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三兄弟の事件簿~この恋はミステリー~ 作者:愛田美月
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第七章 猫は重い?

 土にまみれた手が震えている。
 震えが止まらない。
 男は蛇口から出る水に、手をいれた。
 冷たい水がこびりついた土を、少しずつさらっていく。
 こんなことになるはずではなかった。
 ほんのいたずら程度で済むはずだったのだ。
 まさか金庫の中にあんな大金が入っているなんて。
 目がくらんだのだ。
 金に目がくらんだ。
 どうして、あの時、あのタイミングで女は現れたのか。
 あの女が現れたりしなければ……。
 そもそも、あの計画自体を止めなければならなかったのだ。
 水に流されていく土が血に見えた。
 目には見えなくても、この手は血にまみれてしまった。
 このままで済むはずがない。
 こんな罪を背負ったままどうやって生きていけるというのだろう。
 罪は償わなければならない。



 夕方の三時を少し回った頃。空達三兄弟は茂山に伴われて、千鶴の祖父である一条慎太郎の部屋の前までやってきた。
 好きな人のお祖父さんと思うだけでもハードルが高いのに、大きな会社をいくつも経営している一条グループのトップだと思うと、何をどうしていいのか分からない。
 出来ることなら、回れ右をして帰りたい所だが、そんなことをしては男がすたる。
「会長。入ります」
 ノックをして、ドアの向こうへ短く声をかけた茂山は、返事を聞いてドアを開けた。
 茂山の背とドアの隙間から、室内にいる老人の姿がかろうじて見えた。
 老人は窓際にいた。車椅子に腰かけている。足が悪いのだろうか。
 茂山の後から部屋に入ると、老人の前まで来て、三人は横に並ぶ。左から空、光、海の順番だ。
 客間に比べると、狭い部屋だった。ここが一条老人の書斎なのだろう。真ん中に重厚な机が置いてあった。その背後には大きな本棚が置かれている。本棚に並べられた本はどれもこれも、分厚くて高そうだ。
「千鶴。彼らがお前のお友達か」
 嗄れてはいるが、凛とした響きを持つ声だった。先に部屋に来ていた千鶴は、祖父の後ろに立っていた。
「ええ。おじい様」
 千鶴は頷いて、空達を順番に紹介していく。緊張している空とは対照的に、慎太郎は、皺が刻まれた深みのある顔に、柔和な笑みを浮かべていた。
 もっと威圧的で怖そうな人だろうと勝手に想像していたが、完璧に外れてしまった。威風堂々としてはいるが、細身で、車椅子に座った老人は、とてもではないが、グループ会社のトップとは思えなかった。好々爺という言葉が空の頭に浮かぶ。
 慎太郎は、空と海に孫娘と仲良くしてほしいと優しく声をかけたあと。光を見て、笑みを深くした。
「やあ、やはりそうだったか。名前を見て、慶蔵の孫ではないかと思っていたんだ」
 空は何気なく、声をかけられた光に視線をやって思わず大きく口を開けてしまった。
 光を挟んで隣に立っていた海も驚いた顔をしているのが視界に入る。
「お久しぶりです。おじ様」
 空の前で、光はいつもの無表情が嘘のような完璧なスマイルを見せていた。
 思わず、誰だこいつ。と思ったのは、空だけではあるまい。きっと海もだ。そうでなければ、あんなアホ面を下げて、光を凝視している訳がない。
 そう思う空も、完全に唖然とした馬鹿面になっていることに気づいていなかった。
 光は、この別荘の主に手を差し出され、数歩前にでて握手し、そのまま会話を交わしている。
 いつもは淡々とした冷たい口調で話すのに、今はどことなく親愛の情を含ませたような温かみのある声音だった。媚びるほどではなく、人に好感を持たせるような話し方だ。
 老人と光は、しばらく空達には分からない会話を続けた。何しろ、横文字が多いのだ。空が聞き取れただけで、といってもちゃんと聞き取れているかは謎だが。『アジェンダ』がどうの『ディシジョン』だの、『ペンディング』だの。お前ら日本人かと、今海はツッコミたくてしかたないに違いない。光の受け答えは淀みなく、実に好感の持てるものだった。
 いつもの無愛想はどこへいった。と、聞きたくなるのを空は必死で我慢した。
 びっくりするとは、このことだったのかと漸く気づく。
「おじい様ったら。光さんとばかりお話しないで、私たちも混ぜてください」
 空は、少し拗ねたような千鶴の声で我に返った。慌てて表情を引き締め、老人の方へ顔を向ける。
 穏やかに慎太郎は目を細めた。
「私の我儘に付き合ってもらって悪いね。君達の活躍を楽しみにしているよ」
 どうやら、ここが退室のタイミングらしい。
 空達は、もう一度挨拶をして、老人の部屋を後にした。



