魔法使いの解決方(2)
目が覚める。少々固いベッドのせいか、体の節々に痛みを感じてしまうが、体調や体の動きに問題が出る程の物でも無かった。
昨日は早めに寝たおかげで、起きること自体は苦で無い。クルトはベッドから体を引きずり出し、背を伸ばした時点で、腕や足など、他の部分も伸びをさせる。旅の最中は、こう言った体の柔軟が大切になってくる。これをしない場合に比べて、身体の疲れや感覚が大幅に違うからだ。
「よし、あんまり時間を掛けると、また村人が宿に集まりかねないし。もう出発しよう」
一通りの動きを終えて、今度は宿を出る準備をする。フィルネには起きてこなかったら起こして欲しいと伝えているが、今回は問題なく起きた。なので、その事を報告してから宿を出た方が良いだろう。
部屋を出て、宿の二階から一階へ降りる。さすがに宿の主人だけあって、フィルネは既に朝食の準備を始めていた。
「あら、おはよう。随分と早起きなのね。まだ他の人たちがくるまで時間があるけど」
どうやら、クルトが出来る限り眠れる様に気を使ってくれたらしい。クルトを起こす予定は、もう少し遅かったのだろう。
「仕事場所が森の中なんだよ。まだ日が完全に出て無いけど、ここを出て森に着く頃には、良い感じになってるでしょ」
「そうね、日が落ちた後の森は危険だし、仕事があるのなら朝から昼に掛けてした方が良いかも」
夜の森と言うのは、その暗闇もさることながらそこに棲む危険な生物達も活発化し、危険である。森に用があるのなら、日が出ている内に行って置く方が無難なのだ。
「朝ごはんの準備がまだなんだけど、どうする? 軽い物だけでも作って置こうか?」
既に宿代を払っているだけあって、サービスが行き届いている対応をしてくれる。とりあえず、手軽に口に含める物を頼み、昼食用の携帯食をいくつか買わせて貰った。これらの経費は、後で師に請求するつもりである。
「森自体は、結構迷いそうな場所なの?」
森の中での仕事だけあって、やはり方向を間違い遭難する危険性がある。とりあえず、森へと進む前に、情報があるなら聞いておきたい。
「定期的に木こりが木の剪定をしてるから、まっすぐ進む事に危険性は無いわね。だけど同じ種類の木が立ち並んでいるから似たような風景ばっかり、一旦、方向を見失うと、元の場所を見つけるのは大変よ。方位磁針は持ってる?」
「そりゃあ勿論」
これは自分の持ち物でなく、師から旅道具として借り受けた物だ。他にも幾つか探索用の道具を、今回の仕事をするために貸して貰っている。
「なら大丈夫。ここの村人達が結構頻繁に出入りしているから、迷う以外の危険は無いと思う」
フィルネのお墨付きを貰い安心する。いくら魔法を使えると言っても、なんでも出来る訳では無いのだ。どこから危険が襲ってくるか分からない場所なら尚更。
森の中は予想以上に明るく、方向を間違えると言う事も無さそうである。本来、鬱蒼とした森は日の光を遮る物だが、ここは人の手が行き届いているのだろう、見上げれば青い空が見えた。
「典型的な里山だね。人が作った森だ」
それがかなりの広範囲に広がっている。この森を作ったのがセイロン村なのだとしたら、案外あの村は歴史ある村なのかもしれない。
「ま、そっちの方は仕事と関係無いから別の良いか」
森の中を進む。時々は方位磁石と地図を取り出し、現在位置の確認も忘れない。地図には森の大まかな場所が描かれている。目印となるのは、大岩だったり特徴的な木であったりと曖昧な物だが、案外それでも分かる物である。
ちなみにこの地図は村で調達した物では無い。これも師から仕事を成功させるために必要だろうと貸して貰った物だ。
「地図を見る限り、この近くだと思うけど……」
