第九章 黒雨に打たれし真紅の花蘇芳
突然だが、世界崩壊は薄暗い部屋の床に転がっていた。
(あ〜あ……)
光が一切無い部屋に仰向けで転がっているため、眼前には消灯してあるアンティークな照明らしきシルエットが確認できるが、それだけだ。よくもまあこの戦闘で破壊されなかったなあとちょっとずれたことを世界崩壊は思う。
(こりゃ後片付けが大変だな)
世界崩壊は重心を左に倒して勢いで身体を起こし、片膝を付いた。急に身体を移動させたからか、ちょっとクラクラする。周囲を見渡す。暗闇のせいで細部まで詳しく窺い知ることは出来なかったが、世界崩壊の周囲一面瓦礫の山らしいことは理解できた。粗方、全て世界崩壊がこの部屋に『突入』した際に崩壊した構造物だろう。どちらにしろ、行動を起こすには目が暗闇に慣れてきたときにした方が良さそうである。
(にしてもアレだな。あの土の腕に掴まれて投げ捨てられて何枚もの壁貫通したってのに軽い打撲で済むなんて、あのジジイ、コートにエライ術式仕込みやがったな……)
身に纏う少し破れた黒いコートの裾を掴んで気配を探ってみる。独特の魔術的な雰囲気が指先から伝わってきた。
(術式の型は、古いな。こんな術式見た事ねぇ……けど)
「……親父?」
《現実逃避?》
「なっ!? バカ、いきなり声かけてくるんじゃねぇよ!!」
《惰弱。方今戦闘中》
「うるせぇ。言葉一つでホイホイ万物操れるバケモンどーやって相手にすりゃ良いんだよ?」
《汝、弱者也。我、力、不弱為》
「……確かに、俺が『天帝』の力自在に操れればあんなヤツ屁でもねぇ。けどよ、俺はまだ癇癪玉爆発させる程度しか出来ねぇからこーやって無様に壁に叩き付けられて転がってんじゃねぇか。全く、このコート無かったら全身打撲、骨粉砕で死ぬ所だったぞ」
あのジジイのおかげで命拾いするなんて俺も落ちたモンだよと皮肉満点に愚痴った後、世界崩壊はポンポンと埃まみれとなった命の恩人たる黒のロングコートの埃を落としていく。
(痛ッ〜。マジで全身傷だらけかよ)
しかし致命傷ではない。どれも小さな切り傷や軽い打撲程度だ。数分前まで、リバー=サイバティック操る『土で出来た巨大な腕』や『散弾のように飛び散る小石』や『チェーンソーのように振動する風の刃』や『荒れ狂う炎の大波』の攻撃を浴びせられていたのにどれも致命傷に至っていないということは殆ど奇跡みたいな物だ。
(後でこの術式教えて貰おうかな……)
ゆっくりと迫ってくる足音を聞きながら、改めて周囲を見渡す。暗闇に目が慣れてきたから先程よりはよく辺りの様子を把握できるはずだ。
「ここが武器庫でしたなんて都合良いこと起きねぇかねぇ」
嘲笑しながら目を凝らす。
「……、都合いいじゃん?」
だが、そこは間違っても武器庫ではなかった。
堅牢な壁。
窓はない、漆黒の空間。
二〇畳ぐらいの床面積。
高い天井。
「演出、しすぎじゃねぇか?」
あまりの『偶然』に、オモシロクなってくる。
―――中央には、巨大な断頭台。
「刑場かよ……。思いっきりアウェイじゃん」
「因果というヤツだよ」
赤毛が、漆黒に映える。
一
そこはどことも知れない闇の空間だった。
その空間の中央にはドーナツ上の円卓、椅子の数は一一個。
円卓の中央部、穴の空いたそこには煌々と火炎が燃え盛り、この空間唯一の光源となって、大理石の床、アーチ状の天井、四方の壁、等間隔で並ぶギリシャ風石柱のほんの一部を僅かに照らしていた。
「―――現状報告を」
ローブを纏った男の指示に、四〇代後半と思われる男が資料を手に椅子より立ち上がる。
「現在、西の栄光八手が『行動計画書』に従い、諜報活動、また予定通り作戦行動中。成果は『行動計画書』に付随させた『成果予測表』だと思われます」
「ふむ。障害は?」
「栄光八手には西の保安機関の中枢部に潜り込ませておりますので、大概の障害は公権力を駆使すれば問題は無いかと。ですが、報告によると―――」
パチン、と空間に乾いた音が響いた。
「んな相変わらずまどろっこしいな、王冠初手よ〜」
