時は太平洋戦争末期、本土近海までアメリカに攻められて日本軍がむなしい徹底攻撃を行っている一九四五年七月の事だった。
すでに日本海軍の象徴である戦艦『大和』も沈み、もはや日本海軍は艦隊作戦ができなくなっていた。
そんな艦隊を動かせぬ海軍の主力は戦艦や空母ではなく特攻隊になっていた。
連日のように日本各地の基地から特攻機が出撃し、本土近海の敵艦隊に体当たり攻撃を行っていた。
もはや、日本軍に残されたのは、生きて帰れぬ死の攻撃――特攻しかなくなっていた。
そんな空を特攻機が舞う時代に、ひたすら敵艦隊を攻撃し続ける戦闘艦艇があった。
海の中を潜り、静かに忍び寄って敵艦に魚雷をぶち当てる艦艇――潜水艦である。
日本海軍の潜水艦は本土近海に現れる敵艦隊に接近して攻撃を加えていたが、それは微々たる戦果でしかなく、それにもはや日本の潜水艦の能力よりも米海軍艦艇の探潜能力の方が上を行き、近づく前に発見される事が多くなっていた。
もはや潜水艦も敵に一矢を報いる事はできなくなっていた。
だが、そんな潜水艦に大きな役目がもたらされた。
それは――特攻兵器回天を積んで海を翔ける事だった。
回天とは通称人間魚雷と呼ばれる酸素魚雷の大型化した物に人を乗せて発射し、敵艦まで誘導。その後搭乗員もろとも敵艦に体当たりする特攻兵器の事だ。
一九四四年最大の海戦――レイテ沖海戦の後、特攻兵器を主力とする反撃作戦が考えられ、回天もそんな中生まれて実戦に投入された。
回天の戦果は他の特攻兵器の中でも群を抜いて絶大な戦果を叩き出していた。
恐怖の海を進む米艦艇に、高命中率の強力な魚雷が突如放たれるのだ。
米海軍は特攻の用語に『カミカゼ』と並列して『カイテン』と載せるほど回天を恐れていた。
そんな米軍をも恐怖させる回天を載せた日本の潜水艦は海を翔け、自らの持つ魚雷の他、回天を遺憾なく発揮して米艦艇を撃破していった。
それが、大戦末期の潜水艦の宿命であった。
闇夜の海。そんな海の暗闇の中を一隻の潜水艦が進んでいた。
日本海軍伊五四型潜水艦――第五八潜水艦。通称『伊‐五八』潜水艦。
暗い海中を『伊‐五八』は進んでいた。その背中には数基の回天が搭載されている。
『伊‐五八』は比較的新しい潜水艦で、一九四四年九月七日に竣工したばかりの新鋭潜水艦だ。
そんな『伊‐五八』の狭い一室で、一人の十三、四歳くらいの少女がイスに座って黙々と本を読んでいた。
彼女の名は伊‐五八。この潜水艦『伊‐五八』の艦魂である。
艦魂とは艦の魂の化身で、その姿は若い女性の姿をしている。
そんな『伊‐五八』の艦魂である少女はひたすら本を読み続けている。その右側には何十冊の本が積み上げられており、逆に左側には残り数冊しか残されていない。
右の多くの本は今までに読んだ本。
左の少ない本はまだ読んでいない本。
「読み残すつもりだったのに・・・」
新たに本を読み終えた伊‐五八は少し寂しげにつぶやき、その本を右側に置くと、ため息交じりに言った。
新しい本に手を伸ばそうとしたが、それはやめた。もう残った本が残っていないのにこれ以上読んだら本当になくなってしまう。
伊‐五八は無表情で一度読んだ本のページをめくるが、すぐにつまらなくなって捨てる。
仕方なく本の整理をしていると、部屋のドアが開いて一人の少年が入って来た。
「ただいまイツヤ。何やってんの?」
少年は明るく声掛けるが、伊‐五八はそんな彼を一瞥するとすぐに本の整理に戻る。
少年はため息してさっきまで伊‐五八が座っていたイスに腰掛けた。すると目に付いたのは彼女が整理している本の山だった。
