晴れだった昼間に干したのだろう布団のいつもと違う柔らかさが、心の中を支配したままのあいつの話の不思議さに重なる。ゆったりとした感覚の中、いつもより早く眠りに落ちた。
◆
次の日は土曜日で、学校は休みだった。友達が朝、遊びに誘いに来たらしいがあいにく僕はまだ寝ていた。目覚めたのは朝というより昼で、前の晩も帰ってきて眠ったのが11時を過ぎたころだったから、早寝早起きの欠片もない。
昼過ぎから雨が降り始めた。遊びに出かけた友達を少し心配したが、やめた。バカは風邪をひかない。ちなみに、僕は風邪をひいたことがなかった。頑丈だったんだろうか、それともバカだったんだろうか。もっとも、天体バカであったことは疑うべくもないのだけれど。
近所の公民館の図書室が開放日だったから、前々から行こうと決めていたが、雨のせいでやめた。母方の祖父に手伝ってもらって製作中のプラネタリウムも、あとは主要な星座の穴を開けて仕上げるだけのところまで来ていたが、あの場所から見える星の多さを考えると急に色褪せて見えて、出してきた半球をまたしまう。何もしない休日は、それでもいやに短い。瞬く間に夜になった。でも、星は見えない。雨は夕方頃からだんだん弱くなり、それに連れて雨雲も薄くなっていたが、それでも必死で空にしがみついていて、少ない星を残らず覆いつくしていた。あいつは今日は来ないかもな…、そう思っていたちょうどその時、物干しのほうからガラス戸が2回、叩かれた。
「開けなさいよ」
「もう開いてるよ」
「遅いの」
あいつの髪は弱い雨にしっとりと濡れていて、相変わらずの白いワンピースも湿っているようだったが気にする素振りも見せず、いつもは僕が座る木の椅子に腰掛けた。今日は濡れないように窓の近くまで動かしてあったので、窓から漏れる明かりであいつの顔がはっきり見えた。服に負けずに色白で、髪は瞳と全く同じ、綺麗な鳶色をしていて、顔立ちも整っているように見えた。こんなのと手を繋いでいたのか、と思うと少し気恥ずかしい気さえした。
できるだけ思考をそこから遠ざけながら、物干しの端に据え付けてある小さな物置から、キャンプ用の背もたれの無い椅子を取り出して、僕も座る。背中を物置に預けると、あいつと向かい合う格好になった。
「今日は行けないわよ」
「分かってるから座ったんだよ」
星が見えないから、目のやり場をどうすればいいかよく分からない。見慣れた物干しの風景に、そろそろ見慣れてきた白い塊がひとり。相変わらず澄み切った鳶色の瞳は、じっとこちらを見つめていた。
話の主導権を握りたくて、こっちから話を切り出した。
「どうして昨日はあんな話をしたのさ」
「わかんないわよ。でも、話したかったの。言ったでしょ?そのために、あんたと出会ったの」
「話をするためだけに?」
「それもわかんない。でも、あんたに話がしたかったのは本当よ」
「僕じゃないと、いけなかったの?」
わかんない、とか、別に誰でも、とか、予想していた答えは返ってこなかった。それどころか、あいつは黙りこくってしまった。こっちから話を切り出したわけだし、どうしても何かを聞き出したいわけではないから、話すことを失くして、僕も黙ってしまう。
長い沈黙にいい加減耐えられなくなってきた頃、ようやく体が乾き始めていたあいつが不意に、屋根のない側に出て行った。もしかして帰るのか、と思ったが、はしごとは反対側に向かっている。
「濡れるよ」
「もう濡れてる」
そう言ったあいつは、反対側の端まで歩きつくと、ずっと遠くまで続く田舎道のほうを柵から少し身を乗り出してじっと見ていた。
道というよりは、その向こう、ずっと遠くを見ていた気がした。
放っておけなくなって、あいつの所に行く。隣に立って同じほうを見つめるが、何も見えない。直接当たる雨が冷たい。