めんどくさそうに言うその男は手に持つ真紅の扇子を揺らす。
「……主のご計画を踏みにじる気か、『正義五手』……?」
「別にんなつもりはねぇんだけどな。オレはただ焼き尽くしたいだけだ」
ニッカリと、正義五手と呼ばれる扇子を握るその男は自信満々に笑う。
「……野蛮ね。正義五手。『知恵二手』さえ居てくれればこんな野猿消してくれるのに……」
それは歌姫のような、艶のある女の声だった。
だが、その声が聞こえた途端、正義五手が握る扇子が嫌な音を立て始める。
「んだと、……『理解三手』」
理解三手と呼ばれたその女は露骨に不快感を表情に浮かべ、
「……口を開かないで」
「焼き豚にしてやろうか? ああ?」
ボソリと、正義五手が呟く。
「……主。私はもうお暇して宜しいかしら? この野蛮な火炎猿と一緒にいたら私に野蛮ヴィルスが伝染してしまうわ」
「正義五手、理解三手、『主』の御前だぞ?」
「そうかっかしなさんな、王冠初手」
宥めるような、別の声が飛んだ。
「私たちにとって主の『行動計画書』は絶対。それは神とて覆せぬ真実。―――そう言いたいのだ、王冠初手はね。理解できたかな、お二方?」
「……『王国十手』」
「まぁ。我が主の崇高なお考えを理解できないんだったら立ち去ると良い。勿論その場合は『裏切り者』と見なして私が斬り捨てるけどね」
一人立つ王冠初手の隣の席で腕を組み、足を円卓に投げ出しているその男・王国十手は毅然と言い放つ。
「ハッ。俺はな、俺たちの中で一番雑魚のお前なんて怖くねぇんだよ」
「勘違いは止してくれ。私はただ君たちの中で『一番弱い』じゃなく『一番功績を残していない』だけさ。主や王冠初手の命令とあれば君なんて瞬殺だよ?」
王国十手は笑いながら、
「何なら、殺り合おうか?」
その言葉、王国十手の挑発に正義五手がガタッと激しい音を立て、自らの席から立ち上がる。
「また始まったね」
「バカ大人のバカ喧嘩が」
「「全く、付き合いきれないね」」
声を合わせる二人の男女。彼らが溜め息を付こうとしたその瞬間、
「―――静まれ」
場の雰囲気が、停まった。
ある一定の重圧感、凄みとも言えるその雰囲気が場を支配する。
「仲違いなら余所でやれ。正義五手、お主は席に着け」
「……チッ」
ドカッと、正義五手は主の命令に従い、席へと着く。
「―――王冠初手よ」
「は、」
「事は『行動計画書』に忠実に動いているのか?」
「憂慮すべき事態は今のところは……」
ふむ、とその主と呼ばれる男は微笑い、円卓を囲む面々の顔を若干満足そうに眺め、
「第二段階に移る。各々『行動計画書』の記された行動を取れ。王冠初手、お主はここに集まれなかった者たちへそのように伝えよ」
「は、……」
王冠初手は畏まり頭を下げ、席を立つ主は言い捨てた。
「諸君、全面戦争に備えよ」
二
「なっ……」
目の前の光景に、アレウス=カロッサスは言葉を失った。
それだけではない。
心臓が、呼吸が、思考が。
人間が生命維持に欠かせない動作さえもが止まったかもしれない。
そして、改めて己の目を疑う。
十メートルほど先には、血塗れになった十六歳ぐらいの女の子。意識を失って平伏していた。彼女の黒いロングコートが死体を隠すシートのような役割を果たしているように見え、そこから乱れた金髪と傷だらけの顔面が覗く。
その顔は、知っている。
身体全体は漆黒のコートで隠れているが、その顔に覚えがある。
名前が、思わず口から漏れる。
が。
その名が漏れ出る瞬間、顔を隠すように、一人の男が立ちはだかった。
「アレウス=カロッサス、か」
グレイス=ヴォルバーク。
組織全体の秩序を司る第一四六課課長・リバー=サイバティックの腹心して、実質的なナンバー二。巨大な褐色の十字架を肩に担ぎ、表情は前髪によって覗うことが出来ないが、声の調子や唯一見える口元から彼女をここまで追い詰めたという罪悪感は一切抱いていないことは明らかだ。
「遅かった、な」
殺そうと思った。
「……オリビア」
直前で殺意の暴発を押し込めながら絞り出すように、