地図には目的地があった。薄茶色の紙に書かれた赤い丸。知らぬ者が見れば、宝の地図と勘違いし兼ねない見栄えだった。
「この岩は多分あれだよね。そこから西の方向へ少し進んで……。ああ、見つけた」
木々の間から、拓けた土地が見えた。手入れはされておらず、雑草や苔で覆われた緑色の土地だが、その部分だけ木が生えておらず、何より小屋が建っている。
「典型的な魔法使いの小屋だなあ。前に山を登って見つけた小屋に良く似てる」
森の中にある人里から離れた小屋は、魔法使いの研究場の可能性が高い。少なくともここはそうだ。
自分の研究が他人に漏れず、尚且つ迷惑も掛けない様に作られた小さな家。大きな組織に属さない魔法使いは、こんな小屋を良く作る。
「もう既に家探しはされているんだろうけど、一応、中を見て置くか」
小屋へと進み、ガタが来た扉を無理矢理開ける。閉じれば再び開けるのに苦労するだろうから、開けたままにしておく。
床からは所々に草が生えており、植物の生命力がいかに強いかを認識させてくれる。床が抜けることを注意しなければならないだろう。一応、クルトが履く靴は旅用の頑丈な物なので、踏み抜いたところでそれ程酷いことにはならないだろうが、注意が必要なことに変わりは無い。
「中はもう殆どの道具が運び出されてるな。本棚もからっぽ」
慎重に小屋内を探索して、まったく何も無いことを確認する。この小屋は魔法使いの小屋であり、本来なら研究資料がごった返しているはずだったが、今はそれを見受けられない。
「もう先生が探索して、大学の所有物になってるんだから当たり前と言えば当たり前か」
クルトの師であるオーゼが、大学外にある魔法の研究資料を集めると言う名目で行っている仕事、その対象の一つがこの小屋であった。
「先生が来たのは、村で聞いた事件のすぐ後だろうね。じゃなけりゃ、こんなところに魔法使いの研究場があるなんて分かるはず無いし」
正確には、この小屋で研究を行っていた魔法使いが、大学へ逃げ込んできたことから、この小屋の場所と、研究内容が発覚したと聞いている。
何故、在野の魔法使いが魔法大学へ助けを求めたのか。それはクルトの仕事にも関わって来る。
「結局は後始末ってことだろうね。他人に迷惑を掛けない様にって注意していても、不注意なんていくらでも起こるんだ……。うん?」
音がした。小屋の中では無い。その周囲からだろう。周辺の草や細木が動く音。風かとも思ったが、風の場合は森全体から音がするものだ。今しがた聞いた音は一部分からのみである。場所は小屋の扉から少し離れた距離。まるでこちらを伺っている様な位置に何かが居る。
「もしかして……!」
足場が悪いのも忘れ小屋の入口へと走る。勢いが付いて床が鳴り響くが気にしない。しかし入口に着く頃には、音の正体はどこかへと消えてしまって居た。
「いや、確かに何かが居たみたいだ」
小屋を出て、開いた土地の端へと進む。そこだけ草が倒れており、獣らしき足跡が残させている。確かにここに何かが居たのである。
「こっちの物音を聞いて逃げたのか……。臆病? それとも用心深い?」
なにはともあれ標的が見つかった。魔法使いが作った魔法生物を発見、捕獲、もしくは処分する事。それがここで行う仕事の内容だから。
フィルネはいつも通り食器を洗う。時間は昼過ぎ。村人達が昼食を終えた時間帯で、その後片付けだ。
考えて見れば、いつだって食器を洗っている様な気がする。そうでなければ、食事の準備か。それは恐らく気のせいで無く、事実そうなのだろう。何も無い村なのだからあたりまえだ。ここでは異常な事と言うのが極端に少なく、日常と平穏が常に満たされた場所なのだ。
そう思うと、昨日やってきた魔法使いは、村にとって貴重な非日常だったのかもしれないと考える。村ではまだまだ若造な自分から見ても、さらに子供っぽく見えるあの魔法使い。そんな子供魔法使いが、仕事でこの村にやって来たと言うのは、なんだか可笑しく見えてしまう出来事だった。