もう一度だけ、尋ねてみた。
「ねえ、僕じゃないと……」
「わかんないわよ。そういう風になってるの。だから、そうなったの。わからない?」
初めて聞くあいつの強い口調に、僕は隣を見ることができなかった。目線も動かせずに、田舎道をずっと見つめる。曲がりくねった道に一定間隔で灯る街灯が、ひとつ消えた。消えているものもところどころあるし、消えかかって点滅しているものも多い。物干しに一番近い街灯が、一度短く消えて、また点いた。
「じゃあね。もう時間でしょ」
「あ、えーっと」
「大丈夫よ。また明日も、来てあげる」
全てを見透かしたようなあいつの態度に、僕はまた言葉を失くした。
「明日は、晴れるといいね」
そう言って、あいつははしごを下りていく。
本当にすべて、見透かされているような気がした。
◆
「女の子はねェ、分かっちゃうんだなぁ」
ほんのり頬に赤みがさした凪沙が、僕の目をじっと見て言う。酒を飲みはじめてから凪沙はずっとこの調子で、目を離してくれない。自分も飲んでいるということも手伝って、誇張も嘘も思いつかない。凪沙の術中にはまって、実体験を延々喋らされている。
「そんなものかな」
「そうよ」
たまに凪沙のほうに目をやって話すと、どうしても見つめあう形になってしまう。どうも落ち着かない。
「私、もっとお酒持ってきますね」
やめとけ、と言いかけて、やめた。 何故か言えなかった。
ここまで話したぶんには、別にそこまで不思議なことは出てきていない。凪沙は何も言ってこないが、これでいいのだろうか。
凪沙と同じサークルに所属している奴が知り合いでいたので、凪沙がしつこいことを相談してみたことがある(ちなみに彼は一浪しているので僕よりひとつ年上である)。彼によると凪沙はやはり僕に好意を持っていて、ただ単に僕のことを知りたいだけではないか、という。サークルの主たる活動は全国各地の伝説とか伝奇とかいった類のものを追うということらしく、別に僕の不思議体験は活動もへったくれもないということだ。彼は絵に描いたようなオカルト男でこんな話に的確なアドバイスを求めるのは間違っている気がしていたが、意外にまともな答えを返してくれた上に、年上であることも相まって言葉ひとつひとつが妙な説得力を帯びていた。
「さあセンパイ、続き続き」
チューハイの缶を4本抱えて持ってくる。笑顔の後ろ側に、ショートカットの髪が揺れる。まだそんなに飲むつもりだろうか。そして、飲ませるつもりだろうか。
「センパイ?」
酔っているせいでほうっと潤んだ目で、しかも上目遣い。思わず、目を逸らす。
「わかってるよ」
絶賛酩酊中の僕たちは、もう一度床に座って向き合って、また缶を手に取る。
凪沙は相変わらず、こちらを見つめている。
僕は虚空を見つめて、ゆっくりとまた、口を開く。
◆
翌日の日曜日は、僕は38度の熱を出してぶっ倒れていた。雨に当たったせいであるのは言うまでもない。母親にばれると色々厄介だから濡れたことは黙っておいて、適当に体を乾かしてから冬用の布団を被って寝たから大丈夫だと思っていたが、甘かった。生まれて初めての風邪は、苦しかったには苦しかったのだが、それよりもいつもと違う自分がなんだか不思議な感じがした。
朝の8時に起きてすぐ母親は僕が熱を出していることを発見し、強制的に寝かしつけた。
子供用の風邪薬を飲んで、スポーツドリンクもコップ一杯飲み干すと、そのままぐっすりといってしまった。夢も見ないで眠り続け、目が覚めたのは午後の5時。