 千鶴と茂山は一条老人の部屋に残ったので、空達は三人で廊下を歩いていた。足の悪い光に合わせて、歩調はゆっくりだ。ここまでくれば、部屋まで声が届かないだろうという所まで来て、海が一番に口を開いた。
「なぁ、光。重そうやったな。猫」
 海の横を歩く光は、いつもの無表情に戻っていた。何故かそのことにほっとしつつ、空は海の言葉を繰り返す。
「猫?」
「別に。社交の場では、あれが普通なんだよ。標準装備だ」
 空の疑問の声は、光によってあっさり無視された。空は唇を尖らせる。
「なあ、猫ってなんだよ」
「空、猫被りって言葉知らん?」
 尋ねられて、空は納得した。知っていると答える代わりに、光を見上げて言った。
「学校だって、一応社交の場なんじゃねぇの? いつも猫被ってりゃ、苦労もねぇのに。つうか、お前普通に笑えるんじゃん。俺達の前でもあれくらい笑顔でいろっつうの」
 光は表情を一切変えずに、肩をすくめた。
「何のために」
「何のって、なあ?」
 空は、海に話を振る。海はちょっと困ったように、頭を掻いた。
「なあって、そりゃ、やっぱ、コミュニケーションの上で、笑顔は大事ちゃう?」
 海は基本、笑顔だ。そのおかげか、大抵初対面で悪い印象をもたれる事はない。
「そうそう。さっきみたいな話し方してればさ、俺だって、毎日のようにお前に腹立てたりしないと思うんだよな」
 光は空に、黒ぶち眼鏡の奥から、白けた目を向ける。
「学校でだってそれなりに、猫は被ってるだろ」
 そうか? と言いかけて、確かにそうなのかもしれないと思う。光が殊更言いたい放題なのは、空や海にだけだ。授業のノートを貸してと空が言えば貸してはくれるものの、かなり辛辣な言葉も漏れなく付いてくる。他の生徒が同じ頼みをすれば、あっさり貸している。そのことをいつも不満に思っていた。
 教師のうけは悪くないのだから、それなりに上手く立ちまわっているのだろう。空が知らないだけで。
「何で俺達にだけ冷たい訳」
 空が軽く目を細めて、光を見ると、彼は視線を進行方向へ向けた。
「お前達の前で被る猫はない」
 冷たく吐き捨てられたため、瞬間怒りが沸きそうになったが、ふとあることに気づいて、空はにんまりと笑顔を作った。
 空は光を挟んで海とニヤニヤした笑顔を交わす。
 挟まれた格好で歩いている光は、二人の笑みに微かに訝しげな表情をする。
「ふーん。そっかぁ。俺達の前で被る猫はないんだ」
「つまり、俺達の前では素でいたいってことやんな」
 空はニヤニヤ笑いが止まらない。つまり、光は空達の前では自分を取り繕わなくても大丈夫だと思っているということだ。
 それって心を許しているってことだよな。
 そう思うと、いつもの冷たい物言いも悪くないように思えてくる。何だか嬉しい。
 海も同じように思っているのだろう。二人して顔を緩めていると、急に光が立ち止まった。
 空達が気づいて足を止めると、すぐに光の手が二人の顔へ伸びてきた。
 光は、空と海の頬を摘まむと、容赦なく捻る。
 痛みに声を上げた二人の耳に「いい加減、その顔やめろ」と、羞恥の混じった声が微かに届いた。
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