第二章 赦されざる罪人の願い
チベット平原。
それは東西に約二〇〇〇キロメートル、南北約一二〇〇キロメートル、面積約二五〇〇〇〇〇平方キロメートル、海抜の平均は四五〇〇で、低いところでさえ四五〇〇メートル、高いところならば五五〇〇メートルにもなるユーラシア大陸の中央部に広がっている世界最大、最高の地点に位置している平原である。平原の南にヒマラヤ山脈、北にアルティン山脈、西にカラコルム山脈、東には横断山脈が走り、七〇〇〇メートルから八〇〇〇メートル級の連峰が連なっている。また、黄河、長江、インダス川、ガンジス川など、数々の文明を抱いてきた大河の源流や水源がこのチベット平原にあり、今でもなおその大河は幾万もの人々の生活を支えている。
そんな雄大なチベット平原の街、チベット仏教の総本山・ラサを見下ろす小高い丘の上に、カーキ色のマントにすっぽり身を包んだ少女が、歩哨役の兵士のように立っていた。
「……寒い」
少女は、カーキ色のマントに口元を埋めながらボソリと呟く。
少女の名は、闇夜棘路。
カーキ色のマントの上に流れる腰まで届く黒髪にあどけない顔立ち。今はカーキ色のマントによって隠れているが、彼女は身体の線にもまだ若干の幼さが残っており、十五から十七歳程度の少女だった。が、そんな若輩な彼女の正体は東洋で絶大な力を誇る巨大組織【世界呪術文化保護連盟(通称・東洋陣営)】の諜報活動を一手に引き受ける【血塗れ衆】のトップ・隠密頭と呼ばれる地位についていた。
「……遅い」
彼女は二十歳もいかぬ少女だ。
しかし、そんな彼女は数ヶ月前に極東の小都市・紅玉市で西洋陣営特別強襲部隊【我が主よ、何故私をお見捨てになったのですか(エリ・エリ・レマ・サバタクニ)】を『非日常の世界』屈指の運び屋『完全逃亡』の協力を得、壊滅的打撃を与えたという驚くべき戦績を残した『隠密頭』の名に恥じぬ実力者だった。
と。
「隠密頭。ご足労をおかけいたしました」
「こんな辺境の地まで……。資料なら我らがお送りしましたのに」
同じくカーキ色のマントに身を包んだ、二人組の若い男が音もなく闇夜棘路に歩み寄る。
一人は茶髪で細身、もう一人は短く切り揃えられた黒髪に難いが良い。
「いいのよ。あたしだってずっとデスクワークなんてやってられないもの。―――それで、壊滅したインド支部の、状況は?」
闇夜棘路の問いに、茶髪細身が口を開く。
「現在【大老会】直轄の第一師団が現場を完全封鎖。恐らく事後調査中だと思われます」
「―――やっぱり【大老会】が直々に動いてる、か」
「ご命令通り、【血塗れ衆】屈指の手練れで編成した特別小隊を現地へ派遣しましたが、何せ事後調査を行っているのは【大老会】直属の第一師団……。異様に警戒が厳しくて侵入することですら、未だ叶わぬ状況でして……」
そう、黒髪太目が補足する。
「この件は、まだ組織全体には知れ渡ってない。だから【大老会】は必死になって事後整理か」
「如何なさいますか?」
心配そうな茶髪細身の声に、闇夜棘路は、
「このままでいい。特別小隊はそのまま侵入する機会を覗って、可能ならば即座に潜入を実行して。責任はあたしが取る。それからウチの人員、誰か【対西】の水瀬光輝に回して、どんな手使ってでも彼が握っている情報引き出してきて」
「御意のままに」
二人は揃って軽く一礼。
「行って」
ババッ、と。
派手な風音を立て、二人は飛ぶ。
ふう、と一息付いて、闇夜棘路はマントの中から手を出して前髪を掻き上げた。
それから、いくらか考える。
インド支部をたった一人で潰した『魔女』。
その事実を必死で揉み消しにかかっている【世界呪術文化保護連盟最高意志決定機関・大老会】。
その事実を探らせようと【血塗れ衆】を動かすキツネ顔の宰相。
その事実を握っているような素振りを見せる【対西洋戦略参謀本部】水瀬光輝。
組織内の三勢力が絡み合う事態に、闇夜棘路は困惑する。
(……、)
まだ、【大老会】の目的は理解できる。
インド支部壊滅の報が組織全体に広まると、確実に組織全体が動揺する。組織は巨大だから動揺が収まるにはかなりの時間を有するだろう。こうなれば西洋に付け入る隙を与えてしまいかねないし、最悪組織自体が空中分解してしまう可能性だって否定できない。それを防ぎたいために【大老会】は必死になって情報統制、証拠隠滅に動いている。理由は非常に単純且つ明快だ。
が。
キツネ顔の宰相と水瀬光輝。
この二人の目的がわからない。
どうして『西洋対策の最前線』に立つ水瀬光輝が『東洋魔術世界の内部』の出来事に干渉するのか。水瀬は組織の内情に目を向けている暇なんて無いはずなのに。