まだ体はだるくて頭は重かったが、それ以上は眠れそうもなかったので天体の本を開いた。けれど頭がぼうっとして何も考えられなかったので、すぐやめた。この時間、母親は決まって買い物に出ている。よたつきながら階段を下りて、リビングのソファに寝転んで、タオルケットを被る。アメリカのアニメビデオを流して焦点の定まらない目で画面を眺める。ガラスが割れる音。爆弾が爆発する音。叫び声に笑い声。薄っぺらな可笑しさが、乾いた脳みそに、滲みる。今日はさすがにあいつとは出られないかなあ。そんなことばかり考えていた。
しばらくして、ビデオが終わって巻き戻り始めた頃、母親が買い物袋を両手に帰ってきた。
「タカシ!あんた大丈夫なの」
「だるい」
「寝てなきゃダメじゃない」
そろそろ母親が帰ってくる時間だとは思っていたのだが、布団に戻るには体が幾分重すぎた。少し厄介なことになったが、雲の上のような不思議な世界から、日常に戻ってこれた気がした。
「晩ご飯、食べる?」
「いらない。スポドリちょうだい」
コップいっぱいの濁った液体と、小さな錠剤をふたつ、母親が運んでくる。朝と同じように何も考えずに飲み込んで、飲み干して、気合いを入れて階段に足を掛ける。薬の効き目は抜群で、部屋に着いた頃にはもう眠くなっていて、日が沈む前にはもう一度眠りに落ちていた。
今度は眠りが浅かったのか、不思議な、それでいて妙に輪郭のはっきりとした夢を見た。
女の子と手を握りあって走る夢だった。
女の子はあいつではなかった。髪も短かったし、背も僕より低かった。そして何より、僕が先を走り、引っ張るようにその女の子を導いていた。変化もなければ終わりもないのに、理由もなく楽しい夢だった。
夢にもそろそろ飽きてきた頃、部屋に誰かの気配を感じて目を覚ました。でも、時計を見ると真夜中で、体を起こしてみたけれど、誰も部屋には居なかった。そのまま立ち上がる。体が軽い。明日は晴れる。学校に行ける。そしてあいつと、会える、話せる。手を繋げる。
根拠もないのに、そんな確信があった。
その確信どおり朝には熱が下がっていた。母は大事をとれとしつこく言ったが、僕はランドセルを背負って外に出た。昨日の天気が嘘のように、空は青くて、晴れていた。
登校班の上級生も、クラスの友達も、先生も、誰も僕の風邪のことを知らなくて、先週までと同じように1日が過ぎていく。昨日の1日がぽっかりと開いていて、まるで熱など出なかったみたいだった。苦しかった日を忘れられそうで嬉しかったが、思えばあいつがいたから熱が出たのだ。きっと、忘れることはないだろうし、忘れたくない。
5時間目が終わる。またしても白いページのままのノートをランドセルに詰め直して、家に向かう。校門のところで、ひとつ年上で登校班が同じのアカマツくんに会って、声を掛けられたから一緒に帰った。通学路の半分くらいの所、話題が尽きて黙っていた頃に、何故だか滑るように口が動いた。誰にも言うつもりはなかったのに。
「3年に、髪の毛がこのくらい長くて、背が少し高めの女子って、いますか」
しっかりとした丁寧語。先生には謙譲語まで使う。嫌なガキだなあ、と自分でも思う。
「わかんないけど、長いのは何人かいるよ」
「結んでなくて、色白なんですけど」
「えーと、浅田は三つ編みだし、宮前は色黒だなあ。うちの組にはいないよ」
「背はアカマツくんぐらいで」
「じゃあいないと思うな。俺、けっこう背、高いよ?」
「わかりました」
特に気にした様子がなくて、助かった。そんなこんなで家に着いて、挨拶をして、分かれる。もちろん僕の挨拶は、「さようなら」だ。
◆
「しっかし、精神年齢の高い子供だったんだねえ」
「何がさ」
「だって、小学生で敬語使うなんてありえないじゃない」
喋り方が、いつもと違う。酔っているのだろう。一応年上だから普段は崩れ気味ながらも敬語を使ってもらっているのだが、その崩れかけの敬語さえ無に還っている。むやみにフランクな感じだ。でも、分かっているのに、たしなめる気になれない。
