18.あさぎいろの空(最終回)
約束した待ち合わせ場所は、あの時と同じ駅前の本屋だった。
時間があの時よりちょっと遅めの正午くらいになったのは、私が寝坊したからだ。
前に篠原と二人で会ったのが去年の九月の終わりで、今がゴールデンウィークだから、もう七ヶ月が経つんだ。
――篠原に会いにいく。
今度は、女子大生として。
まさか再び会えるとは思っていなかったから、友達として今日を楽しもう。
誘ってくれただけで嬉しいから、それ以上欲張ったりしない。
大丈夫。平気。
今の私には、ちゃんとした居場所があって、風海先輩や希代子のような素敵な友人にも恵まれているから。
街並みを包むように広がる空。
出掛けにチェックした天気予報は、今日一日晴れで降水確率十パーセントだった。
平日は、会社員や学生くらいしかいない駅前のロータリーは、さすがに連休らしく家族連れやグループなどで混雑していた。
「芳川」
後ろから呼ばれた声に振り向くと、そこには篠原が立っていた。
不意打ちをくらって、どぎまぎしてしまう。
これから今日をシュミレーションするところだったのに、登場のタイミングが早すぎる。
私にはまだ心の準備が出来ていなかったのに。
太陽に背を向けた篠原がまぶしいのは、逆光のせいだけじゃない。
目を細めながら、私は視界の中に確実に篠原の姿を捉えた。
予備校の時は、目が隠れるほどだったやわらかい前髪は、今は短く切り揃えられている。
白基調のすっきりとした服装で大人っぽい表情の篠原は、一ヶ月余りの間にあかぬけていた。
「久しぶりだね。篠原」
胸の鼓動を押さえ込むように予備校時代の声のトーンそのままで、努めてゆっくりと話す。
「あ。はじめまして。Y大の篠原です」
すかさず篠原は、今日初めて会うみたいな態度をとってみせた。
「あっ。どうも……はじめまして。G大の芳川です」
篠原に調子を合わせて切りかえした。
けれど、ちょっぴり照れが混じってしまう。
口角を上げてくすっと笑う表情は、予備校時代の私の良く知ってる篠原だ。
そんな笑顔にちょっぴり安堵した。
「どこか、行くあてはあるの?」
「やっぱり『ビストロ弥栄』だろう。「合格の宴」をしないとな……」
あの時のシェフの言葉をなぞって、切り出した篠原にはっとする。
無反応だったと思ったのに覚えていてくれたんだ。
一瞬、かち合った視線をもとに戻すと、私は篠原と並んで歩調を合わせた。
繁華街のはずれにあるレンガの外壁に囲まれた小さなお店『ビストロ弥招』。
以前に食事をした時とは季節も異なり、ランチメニューの内容も変わっていた。
「本当は、夜に来れば良かったんだろうけどさ……」
「ううん。誘ってくれて嬉しかったよ」
「もう、一ヶ月とちょっと経つんだなぁ」
「うん。だけど篠原もうすっかり大学生してるよね……」
「芳川だって」
「そっか。お互い様か」
失礼します……と、スープが運ばれてきて、私は目前に置かれた紙ナプキンを手に取ると、膝の上に広げた。
器が置かれる間だけ、会話を中断する。
一礼してお店の人が立ち去ると、再び篠原が切り出した。
「合格の報告の時さ、なんかうやむやに別れてしまったもんな」
「そうだね。あの時、話がしたかったけど」
「俺、携帯持ってなかったから、あとから連絡も出来なかったし」
篠原の一言一言が沁みてくる。
私に好意を持ってくれている事には違いないのだ。
けれど、もし私が自分の気持ちを打ち明けてしまったら……。
いいえ。言えない。
折角、携帯番号も交換して、いい関係を築けそうなんだから。
このまま友達関係を持続して、いつかのもしかを期待した方がいいに決まってる。
結果的に友達のままだったとしても。
スープを飲み終えた篠原がおもむろに口を開く。
「実は俺さ。演劇部の舞台発表を観た時から、芳川のファンだったんだ」
え?
篠原、今、何を言ったの?
ファン? しかも演劇部の舞台発表。
軽く頭が混乱する。
文化祭の時だろうか。
演劇部の発表は、年に数回しかない。
ああ……どの劇だろう。
慌てて記憶を手繰り寄せる。
「ファン……だった?」
唐突に言われた驚きに、言われた言葉を確かめるように繰り返すしか、話すすべがない。
レストランと言う場で、反射的に大きな声が出そうになるのを抑える。
崩れ落ちそうな背筋を意識してピンと伸ばし、上体だけ少し傾けて篠原に問いかける。
「そう。町娘の役、演っていただろう?」
町娘の役を演ったのは、私が高校の二年生の時だ。
その時、風海先輩は主役の女剣士を演じていた。
あの劇の見せ所は、何と言っても風海先輩の立ち回りに尽きる。
骨太な男子生徒のそれとは違って、踊るような軽やかさがあって、あの劇で風海先輩は一気に下級生の女の子たちのファンを増やしたのだ。
その劇で、脇役の私の演技を見ていてくれた人があったなんて。
「うん。町娘の役だった」
「あの残像が焼きついて離れなくてさ。一年前。大学に落っこちて、ふてくされて予備校に行ったら、町娘がいるじゃないか。なんか俺、嬉しくなって夢中で声かけてしまったさ」
「はぁ」
ファンと言われて喜ぶべきなのに、腑抜けた返答になってしまう自分が情けない。
もっと、何か話せばいいいと思うのだけど。
「芳川がいる事が、予備校生活の俺の元気の素だったんだ」
だから私は何て返事をしたらいいのだろう。
心臓の鼓動がばくばくと早くなってきた。
そんな事を言われたら、ますます篠原が好きになってしまうのだけど、篠原は自分の発した言葉の責任を取ってくれるのか?
