13.お守り
試験本番までに三ヶ月を切ると、予備校は本格的な受験モードに突入していった。
センター願書の受付が始まった事で、また一つ緊張感が高まるのだろう。
街は変わらない日常が流れているけれど、校内の雰囲気だけが異様に熱を持っている。
幸いな事に努力の甲斐あって、私の模試の判定はまずまずだった。
モチベーションを維持して本試験で力を出しきれば、きっと結果はついてくると思える。
この調子を維持して、少しでも高い得点でセンターを終えられるようにと励みにもなった。
――だけどその一方で……
恋心は時を選ばずしてやってくる。
何もこんな受験の時に人を好きにならなくてもいいのに。
しばらく恋はお預けで、合格したら大学で素敵な彼氏を作ろうと、そんな夢を思い描いていた。
けれど、人生って思い通りに行かない。
大学に落ちて同じ境遇に置かれた篠原と私は、目的を同じくする同志のようなものだ。
だからこそ、ひとたび好意を感じたら余計に思いが募るのだろうか。
もっと違う再会を果たしていたら、こんな気持ちにはならなかったかもしれない。
◇
「ちなみ。お友達が来てるわよ……」
階段の下から母が呼んでいる。
少し前、誰かが訪ねて来たようでインターホンが鳴っていた。
玄関先から母の甲高い声が二階まで響いていたけれど、話の内容までは聞き取れない。
晩御飯も終わったようなこんな時間に訪れるのは、てっきり近所の人だろうくらいに思っていた。
友達……誰だろう。
階段を降りながら、一瞬、篠原が脳裏をかすめて消える。
高校時代同じクラスだった関係で、私の家の住所は知っているかも。
篠原だったら、いいのに……。
そんな馬鹿な事、あるわけない。
私ったら何を考えているんだか。
それでもわずかに高まる期待を胸に玄関フロアに出てみると、そこに居たのは志帆だった。
ベルトつきのニットのロングカーデにGパン姿でもじもじと玄関先に立っている。
春に会った時は、輝いて見えたけど、普段着は私と大差ないじゃんって、妙な安心感が湧いてくる。
志帆は私を見て微笑んだ。
「ごめんね。勉強中に」
「ううん。どうしたの? 入りなよ」
私は、志帆を自分の部屋に迎え入れようとした。
そんな私を志帆は、手で制しながら言った。
「いいよ。ちょっと寄っただけだからここで」
志帆は口が開いたままの小さな白い袋を私に差し出した。
「これ。友香と私から」
渡されるままに封も何もしていない袋を手に取る。
中には赤い生地に金色の縫い取りのあるお守りが入っていた。
「先月、友香と福岡に旅行に行って来たの。そこで太宰府天満宮にも行って。それ、二人からちなみに」
思いもかけないプレゼントに私は赤いお守りをじっと眺めていた。
涙腺が緩くなって、ふっと涙が出そうになる。
「ありがとう……」
それだけ言うのが精一杯で、他に適当な言葉が浮かばなかった。
春に三人で会ったときには、疎外感を感じたけれど。
それでも二人とも高校時代から仲の良かった友達だ。
大学に行ってもどこかで私のことを気にかけていてくれた。
「ホントは、梅が枝餅も買ったんだけど。あれ、冷凍だと賞味期限一ヶ月もあるのね。昨日、冷蔵庫から出して見たら、二日くらい日が過ぎてたから、自分で食べちゃった」
志帆は冗談っぽく言って、肩をすくめた。
どこかしら他人行儀だった雰囲気が一気に緩む。
「えー。食べたかった。言ってくれたら、志帆ん家に取りに行ったのに」
おどけた言い方に、気分は完全に高校時代の感覚に戻っている。
「だって。人に賞味期限の切れたものを持って行くなんて失礼じゃない。自分なら食べるけど」
「今度から聞いてね。賞味期限ちょっと過ぎてるけど、食べるよね? とか」
「わかったよ」
志帆はくすくすと笑う。
「じゃ、これで。帰るわ。またね」