「そう言えば、魔法使いが仕事でやって来たんだったら、10年前の魔法使いさんとも関係があるかも。仕事内容、分からなくても良いから、聞いて置けば良かったかなあ」
なんとなくそう思う。10年前、フィルネを助けてくれた魔法使い。結局、名前を聞かせて貰えず、その姿だって長い時間のせいで曖昧だ。そんな恩人である魔法使いと、関係があるかもしれない相手が現れたのだ、無理を言ってでも聞き出して置くべきだったのかも。
「まあ、あの魔法使いさんみたいに急いでる風でも無かったから、聞き出す機会はいくらでもあるか」
あの子供魔法使いは、長ければ1週間は滞在するかもと言っていた。それは要するに、時間を掛けた仕事を前提としていると言うことだ。突然、町に帰ったりはしないだろう。
「今度、宿に帰って来た時に聞けば良いんだから、そんな深刻に考える必要も無いわね」
少なくとも、昼食分しか食料を渡していないのだから、今夜には帰ってくるだろう。そう考えて食器洗いを再開した時だ。
宿の入口が開いた。ベルは付けていないが、古い材質なので嫌でも音が聞こえるその扉の向こうには、あの子供魔法使いが立っていた。なにやら急いでいる風で、どうやら自分に様があるらしい。
「あら、早いお帰りね。もう仕事は終わったの?」
少々、嫌味に聞こえるだろうか。少年の様子を見れば、まだ仕事の途中であり、なにか用があって宿に戻ってきた事がすぐ分かるのだから。
「いや、その……。危険だって言うのは分かってるんだけど、森の中で一夜を過ごすつもりだから、そのための道具や食料を買いに来たんだ」
非常に困った顔をする少年。確かにそれは言い難い話だろう。宿の主人として、客が危険な行為をするのを見過ごす訳には行かない。まあ、客がその行為の目的を話すと言うなら考えなくも無いが。
「仕事内容を話すことが、道具を貸してくれる条件ってこと?」
森の中で慎重な魔法生物を見つけるには、森を夜を通して見張るしか無い。そう結論付けたクルトは宿へと戻り、フィルネにその道具を貸して貰える様に頼み込むことにした。食料に関しては、勿論購入するつもりだ。
「ちょっとニュアンスが違う。お客様が危険な事をするつもりなら、その理由を話して欲しいってこと。だってそうでしょう? 物を貸すってことは、あなたの仕事の手伝いをすることなんだから。アタシが手を貸したせいで、クルト君が危険な目に遭うのは、さすがに罪悪感があるわよ」
どうだろうか。所詮自分は村外からやって来た魔法使いであり、そんな相手が無茶をして害を被ったところで、勝手な奴が自業自得な目に遭ったとしか感じないのでは無いだろうか。
フィルネのことを疑う訳では無いし、親切心からの言葉ではあるのだろうが、頭に純粋なと付けるのは首を傾げてしまう。何か、クルトに対して言いたい事があり、その要求を通すためにクルトを引き留めているのでは。そんな勘繰りをしてしまう。
「森の中に滞在しなければならない理由を話せば、道具を貸してくれるってのは確かなの?」
「考えて見る判断材料にはなるわね。あなたがどうしてもしなくちゃ行けない仕事なら、アタシに止める方法なんて無いもの。それでも明らかに無謀なことなら、ふん縛ってでも止めるかもね」
つまり彼女の目的は、クルトを止めることよりも仕事内容を聞くことにあるのだろう。本気でクルトの身を案じているのなら、仕事内容を聞いてから返答すると言うはずだ。
「うーん。前にも言った通り、説明が難しいし、長くなるんだけど、それでも良いのなら……」
少し抵抗はあるが、仕事内容を話してはいけないとの説明はされていないので、別に構わないだろう。相手に聞く気があればだが。