「いや、でもね?精神年齢高いみたいに今話してたら思えるんだけで、俺じーちゃんの家で5歳まで育ったんだけど、じーちゃん不動産屋で客商売だったのよ。だから敬語きっちりしてるじゃん。俺に教えてたわけじゃないけど、見てるじゃん。だから使わなきゃ、とか思っちゃってたの」
「ふんふん」
「でもみんな使ってないじゃん。で、みんなに合わせるかじーちゃん見て覚えた通りにするかっていう葛藤があるわけよ。一言しゃべるたびに。でも結局ずーっと、じいちゃん勝ちっぱなしだった」
「でも精神年齢やっぱ高いって。話聞いててすごい分かるもん」
「そうかもしれないけど、てか先生とか親とかはきっとそう思ってたよ。でも、俺はね?みんなと遊ぶの大好きだったの。夜は星、見てたけど。でも遊んでるとさあ、男だもん。あるじゃん。かんしゃく玉パチンコで飛ばしたりさあ、授業中紙ヒコーキ飛ばしたりさあ。俺すっげえやりたかったんだけど、友達とかがやってたらやめろって言っちゃうの。精神年齢うんぬんとかじゃなくて、先生とかが怒ったり誰か泣いたりするのが何か嫌で、怖かった。すげえ小心者だよ。幼稚園の頃なんて友達がみんなの前でひとり怒られてるだけのに俺が泣いてたとか親、言ってたもん。いろんな意味でガキで、でもガキじゃなかった。自分でも、よく分かんない」
僕は何を話しているのだろう。酒は怖い。やめておけばよかった。こんな関係のないことまで、延々喋ってしまっている。
「でも、そういうヤツって嫌いじゃなかったな。時々うんざりしてたけど、そんなヤツがひとりいてクラスが成り立ってるとか、そんな気がしてた」
何だよこの雰囲気。凪沙といるときは酒は控えよう、できるだけ。そんなことを、うだうだ回らない頭で考える。
「今になると、結構つらいよ?あーもう、俺、あの頃に戻りたいよ」
「戻って何するのさ」
「何でもやるよ。教室のなかで上履き飛ばしたり、先生とタメ語で話したり、好きな娘いじめてみたり」
「戻ったとしても、きっとできないよ?特に最後」
心の傷と思い出とを、交互に掘り返しながら、夜は更けてゆく。あと1時間としないうちに、空は白み始めるだろう。
今日は徹夜だ。凪沙のために。
相変わらず凪沙は、こちらを見ている。
この夜も、僕の話も、もうすぐ終わりだ。
◆
あいつと知り合ってから5日目の夜。
あの日が、あいつと会った最後になった。
夜8時、少し早いかな、と思って物干しに出て行ったが、あいつはすぐに現れた。
「昨日はどうしたのよ」
「こっちが聞きたいんだけど」
回りくどい質問だったが、あいつは分かってくれた。
「あんた居なかったし、電気も消えてたから、帰ったの」
「うん、熱出てた」
いくらあいつでも、部屋に入ってきたりはしなかったようだ。自己申告によると、だが。
「あたしのせい?」
「たぶん、そう」
「行くわよ」
自分に都合が悪いことには触れないらしい。自分から聞いたくせに。
しっかりと手を握って、走る。道順を覚える努力はしてみた。右、右、次はまっすぐ、左に曲がって、カーブミラーのところを右、そしてすぐ左。頭の中でなぞってみたけど、結局着いた頃には忘れていた。
満天の空の下、ふたり並んで座る。4度目になるのに、見慣れることはない。じっと星を見る。あいつが何か言う。それについて、つまらない話をする。ずっと前から、そうしてきたかのように。
アカマツくんの言ったことは、頭にあった。言うべきではないような気は、していた。つまらない話がひと段落して、静けさが僕たちを支配する。星を見つめたままでいた僕の唇は、間に魅入られたかのように言葉を零し始めた。
「あのさあ」
「なに」
「3年生に、聞いてみたんだけど、お前、ウチの学校じゃないの」
あいつは一瞬儚げな微笑みを浮かべた。そして少し間をおいて、言った。
「おしまいね」
「何がだよ」
