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有明の病

 有明が死んだのは高校二年生の晩秋のことだった。

 その日の朝学校についた時から、妙に空気がざわめいていたのを覚えている。いつも通りの教室の中に、いつも通りではない囁きが交わされており、いつもなら誰かしら教室の様子を見に来る教師たちが誰も来なかった。それからそれを後押しするように、放送で臨時の全校朝会のアナウンスがあった。妙に無機的なアナウンスの教員の声は、努めてそうしていたのだと、後になって泣き腫らした目をしたその教員を見た時に知った。

 冷えた空気が満ちた体育館に集合し、黒いネクタイを締めた教員たちが見張る中、整列して待つ。すると唐突にそれは始まって、至極あっさりと、あいつが死んだことを告げた。
 昨夜、学校から駅までの道で、飲酒運転のトラックが歩道に突っ込んで、何人かが軽傷を負い、そして、あいつは一人だけ、助からなかった、と。あっさりと。ごくあっさりと、あいつの死がマイクを通して伝えられて、体育館の壁と冷えた空気と、俺の鼓膜に反響した。

 校長の合図に合わせて、あいつのことなんて知らないはずの多くの生徒を含めた全員が黙祷した。黙祷を終わる合図の後は、ひそひそと何かを囁き合っては静かなざわめきを生み出した。体育館の窓から差し込む日光が整列した俺達の肩と室内の埃を照らして眩しいくらいだったのに、俺の体は冷え切っていて、酷く寒かった。
 それだけの事だった。



 その週の終わりに、通夜があった。ほとんどの人が泣いているか呆然としているかで、酷く空気が重かった。生前あいつは『湿っぽいのはごめんだから葬式には水取りゾウさんを大量に設置しよう。それからお経をあげる坊さんは木魚の代わりにドラムセットをエイトビートで叩く。花の代わりにフラワーロックンロール……ほら、あの音に反応してうねうねする奴、あれを大量に設置してほしい。ついでにファービーも設置しよう。そしてファービーがファーブルスコ、ファーブルスコ、って言いはじめたら坊さんがドラムスティックで横から殴って、ファービーがモルスァ、って言いながら飛んでいくのだ。多分愉快だと思う。そして参列者は焼香の代わりに逐一クラッカーを鳴らす。旗が飛び出るやつだと尚良し。君たちは喪服じゃなくて食い倒れ太郎のコスプレか海パン&ネクタイで参列してくれるととっても嬉しい』などというふざけたことを抜かしていたが、流石にそれが実践される訳もなく。……少し斎場の外を歩いていたら、俺と同じような顔をしている連中を見つけた。
「お前もやっぱり、来てたの」
「一応、な」
 なんとなく、泣くでもなく呆然とするでもなく、苦笑いを浮かべた一団は、俺の友人……あいつとの共通の友人だった。
「あいつ、一番長生きするだろうと思ってた。なんとなくだけど」
「あー、分かる分かる。私たちみんな死んでも生きてそうで」
「っていうか、殺しても死ななそうだったよね」
「そうそう、爆発に巻き込まれてもアフロになって終わる感じの」
「重病も寝て起きて治す感じの」
「車に轢かれたら車が吹っ飛ばされるんだよ」
「そんであいつ無傷なのな」
 随分と不謹慎な会話だったが、幸いにも咎められることはなかった。おそらく、ここに来ている人が全員、あいつの事をよく知っていたからだと思う。あいつ自身が喜びそうな不謹慎な会話であいつの死を悼んだ。

 しばらく、学校の一部が酷く沈んでいた。
 あいつが親しかった生徒の一部が何人か暫く学校に来なかった。来ている奴も、どことなく暗い顔をしていた。教員の中にも何人か酷い顔をしているのがいたが、流石に年の功か、そこまで授業に支障が出ることもなかった。
 ただ、一度だけ。現代文の授業だったか。文中の語の意味を簡単にさらっていた時。
「有明、というのは朝のこと、日の出のことです」
 何人かがぴくりと反応した。それに気付いたのか、自分で思ったのかは分からないが、その教師は、すこし躊躇いがちに続けた。
「本当に、名を体で表す人でしたね、有明は」
 あいつの名前は、時々こういう風にひょっこり出てきて、暫くの間俺たちを苦しめた。『有明』の意味を知ってからは、明け方にふと目覚めて、布団の上を照らす陽光を見る度にも苦しまされた。だが、それからさらに暫くして俺たちが高校を卒業する頃になると、明け方の空は俺たちを慰めるようになった。まるで、痛みからすっかり切り離された古傷が単なる勲章になるように。或いは、なんてことのない写真が大切なものになるように。人は忘れる生き物だから、と、有明自身が言っていた気もする。