「そうねえ。アタシってあんまり学が無いから、意味の分からない話をされたら、眠くなって道具を用意することができなくなるかも」
分かりやすく話さなければ手を貸してくれないらしい。正直自信は無いのだが、話さなければ状況が動かない以上、とりあえず説明するしかあるまい。
「魔法使いの仕事だからね、眠気を我慢して聞いてみてよ。とりあえず、一つ専門用語を覚えて貰わなくちゃいけないからさ」
「つまりその専門用語が、仕事に大きく関わって来るわけね。良いわよ。こんな仕事をしているから、睡眠欲は他の人より薄いの」
フィルネは若干、カウンターから身を乗り出している様な体勢になる。そんなにクルトの話を聞きたいのだろうか。
「……まあ良いけどね。その専門用語は魔法生物って言葉なんだ」
魔法生物とは、要するに魔法に関係した生物のことである。例えば生態に魔法を使うことが組み込まれて居たりする生物は魔法生物と呼ぶし、その身体が魔法使用や研究の補助に優れた性質を持っている生物も魔法生物と呼ぶ。
かなり大雑把な区分けであり、正確に分類する言葉もある。今回、クルトの仕事に関わって来る魔法生物は、品種改良型魔法生物。つまり、魔法使いが人工的に作り上げた魔法生物のことである。
「と言っても一から作り上げた訳じゃなく、文字通り、動物を品種改良するみたいに掛けあわせる形で、魔法生物に仕立て上げて行くって感じなんだけどね」
「牛や豚を育てる様な物かしら」
概ね正しい認識である。動物の品種改良と言うのは家畜や役畜に対して良く行われていることであり、品種改良型魔法生物もほぼ同じ用法でその研究が行われている。単純に目的が生活のためか魔法研究のためかの違いだけなのだ。
「普通の動物を育てるのと違って、魔法生物の研究と言うのは特殊な土地が必要なんだ。なんたって、魔法生物として改良、成長させられた動物と言うのは、外界に対してどんな反応を示すか分かったもんじゃないから」
「へえ。例えば、どんな物があるの?」
「危険な物だと、繁殖力を魔力で強化された虫が、大量発生してその土地の作物を食い荒らした事があったね。どうでも良い物だとベジタリアンの狼が生まれたとか」
とにかく魔法自体が全体的に良く分からない物である以上、その結果で生まれた魔法生物は無茶苦茶な物であることが偶にある。
「だから魔法生物を育てるのに必要な土地って言うのは、要するに外界から断絶した場所なんだ。余所様に迷惑を掛けないのは勿論だし、育てる魔法生物によっては余計な交雑が行われる可能性もある」
研究内容に不確定要素が混じるのは魔法使いでなくとも好ましい物では無い。結果が良く分からない実験をする以上、出来る限りの混沌は避けたいと言うのも人情だ。
「そんな魔法生物がクルト君の仕事に関わって来ると……。もしかして、10年前に森を荒らした獣って……」
「多分そうなんだろうね。本来ここの里山に居ない生物が現れたんでしょ? 生態系を乱す様な生き物って、誰かが持ち込まない限り現れ難いから」
恐らく育てた魔法使いにとっても事件は予想外の物だったに違い無い。本当に魔法使いが予定通り研究を行っていたのなら、そもそも外にその事が発覚しないはずだ。
「森の中、あまり人が近づかない場所に魔法使いの研究小屋があるんだ。森の木々に阻まれて、外界から隔絶された様な場所だから、魔法生物の研究場所に適している様に見えた。まあ、実際は村に迷惑を掛けてしまったんだけど」
そうして自分の研究自体も発覚してしまった。生物を扱う研究者にしては、随分と間抜けだとの印象をクルトは持っている。
「僕の先生は魔法使いが起こしてしまった事件の収拾する仕事をしていてね。一応、魔法大学外の知識を集める仕事のついでなんだけど。10年前、その収拾に先生が関わっていたんだ」