「そろそろかな、って思ってた」
そう言って立ち上がり、歩き始める。帰る方向とは、逆向きに。
放っておくわけにはいかないからついて歩く。高台を下りる途中、一瞬木々で空が隠れる。そこから出ると、あの明るい星々が消える。
「もう、あそこには行けないってことか?」
「そうね」
「もう、あの星は見れないってことか?」
「俺が何か悪いことしたのか?」
「“俺”……」
足を止めてこちらを向いたあいつは、そう言って、僕を指差して、少し笑った。いたずらっぽく、楽しそうだったが、やはりどこか悲しげだった。
生まれて初めて口から飛び出した“俺”という一人称代名詞への驚きと違和感のせいで、僕は一緒に笑うことは出来なかった。無意識だった。
あいつの表情は崩れたままで、僕たちの雰囲気は少し和んだ。でも、あいつはすぐにまた歩き始める。
「待てよ。何か……何か悪い事した?教えてよ、ねえ」
少しケンカ口調になっている自分に気付いて、焦って直す。あいつはまた少し笑って、言う。
「ううん。全然そんなことない。フツウよ」
何を言っているのか全く分からない。
「フツウって何だよ」
あいつは答えない。黙ったままでもう少し歩いていくと、街灯の下にベンチがあった。自販機があるわけでもないのに、飲料メーカーの赤いベンチだった。
「座るわよ。もうおしまいだから全部教えてあげる」
もうおしまい、その言葉がもう一度僕の心にのしかかる。いつもそうしてきたように、並んで座る。無駄に緊張したのは、椅子が違うせいではないはずだ。
黙ってうなずく。あいつは口を開く。
「あたしは、あんたに夢の話をするために来たの」
「知ってる」
「あんたじゃないと、いけなかったの」
「なんで」
「星、好きなんでしょ?だからあそこに連れてけば、話、聞いてくれると思った」
正論である。
「なんで話さなきゃいけなかったの」
「あたし、本当はここに居ちゃいけないの。夢の話をするだけの、おとぎ話の中の人。あそこの星空だって、ニセモノよ」
嘘だ。その言葉が僕の口から飛び出すより早く、暗い空があの星空に変わった。
「信じた?」
うなずくことさえできない僕に、あいつは話を続ける。
「夢の話をするためだけの人だから、あたしのことをあんたが知りたいと思ったらそこでもうおしまいなわけ。ルール違反。あたしは、あたしの世界に帰らなくちゃいけない」
役立たずだった僕の口が素早く動く。
「じゃあもうお前に会えないのか?」
あいつはもう何も言わない。
「俺、じゃない、僕、またお前に会いたい」
あいつは僕から目を逸らし、空を見上げた。タクシーを止めるようなしぐさで右手を挙げると、星がひとつ流れた。ゆっくりと、星と星とをかき分けて。
「流れ星……ゆっくり、過ぎる」
「言ったでしょ、これもニセモノ」
そう言うと、また空が暗くなる。明るいあの星々が、姿を消す。流れ星ひとつを残して。
流れ星はゆっくり進んで、いつもの暗い空にかろうじて見えるカストルとポルックスの間から少し外れたところに止まる。信じられないことばかりが起こる。
「あの星は、あんたにあげるわ」
「それって……」
「大丈夫。ニセモノよ。あんたにしか見えないわ。それに」
「それに?」
あいつは身のこなし軽くベンチから後ろ向きに飛び降りて、僕の後ろから言った。
「大人になったら、見えなくなるわ」
そう言って両手で僕の目をふさぐ。周りの暗さも手伝って、僕の視界は完全に闇に包まれた。
もうおしまいだ。そうあって欲しくなんかないのに、何故だか自分でもそう思った。
「僕、お前のこと忘れないから」
あいつはしばらく何も言わない。視界はまだ闇の中だ。
「“俺”のほうがカッコいいよ。男でしょ」
またしばらくたって、あいつはそれだけ言った。それがあいつの声を聞いた最後になった。何も見えないままだったが、最後にあいつは微笑んだ。そんな気がした。