どうしてキツネ顔の宰相は【大老会】が必死に揉み消そうとしている案件に興味を示しているのか。宰相というポジションはあくまで【大老会】の補佐、両者の目的は一致していなければならないのに。
いろいろな可能性がある分、真実がよく見えない。
そもそも。
「どうして『魔女』が紅玉の地に現れたのか、それが分からないのよね。そして何の因果かその『魔女』を撃退した一人が藤崎美鈴、となれば貴方なら分かるんじゃないの? 確か―――」
はぁ、と溜め息を付いて、
「……『青龍』さんだっけ?」
「流石、だな」
岩陰から、スッと姿を現した『それ』は、逞しき肉体に、頭部からは流れるように長く壮麗な銀髪が淡く儚く揺れていた。着衣は平安貴族が着用する狩衣に、頭部に烏帽子、漆黒の沓が地を鳴らす。腰には金色の飾り太刀が備え、手には畳まれた褐色の扇が握られていた。
「当然よ。あたしを誰だと思ってんの?」
クスリと、闇夜棘路は優しく、けれども緊張感を一切解かずに微笑む。そんな闇夜棘路に対し、青龍もまた小さく笑う。
「結構本気で隠れてたんだけどな。まあ、先程のお二人さんに気付かれなかっただけでも良しとするか」
「痛いトコ、突いてくるのね。でもあの二人はまだ駆け出しであたしからすると期待の新人ってとこよ。で、貴方はどうしてこんなチベットまで?」
青龍は、笑う。
けれど、それはどこか違っていた。
無理矢理に、破滅的な笑みを浮かべたまま、青龍は言った。
「遺言を、果たしに来た」
一
「つまんないー」
創成告知・リオーナ=オルフェニスタは、足下に転がっている『物体』を見下し、二丁の拳銃をクルクルとパフォーマンスのように回す。
そして。
「やっぱジジイの目も老眼になっちゃったんだねー」
叫ぶだけ叫び、創成告知は足下の黒い『物体』に片方の拳銃でポイント。その先にはボロ雑巾のように転がっている世界崩壊と、彼の周囲に散らばる無数のゴム弾。どれも世界崩壊の血で若干汚れていた。
「アンタもそんなにジジイのためなんかにガンバらなくていいのにー」
ウンザリと創成告知は眼下に転がっている世界崩壊を眺めた。世界崩壊はまだ戦意があるのか、ピクピクと指の関節を動かし、何とか立ち上がろうとしている。だが、所詮やれることはそれだけ。動くのは指の関節数本だけらしく、絶対に戦える状態にはない。寧ろ、ここまでやられたにも拘わらず『戦意を持って指の関節を動かせる』だけでも賞賛に値するくらいだ。
「ホント、もーちょっとやれると思ったんだけどな〜。がっかりー」
そう言いながら、トントンと右で握る拳銃をマッサージ器のようにして肩をげんなりしながら叩く。
「魔弾を封じるテクはいろいろあるのにそれすら気付かない。判断力も無し。思考力も無し。ホントに魔術師としての素質もないんじゃないですかー?」
吐き捨てると背を向け、
「ジジイ。私より弱いんならこの件はお断り。ってことで私はこれからRISEの新曲を、」
「創成告知よ」
「今度は何!?」
「―――世界崩壊を、甘く見るな」
「はァ? 何言ってんのよ? 私より弱いってことは証明されたからいいじゃないー」
「そうだな。だが、よく考えてみろ。創成告知よ」
シルクハットの鍔の下から見え隠れする不敵な笑みが、しわくちゃの顔に映し出され、
「口は動くらしいぞ?」
は? と。
創成告知が、老紳士の笑みの意味を理解するより早く―――
「其れは、大いなる神の御使い」
そのまま。
無様に、地に倒れ伏したまま、世界崩壊は告げる。
「背徳の二都を、火焔の大矢にて焼き払いしその恢々たる力は『神の人』の名に相応しく―――」
ジワジワと、世界崩壊の身体から、純白の波動が滲み出、何かを形作っていく。
「な、」
旧約聖書・創世記、一八章から一九章に、とある都市の伝承が記載されている。
その背徳の都の名は、ソドムとゴモラ。
そこに住まう人々は、快楽に溺れ、飢え苦しんでいる貧乏人がそこにいるのにも関わらず、思い上がり、その腹にたらふく食料を詰め込んでいた。
この様子を見た神は震怒した。
故に、神は『左に侍る者』に命じた。
瞬間。
天より降り注ぐ火焔と硫黄が、ソドムとゴモラの飢えに雨あられと降り注ぎ、近隣の町や村までも巻き込んで、あっという間に背徳の二都を焼き払ったのである。
「―――時にその御使いは、汚れ無き慈母へ救世主の受胎を聖告する」
より、形が鮮明になる。
瞳に映るは、大いなる翼。
四枚の、純白の翼。
「な……」
創成告知は、まさに絶句する。
「神の御使い」
何をどうして良いのか分からず、ただただ混乱する創成告知の背後で、老人が迫力に圧倒されながらも呟く。
「背徳の街を焼き払い、そして『神の子』の誕生を告知した『聖告天使』か。どうする創成告知よ?」