「隊長を、呼んでこい」
背後を振り返らず。
声が震えている。
「……了解」
馬鹿みたいに真面目な声、同時にアレウスの耳を連続する靴音が打ち、やがて消えた。
「賢明な、判断だな」
「―――どーも」
炸裂しそうな心を、あからさまな殺意に負けてしまいそうな心を、必死に理性で強引に押さえつけるも殺意が爆発するのは時間の問題だった。それどころか、次第に心が殺意に乗っ取られるのを望んでいるようにも思えてくる。
「お前、」
「理解、出来ない。お前ら四人は、我らの敵、だ。『敵』を、葬って、何が悪い?」
「……、」
「それに、この女は、馬鹿だ。初めて、顔を合わせた時から、思っていたが、ここまで、馬鹿だった、とはな」
口元が、ニタリと歪む。
「この女は、自らの『敵』を、殺そうとする、意志が、感じられない。『魔弾』という、ある意味、絶対的に、殺人に適した武器を持ちながら、狙うのは、致命傷に、ならない、場所のみ」
考えることを、放棄したくなる。
「全く、西洋最強の、強襲部隊【我が主よ、何故私をお見捨てになったのですか(エリ・エリ・レマ・サバタクニ)】から、左遷された、理由も、理解できる。人を殺さない、魔術師など、魔術師に、非ず。お前も、そう思うだろう? おっと、お前も【我が主よ、何故私をお見捨てになったのですか(エリ・エリ・レマ・サバタクニ)】から、左遷された、人間だったな。原因は、確か、上官を殴った、だった―――」
「アイツは、な」
ピクリと、グレイス=ヴォルバークの口元が動いた。
「殺そうとする意志がないんじゃない。人を『殺せない』んだ」
故に、彼女は『二丁拳銃』なのだ。
そもそも二丁拳銃というものは、見栄えが良い等々の理由で映画やドラマでは多用されるが、実は本当に使い勝手が悪い。二丁拳銃という戦闘スタイルは、火器を使用する兵士が最も考慮すべき事柄である『弾薬の再装填』を全く考慮していない戦闘スタイルなのだ。さらに『二丁、拳銃を握っている』ということで、通常の倍の反動や両手が埋まってために再装填に手間取ってしまうという、ある種『戦闘では致命的な欠点』を多く抱えているために現実問題、実戦には不向きな戦闘スタイルと言える。
けれど。
彼女は『それだからこそ』二丁拳銃を選んだ。
必要以上に人に危害を加えないために。
自ら『二丁拳銃』というハンデを背負ってまで、必要以上に人に危害を加えないために。
自分の身を危険に曝してまで、必要以上に人に危害を加えないために。
「アイツは父親に良いようにサンドバックにされ、目の前で母親が父親に殺され、最後にアイツは自分の手で父親を殺したんだ。アイツはな、裏路地で汚れた人生送ってた俺よりも、異端審問を名乗る魔術結社から『神の敵』として追い回されて自分以外の一族全員を殺されたオリビアよりもな、荒んだ人生送ってきてるんだよ!!」
「知ってる。敵の、情報は、入手済みだ。この、女の、過去、お前の、生い立ち、全部」
「な……」
「納得、できないなら、改めて、言おう」
ゆっくりと意識のないリオーナ=オルフェニスタの近くまで歩み寄り、彼女の横っ腹を蹴り上げた。堅い革靴がリオーナの腹へと突き刺さり、その小さな身体が無抵抗に転がっていく。
「テメェ……ッ!」
瞬間、皮一枚保ち続けていた理性が木っ端微塵に吹き飛ぶ。
自由になった殺意という激流が心を一瞬にして覆い尽くし、支配した。
拳に目一杯の力を込め、握り締めた。
拳が悲鳴を上げるが、アレウス=カロッサスはもはやその痛みを感じない。
その距離二メートル。
「それを、考慮した上で、この女には、嘆息せずには、いられない」
その距離一メートル。
「人形使いの、クセに、接近戦か」
「黙れ、―――よッ!」
噛み付くようにアレウスは武器を持つにも拘わらず、その間合いに突入し、その土手っ腹に正拳突き叩き込もうと拳を振るった。
「威勢が、良いのは、認める」
ドッ、と、静かな音が響く。
「だか、そこまで。無駄な、足掻きだ」
同時に、身体が、止まった。
(―――な?)