「あ、また一冊読んだんだ。これじゃ僕がいくら持って来ても足りないね」
少年は明るく伊‐五八に話し掛けるが、彼女は黙々と本を整理し続ける。そんな彼女に少年は再びため息した。
彼の名は一之瀬和真水雷少尉。この潜水艦『伊‐五八』の魚雷管制官を務める水雷士だ。
そんな一之瀬は伊‐五八の事をイツヤと呼んでいる。番号で呼ぶのは面倒なのだ。
ちなみにこのイツヤの名付け親は彼ではなく戦艦『日向』の艦魂だ。彼女は士官クラスの艦魂なのに水兵クラスの駆逐艦や潜水艦の艦魂と仲が良く、特に潜水艦の艦魂にニックネームを付けて呼び、イツヤもそのうちの一人だ。
伊‐五八――イツヤはようやく本の整理を終えると、一之瀬の横に簡易イスを置いて彼の隣に座る。
「な、なぁ。さっき浮上したんだけど、星がすごくきれいだったぞ」
「そう・・・」
たった一言で返されてしまい、一之瀬は三度目のため息をする。
一之瀬は『伊‐五八』はもう配属二ヶ月ほど経ったが、いまだにイツヤとの会話はギクシャクしていた。
彼女の事を知りたくて話し掛ける一之瀬に対し、イツヤは常に無口無表情でいつも話し掛けても無視され、たまに返事があっても今みたいに五文字以上で返す事はほとんどない。それにイツヤは常に読書をしており、無理に話し掛けると艦魂の力で突如金ダライを落とされるので、読書中は極力話し掛けないようにしている。
そんな彼女が一番喜んだのは今目の前にある大量の本を持ってきた時だ。
どうせ暇なら本くらい読ませてやろうと上陸のたびに色々な本を買って来てはイツヤにプレゼントした。
その時だけ、イツヤはほんの少しだが笑顔を見せて「ありがとう・・・」と彼には嬉し過ぎる言葉を言うが、それ以外は一度もそういう事はなかった。
一之瀬は黙っているイツヤを見て深いため息をした。
どうせ話し掛けても無視される。
彼の心にそんな諦めた思いが最近芽生え始めた。
仕方なく一之瀬は狭い部屋の上に吊るされたハンモックに上り、そこで不貞寝をする事にした。
そんな一之瀬を一度だけ見ると、イツヤは静かに消えた。それを見て、一之瀬はまたため息した。
星空の下、イツヤは甲板にいた。
きれいな南十字星を見上げ、イツヤは少し笑顔を浮かべていた。
「きれい・・・」
そうつぶやいた声には明らかに嬉しそうな感情が込められていた。
しばし美しき天空の宝石達を見上げるイツヤだったが、ゆっくりと視線を落として悲しい目をした。
その先にあるのは――回天だった。
黒塗りの大きく細長い小型の潜水艇に思わせるその身は、人の命を犠牲にしてこそ初めてその力を発揮する日本潜水艦の切り札。だが、そんな物で敵を沈めても、潜水艦の艦魂は喜ばない。
潜水艦は敵に見つからずに忍び寄り、一撃で敵を葬り去るのを目的とする海のスナイパー。
威風堂々と艦隊決戦を行う他の軍艦や艦艇とは違って目立たぬ存在。だが、それでも潜水艦には潜水艦の誇りがある。
自らに搭載された魚雷で敵を沈める。
日本海軍の持つ酸素魚雷は当時最強と言われる魚雷である。その大切な魚雷を無駄にする事なく敵艦を海の底に引きずり込むのが、潜水艦の責務であり、誇りだ。
だが、こんな自ら敵に突っ込むという潜水艦の能力を無視し、あまつさえ若き命を一瞬で無駄にするこんな兵器など、誰が望み、誰が喜ぶものか。
イツヤは回天を見詰めるのが辛くなり、視線を逸らした。すると、再び明るい星空を見た。
光り輝く星空を見上げるが、イツヤは別の事を考えていた。それは、
「一之瀬・・・」