天使。
当時、ヘブライ語訳だった聖書をギリシャ語訳にした際に誕生した『ANGELOS』という『使者・伝令者』という言葉が『ANGEL』の語源である。
旧約聖書・創世記に描かれている神の七日間に渡る世界創造。一説によると、その七日間に渡る天地創造の前に天使は既に神によって創造されていたという。また、原初人間は土より創造されたが、天使は炎から創造され、普段天界に滞在する彼らの身体はエーテルという物質により構成されており、実態を持たない霊体だった。そこで一度神の命を受ければ、人間が住まう地上に出現し、実体を持つようになると考えられている。
一般的に、人々が思い浮かべる天使のイメージは大きく二つあるだろう。
一つは、翼を持ち神々しく輝いている姿。
一つは、愛のキューピットと言われる裸に翼で弓矢を握っている姿。
しかしそんなイメージは後世になって勝手に想像された物に過ぎない。
本来、天使には人々を見守る加護者、時に神に反する行いをする者や都市を裁く絶対的な制裁者、神の意志を人々に伝える使者としての神に創造された『物』に過ぎなかった。
しかし『神の道具』たる天使は、十一世紀初頭から神学者たちによって研究の対象に上げられるようになった。これにより、聖書やその他の偽典・外典に天使の名が頻繁に上げられるようになり、次第にその役割や能力や階級が神学者たちによって定められていき、それに準じて天使の役割も単なる制裁者・伝令者に留まらず、一般的な例を挙げるならば、人間の霊魂の管理、天体の運行、天界へと続く門の警備などなど、実に多様化していった。
やがて、天使の役割―――特に翼を有する天使の役割は一人の学者の一説によってこのように定義付けられる。
一、神のみの言葉を伝え、神の意志を遂行するための使者
一、『神の子』の守護者かつ付添者
一、魂を天国へ導く者
一、儀式の重要な参加者
一、最後の審判の使者
しかし、そう定義付けられても結局絶対的に変わらぬ一点がある。
それは、強力な神の御使いだということただ一点。
神の命令ならば、文明一つ、国一つ、街一つ、容赦なく焼き払うその人間の力など疾うに及ばぬ絶対的な力を行使する、言わば『神の兵器』なのだ。
それを、
「召喚……?」
全身打撲の重傷で突っ伏したままの世界崩壊は何も語らない。
世界崩壊から溢れ出たそのオーラが象る、四つの純白なる翼―――未だその翼しか顕現しておらずも、神の左に侍る大天使・聖告天使らしき『それ』は、しっかりと世界崩壊を守護するように、創成告知と世界崩壊の間合いに構えた。
「……―――ッ!」
ゾクッと、全身隈無く駆け巡る悪寒。
創成告知の身震いが止まらない。気持ち悪くて、嫌な汗が創成告知の拳銃のグリップをグッショリと濡れる。が、それは掌だけのことではなかった。創成告知の顔に、両腕に、両足に、腹部に、ブワッと汗が噴き出し、己に命の守護者・魔弾が装填された二丁の拳銃を『握っている』という感覚、触覚すら幻想に思えてきた。
当たり前だ。
相手は、神の御使い。
相手は、神の都、天界の住人だ。
人間程度が敵うわけ、ない。
いくら『魔術師』という人間の異端であったとしても。
人間が使う『魔術』など、『神様』の真似事でしかない。
基本的に『魔術師』が行う『魔術』とは、神話や伝説で伝えられる『神様』が起こした『奇跡』を人間が無理矢理、システム化、マニュアル化、公式化しただけの存在。つまり人間が行う『魔術』とは起こるべきして起こる現象なのだ。
緻密に計算された公式通りに呪文の詠唱や儀式を行えば、自ずと結果が出る。
数学の教科書に載っている公式通りに数字を当て嵌めると自ずと答えが出てくるように。
人間が使う『魔術』は、愚かにも『神様』の『奇跡を起こす力』を得ようと必死に必死に藻掻いて、その『奇跡』を自分たちの手で起こそうと頑張って研究した結果でしかないのだから。
つまり『神様の奇跡』より圧倒的に劣る『人類の異能』に過ぎないのだから。
だから。
神様に最も身近な天使が使う『神様の奇跡』が、神様の真似事しかできない『人類の異能』に勝てるわけがない。
「創成告知」
確かな、世界崩壊の声が響く。
「お前が、降伏してくれんだったら、これ以上の『召喚』は、やめる」
至極当たり前のように、
「降伏しないんだったら、お前を、倒す。余裕は、ないから……手加減なんて、出来ねぇ」
突っ伏したまま、世界崩壊は顔を地面から離すことすら出来ないのに。
「さぁ、どーする、よ?」
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