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あさぎいろの空
作:藤村香穂里



6.ダメージ


 浪人生の贅沢は、どこまでが妥当なんだろう。
 そんなものをはかる基準など、どこにもないけれど。 
 ただ私は、おしゃれをしたり遊びに行ったりする事に対して、戸惑いを感じていた。
 勿論、それも程度もので、少しは気分転換もしないと、そうそう受験勉強ばかり続くはずもなく。
 けれど遊びの部分が多すぎて、それで受験に失敗したら、自分を責めたくなるだろう。
 第一、不安材料を抱えたまま遊んでいても、心底楽しめないから。

 来るべき日に備えて過ごす、地味な日常。
 時折思い出すのは、あの雨の日、借りは返すと言った篠原の言葉だ。
 高校時代、優秀だったにも関わらず受験に失敗した篠原の思いはどんなものだったのだろう。
 それにひきかえ私ときたら……。
 ちょっとした事でくよくよと悩んでみたり、かと思えば勇気付けられたりと、相変わらず気分の安定しない日々を送っている。
 自分が確固たる目標を持っていれば、何も動じる事などないのに。
 
                   ◇   

 予備校では、たとえ教室が四階にあろうとも、生徒はエレベーターを使ってはならない。
 授業が終わると、生徒たちはいっせいに教室から吐き出されてくるから、廊下から階段にかけてはちょっとした混雑状態になる。
 それがわかっているから、私はいつも一呼吸遅れて、教室を出る事にしていた。
 

 ちょっとした油断だったのだ。
 もしも混雑した階段ならば、注意して降りていたと思う。
 すっかり生徒たちがいなくなり、空いた階段を中ほどまで降りてきたところで、私は足を滑らせてしまったのだ。
 土踏まずが階段の縁を蹴り、足は着地する場所を失った。
 視界がスローモーションのように揺れて、ふわりと私の体が宙に浮いたと思うと、次の瞬間、私の上半身はいやと言うほど床の上に叩きつけられていた。
 とっさに前に手を突いて、顔面だけはどうにか免れたけれど。
 この状況を説明するとすれば……。
 口にしたくもないおぞましい言葉だが、私は階段から落ちた……のである。 
 まったくもう……縁起でもない。
 私はしばらくショックで倒れたまま動けなかった。

「芳川!」

 後ろから篠原の声がした。

「大丈夫か?」

 大丈夫だと言う代わりに、私は手を突いてゆっくりと起きあがろうとした。

「痛っ!」

 突っ張った右腕にズキンと鈍い痛みが走る。
 私は、またへなへなと床の上に崩れ落ちてしまった。
 再び、起き上がろうとするけれど、右手に力が入らない。
 右手首の痛みは、そこだけがズキンズキンと動悸をうっているみたいだ。

「痛……」

 右手首の痛みはますます増してきて、思わず声が漏れた。
 
「手首。突いたのか……」
 
 とにかく、右手首が痛む。
 この手は、どうなってしまったんだろう。

「こっちの手は?」

 篠原が左腕に手を添えた。
 左はなんともない。とっさに利き腕の方が先に出たのかもしれない。

「よし。つかまれ」
 
 篠原はかがみこんで私の左腕を自分の首に担ぐと、私を助け起こしてくれた。
 身長差があるから、肩を組むような体勢になるのは、無理がある。
 私が足で体重を支えたところで、篠原は左腕をほどいた。 
 黒のストレッチパンツには、ところどころ白っぽい埃が付いていて、それを左手で払うとひざ小僧がジクジクと痛んだ。
 パンツの下は生足だから、多分、すりむいているのかもしれない。
 と言うか、もう体中が痛い。 
 顔を上げると私の周りには……心配そうな顔をしたギャラリーが輪を作っていた。

               ◇

 整形外科の廊下の茶色い長椅子に、篠原と私は並んで座っていた。

「ごめんね。篠原。もう帰っていいよ」

 自分で勝手に階段から落ちたものを、医者に付き合わせるなんて。
 私は、自業自得だから仕方がないけれど、篠原まで迷惑をかけていいはずがない。

「怪我人を残して帰れるかよ」

「いいよ。お姉ちゃんに電話したからさ。すぐに保険証とか持って迎えに来てくれるって」

「わかった。じゃ、お姉さんが来るまでここにいるよ」 

 篠原は、足を組みなおすと、もう一度長椅子に深々と腰掛けた。
 レントゲン撮影を終えて診察を済ませると、一時間近くが経過していた。
 
 自動ドアの開く音がするたびに出入り口に目をやる。
 やがて見慣れた顔が見えた。
 姉が早足でこっちに向かってくる。
 医院の廊下にヒールの音が響いた。

「ちなみ! 大丈夫なの?」

「うん……今、診察終わったから」

 一言二言会話を交わすと、姉の視線が篠原に移った。

「芳川さんと一緒の予備校に通っている篠原です」

 篠原が、立ち上がって挨拶をする。

「ここに連れてきてもらったの」

 ああ……と、姉はうなずく。

「ちなみがご迷惑をかけてすみません。後は私がいますから、大丈夫です」

 篠原は、再び頭を下げると、帰っていった。


 がっちりと固定された右手首は、痛々しくも三角巾で吊られている。
 医師は、全治1ヶ月と言う。
 受験勉強があるのに、利き腕を痛めてしまうなんて。
 大変なダメージだ。
 なんて私は……ついてないんだろう。
 もっとも私が気をつけなかったのが悪いのだけど。


 篠原のプライドに触れて、ちなみも少しばかり気持ちの整理がついたと思ったのに!
 よりにもよって、右手を怪我してしまうなんて。
 ちなみは、どう対応していくんでしょう。








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