「ありが……とう。私なんかで元気出してもらって。べっ、別に大した役でもなかったけどね」
素っ気無い返事をしてしまったのは、スープに変わって前菜が運ばれて来たからだ。
嬉しくて恥ずかしくて、挙句の果てにニヤニヤしてしまいそうだから、敢えて自分をおとしめて平静を取り戻そうとする。
篠原と私の前に白いお皿に形よく盛られた前菜がセットされ、お店の人は姿を消した。
話が中断される事で空気が変わり、私も落ち着きを少し取り戻す。
直前の会話の流れが勿体無かったけれど。
再び、篠原は切り出した。
「俺にはすごく光って見えたよ。動作も綺麗で。俺、時代劇好きなんだけど。いや、それを差し引いても良かった」
え?
篠原の時代劇好きの言葉が引っかかる。
ちょっと、待って。
今は、どきどきする場面でしょう。
でも、篠原ってちょっとおっさんくさいかも。
外見のイメージと全然違うよ。
渋い……。渋すぎる。
「渋い……趣味だね」
「あ。うん。俺。両親が会計事務所で働いていたからさ。じいちゃんとばあちゃんに育てられて。その影響かなぁ……」
篠原は、前菜のサラダを一口ほおばった。
それを見て、手がお留守になっていた私もサラダを口に運ぶ。
ライスとメインディッシュのイベリコ豚のステーキがテーブルに並べられた。
これでデザートまで、お店の人は来ない。
「芳川が好きなんだよ」
篠原がぽつりと言った。
時代劇の流れから告白だなんて。
あまりにも唐突過ぎる。
言われた事のない言葉に、固まってしまいそうだ。
口をぱくぱくとした挙句に出てきた言葉は。
「ほんとに?」
ここで私も篠原が好きだと言えば、一気に想いは通じるのに。
けれど、確認したい私がそこにいた。
もう一度、その言葉を繰り返し聴きたかった。
同じ意味を示す言葉でいいから。
「芳川はシュールなところがあるからなぁ……」
篠原の苦笑い。
今の言葉、いけなかったかな。
折角好きと言ってくれたのに……私はもっと素直にならなきゃ。
仕方ないなと言った表情で、篠原はさらに言った。
「もう、俺にしておけ。嫌いじゃないなら。G大で彼氏作るな」
「わかった」
「浪人生の立場じゃなく、ちゃんと大学生になってから、堂々と言いたかったんだよ」
「うん」
意思とは関係なく、じわっと涙が出てくる。
このまま瞬きしたら、ほほを伝って流れ落ちてしまうだろう。
「あ。ごめん……」
膝の上の紙ナプキンを取り上げ、その角っこに涙を吸わせる。
もう泣くまい。
二、三度、瞬きをする。大丈夫。
「俺、また帰ってくるよ。通学するには遠いから下宿したけどさ。隣の県ならその気になればいつでも来られるし」
「うん」
ああ、篠原は、ら抜き言葉を使わないんだ。
こんな時にも、頭の隅で関係ないことを考えながら、うなずく。
「芳川も遊びに来いよ」
「うん」
メインディッシュの皿が取り下げられる。
代わりにコーヒーセットが用意され、紫色のシャーベットが入ったグラスが置かれた。
デザートスプーンで垂直に切込みをいれて、舌の上に乗せると甘く酸っぱいカシスの風味が広がった。
あっという間にグラスは空になった。
締めのコーヒーに口をつけると、今しがたのシャーベットの味わいが名残を残しながら、ほろ苦い風味に一掃される。
――ゆっくりと流れる時間。
一年前の時間の流れは、私を追い詰めたものだけど。
今、ここにいる私は満たされている。
『ビストロ弥招』を出て歩く篠原と私。
ふと視界いっぱいに広がる空を見つめて考える。
初めての受験失敗によって味わった挫折感。
けれど、あの時の渇望していた未来に向けての湧き上がるようなエネルギーを今では懐かしく感じる。
それは、今があるからかもしれない。
傍らを歩く篠原を横目に見つめる。
篠原だって、一人で頑張っていたんじゃなかった。
私が元気の素だって言ってくれて。
それぞれに不安を抱えながら、それでもモチベーションとプライドを保って、浪人生の不安な時期を一緒に戦って来たんだ。
これから先、私はどんな進路を辿る事になるのか。
たとえどんなことになっても、私はこれから起こるだろうはじめてを真摯に受け止めて、過ごしていこう。
そうすれば、人生。きっと悪いようには転ばないって思うから。
――あさぎいろの空は、ただそこに在って、篠原と私を包んでいた。
終 |