刹那、あいつの手の感覚が、ベンチの背の感覚が、外の空気の感覚が、消える。深い闇から目を覚ました時には、そこは自分の部屋で、外は朝になっていた。
◆
「それから、あいつには会ってない。夜、来ることももちろんなかったし、3年生の教室を覗いてみたけど、アカマツくんの言った通りあいつはいなかった。街に出たとき、似た後ろ姿を見つけたけど、人混みに紛れてすぐに見えなくなった」
それだけ言って、口をつぐむ。これ以上話すと涙がこぼれてしまいそうな気がして、凪沙から顔を背けて黙って立ち上がる。
あの日からの僕は日を追うごとに天体バカに拍車がかかっていったが、それも高校に入る頃には収まってしまっていた。だから、今ここには天体に関するものはほとんどない。あいつと会う前に見た東京の暗い空の下で、僕は星から遠く離れた世界を生きている。
しかしそれでも、田舎から持ってきたものがひとつだけある。ぼろぼろの天体の本の、一番開き慣れたそのページには、マジックで書き足してある星図がある。
“あいつの星”
書かれてあるのは、もちろんカストルとポルックスの間。
こちらも何も言わない凪沙に見せるために床に広げ、言った。
「中学入った頃からだんだん暗くなってった。忘れたくなかったから、こうやって書き付けてたけど、去年とうとう見えなくなった」
こみ上げてくる熱くて形のないものに耐えられなくなって、流しに向かう。泣いたの、見られたかな、そんなことを思いながら目元を中心に顔を洗ってタオルでぬぐう。
泣き上戸では、ないつもりだ。
「悪い」
凪沙のそばに戻って立ったまま、座っている凪沙にそう言うと。
「ふええええええ」
泣き出してしまった。
「ありがとう。ごめんね、ごめんね」
「俺は大丈夫だから。ただの思い出だよ。話してて、楽しかった」
そう言って、慰めてやる。泣き上戸なのは、こいつか。
「違っ、ちがいます、ちがっ、うええええ」
「分かったよ。分かった。全部分かったから喋るな」
黙って泣き続けている凪沙の肩を抱いてやると、すぐに眠りに落ちた。 こいつには、俺の知らないことがまだまだ山ほどあるんだろうな。目を閉じて僕にもたれかかる凪沙の横顔を見て、そんなことを考える。でも、余計な詮索はもうすまい。今はもう、こいつが居なくなったら困る。もう何も、失いたくない。
だんだん白んできた空に、朝日が現れ、星が消える。納戸の小さな窓の外で、双子座があった場所が一瞬小さく光った気がしたが、瞬きをすると消えていた。
◆
朝、7時半。
凪沙はついさっきまであんな様子だったのに、もうケロっとした様子で、トーストを焼きながらコーヒーを飲んでいる。
僕は結局一睡もせずに、あの本を読んでいた。久しぶりに、星が見てみたくなった。
今度田舎に帰ったときは、ありったけの天体の本と、できれば望遠鏡を持ってこよう。 凪沙は星の良さを分かってくれるだろうか。きっと分かってくれるだろうな。
そんなことを考えていると、不意に歯磨き中の凪沙がやってきた。
「センパイの田舎ってどのあたりですか?」
「今度連れて行ってやるよ」
やったー、と小さく言って、凪沙は流しに戻る。楽しそうな背中が、こちらを向いて揺れている。
「本当にうれしいのかー?何もないめっちゃ田舎な所だぞー?」
「ホントですよ。あたし、嘘つきじゃないもん」
あいつは本当にナマイキだな。
心の中だけでそう思って、鏡を見ている凪沙に忍び足で近づいて、後ろから目隠しをした。
◆
あの日からずっと、凪沙は僕の隣にいる。
毎日が楽しくて、まるでおとぎ話の中にいるみたいだ。
<了>
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