その名を漏らした瞬間、彼女の表情が嬉しそうに微笑した。
本当はもっと彼と話したい。彼と一緒にいたいと思うが、なかなかそうする事はできない。
彼女は無口で表情を変える事があまりできず、実の姉にさえ一歩引いた態度で接するほど他人と接するのが苦手なのだ。
基本的に潜水艦の子は引っ込み思案の子や無口、恥ずかしがりやな子が多いが、その中でもイツヤは特にひどいのだ。
初めて会った時、一之瀬は盛んに自分に話し掛けてくれた。本当は嬉しくて自分も何か返事をしたかったが、口が動かなかった。
他人と接するのが苦手でいつも逃げて来た彼女にいきなりそんな超ハイレベルな事をしろと言う方が無茶な話だ。
結局何も話せず、ほとんど返事もする事もなかった。
それからもずっと一之瀬は自分に話し掛けてくれた。
あんなに優しい人なのに、自分はそんな彼に正直になれない。それがとてももどかしい。
さらに最近、一之瀬はだんだんと自分の傍にいる時間が短くなり、会話も減り始めていた。明らかに一之瀬が諦め始めている証拠だった。
このままでは、いずれ彼は自分から離れてしまう。そんな事を考えると、不安で胸が引き裂かれるような痛みが走る。
そんなの絶対に嫌だった。でも、自分には何もできなかった・・・
元々彼は巡洋艦か駆逐艦の水雷士になりたかったらしい。だが、もはやほとんど動く事のない水上艦より頻繁に動き回る潜水艦になかば無理やり配属されたのだ。
来たくもなかった潜水艦の水雷士として彼はがんばり、自分にも優しく接してくれている。だが、それなのに自分はそんな彼を受け入れきれていない。それが辛くて、悲しい。
星空はあんなにも輝いているのに、自分は暗闇のように暗い。
いつか彼と楽しい会話をしてみたい。
それが、イツヤの胸に秘めた願いだった。
星空の下、少女は本当は大好きな少年を想った。
その瞬間、空に星が流れ、イツヤは願いを込めた・・・
翌日、一之瀬は艦内の巡回をしていた。
潜水艦というのは非常に暮らしにくい艦艇だ。
他の水上艦と違って水中に潜るので開放できる窓やドアが異常に少なく、通気性が恐ろしく悪い。その結果艦内は南海なら艦内温度が四〇度を超え、湿度はほぼ一〇〇パーセント。その上潜航すれば完全に通気性はなくなり、空気清浄機や送風機はあったが、あまりにひ弱だった。
さらにこれまた他の水上艦と違って体を洗う事ができず(水上艦でもドラム缶風呂に数秒浸かるというのが一ヶ月に一回か二回、濡れ手ぬぐいで体を拭くのも一週間に一回と最悪だったが、潜水艦はそれすらない)、いつも体臭が艦内に漂っていて臭い。しかも敵に近い時は音で探知されないように不要な機械は全て止められてしまうので、その時の臭いはもう・・・
他にも潜水艦は他の艦艇のように飯を作る事が少なく、基本的に缶詰生活を送っている。
あまりにもひどい環境に海軍上層部も配慮し、潜水戦隊には潜水母艦が用意されている。
潜水母艦と言っても空母みたいに潜水艦を収納するのではなく、普通の艦船、しかも客船改造なので居住性は最高。
兵達はそこで豪華な料理や娯楽を楽しんで快適に過ごすが、そんな事戦時中はほとんどなく、しかも今の日本に戦隊を組めるだけの統率力はない。だからこそ『伊‐五八』はこうして単独で敵地に向かっているのだ。
そんな軍艦や艦艇で最も過ごしにくい環境の中、一之瀬も最初は悲鳴を上げていたが、人間とはこんな悪い環境でも対応できるらしく、今ではほとんど気にならなくなっていた。
だが、潜水艦生活に慣れていない者にとっては地獄でしかない。