動かない。
指先一つ、関節一つ、瞬き一つ。
それでも、何か導かれるように視線はゆっくりと『落ちた』。
その先には、
―――突き刺さった十字架の先端。
「冗、談……!」
刹那、十字架が勢い良く引き抜かれ、アレウス=カロッサスの身体が仰向けに崩れ落ちる。アレウスは未練がましくグレイス=ヴォルバークに最後の力を振り絞って手を伸ばし、その手で褐色の十字架を掴み取った。
「この、―――離すか、よッ!!」
が。
「結構。こちらから、振り払おう」
鬱陶しそうにグレイスはアレウスの血で染められた十字架を振り抜き、
「く、そ……」
その手は振り解かれ、
「人形を、持たない、人形使いなど、ただの、クズだ」
アレウス=カロッサスが地に伏した瞬間、待ち侘びたように鮮血が湧き水の様に噴き出した。
三
集団で強襲してくる火球の弾丸を、黒いコートをはためかせ、世界崩壊は身体を横に捻って躱し、なおかつ足下から突き上げるように伸びる土の巨大な腕に対応。バックステップ、同時に首を切断する軌道で突き進む四つのカマイタチに頭を下げてこれを避け、今度は宙から追撃してくる蛇のような土の腕に目をやり、
「―――真正面に前進、カマイタチ、腕を切断」
小さく呟き、ブゥゥン……ッと、蜂の羽音のような振動音を響かせ、世界崩壊の正面から風の刃が一つ形成、刹那、風の刃が巨大な土の腕を縦に両断。その隙をついて一気に世界崩壊は駆け出す。
世界崩壊が眼前に見据えるは、リバー=サイバティック。
「詩人は詠う。大地よ、我が間合いに敵を入れるな」
発言にコンマ一秒程度のタイムラグ、が、大地は素直にその命令に従い、世界崩壊とリバー=サイバティックの間に大きな地割れを引き起こすも、素早く懐へ手を突っ込み、
「ヒュッ!」
無数の短冊サイズの紙が空中にばらまかれ、世界崩壊は両手を打った。
―――変化。
単発の手拍子、それを合図に短冊サイズの紙、全てが一斉に燕へと姿を変えた。
「な、」
「『元々』こんな手品はお手のモンだったんだけど『体質』が変わっちゃった問題で最近までこんな芸当出来なかったんだけどさ、一週間もあったから準備する期間は十分。冗談抜きにして『天帝』の魔力に反応させるようにセットするのは難儀だったけど、ホント頑張ったよ、俺」
腕を一閃、膨大な羽音の元、燕の大軍勢が一斉にリバー=サイバティックに襲い掛かった。
リバーの表情に苦悶の色、
「詩人は詠う、大地よ、大気よ、襲来する敵を―――拒絶―――ッ!」
捲し立て、リバー=サイバティックの前を守るように大地から壁を突き破り数十本の腕が、上空を防衛するように幾重にも折り重なった風の刃が顕現、即座に燕の大軍勢と衝突。それは刹那の衝突。引き裂かれ、細切れにされた紙が空中から降り注ぎ、貫かれ大量の風穴が空いた大地から伸びる腕が鈍く崩れ、風の刃が嘴に切り裂かれ、生き残った一本の腕が撓り、数えるほどとなった燕の編隊へと不格好な五指の指を見開き、握り潰した。
「中々……、」
粉雪のように舞う燕たちの残骸をその身に、自らが創り出した土の腕が無惨な視界の端に映しながら、いつの間にか大きな地割れを飛び越え、リバー=サイバティックの間合いへと侵入した世界崩壊に向かって適当に賞賛の笑みを踊らせ、
「詩人は―――
「結局」
飛び込んだ世界崩壊は自嘲気味に呟く、
「俺の身に余るこのバカみたいな力はイメージ力が勝負。イメージした物が現れる座標・重量・堆積・密度・大きさ・質感とか、とにかく出来るだけ正確に具体的に『想像』すれば想像した物が現実世界に映し出させる、簡単に言えばそんなバケモンみたいな力の持ち主なんだよな、俺は」
それは、リバーの『正面にいる世界崩壊』の声ではない。
リバー=サイバティックの目の前で、世界崩壊が七つに散っていた。
「俺は今までイメージしやすい『物』は小さなピンポン球程度だと思ってた」
「けど、違った」
「勘違いも甚だしかった」
「ま、盲点ってヤツだな」
「さっさと気付けよって話だよ」
「いや〜、我ながらアホだった」
「「「「「「「俺自体を想像すれば簡単だって事に気付かなかったんだからな」」」」」」」
七つの世界崩壊はグルリとリバー=サイバティックを取り囲み、
「「「「「「「さ、幕引きだ。―――穿て、光線」」」」」」」
その動作は、あたかも鏡でも見ているように、一切のズレはない。取り囲む全員が、指先を中心のリバー=サイバティックへと向け、その指先からは爆発的な破壊力を覗かせる純白のエネルギーがチラチラと不気味な輝きを見せている。
「く、詩人は詠う。大気よ、我が敵を拒絶―――ッ!」
バフッ! と、リバーを中心にして烈風が巻き上がる。
「「「「「「「ち、」」」」」」」
思わぬ事態に七つの世界崩壊は一瞬後退、再度構え直し―――
「詩人は詠う。―――世界よ、炸裂せよ」
ドンッ!