 大学に入って二年が経ち、それぞれがそれぞれの環境に落ち着いた頃の事だった。高校時代の友人が、『有明の墓を見物しないか』と、誘ってきた。文系の大学二年生とは総じて暇な生き物だ。俺は二つ返事で誘いに乗り、結局、その話が出た翌々日、何人かで寂れた墓地を訪れることになった。
 有明の墓は小ぶりだった。有明家、とは刻んであったが、墓標には有明の名前しか無かった。どうやら、この墓には有明一人だけが眠っているらしい。
 残念ながら、俺達は墓石を拭いてやるほどマメな連中でもなかったので、とりあえず墓石を囲んで、眺めるだけ眺めることになった。
「墓だね」
「墓だな」
 墓だ、としか言いようがない。有明の名前が刻まれてはいたものの、それは只の墓だった。それはあまりにも硬く冷たく、有明らしさはどこにも無い。
 只の墓石の表面に、何かの花弁が張り付いて乾いていたのが目についた。墓石を拭くのを億劫がるのだからこの程度は、と思って、指の腹で擦り取る。
「マメだなー」
「このくらいはしたっていいだろう」
 墓参りにしてはあまりにも不真面目な仲間から揶揄いとも労いともとれない言葉が掛けられて、苦笑いを返す。
 多分、有明本人でも似たり寄ったりのコメントをするのだろうな、と、指にこびり付いた花弁の残骸を見て思った。

 墓参りっぽさを出すために、と誰かが持ってきた線香に火をつけ、供える。煙は風に煽られて一瞬、俺を包み込んで、すぐに鉛色の空に溶けて見えなくなった。この時初めて、俺は線香の煙の香を好ましい、と思った気がする。
 結局、その日はそれきり、有明のことは話題にちらりとも出ず、皆でいつも通りに浮かれて騒いで、いつも通りに解散した。後ろめたさが無かった訳ではないが、それ以上に、この方が有明が喜ぶだろう、という確信もあった。
 有明はそういう奴だった。



 有明の墓を再び訪れる気になったのは、感傷と退屈と気まぐれによるものだった。
 夏休みに入って大学の講義も無くなり、高校まで俺達を苦しめていた『夏休みの課題』も最早無い。べたり、と張り付くような余暇の中に一人取り残されて……恐らく、何か変化が欲しかったのだ。何でも良かった。しかし、たまたまその日、俺は珍しく朝……有明時に目が覚めて、なんとなく、それを天啓のように感じてしまったというだけだった。なんとなく体を動かしたい気がしたし、なんとなく外に出たい気もした。
 有明の墓は自転車で何とか行ける距離にあったので、散歩代わりに丁度良く、そしてその日は盆休みでもなく、有明の命日でも無かったから、気軽な散歩にはますます適していた。



 自転車を漕ぎ出して十数分で、帽子でも被ってくるべきだったか、と後悔することになった。八月の正午の日差しは容赦なく黒髪を焼いて、体力を奪っていく。これだから気まぐれで行動なんてするものじゃない。
 うっかり昼前に家を出てしまったことが災いして、日差しは真上から降り注ぐ。日陰も碌に有りはしない。有明の墓までは田園の続く田舎道だ。休憩する場所も無く、有明の墓までノンストップで自転車を漕ぎ続けて三十分程度。墓地に到着したころには消耗しきって、まともに頭が働かない状態になっていた。
 ……だからだろう。俺は、墓石に座る、有明を見た。
「え、どうしたのさ、別に今日お盆でも命日でもないのに」
 あまつさえ、そいつは、喋った。
「あ、墓石に触らないで。これ黒いでしょう、すっかり温まって、目玉焼きが焼けるレベルになってる。君の指先ぐらい、簡単にミディアムレアにしてくれるよ。あ、お供えしてくれるなら君の指のステーキよりは普通のお肉の方がいいです。っていうか肉よりは水とかの方が良いです」
 そう。喋ったのだ。如何にも有明らしい台詞を、如何にも有明らしい様子で。
「あーあ、君、汗だくじゃないか。こんなお日和に自転車漕ぎとは恐れ入る」
 さらに驚くべきことに、そいつはポケットからハンカチを出して、俺の額を拭った。ひやり、と、アルコールを含ませた脱脂綿のような、それでいてもっと乾いて、軽い感覚が額を撫ぜた。不思議な冷たさが心地良く、頭が回らないことも手伝って、しばらく俺は有明の成すがままになっていた。
「……お前、死んだんじゃなかったのか」
 有明のハンカチが俺の首筋にまで到達する頃になって、ようやく俺は言葉を絞り出した。絞り出した、という表現が似つかわしい、如何にも間の抜けた問いではあったが。
「死んだよ。葬式出た癖に何言ってるのさ」
 そして有明は、あっけらかんと、けろりと、天気の話でもするかのように救いの無い言葉を発した。
『死んだ』。知っているが。知っているが、改めて聞いても実感が無い。ましてや、それを本人らしい者の口から聞くなら尚更だ。
 あっけらかんと告げられた『死』について、俺は自分で聞いておきながら何と返せばいいのか分からず、そうか、とか何とか、何の意味も無い言葉を口の中で呟いた気がする。
「あ、そうそう、君に文句を言ってやらなきゃいけなかったんだ。ええとね、なんでフラワーロックンロール持ってきてくれなかったんだよ。湿っぽくってしょうがなかったじゃないか。それからなんで制服で来たんだ、面白味の欠片もない!どうせなら褌一丁で来るぐらいの気概を見せてほしかった!それから」
「もういい、わかった、わかったから黙れ」
 生前と同様に有明マシンガンが起動し始めたので両手を挙げて降参の姿勢をとれば、有明はそこで言葉を切った。俺は有明の視線を感じながら言葉を探して、ようやくなんとか、疑問の一つを口にした。
「俺の頭はおかしくなったのか? 」
 間が抜けている。さっきから俺自身でもどうかと思う程に間の抜けた言葉しか発していない。そんなことは自分でもよく分かっている。……原因は分かっている。未だ、目の前の有明らしい何者かをどう扱うべきか、決めかねているのだ。目の前の有明が自分自身の狂気が作り出した幻覚なのであれば、相手をするのも馬鹿馬鹿しいし、そうでないなら……或いは……そう考えてしまうから、俺は幻覚であろう有明を相手に間抜けな質問を重ねてしまうのだろうが。
「って言われても、狂人は狂人と自覚できない。ならば、狂人が狂人であることは多数決でしか決められない。ここには第三者がいない。ならば多数決は成り立たないから、君が狂ってるかどうかは判断できない」
 ああ、いかにも有明が言いそうなことだ。これを俺の頭が自動生成しているならば凄いことだな。
「で、お前は何だ。なぜここにいる」
「ここをどこだと思ってる? 自分の墓だぞ? そして、何だと問われれば、幽霊であると答えましょう」
 有明は墓の上で、道化師がそうするような大仰な一礼をして見せた。
「……なんて非科学的な」
「うん、自分自身が質量保存の法則だのエネルギー保存の法則だのを完全に無視していることは認めよう」
『非科学的な』とは、半ば、有明ではなく俺に向けた自嘲の言葉であったが、それにすら目の前の有明はそれらしく答える。
「お前、成仏できなかったのか」
「しなかっただけさ! 仏様になるより、幽霊やってたほうが面白そうだと思ったからね。実際は暇なだけだったけど」
 有明は墓石の上に片足で立って、そのままくるくる回りだした。危なっかしいようで、足は墓石に吸い付くように離れない。
「そう、幽霊になったはいいんだけど。……墓から離れられないんだな、これが」
 墓はこいつにとっての磁石みたいなものらしい。ある程度まで離れると、強く引っ張られるんだとか。
「だから話し相手もいないし、暇この上ない」
「待て、前に一回、俺たちが」
「ああ、集団で来てたね。うん。あれは楽しかった。……んだけど、ほら、一対一じゃないと、話せないらしくてね」
 ここまでくると、俺自身の頭が都合よくイかれていると考えるのが妥当なのだろうが……そう考えるには惜しいほど、有明の幻覚はよくできていた。そして、周囲には俺達の他に誰も居らず、また、俺は暇だった。
 ……だから俺は、自分自身の狂気に付き合ってやるのも悪くはない、と割り切って、目の前の有明と接することにしたのだ。