「おい、まだ浮上しないのか? 早く外の空気が吸いたいよぉ」
どこからともなく漏れた声、それは回天乗組員のものだった。
まだ自分とほとんど変わらないくらいの年の少年達が鼻を詰まんで愚痴を言い合っていた。そんな彼らを、一之瀬は悲しげに見詰めていた。
彼らは敵艦を発見したら回天に乗って出て行き、敵艦に体当たりする。そんな彼らに少しでもいい環境を与えてやりたいが、潜水艦というのはどこもほとんど変わりない。
水上艦では兵達と士官や艦長の待遇はかなり違うが、潜水艦では皆ほとんど平等だ。そんな中で一介の水雷士でしかない自分には何もできないのだ。
残り少ない命の中ふざけ話に花を咲かせる彼らを、一之瀬は尊敬し、そして無念の思いで見詰め、その場を去った。
巡回を終えて艦橋に戻ると、『伊‐五八』艦長橋本以行証左が浮上命令を出した。
約十二時間ぶりに『伊‐五八』は浮上し、太陽の光を浴びた。
乗組員達は甲板に出て日の光を存分に味わった。その中には一之瀬の姿もあった。
風が吹き、体全体で風を感じる。
本来配属されるはずだった水上艦ではこんな風は当たり前だが、潜水艦の乗組員にとっては宝とも言えるものだった。
本当に嬉しそうな顔で風を受け、太陽の光を浴びる彼を、遠くからイツヤが見詰めていた。
やはり彼は水上艦に配属されたかったのだ。
そんな彼の想いを感じ、イツヤの表情はいつになく悲しげに揺れた。
本当は自分なんかに配属されたくはなかったのだ。それなのに、任務だから無理に配属された彼を、イツヤは正視できなかった。
その後もしばらく浮上航行を続けたが、一時間もしないうち敵索敵機が現れ、『伊‐五八』は慌てて潜航した。
その夜、珍しく早く仕事が片付いた一之瀬は部屋に戻った。すると、そこにはいつもと変わらずイスに座って読書しているイツヤがいた。
「ただいま」
「・・・」
いつもどおりあいさつはしたが、やっぱり無視された。
本当は何か話そうと思ったが、読書中に話し掛けると怒られるのでそれはやめた。
仕方なく、少し疲れていたのでハンモックに上がって横になった。
もう寝よう。
一之瀬がそう思って目を閉じてからしばらく経った頃、突如信じられない事が起きた。
「い、一之瀬・・・」
イツヤが突如一之瀬に話し掛けたのだ。だが、せっかくの状況なのに一之瀬は動かなかった――いや、動けなかったのだ。あまりにもあり得ない状況に彼の感覚が麻痺したのだ。
そんな状況下にある一之瀬に気づかず、イツヤは再び声を掛ける。
「一之瀬・・・? 聞こえてる?」
だが、返事はなかった。
イツヤは一之瀬がもう寝たと判断し、仕方なく声を掛けるのをやめた。だが、その瞬間ようやく呪縛から解放された一之瀬が起き上がった。
「な、何?」
いつになく上ずった声で返答すると、イツヤは少し驚いた表情を見せた後、すぐにいつもの無表情に戻す。
「あ、あの・・・」
「最近どう? 仕事の方は?」
「え? あ、うん。順調」
「そう」
「うん」
「・・・」
「・・・」
会話が止まった。
まだ二〇秒も経っていないのに会話は終わってしまった。
いざ話し掛けても何を言ったらいいかわからないイツヤ。
いざ話し掛けられても何と応えればいいかわからない一之瀬。
二人は互いを見詰め合いながらも沈黙し続けた。
その殺人的な無意味な間に二人が限界を感じ始めた頃、ようやく一之瀬の方が口を開いた。
「は、初めて僕の名前呼んでくれたね」
「そ、そうだっけ?」
「いつもなら無視するか「うん」、「そう」とかでしか返してこないからさ」
「・・・ごめん」