クルトが自らの師の話をした時、フィルネの視線が鋭くなった気がした。クルトは別に人への観察眼が秀でている訳では無いので気のせいなのだろうが、それでもフィルネは話の内容に興味があるらしく、師について聞いて来た。
「その、クルト君の先生は、10年前にこの村に来た魔法使いなのよね。つまり、この村を助けてくれた魔法使い」
「そう言うことになるのかなあ。いや、でも、親切心からでは無いだろうし……」
あの師のことだ、村を助けるのはついでで、里山でされていた魔法研究の資料に興味があったのだろう。
「それでも良いの。恩人が誰か分かったんだから……」
なにやら嬉しそうだ。10年前、彼女が獣に襲われた時、魔法使いに助けられたと聞いているが、それがクルトの師であると考えているのだろうか。
「もしかして、聞きたかった事ってその事だったりする? それを聞きたくて、野宿用の道具を貸し渋っていたとか」
「あら、親切心から止めていたのは本当よ。でも、そうね、これ以上あなたの仕事内容を聞いたところで、理解できないと思うから、仕方ないけど道具は貸してあげる。正直、話の後半から眠くなってきてたのよねえ」
正直なのは良いことだが、少しは相手の感情も考えて見ればどうなのだと言いたい。せっかく、仕事内容を分かり易く説明しようとしていたのに、途中で区切られた上、眠くなりそうだったと言われたクルトの心情は、あまり宜しく無い物である。
「とりあえず、日が暮れるまでには里山の中に戻りたいんで、早めに用意して欲しいんだけど……」
「今夜だけでしょ? だったら直ぐにできるわ。くれぐれも自分の身は大切にね」
最後の労りは、口だけなのか本心からなのか。どちらでも、こちらを気遣っているのだから別の良いかと気分を正し、クルト自身も野宿の準備をする。
恐らく今夜の行動によって、仕事の成否が変わってくるだろうから。
夜の森はそこに対する危険を除外したとしても、光量の少なさで恐怖してしまう。平地でも星空の光は心許無い物であり、森の中での頼りは、魔法によって火を点けた薪くらいだろう。
「魔法生物をおびき出すには、火も消した方が良いんだろうけど……」
一人ぼっちの寂しさからか、ついつい独り言を喋ってしまう。今居る場所は、森の中にある魔法使いの小屋、そのすぐ近くである。
「できれば小屋の中で過ごしたかったよなあ。所々床が腐っているし、小屋の中だと獣がこっちに寄って来ない可能性があるから、一夜を過ごすには不都合な場所だとは思うけどさ」
わざわざ森の中で夜を迎えるのは、恐らく森の中に居るであろう魔法生物を誘き出すためである。
10年前、森の魔法使いが研究していた魔法生物が里山へと逃げ出した事件。当時、魔法使いの管理不十分が原因で逃げ出した魔法生物は10頭。内、3頭が魔法使い本人によって処分されたが、個人での収拾が不可能と考えた魔法使いは、自分の研究が大学に知られる事を覚悟して大学に助勢を頼んだ。そうしてやってきた大学側の魔法使い達は4頭の魔法生物を処分し、2頭を標本として捕える事に成功した。
引き算さえできれば簡単な話だろうが、1頭が行方不明のままだったのだ。
だがこの魔法生物、同種でなければ繁殖ができないとの資料があり、1頭だけなら周囲に被害を与えず寿命で死に至るだろうと考えられて放置されていた。
問題になったのは10年経った現在の事。魔法大学で標本として育てられた内の1頭が急成長したのだ。
体内に仕込まれた魔法が変異を遂げたのか、それともいつのまにか種に備わった特性なのか。身体の大きさが倍以上になり、獣としてはそれなりの知性まで備わる。何より注意すべきなのは、凶暴性が増したと言う事だ。それまでは基本的に臆病さを見せ、人を襲う時も自分より弱い個体と判断した場合に限られていたのだが、どうにも自分以外の生物に対して敵意を見せる様になった。