「うん。ありがとう。私、頑張るからね」
「ちなみは、頑張りすぎなんだよ。当日、息切れしないように。来年はちなみも一緒に旅行に行こうね」
開いていた玄関ドアが閉まりそうになって、私は靴に履き替えると、玄関の前に出て志帆を見送った。
「じゃね。バイバイ」
手にお守りを握り締めたまま、街灯に照らされ背を向けて歩き出した志帆の姿をじっと見ていた。
志帆は、数メートルほど歩いて振り向くと、私がまだ見ているのに気づいたようで手を振ってきた。
私も微笑んで、振り返す。
それから志帆は、曲がり角で再びこちらに向いて手を振ると、間もなく視界から消えた。
部屋に戻り、私は、自分に課した本日のノルマを片付けた。
テキストを閉じて本棚に立てかけると、いつも無意識に眺めていた赤本の背表紙が目に飛び込んでくる。
ちなみは、頑張りすぎ……。
いたわるような志帆の言葉がリフレインしている。
それでも今が頑張り時なんだ。
上手に息抜きをしながら悔いのないようにしっかりと基礎を積み重ねて行こう。
私は、椅子から立ち上がるとそろそろとじゅうたんの上に足を投げ出して座った。
大きく足を開くと、そのまま上体を少しずつ前に倒す。
じゅうたんの上に胸がぺたっとつくほど、私の体は軟らかくない。
いたたた……と思いながら、可能な限り上体を前に倒してしばらくその姿勢を保つ。
高校時代なら体育の授業があったけれど、浪人生の今は運動する機会がない。
篠原とのデートで、私はそれを痛感したのだった。
体を動かさないと言う事は、血のめぐりが悪くなって頭の働きにだっていい影響を及ぼすとは思えない。
だから少なくとも無事に試験を終えるその日まで、気分転換を兼ねてストレッチ体操を続けよう。
ほんの十分か十五分程度だったけど、軽く体を動かした事で、頭はすっきりとして体も軽くなった。
運動不足だと言う篠原の行動パターンを見習いたいと言えば、聞こえはいいけれど。
実は……篠原に影響されたい気持ちがちょっと……いや、大いにあった。
◇
月日が早く過ぎていくのは、受験に向けてのスケジュールが事細かに立てられているからだろうか。
落ち込みから完全に抜けきれず、能率の上がらない勉強をしていた年度初めは、こんなに月日が早く経つなんて思わなかった。
願書を提出してからと言うもの、無心に恵成のカリキュラムをこなしていたら、私にとってはこの年末年始の時期が一気に近づいてきたと言う感覚しかなかった。
受験生にお正月などない。
恵成予備校では、大晦日も元旦も授業を行っている。
そのあと、二日三日は閉校になったけれど、四日からは再び授業が開始された。
――センター前日。
「試験会場には魔物が棲んでいる」
隣の席で、希代子がうつむいて、くっくっく……と笑いをこらえていた。
最後の総仕上げを終えた今、徳次郎先生が真顔でこんなことを言ったからだ。
教室内の、あちらこちらで笑い声が聞こえる。
それにしてもこの言葉はツボにヒットする。
徳次郎先生は、生徒たちの反応を満足そうに見渡すと、即座に付け足した。
「と言うのは冗談だが……」
先生はさらに話を続ける。
「試験独特の雰囲気に呑まれて、本来の自分を見失うなと言う事だ。すらすらと問題を解く自分をイメージトレーニングしてきたろう? 君たちはよく頑張った! 結果は必ずついてくるぞ」
今、笑っていたクラスの子達が途端に神妙な顔になる。
いよいよ明日だ。
恵成のシールを貼った合格祈願のお菓子が配られ、最後に生徒たちは一人一人徳次郎先生と握手を交わして教室を出た。
「じゃぁ、明日。試験会場で会おう」
篠原と希代子と私は、恵成予備校の建物の前で、それぞれの帰宅の途についた。
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