「べ、別に君が謝る事じゃないよ!」
慌てて取り繕うが、一度言った事を訂正するのはなかなか難しく、一之瀬は応急処置として話題を変えた。
「呉を出てからもう一ヶ月近く経つよね」
一之瀬の言葉に、イツヤはゆっくりとうなずいた。
「そうだね・・・」
「・・・」
「・・・」
再び会話が止まってしまった。
一之瀬は何か話題がないかとあたふたしていると、突如イツヤが時計を見て表情を固くした。
「い、イツヤ?」
「時間だ・・・」
「え?」
一之瀬も時間を確認すると、表情が固くなった。そのすぐ後に『前方に友軍艦!『伊‐五三』と思われる! これより浮上する!』という放送が艦内に流れた。
実は『伊‐五八』は『伊‐五三』と合同で敵艦隊に接触して回天を出撃させる役目を持っており、合流海域に向かっていたのだ。
浮上した『伊‐五八』は横の潜水艦に向かって『我『伊‐五八』』と発光信号を送った。するとすぐに『我『伊‐五三』。貴艦ノ誘導ニ従ウ』と返答があり、二隻は再び海に潜った。
二隻の潜水艦は敵がいると思われる海域に急行。翌日の昼には海域に到達。『伊‐五八』に搭載されている水上機を使って偵察を行うと、近くに敵水雷戦隊を発見した。
二隻はその敵艦隊にギリギリまで迫ると、回天を出撃させた。
回天乗組員は潜水艦の乗組員達に敬礼して回天に乗り込み、出撃した。
二度と帰れぬ覚悟をしながら・・・
出撃していく回天隊を、潜水艦の乗組員達は軍帽を振って見送った。中には涙を流す者もいた。
見送る中には、苦しそうに顔をゆがめて見詰める一之瀬と無表情の中にも辛そうに唇を噛むイツヤもいた。
やがて回天は潜水し、二度とその身を海面に上げる事はなかった。
回天隊は敵駆逐艦数隻に激突。そのうち三隻を轟沈させ、二隻を航行不能、二隻が大破、他数隻損傷という壮絶な戦果が水上機から報告された。
回天を放った二隻は別行動の為に別れ、再び『伊‐五八』は孤独の海を進み続けた。
甲板に置いてあった回天は全てなくなっていた。それは同時にその数の若い命が失われた事を意味していた。
イツヤは何もなくなった甲板を見詰め――静かに涙した・・・
回天を出撃させて数日後の七月二九日の真夜中、『伊‐五八』は暗闇の中フィリピン海を通過していた。
いつものように水雷士として魚雷発射室で魚雷の点検を行っていた。本当はこういう仕事は水兵達に任せるものだが、一之瀬は自分から進んでこれを行っていた。
潜水艦の魚雷は他の水上艦よりも大きい。
魚雷、機雷、爆雷に精通する水雷士である彼は、魚雷を見ているのが結構好きなのだ。
今日も今日で消耗品である魚雷をきれいに雑巾で磨いている。
「熱心なんだね」
突然の声に驚いて振り向くと、そこには感心した目で自分を見つめるイツヤがいた。そこで再び驚いた。そのせいでバランスを崩して見事に後頭部を壁に強打してその場にうずくまった。
「くぅ・・・っ!」
「だ、大丈夫!?」
イツヤは慌てて駆け寄る。すると、いつもは優しげに微笑む彼の表情が本気で痛そうにゆがみ、目の縁には涙まで浮かべていた。
「ご、ごめん! 驚かすつもりはなかったんだ! 痛むのか!? 大丈夫か!?」
いつも冷静なイツヤもこの状況にはあり得ないくらい動揺していた。
一之瀬はそんなイツヤに「ちょっと・・・痛みが引くまで・・・」と言ってしばし沈黙した。すると、一分ほどで顔を上げた。その表情は幾分か楽になっていた。
「いてて、いきなり現れるからビックリしたよ」
「ご、ごめん」
「謝るなって。別にイツヤが悪い訳じゃないんだし」
「でも・・・」