「そうかそうか。で、お前は普段何をしてるんだ」
「うーん、空を見てるだけだね。あと、踊ってる。いつかMPを吸い取れるようになるまで練習するつもりだ。あるいはいつか怪談になってやろうと思ってね。怪談・墓の上の幽霊、ってところか」
「そうか、がんばれ」
「ああ、あと、飛んでくる蝶々やトンボを捕まえたりもする」
「すり抜けないのか」
「時と場合と相性によるかな。アキアカネとクロアゲハには触れたが、シオカラトンボやモンシロチョウには触れなかった」
 君には触れるみたいだな、と、有明は手を伸ばして、俺の顔に触れた。もともと体温の低い奴だったが、前にもまして、指先はひやりとしていた。
「他に触れるものって、ないのか? 」
「墓石。あと、線香の煙。それから、坊さんの袈裟の裾から2センチまでと、あと、本日付で君が追加された」
 なるほど、それじゃあさぞかし暇だろう。
「じゃあ、そんな暇人にこれをやろう」
 鞄に入りっぱなしだったトランプを渡す。
「おお、これでソリティアができ……」
 しかし、トランプはするりと有明の手をすり抜けて、俺の手にぶつかって止まった。
「……ないのか。畜生」
 有明はいじけて墓石の上で膝を抱えて座り込んだ。
「ううう、暇だ……暇なんだ……幽霊って思った以上に暇だったんだよ……」
「……気の毒な」
 有明が死んで早2年半だ。その間ずっと暇をしていたのだとしたら、なんと気の毒な事か。
「逆に、なんで君には触れるんだろうなあ」
 トランプをすり抜けて、有明の指が俺の指に絡む。
「うわ」
「っととと」
 その感覚に驚いて思わず手を引っこめると、有明がそれに引っ張られて、一瞬、墓石を離れて宙に浮いた。
「……なあ、おい、今」
「うん。びっくりした」
 死んで以来初めて浮いた、と、有明は嬉しそうに笑った。
「……もしかして、俺が引っ張ったらお前、墓石から離れられるんじゃないのか」
 ちょっとやってみてよ、と促されて、もう一度強く有明を引っ張る。さっきより長く浮いたが、すぐ引っ張られて、墓石に戻ってしまった。
「何かに引っ張られる感じだな、これは。墓というより、その中の何かに」
 墓の中にあるもの、というと。
「骨か」
「骨だな。ちょっと試しに出してみて……あ、そうそう、そこの石をどかすと中が空洞でだなあ」
「いやいやいやいや、流石に墓荒らしは……まずいだろう」
 あまりにもあっさりと有明は言うが、つまりそれは墓荒らしだ。刑法に定められるところの墳墓発掘罪だ。
「その墓の主が許可するよ!それにね、今なら誰も見てやしない。……ということで、ささ、どうぞどうぞ」
 だが、俺の頭はどこまでもイかれているらしかった。なんとも都合のいい言葉に誘惑されて、俺は有明の墓を開けてしまったのだから。

