7.傷病生活
―― 翌日の職員室。
「ご心配をおかけして……すみませんでした」
私は、先生方に深々と頭を下げていた。
「大丈夫? しかし、右手をやっちゃ都合が悪いな」
そう言う徳次郎先生は、あごに手をやり首をかしげて本当に弱ったなと言う表情だった。
そうです。都合が悪いです。利き腕だもの。
おのれのうっかり加減が憎らしい。
「自分が、情けないです……」
「まぁ、怪我しようと思ってするわけじゃなし。大事にして、しっかり治しなさい」
「利き腕なのに。何も受験のこんな時に怪我しなくったって。いえ。私が悪いんですけど。でも、もう……受験、頑張ろうと思ってるのに。私、ろくな事がなくて……。きっと呪われているんです」
先生の声のトーンが落ち着くものだったのか。
あるいは、怪我のせいでテンションがあがってしまったのか。
堰を切ったように不安があふれ出してきて、私は、先生相手にしゃべり続けていた。
話せば話すほど、こう……自分の言葉に酔っていると言おうか、自分が不幸を一身に背負っているみたいに思えてくる。
先生にこんなこと言っても仕方がないのに。
「怪我する確率は誰にでもある。怪我と受験に因果関係なんてない。怪我したって受かる奴は受かる。何でも結びつけて悲観的になるのは良くないよ」
確かに……怪我と受験は、関係ない。
怪我は怪我。言われるとおりだ。
私は、押し黙った。
徳次郎先生は、机の上のガラス製の入れ物に手を伸ばすと、中から大粒の飴を取り出した。
「これでも舐めて元気出しなさい。口の中が空になる頃には落ち着く筈だよ」
左の手のひらにそっと飴を載せられたけれど。
ああ。でも私は右手首を痛めていて、この飴の包み紙すら満足にむけないんです……。
◇
医師からの指導通りに、私は治療を受けたときのままのスタイルで、手首を吊っていた。
大切な時期なんだから、とにかく言いつけを守って、少しでも回復を早めようと。
じっとりと汗ばんだうなじに巻きつく三角巾の結び目が暑い。
まるで着ているものが、一枚増えたかのように。
がっちりと固定された右手首はもはや痛むことはないけれど、文字を書くことにも苦労した。
私は、ペンケースに2Bの鉛筆を常備し、更にシャーペンの芯も2Bに揃えた。
手首を固定した状態で文字を書くためには、芯の濃さに頼るしかない。
そんな風にして、極力、患部に刺激を与えないようにそうっと過ごす。
どうして私ばっかりがこんな目に会うんだろう。
自分で自分の身の上を思う時、みじめで涙が出てきそうになる。
浪人した上になおかつ怪我までするなんて。
そりゃぁ、高校時代の私は生意気なところがあったけれど、別に心で何を考えてたってわからないじゃない。
篠原だって、内心じゃ高慢だったって言う位だから、私くらいの事は、誰だって考えたりすると思うけど。
ばちがあたるにしてもひどすぎるよ。
ああ、こんな事になるんだったら、どこでも入れる大学に入っておくんだった。
そしたら、私だって、今頃、楽しくやっていられた。
結局、最後は、就職に落ち着くんだし、そこまで国立にこだわらなくてもよかったのに。
予備校での休憩時間。
篠原がまじまじと三角巾で吊られた腕を見ている。
ノートの上でこすれた三角巾はねずみ色に変色していて、じっと見られると恥ずかしい。
「お風呂とか、どうしてるの?」
私が逆の立場でも湧くだろう素朴な疑問。
「ああ……。三角巾はずして、右手首の部分をビニール袋で覆ってる」
篠原は、納得したようにうなずいた。
「だね……。何かと都合悪いんだな。全部、片手でやらないといけないし」
そう。全部、左手でやらないといけないから、そのうちに左手が筋肉疲労起こしたりして。
その前に怪我が治ればいいけど。
篠原はかばんに手を突っ込むと、束になった用紙を差し出した。
「これ。やるよ」
差し出されたものは、篠原のノートのコピーだ。
私のために? 嘘。
いくらなんでも篠原にそこまでさせて……。
篠原が苦労してまとめたノートを、ちゃっかりもらうなんて、そんな事。
「え。い、いいよ……。そんな」
「だって、もうコピーしたし」
篠原は至極当然だと言う態度で、コピー用紙を私によこす。
このノートで勉強したら、私もちょっとは頭が良くなるんじゃないだろうか。
折角の気持ちだから……ありがたくいただこう。
「ありがとう……」
私は、差し出されたコピーを左手で受け取った。
「あっ。ねぇ。コピー代」
「いいよ。家でコピーしたんだから」
「家で?」
「うちの親が会計事務所やってんだ。そこにコピー機あるから」
「ふぅん。そうなんだ……」
会計士さんって、なるの難しいんだろうな。
なんだか篠原の家って、家族揃って頭いいんだ……。
それにしてもさり気なくノートのコピーをくれるって。
高校時代は、そんなイメージがなかったけれど。
挫折を知って人間が変わったのかな。
もし世の中に同じ失敗を懲りずに何度も繰り返す人がいるとすれば、篠原みたいに賢い人間は、たった一度の失敗からいろんな事を学ぶのかもしれない。
ノートのコピーをくれた篠原の好意に答えるためにも、私だって学習能力を身に着けなきゃ。
いつまでも落ち込んでいるわけには行かないんだ。
◇
「まだ今の時期で良かったと思わなきゃね。受験直前だったらもっと大変じゃない」
リビングのテーブルに頬杖ついた姉が、私のがっちりと固定された腕に視線を落としながら言った。
「まぁね」
私はテーブルの上に右腕をおいたまま、左手で篠原のくれたノートのコピーをめくっていた。
すっかり梅雨は明け、真夏の日差しが窓から差し込んでいる。
物干し竿にはためく三角巾は、とっくの昔に乾いている事だろう。
それでも私は、もう三角巾で腕を吊るのが面倒くさいと思っていた。
次に整形外科に行ったときは、多分、この三角巾は要らなくなる筈だから。
「あの子。篠原君だっけ。かっこよかったよね」
姉の口調が弾んでる。
「あ。うん。そうだね」
私は、素っ気無く答えた。
試すような言い方に、姉の考える事は大体想像が付く。
整形外科に一緒にいたら、二人の関係を勘ぐりたくもなると思う。
「ねぇ。付き合ってるの?」
「うん。友達付き合い」
実際、友達だし。
「えーっ。それだけ? 好きなんじゃないの?」
姉は、残念そうに言った。
いや、私に彼氏がいようといまいとお姉ちゃんには関係ないから。
好きか嫌いかと言われれば、好きな部類だ。
けれど、それは友達としてのものである。
私が女で篠原が男だからと言って、好ましいと思う気持ちをすぐさま『恋』にカテゴライズすることを私は歓迎しない。
姉のもっとも期待する部分はそこなんだろうけれど。
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