「それよりこんな所に何の用?」
一之瀬は立ち上がるとそう質問した。当然だ。ここは彼女が来るような理由が見当たらないのだ。
一之瀬の質問に対してイツヤはじっと彼を見詰め、ゆっくりと口を開いた。
「一之瀬を捜しに来た」
「僕を? 何でまた?」
「そ、それは・・・」
イツヤはうつむく。その時の彼女の表情は真っ赤に染まっていたが、一之瀬にはそれが見えない。
「本が読み終わったのか? でも内地に戻らないと補充はできないよ?」
「そ、そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
一之瀬は不思議そうに首を傾げる。
イツヤは意を決して顔をもたげる。
「一之瀬と話がしたくて」
「ぼ、僕と?」
この予想外の返事に一之瀬は慌てる。まさか彼女からそんな言葉が聞けるとは思ってもみなかったからだ。
「だ、ダメか?」
「だ、ダメじゃないけど・・・何でまた突然」
「だって・・・今まで何も話できなかったから・・・」
「そ、そう・・・」
一之瀬はそう答えると、その場に腰掛けた。その横にイツヤも座る。すると自然と肩が寄り添い合うが、二人は別に気にする事はなかった。
最初に話し始めたのはイツヤだった。
「一之瀬はどこの出身なの?」
「僕は横須賀だよ。そこの海軍航海学校に入学してね」
「へぇ、私も横須賀海軍工廠で生まれたんだ」
「そう言えばそうだね」
会話は予想以上にスムーズに進んだ。意外にも二人の好みは一致して楽しい会話が続いた。その為話を終えた時に予想外に時間が経っていた事に二人して驚いた。
「やばい。これ以上遅れたら艦長に怒られる」
「うそ、なら私が転送してあげる」
「本当? 助かるよ」
一之瀬の嬉しそうな笑顔にイツヤは静かに微笑んだ。だが、その時すでに艦橋では緊急事態が起こっていた。
転送しようとした二人の耳に突如警報が響いた。それは対艦戦闘用意の警報だった。
「敵艦が現れたのか!?」
「急ごう!」
イツヤは一之瀬を連れて急いで艦橋に瞬間移動する。するとそこでは兵達が慌しく狭い艦橋を動き回っていた。
「艦長!」
「一之瀬水雷士! 遅いぞ!」
橋本の元に一之瀬は慌てて駆け寄る。
「一体何が起きたんですか!?」
「敵大型艦が前方にいるんだ!」
「本当ですか!?」
驚く一之瀬の横でイツヤは静かに目を閉じた。
この『伊‐五八』は彼女の体だ。今潜望鏡が上がっているなら自分の目として使う事ができる。
彼女が見た光景は、暗闇の中を一隻の大型艦が走行している姿だった。
「本当だ。敵大型艦・・・あの大きさは戦艦かもしれない」
「戦艦だって!?」
「すぐに魚雷発射用意! 一之瀬水雷士! 何をぼさっとしている! 早く魚雷管制室に行けッ!」
「は、はいっ!」
一之瀬は慌てて艦橋を飛び出す。その後をイツヤも続く。
小さな潜水艦の中では移動時間はそんなにかからない。一之瀬はすぐに魚雷管制室に着き、自分が座るべき席に座った。そのまわりにはすでに数人の彼の部下が配置に付いていた。
「遅れてすまない! 魚雷発射用意は!?」
「すでに完了しています!」
「さすが僕の頼れる部下だ!」
一之瀬の笑みに部下達も笑みを浮かべる。
『魚雷発射管六本開け! 一斉発射できる全本を使うんだ!』
艦長の指示どおりに一之瀬は六つの魚雷発射管の開閉口を開く。開かれた発射管は水が入り、空気が泡となって吹き出る。
「確実に仕留めるよ!」
『はいっ!』
部下達は彼の手元を見詰める。そこには彼が押すべき魚雷発射レバーがあった。彼がこのレバーを押せば六本の魚雷が発射される。