 真夏の陽光に熱せられた石の板をシャツの裾越しに押してなんとかどかすと、冷えた空気がふわりと出てきた。そしてその冷えた空気と湿った土の空間の中に、白い、磁器の入れ物が1つぽつりと置かれていた。
「おお、これこれ。久々に見るなあ。あ、ちょっとそれ、出してみて」
 罪悪感は有明の嬉しそうな顔に掻き消されてしまって、俺はそっと、その冷えた骨壺を持ち上げた。
「オーライ、オーライ。よーし、そこにおいてくれー」
 有明の指示に従って地面に骨壺を下ろす。
「……おい、有明」
「うん。見たまへ。幽霊っぽいだろう」
 有明は、その骨壺の周りをふわりと漂って、くるりと一回転してみせた。
「浮いてるよ」
「浮いてるな」
 有明はそこらへんをふわふわ飛んでみて、骨の半径3メートル程度なら自由に動ける事が分かった。

 それから暫くの間、有明は嬉しそうにそこらへんをひらひら飛び回って、俺はそれを眺めながら会話する、という、酷く珍妙な事をやっていた。有明は生前同様、非常に楽しそうだったし、それを見ているのも悪くなかった。



「もういいか?戻すぞ、これ」
 そうしてだらだらとくだらない会話を続けている内に、ずいぶん時間が経っていた。証拠に日が傾いて、空が橙色に染まり始めている。そろそろ俺も帰宅する頃合いだろう。ならば、骨をこのままにしておくわけにはいかない。
「うーん……しょうがないか……君を墓泥棒にするわけにはいかないし……」
 渋々、といった具合ではあったが有明もそこを分かっていない奴ではない。有明が頷いたので、骨壺を墓に戻すことにした。
「……なあ、有明」
「ん?」
 だが、いざ骨壺を墓に戻す、という時にふと気になって……魔が差して、と言うべきか……俺は有明に尋ねた。
「骨壺、開けてみていいか」

 有明はきょとん、としていたが、特に何を言うでもなく、俺の傍にふわふわ降りてくると、骨壺の蓋に指を掛けた。が。
「あららっ?」
「……お前、自分の骨壺にも触れないのか」
「うん、まさかとは思ったけれどそのまさかだった。……じゃあ、うん、骨壺オープンはセルフサービスとなっております、ってことでまあ、どうぞどうぞ」
 有明はなんとも言えない顔をしたまま、すす、と骨壺から少し離れて俺に場所を譲った。
 俺は何か言うべきかとも思ったが、特に言うべき言葉も思いつかなかったので、黙って骨壺のつるりとした表面に触れる。そのまま蓋に指を掛けて、そっと力を込めると、蓋は案外簡単に開いた。
「……骨だなあ」
「骨、だな」
 そして当然の事なのだが、骨壺の中に入っていたのは骨だった。乳白色の欠片が静かにそこにあるだけだった。
「おー……実のところ、自分自身の骨を見るのはこれが初めてで」
「そうなのか」
「うん、葬式の記憶はあるんだけど、焼き場近辺での記憶って無くて……まあ、どう考えても焼き場の記憶ってグロいから、まあ、無くて良かったといえば良かったんだけどね」
 有明が感慨深げに骨壺の中を覗きこむ。骨壺を覗き込む有明の姿と骨壺の中身は似ても似つかない。元々は同じものだったのだなんて、想像もできないくらいに。
「うん、ま……正直、自分の四十九日だの一周忌だのよりも『死にました』って実感が湧いたよ」
 有明は苦笑いでもなく、しかし明るくもない笑みを浮かべた。
 骨は、俺が思っていたよりも白かった。



