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返れない本

作者:高中まみ
 あなたが世界を股にかけて活躍していると、看護師さんから聞きました。警察でもいろいろ教えていただきましたが、はじめは他人の記憶を聞かされているようでした。
 事故のあと、わたしはとても難しい手術をしたそうです。頭を開いて、また蓋をしたと聞きました。手術のあと、少し視野が狭くなりました。見えるはずの存在が見えなくなるのは、とても不安なことです。
 わたしが目を覚ましたのは、病院のベッドの上でした。そのときの自分は、実体のはっきりしない、意識の雲のようでした。ベッドに何かのかたまりが横たわっている、という感覚が働きだしたのは、だいぶあとのことです。働きだしてもまだ、見て聞くだけの、きわめて複雑な機械でした。わたしは、ぼんやり白い壁と水色のカーテンを眺めていました。ずっと昔に、一度見たような光景でした。そのときふと、自分は女だと直感しました。
 巡回の看護師さんが、わたしの目が開いていることに気がつきました。わたしの名を二、三度呼んで、急いで病室を出ていきました。そのときはじめて、わたしと世界は再びつながりました。
 記憶喪失。それは架空の世界の出来事だと思っていました。いちばんはじめに戻った記憶は、あなたのことでした。思い出す努力をしなくても、夜が朝になるように、自然とよみがえってきました。やがて、衝撃の事実にたどりつきました。一緒に暮らすべき人がいたことだけでも、驚きだったのに。
 先日、看護師さんに、あなたの名を冠して開催された、コンサートの映像を見せてもらいました。長身で利発そうな青年が、堂々と楽器を持って、スポットライトに照らされていました。あなたの演奏を聴いたとき、一瞬で全身が感動に包まれ、涙があふれてきました。あなたはヴァイオリンの超絶技巧奏者になっていました。あなたが子供の頃のわたしには、まったく想像もつかないことでした。あなたはきっと、手が十の意識を持つほどに、修練を重ねたのでしょう。誇られる道理はない、と思うかもしれませんが、わたしは心から誇らしく思いました。
 あなたの父は、作曲家でしたね。血は争えないということでしょうか。彼が亡くなってしまったいま、わたしの元に残ったのは、何枚かの楽譜と、三葉の写真だけです。写真は見ましたが、そこに写っているのは上等な背広を着た、ただの知らない男でした。何の感情もともないませんでした。思い出したのは、味のない事実だけでした。あなたの父についての感情をともなった記憶は、永遠に思い出すことはないでしょう。
 わたしが事故にあったとき、バッグのなかには一冊の小説があったそうです。いまは手元にありますが、その本以外は一冊も小説がありません。普段わたしは小説を読まない人間だったようです。本は多少くたびれていますから、誰かに借りた本ではないでしょうか。
 先日、その小説を読んでみました。それは男と女の過ち、苦悩が描かれているものでした。わたし達をとりまく関係と、どこか似たところがありました。わたしは本のなかに、救いを求めたのかもしれません。
 あなたに会いたい。あなたに会って、話がしたい。でもそれはかなわないでしょう。世界中を飛び回っているあなたのもとにこの手紙が届くころ、わたしはもういないでしょう。
 わたしは末期がんにおかされています。記憶喪失から末期がん。主治医からこの話を聞かされたとき、とんだ笑い話だと思いました。実際、声を上げて笑ってしまいました。
 あなたの知ったことではないと思いますが、日に日にからだが重くなります。やせてゆくのに、重くなるのです。呼吸をするたびに、からだが痛みます。痛み止めはもう、水のようになってしまいました。
 20年前、やむにやまれぬ事情で、あなたとわたしは他人になった。わたしは、あなたを大人にすることはできなかった。本当は、あなたに謝らなければならない。でも、あなたがわたしのもとにいたら、きっと、いまのあなたの栄光はないでしょう。
 手放すことを選んだいまと、手放さないで迎えるいま、どちらが正しかったか、何度も考えました。いくら考えても、答えは出ませんでした。あなたに聞かないことには、答えは出ないのです。いいえ、そうでしょうか。あなたもわからない、と答えるような気がします。二重らせんのちからで。
 書きたいことは湧き出してきますが、終わりにします。長い手紙ほど退屈なものはありません。あと五行で便箋の最後の行ですから、きり良く終わらせます。死を目の前にして、やっと名乗り出よう、そう思った。でも遅すぎた。終わりを始める文章を書くことが、あまりにもつらく、苦しく、胸にせまるとは思いませんでした。
 昏睡は近いでしょう。せっかく取り戻した記憶が、死によって散らされてしまうのは忍びないことです。最後まで読んでくれてありがとうね。からだに気をつけて、お元気で。あなたは大事な大事な、わたしのたったひとりの息子です。

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