レバーのグリップを握る彼の手の上に、イツヤの手が重ねられた。
「一之瀬。信じてるよ」
「あぁ、任しときな」
イツヤの想いに応えるべく、一之瀬は橋本の発射命令を待った。
不気味な沈黙の中、彼が待ち望んでいた声は爆音のように響いた。
『魚雷発射ッ!』
「食らえッ!」
一之瀬は力いっぱいレバーを押した。
その瞬間、六つの魚雷発射管から次々に魚雷が撃ち出された。
全員の顔に緊張が走る。
長い沈黙の中、一之瀬とイツヤの手は互いを握り合っていた。
そして、不気味な沈黙が一分ほど過ぎた瞬間、水中を伝わって鈍い爆音が響いた。
『魚雷三本命中!』
艦長の声に一之瀬達は歓喜した。
「やったなっ!」
一之瀬はイツヤを抱き締め、イツヤも彼を抱き締めた。
橋本の目にはゆっくりと艦首から沈む敵艦が見えた。だが、敵は他にもいるかもしれない。
橋本は再び深く『伊‐五八』を沈めた。だが、しばらくして水面に上がると、そこには何も浮いてはおらず、敵艦は海の底に沈んでいた。
歓喜する乗組員達の中、橋本はすぐに敵艦の写真集を取り出して今自分達が沈めた敵艦の艦種を調べ、本土の連合艦隊司令部に打電した。
――アイダホ型戦艦一隻撃沈セリ――
実はこれは誤認で、沈められたのは戦艦ではなく重巡洋艦『インディアナポリス』だったが、この『インディアナポリス』撃沈の報はアメリカに大きなショックを与えた。
実はこの『インディアナポリス』はハワイからテニアン島に後に広島、長崎を滅ぼした悪魔の兵器――原子爆弾を運んだ帰りだったのだ。
核兵器輸送計画が日本に漏れていたのではないかという疑問を持たせた。
だが、そんな事『伊‐五八』の乗組員達は知りもしない。そもそも当時の日本にそんな情報収集力がある訳がない。
後日談だが、『インディアナポリス』の乗組員達は六〇〇名生きて海に浮かんでいたが、うち半分が助かる前にサメに食われて死んだ。この悲報にアメリカで大論争が起こり、戦後橋本はアメリカで裁判に立った。だが被告は彼ではなく『インディアナポリス』艦長だった。彼は魚雷回避運動を怠ったと訴訟され、有罪を受けた。その後彼の非難はすさまじく、一九六八年に自殺している。
一方橋本ももっと早く自分が『インディアナポリス』を沈めていれば、原爆投下はなかったのではないかと自責し続け、二〇〇〇年に九〇歳でこの世を去った。
そんな戦後の話など、今の彼らは知らない。
今の彼らの前にあるのは、自分達が起こした大いなる戦果だった。
その夜、『伊‐五八』では豪華な夕食が振舞われた。豪華と言っても水上艦なら当たり前の炊き出しだが、潜水艦の乗組員達にとっては豪華な食事なのだ。
皆自分達が戦艦(誤認だが)を沈めた事に喜びを感じていた。
だが、そこに敵艦を沈めた魚雷を発射した者と引き金を引いた者はいなかった。
一之瀬とイツヤは浮上した甲板に腰掛けて月を見上げていた。
「きれいな夜だな」
「そうだね・・・」
二人の肩は完全に密着し、月に照らされる影は一つの影となっていた。
二人の表情はどちらも笑顔だった。と言っても、イツヤはほんの少し唇が柔らかい弧を描いているだけだが、
「敵戦艦を回天の力を頼らずに撃沈できたのは、あなたのおかげ」
「そんな事ないよ。実際に艦首を敵艦に向けたのは艦長だろ?」
「でも、その引き金を引いたのは一之瀬」
「僕一人じゃないだろ? お前も一緒だった」
「・・・そうだね」
一之瀬は渇いた喉にラムネを流し込み、真剣な瞳で月を見上げた。
「戦争はもうすぐ終わる――日本が負けてね」