 それからやっと、墓の下に骨壺を戻した。
 冷たく湿った土の上に白い骨壺を置いて、幾分冷めたもののまだ温もりのある石の板を動かして元に戻す。それで有明の墓は元の状態に戻った。
「……おい、有明」
「ん?」
 しかし、1つだけ戻らないものがあった。
「なんでお前、墓から離れて浮いているんだ」
 墓から離れられないことを嘆いていたはずの有明は、俺の横でふわふわと浮いているのだった。……そういえば、墓石を戻す作業をしている時は俺の横で作業の様子を見ていたか。
「ん?……んんん、あれ、そういえばそうだね。なんで……あ」
 有明がきょろきょろ、と視線を彷徨わせて、足元の一点に視線を留めた。
「あー……これだ」
 有明の足元には指の爪ほどのサイズの白い欠片が落ちていた。
「さっき骨壺を開けた時に出ちゃったのか……」
「お前の骨か」
「うん。証拠にほら、これの周りでなら浮いていられる。さっきみたいにね」
 有明は墓に戻らずにそこでくるりと一回転した。
 ……ということは、この骨の欠片を戻すためにもう一度、墓石を動かさなくてはいけないのか。
 俺は再び行わなくてはならなくなった重労働を思ってげんなりし……それと同時に、俺の脳内で何かが囁いた。恐らく、悪魔とか、そういう類の、欲望に正直な何かが。
 ……こういう時の感覚を、魔が差す、というのだろう。
「俺がこの骨を持って歩いたら、お前も移動できるのか」
「さあ……そんなこと試したことも無いしなあ」
 なら試した方が早い。白く冷えた欠片を手に取って、二、三歩歩くと、有明はそれに付随してきた。
「おおー……こんなに墓を離れたのは墓に来てから初めてだ」
「そうだろうな」
 有明の骨の欠片はすべすべしていて、やたらと肌触りがよかった。空虚な白さは作り物めいて美しくすらあったし、軽さは俺をそそのかすに十分な理由となった。
 ……つまり、俺は衝動に負けたのだ。毒を食らわば皿までも、と、自分自身に嘯く。墓荒らしには、もうなった。そして、墓泥棒には、これから。
「なあ、有明。お前、家に遊びに来ないか?」
 骨の欠片を見せながら言うと、有明は酷くびっくりしたような顔をして、それからすぐに、満面の笑みを浮かべた。
「いいね!」
「じゃあ決まりだ」
 骨の欠片をポケットに入れて、歩き出すと、有明も後をついてきた。自転車に乗ると、後ろにちょこんと座った。
「おおー、自転車の二人乗りだ!これ、一度やってみたかったんだ」
 後ろから聞こえてくる声は明るく嬉しそうで、表情こそ見えないが、有明が笑っているのが分かった。
「まあ、生前はとてもマジメだったから二人乗りなんてやる機会が無かったわけけれど、幽霊となった今、道徳も法律も破ってやる!怒られたって気にしない!」
「怒られるって……そもそもお前、他の人に見えるのか?」
「見えないことが多い。すごく多い。正直坊さんにすら見えてないっぽい」
「じゃあ怒られるも何もあったもんじゃないな」
 道は長かったが、行きより帰りの方がペダルが軽く感じた。俺が墓泥棒になったその日は、夕焼けがとても綺麗だった。



 それから有明は俺の家に来て、俺と一緒にあちこちをふらふらするようになった。骨は俺の部屋の引き出しにしまっておいて、俺が出かけるときに出して、ポケットに入れて運んだ。
 有明は最初、俺の部屋をしげしげと興味深そうに眺めて、最初こそ遠慮がちにいたが、そのうち慣れたのか、勝手知ったる他人の部屋、と化し……俺がいない間に勝手に布団で昼寝していたり、本棚から本を抜き出して読んでいたりするようになった。不思議なことに、有明は俺の部屋のものなら触れるらしく、実に楽しそうに、勝手気ままに過ごしていた。他の人が部屋にいるときは、タンスの上やクローゼットの中で大人しくしているらしい。尤も、俺が居なくて有明だけ部屋にいる事なんて、殆どなかった。俺が外出するときは欠かさず有明の骨を運んだし、そうでないときは、大抵俺は部屋で有明と話したり、さもなくば、昼寝している有明を眺めたりつついたりして過ごしていた。



 夏休みも終わり、後期課程が始まると、有明は大学についてくるようになった。俺の隣の席(に置いた鞄の上)に座って講義を聞き、時々昼寝し、時々寝ている俺をつついて起こした。
 案外真面目に講義を聞いているらしい有明は、課題が出れば、俺と一緒にレポートの文面を考えてくれたりした。有明の記憶力は生前からかなりのもので、ついたあだ名は『目次』だったが、それは死んで幽霊になった今も健在らしい。
「有明、すまんが相続関係の項は」
「授業4回目のプリント2枚目だったと思うけれど」
「恩に着る。ところで六法だとそれ、何ページだ」
「ええええ……下一桁が6だったのは覚えてるけど流石にそれは覚えてないって……」
 ……と、こんな調子で、有明は非常に有能なサポーターとなった。
 もちろん有明の学力も知識も思考回路も、高校二年生で止まっている。しかし、一緒に講義を受けて、一緒に考えていれば、鋭い意見も言うようになった。大体は俺が教える側だったが……とにかく、生前もそうだったが、記憶力が凄まじいのだ。有明は。



 有明と過ごす日は、概ね楽しく過ぎていった。
 大したことはしていない。極々普通の、平凡かつ平穏な、そういう事をしていただけだ。
 俺と一緒に図書館で借りる本を選び、家に帰ると俺は俺の、有明は有明の読みたい本を部屋で読む(生前完結していなかったシリーズが完結していた、と喜んでいた)。
 時事問題について有明に教え(なんと言っても、有明が持っている情報のほとんどは二年半前で止まっているのだ)、意見を交わす。
 気になるらしい菓子を見つけたら買って帰り、部屋で開けて食べる。
 ……そう。有明は幽霊のくせに、一丁前に物を食った。尤も、食わなくても問題ないらしいが。
 本人曰く、「お供え物を食べられなかったら幽霊人生の価値が半減する!」だそうだ。
 ……ちなみに、有明が『食べた』ものは、別に消えなかった。本人は『食べた』と言うのだが、別に減りもしなければ消えもしない。ただし、若干……薄味になるような気が、する。



 終始こんな具合だったから、俺は生前の有明と接するように、有明と接した。有明は中々頭の切れる奴だし、話していて退屈ではなかった。有明の目に映るものは、俺が見る物より新鮮で斬新だった。
 ……そうして俺達はそんな状態のまま、しばらく、一緒に居続けたのだ。



 有明が俺と一緒にいるようになったのが夏で、そして季節は秋になり、冬の気配が漂い始めた。
 以前有明の墓参りに一緒に行った連中から、また有明の墓を冷やかしに行こうと誘われて、一も二も無く承知した。有明にその旨を伝えると、腹を抱えて大笑いした。有明曰く、『自分で自分の墓を参りに行くなんて、思いもしなかった!』との事だ。