大学が管理している個体については、面白い変化をしたとさらなる観察を続けるだけで済むのだが、ここで新たな問題が浮上したのである。10年前に逃した1頭も、同じ変化をしているのでは無いか。
「死体でも見つかれば良かったんだけど、どうにもまだ生きてるみたいなんだよなあ。始めて小屋に来た時、どうにも何かがこちらを伺っている風だったけど、多分アレがそうなんだろうね」
薪を火にくべる。十分に乾燥しているか不安ではあるが、火力は衰えていないし、消えたら消えたで、また魔法で点火すれば良い。
魔法生物については……。生きているとなれば、早急に処分する様にと伝えられている。間違っても、捕獲しようなどと考えない様にとも。
処分だけならクルトの能力でも出来るだろうが、捕獲は無理だと判断されたのだろう。それはつまり、油断すれば命を奪われ兼ねない相手であると言う事だ。
「一度こちらのことを伺いながら、その場は去ったみたいだった。臆病さが残ったままなのか、自分の主人が帰って来たと出迎えたのか、それとも……」
こちらを値踏みし、慎重に襲おうとしているのか。何にせよ、クルトの仕事は魔法生物の処分。誘き出さなければ始まらない。相手がこちらを襲う機会を伺っているのなら、わざと隙を見せてしまえば良い。例えば、人一人が森の中で不用心に野宿をしている姿を見せるとか。
「こっちを普通の人と判断してくれたのなら、多分、何らかの接触をこちらに対して行ってくるだろうね。だけどこっちは普通の人じゃあ無い」
クルトは魔法使いだ。当然、魔法生物を相手にする場合は魔法を使う。ただ魔法生物側はこちらが魔法を使う事を知らないだろう。であるならば、クルトの魔法がこの場合重要になって来る。
「森の中なら火の魔法はあまり使えない。山火事になんかなれば、こっちもやられる」
村に対する被害も出るだろう。当然、それは避ける必要がある事柄だった。つまり火の魔法以外の魔法で対処する必要がある。
「最近漸く使える様になったアレだけが頼りか……」
仕事を成功させるためには仕方あるまい。意識を集中させて魔力を少し放出する。本来なら魔力放出による精神の消耗は避けるべきなのだろうが、こうやって事前にウォームアップしていると、なんだか心が落ち着くのだ。今のクルトにとってはそちらの方が大切だった。
「来るとしたら、そろそろかな?」
夜も一層深くなり、人であれば寝静まる時間帯。ますます光源が薪の火だけになり、獣にとっては狩りの時間。一瞬目を閉じれば、何かの音が聞こえてくる。草を踏み分け、小枝を折り、ゆっくりとこちらに近づく大きな何か。
「音を消さずにってのは逃げても捕まえられるって言う自信だろうね。できれば気配を消すくらいの知恵が無い事を希望したいんだけど」
その場で立ち上がるも、クルトは動かない。火の近いこの場所で、獣を出迎える事にした。
そうして火を光源にして、闇の向こうから大きな影が動いた。それはまっすぐこちらに向かう。大きな障害物は無かったが、それでも木の枝と高草によって囲われているはずであり、それを物ともしない存在だと感じさせてくる。
そうして火に照らされた影はその姿を現す。毛むくじゃらで、四足を地面に突き立て、息を荒らげる鼻は、顔から跳び出て長く大きい。曲線を描きながら口から生える二本の牙は、根本が太く尖端が細く鋭い。
「豚では無いね。まるっきり猪だ」
森の魔法使いが育てた魔法生物は“豚”であったと聞いている。しかし今ここで見た魔法生物は、野性味溢れる“猪”の姿をしていた。そうしてさらに問題なのは、その猪の背丈が、クルトとほぼ同じ程の巨体だと言う事だろうか。