「そうね。特攻なんて攻撃をしている日本は、もう負けるしかない」
「・・・でも、負ければお前ともお別れになるんだな」
「敗戦した国の軍艦は解体される。それが運命」
「お前はそれでいいのか?」
「いいも何も、それは避けられない運命だ。でも、私は少し嬉しい。戦争は何も生まず、破壊するだけ。でも、その戦争に生きるただの兵器でしかない私は、戦争が嫌でも戦うしかない。戦ってこそ、私の存在価値がある。でも、戦いは嫌い。だから戦わなくて済むなら、それでいい。私は平和な世では役に立たないただの兵器なのだから――」
「――バカヤロォ・・・ただの兵器が・・・涙を流すか」
彼に言われて初めて気が付いた。
――自分は、涙を流しているのだと――
「・・・私、泣いてたんだ・・・」
「自覚持てよな」
「・・・ごめん」
小さく震えるイツヤの肩を、一之瀬はそっと抱き締めた。
今も自分の腕の中で泣き続ける彼女の運命は変えられない。でも、運命は変えられなくても、その過程は変えられる。
結果が全てじゃない。
今自分の腕の中にいる小さな肩の少女の死が変えられなくても、せめて死ぬまでは幸せにしていてやりたい。
彼の気持ちを感じ、イツヤは涙を流し続けた。
星空の下、二人の若き命は互いをその身で感じ合いながら、過ごした。
今を生き続ける。
それが、今の自分達にできる最善だと胸に刻みながら・・・
そして、日本は敗戦した。
連合国総司令部(GHQ)が日本に乗り込み、日本軍の解体を行った。
戦艦『榛名』『伊勢』『日向』がまだ広島湾に廃墟としてその身を晒している頃、武勇の潜水艦『伊‐五八』は米軍の手で一九四六年四月一日に海没処分が決定された。
艦内に仕掛けられた爆弾が炸裂した瞬間、少女は真っ赤に染まった。
だが、一瞬苦悶にゆがんだ表情は、すぐに小さな笑みを灯し、静かに最期の言葉を漏らした。
「・・・一之瀬」
自分が心から思える相手の名だった。
今思えば、自分は彼を愛していたのかもしれない。
だが、今となってはそれもわからない。
体中に入ってくる海水がそんな彼女の思考を停止させる。
そして、少女の意識は完全に途絶え、潜水艦『伊‐五八』は蒼い海にその身を沈め、永遠の眠りについた・・・
そして、時は流れた。
朝鮮戦争勃発に伴いGHQは日本に海軍を設置。日本国憲法の平和憲法に反しない為に海上自衛隊と命名され、戦後の新型艦建造を開始し、ここに新生日本海軍――海上自衛隊が発足した。
徐々に戦力を持ち始める海上自衛隊は水上艦だけでなく潜水艦にも力を入れていた。そしてついに、日本海上自衛隊の新鋭潜水艦が完成した。
前級おやしお型潜水艦はあくまで訓練艦。今回完成したはやしお型潜水艦は戦後日本が開発した最新鋭潜水艦だった。
そんなはやしお型潜水艦一番艦『はやしお』は多くの者に祝福されて竣工した。
歓迎セレモニーの音楽と紙吹雪舞う中、一人の男が新鋭潜水艦の天辺にいた。それはこの『はやしお』の艦長であった。
威厳ある顔つきで立つ彼の横には、かわいげな少女が立っていた。
「はやしお。これから先頼むぞ」
「はいっ! よろしくお願いします一之瀬艦長!」
『はやしお』の艦魂に艦長と呼ばれた男は柔和な笑みを浮かべた。それは昔とちっとも変わらない優しげな笑みだった。
男は蒼い海を見詰め、そっと笑みを浮かべた。
「イツヤ。俺はついに潜水艦の艦長になったぞ。見ているか?」
優しげな笑みを浮かべる新鋭潜水艦『はやしお』艦長――一之瀬和真三等海佐は、蒼い海をいつまでも見詰め続けていた・・・ |