 そして、有明の墓の前に、以前と同じ面子で立っていた。唯一違うことは、俺に有明が見えていることと、有明が墓から離れていること。
 前回と同じように、線香の束に火を付けて、線香が燃え尽きるまで、墓の前で駄弁っていた。その間有明は、線香の煙を触って軌道を変えて遊んでいた。
「そういえば、お前、痩せたな」
 有明と煙を眺めていたら、友人から唐突に声を掛けられた。咄嗟に頭が働かず、曖昧に笑って誤魔化す。
「何かあった?なんか変だよ」
「ああ、大丈夫。最近寝不足気味なだけ」
 寝不足なのは事実だった。大学の課題が終わらず、ここ最近は睡眠時間を削っている。尤も、『目次』たる有明が手伝ってくれるので多少楽ではある。
「本当に?ならいいんだけど。……なあ、本当に、悩みとか、ない?大丈夫?」
「大丈夫だって。そっちこそどうした?」
 いやにしつこい問いかけに、今度は明確な意図をもって笑顔を浮かべる。つまり、『安心しろよ』と。
「いや……大丈夫ならいいんだけどさ……お前と同じ大学の奴から、その、様子が変だって聞いたから」
 有明が体を固くするのが視界の端に映った。
「へえ?どんなふうに?」
 だが、俺は自分でも驚くほどに動揺しなかった。元々、表に出さないことは得意な性質ではあるが……それ以上に、そもそもの本心が、別段動揺しなかったのだ。
「何もないところを見ていたり、一人で喋ってたりするって」
「へえ、俺は幽霊にでも取りつかれてるのか?」
 有明が頭を抱えて宙に浮いているのを横目に冗談を飛ばすことができる程度に落ち着いている。そんな俺の様子を、有明が恐る恐る様子を窺っているのが可笑しい。
「いや、流石にそれはアレだけど。なんか疲れてるとか、悩んでるとか、そういうの、ない?」
「ないない。大丈夫」
 有明はほっとしたような、不安そうな、微妙な顔をしてこちらを見ていたので、ちょっとだけ口角を上げて応えると、有明は『こっちはいいからそっち向いてろ』というようなジェスチャーをして返してきた。
 その仕草も可笑しくて思わず笑いを噛み殺していたら、周囲に『いよいよこれはヤバいのではないか』と思われたらしい。
「……お前、一回医者行ったら?」
「冗談は止せ」
「冗談で済むか」
 呆れ混じりに、しかし真剣に俺に医者を勧める友人は、悪いやつではない。むしろ、とてもいい奴だ。だから未だに付き合いがある。
「本当に、大丈夫?」
 俺を案じてくれている視線にどう答えたものか、と考えて、視界の端にそっぽを向いて思案している有明が映った。今まで見た中で一番『幽霊らしい』姿だった。線香の煙と一緒に溶けて消えそうな。
「強いて言うなら……」
 そんな有明を見ていたら、自然と、発するべき言葉が決まった。
「病気だ。ただし、医者にかかっても無駄だし、温泉に浸かっても治らない奴だ」
 笑って返すと、友人は驚いたような顔をした後、すぐににやり、と笑って、それ以上追及しないでくれた。



「そろそろ墓に帰ろうかと思ってさ」
 有明の墓参りから数日後、有明は突然そんなことを言い出した。
「なんでまた。墓は暇でしょうがないんだろう」
「それはそうなんだが……うん、そろそろ満足したかな、と」
「よく分からないな」
 そう言いながら、俺は有明がそう言い出すであろうことはもう予想していた。
 墓参りに行ってから、有明の様子がずっと変だった。落ち着かないようだったし、俺が話しかけても無視して素知らぬ方へ飛んで行ってしまった。あまり外出したがらず、ずっと俺の部屋で膝を抱えていもした。有明が何を思っているのかは、なんとなく察しがついたが、しかし、俺は至って気づかない振りをし続けようと、墓参りに行った日から決めていた。
「……君の側にいることは、君の為にならない。君は今、どう見ても異常だよ」
 そして言い淀んだ挙句、有明はそう言って俯いた。
「俺はそうは思わない」
 俺自身、有明が来てから日常生活に支障をきたしている自覚はあった。友人に指摘されたことは正にその通りだと思ったし、そもそも、『幽霊が見えている』時点で自分の狂気は承知の上だ。
 それでもそんなことは、有明と天秤にかけたら吹き飛んでしまうぐらい些末なことだった。少なくとも、俺にとってはそうだった。
「狂人は自分が狂人だと認識できないんだよ」
「二人しかいなかったら証明できないんじゃなかったか?」
「二人しかいなかったら、ね。世界に二人きりって訳にはいかないだろう」
 世界に二人きり。しかも方や幽霊。狂気の沙汰以外の何でもないが、俺にとって実に魅力的な想定だと思う。
「俺はそれでも構わないが」
「あはは、そりゃ確かに楽しそうだけど。ね。駄目だよ。君はまだ生きてるんだから」
 有明は机の引き出しを開けて、そこにあった白い欠片を指さした。
「墓に返してほしいな。手間をかけるけれど」
 有明が俺から離れられないのは、有明が有明自身の骨に触れられないからだ。自分で自分に触れることすらできないとはね、と、寂しそうに笑っていたのはいつの事だったか。
「嫌だと言ったら?」
 有明は呆気にとられていたが、それも一、二秒の事で、やれやれ、というように首を横に振った。
「そんなことは言わないでくれよ、頼むから。なんなら墓までのタクシー代を請求してくれてもいい。ええとね、有明家の庭のミカンの木の下に、生前タイムカプセルを埋めたんだけど、その中に確かへそくりが」
「ああ、嫌だね」
 ふざけているのか真面目なのかよく分からない有明の言葉を突っぱねると、いよいよ、有明は泣きそうな顔をする。
「……ねえ、繰り返すけれど、君は生きてるんだよ。頼むから、こんな幽霊なんかの為に、人生を潰すような真似、しないで」
「悪いが、俺はその『幽霊なんか』を大切に思ってる。お前さえ良ければ一生このままでもいいとも」
「幻想だよ。そういう気がしているだけだよ。なんのアレか知らないけどね、君にとって大事なものはもっと他にあるべきだよ」
 有明は自分の骨の欠片に手を叩きつけた。当然のように有明の手は骨の欠片をすり抜けたが、有明が骨をすり抜ける時、微かに有明の輪郭が揺らいだ。
「何、実のところ、俺自身、病気である自覚はある」
「なら尚更だよ。医者に診てもらえ」
「いいや、無駄だな」
 ずっと言おうと考えていた。体育館が寒々と明るかったあの日から、その思いはもっと強くなった。だが有明は死んだ。もう居なかった。だからもう一生言うまいと思っていたら、有明はまた現れた。酷い奴だと思う。だから、多少捻くれた言い方になったって、許されるだろう。それに……幽霊相手だ。まさに病気だ。病だ。ならば、こう言うのが相応しい。
「お医者様でも草津の湯でもなんとやらは治せない、って、言うだろう」
 元はと言えば、いつだったか、生前の有明から聞いた言葉だ。
 そして有明は記憶力の凄まじい奴だから、すぐに分かったらしい。
「それ、は」
 有明は目を見開いて固まっていたが、数度瞬いて、ぎこちなくそっぽを向く。
「治る。精神科に行け」
 揚句、このセリフた。
「冗談きついな」
 実に有明らしいセリフだったが、もう少し……いや、何を期待していたのか、自分でもよく分からない。よく分からないが……有明らしいセリフは、有明らしいが故に、割とすんなりと、俺の中に受け入れられた。
「冗談きつい?君こそね」
 そして、有明は泣き笑いのような、苦い笑顔を浮かべた。
「……折角ならそれ、生きてるうちに聞いてみたかったな。そうしたら多少、成仏する方向に天秤が傾いたかも」
 有明はそう言ってからすぐ、口をつぐんだ。失言だった、とでも言いたげな顔をしている。
「なら言わなくて正解だったな。幽霊を家に招く機会に恵まれなかったかもしれない」
「……それから、幽霊にレポートを手伝わせることも、ね」
 多少茶化して続けると、有明はそれに乗った。その顔はどこか、ほっとしているようでもあった。



 それから少しの静寂の後、有明は目を閉じて言った。
「……うん。やっぱり、もう大丈夫だ。もう独りでも大丈夫。墓に帰してほしい」
 言ってから目を開いた有明は、穏やかな笑みを浮かべて俺を見ている。まるで、拒否されるわけがない、とでもいうように。
「帰すのが嫌だと言ったら?」
 そして俺も、言葉とは裏腹に、有明を引き留められないことを悟っていた。有明はこういう奴だ。自分で決めたら勝手にそうする。周りの気など、知った事ではない、とでもいうように。
「どうしても?」
「どうしても」
「そう。まあ、君がなんと言おうと、私はもう決めたんだ。ごめんね」
 それでも俺が突っぱねると、有明はやっぱり、そんなことを言う。
 知っている。お前はそういう奴だ。よく知っている。よく知っていた。
「うん。こうする、っていうのは、実は決めていたんだよ。君が墓に帰してくれたとしても、ね。君を墓泥棒にしたのは私だ。だったら、こんなふざけた事、終了させるのも私の方がいいな、って。うん。そうだ。君に世話になりっぱなしっていうのも、こう……なんか癪だし」
 有明は窓に近づくと、カーテンを開けた。しゃ、とやけに軽い音と共に、住宅街と窓枠に切り取られた狭い夜空が広がる。
「……うん。あれだ。あれ。えーと……そう、以って瞑すべし。以って、瞑す、べし。まさにそんな気分だ。言葉通りね」
 芝居がかった動作でくるりと俺の方を向くと、有明は笑顔で軽く敬礼してみせた。
「それじゃあ元気で。続きは……ま、あるとしたら、来世で」
「……ああ。お前も、元気で」
 有明は俺の言葉に笑顔で頷いて、窓を開けた。冬の夜の冷え切った空気が部屋に流れ込んだが、今は暖かいよりずっといいように思える。
 有明が何をしようとしているか、止める気はもう無かった。止められるとも思えなかった。
「どうか幸せに……健やかに……気にしないで……前向き……うーん……ああ、そうだ」
 有明は窓枠に片足を掛けてから、もごもごと何か口ごもり……泣き笑いのような笑顔で振り返った。
「私は君の事、嫌いだったよ」
 有明は言ったきり、俺の返事も聞かずに窓の外へと飛び出した。



 たったそれだけのことで、有明は消えた。窓の外を覗いても、オリオン座が輝いているだけだった。ぴしり、と音がしたような気がして振り向けば、机の引き出しの中で骨の欠片が砕けていた。
「有明」
 返事が無い事に違和感がある。この半年近く、呼べば必ず返事があった。なんてことだ。有明は本当に消えてしまった。
「こんな骨だけ遺されてもな」
 骨の欠片を拾い集めて、片手の掌に乗せて眺める。白くて軽くて、しかしそこに有明はもういない。勝手で楽天家で自由で妙な感性を持っていた、有明はもういない。



 ふと、思い出す。生前のいつだったか、有明が言っていたことだ。
「575は俳句。57577は短歌。そして、7775は都都逸と言うらしい」
 言ってから有明は、「どいつどどいつ、どいつどどいつ、どいつどどいつ、どどどいつ」と口ずさんだ。
「割と新しい歌の形らしくて、結構面白いんだ。……『三千世界の鴉を殺し、主と添い寝がしてみたい』とかは結構有名だけど」
 『結構有名』かどうかは知らないが、そのフレーズが高杉晋作だか桂小五郎だか……そのあたりの誰かによるものだということくらいは俺も知っていた。
「あと、『見えないものがあるのがいいの、みんな見たがる不幸者』とか、『主と私は玉子の仲よ、わたしゃ白身できみを抱く』とか……『お前死んでも寺にはやらぬ、焼いて粉にして酒で呑む』とか」



 有明はその記憶力によって、何かと変な知識を豊富に蓄えている奴だったから、そんなような事をよく生前教えてくれた。妙に良い語呂と、内容のインパクトの強さで、何より、それが有明の口から出た言葉だったから、俺の怠惰な脳にも焼き付いて、離れず残っている。有明は何と言うだろうか。いつものように、やれやれ、と言いつつ笑うだろうか。馬鹿なことをしている、と指をさして笑うか。それとも、怒るか。説教でも始めるのかもしれない。『骨なんてね、消化に悪い以外の何物でもないよ。胃に悪い。腸にも悪い。カルシウムの摂取なら小魚でも食べるがよい』とか。ああ、如何にもあいつが言いそうだ。
 片手に乗った骨の欠片を一度に口に放り込んで、がりがりと噛み砕く。力を込めれば、一度焼かれたそれは案外簡単に砕けた。
 粉っぽく味とも言えない味を味わいながら台所に向かい、流しの下から酒瓶を掴む。以前購入したはいいものの、焼酎というものが今一つ口に合わなかった為に、のろのろとしたペースでしか消費されていない代物だ。
 蓋を開けて、つるりとした瓶の口に口をつける。そのまま瓶を傾けて中身を骨と一緒に煽った。結局俺は、瓶に半分弱残っていた中身を全部一気に空けた。注釈を入れると、決して俺は酒に強くない。



 気づくと、自室の布団に居た。なんとか自力で辿り着いたらしい。我ながら大したものだ。二日酔いによるものか、それとも、開け放たれたままの窓から流れ込んだ冷気で風邪をひいたか、とにかく頭が酷く痛んだ。だが、人生の中でワースト3に入る目覚めでありながら、トップ3に入る目覚めでもあった。
「有明」
 返事はないが、もう違和感もなかった。ただ、ひたすら空しいだけで。
 窓の外では、もう空が明るんでいた。有明だ。有明時。群青の空の端、住宅街に断ち切られた空の端から、金色の光が雪崩れ込む。家の屋根も電線も、金色に照らされて、静かにたたずんでいた。
 これまでも何度か見て、その度に色々と感じていた有明時だったが、今回は今までとは大分違った印象だった。

 三年も経って、やっと、やっと有明が死んだ気がした。



 それからまた半年ほど経って、俺は例の友人たちによって、また有明の墓参りに召集された。
 梅雨入りしたはずなのに、その日は珍しくからりと晴れて、空は青色を覗かせていた。穏やかな空に艶やかな墓石が照らされて、風に卒塔婆がカタカタ歌う。
 俺達は墓石に向かう。そこに有明は、もういない。

「そういや、お前、アレどうなった?」
「アレ?……ああ、アレ、ね……」
 供える線香を準備していると、横から友人が声を掛けてきた。
 どこか好奇心と揶揄いに満ちた友人の顔を見る限り、『お医者様でも草津の湯でも』の奴の事か。
「振られた」
 なので正直に答えると、何とも言えない表情を浮かべられた。
「……ホントに?お前が?……なんか元気そうになったから、てっきり……ごめん」
「ああ、うん。気にするな。俺も気にしてない……というか……ま、吹っ切れた」
 申し訳なさそうな友人へのフォローの意味もあったが、吹っ切れたのも事実だ。
「そう……なら、いいけど。ま、新しい病気、また探せよ」
 病気、のところにアクセントを付けつつ、やや強めに肩を叩かれる。
「あー……いや、暫くいいかな」
 線香の束にライターの火を翳しながら有明の墓標を見て、やはりそうだな、と、自分で納得する。
「来世に期待って事で」
 線香の煙はふわりと伸びて、初夏の空に溶けて見えなくなった。

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