と、凄まじい熱風と爆炎が全てを吹き飛ばした。
四
足を止める。
「今の音は……」
揺さ振るような振動と轟音に、着古したクラシックスーツにシルクハット、傘のような茶色のステッキを握る老紳士老人が足を止め、その方向に目を向けた。
「あの方角は、……刑場周辺ですね」
「ふむ。もはや、ここまでとはな」
「申し訳ありません。まさか、ここまで……」
資料を片手に、女は申し訳なさそうに老人に謝罪する。
「そう気落ちするな。世界崩壊らにヤツの穂先が向けられたとき、私が動いていればこのような事態に陥らなかったはずだ」
バタバタと複数の足音が近づいてくる。
数は、数十。もしかしたらそれ以上かも知れない。
それでも、老人はシルクハットを押さえながら冷静に言う。
「下がっておれ」
「しかし、この程度、私が……」
「よい」
平然と手に持つステッキで地を打って、
「デスクワークばかりでは、身体が鈍るのでな」
一歩、老紳士は前へ。
「お気をつけて。閣下」
バチリと、ステッキが打った地点が歪む。
「久しいな。サラマンダーよ」
咆哮が空間を揺らした。
五
その日。
幼女は『いつも通り』身体中に傷を、痣を作り、顔は吐瀉物塗れになって床に転がっていた。
そして男は『いつも通り』転がっている幼女に罵声を浴びせる。
『テメェなんざ、生まれてこなきゃ良かったんだよ』
男は嗤う。
『テメェなんて、死んじまえばいい』
そのまま、男は大爆笑して幼女の腹を蹴り飛ばすのだ。
だが、この日は違った。
『もう止めて、あなた!』
別の声が割って入ったのだ。
ボンヤリとした視界の中、幼女はその声の主を母親だと認めた。
『黙れ、クズ女! お前がこんなクズ産むから悪いんだ!』
『いい加減にして! 私を憎むならこの子を殴るのはお門違いよ!』
賢明な母親の声。
幼女にも、母親の必死さを理解することはできた。
が。
『黙れ、黙れ黙れ―――ッ!』
途端、怒号が飛ぶ。
間違いなく、それは男の声だった。
『俺が全てだッ! 俺が王なんだッ! 俺に従わないのなら死ね!』
男の怒号は狼の遠吠えのよう。
『きゃ……』
金属が、擦れるような音がした。
その男はL字型の『何か黒い物』を母親に突き付けながら、
『は、もう俺は赦さねぇ。俺は神だ。偉大なる神に従わねぇんだったらこのクソガキと一緒に死ね』
そんな男に対し、母親は怯むことなく一歩前へと踏み出した。
『銃なんか下ろ』
語尾が、爆音によって掻き消された。
それが、母親最後の言葉だったのだ。
それは、幼女が最初に目撃した殺人現場になった。
だが。
幼女はそんなことに構っていられるだけ暇ではなかった。
幼女には、余裕がなかった。
頭の中で、何かが急激に弾けた。
今まで積み上げてきた物が、跡形もなく吹き飛ばされたような奇妙な感覚に犯された。
『ふん』
L字型の『母親を血塗れにした何か黒い大きな音がする物』を男は投げ、それは奇しくも幼女の眼前まで転がり、そこで停止した。
其れを、小さな両手で握る。
幼女は頭の中で積み上げてきた物全てが崩壊するのを淡々と、理解して。
幼女はフラフラと立ち上がる。
彼女は理解していないが、気付いていないが、壮絶な笑みを浮かべていた。幼女が浮かべる『笑顔』の概念を一方的に且つ一瞬にして粉砕しながら、立ち上がる。
見よう見まねで、母親を血塗れにした男がやったようにと、『穴が空いている方』を何処かに歩いていく男に向ける。
男は気付かない。
刃を向けられていることに、気付いていなかった。
そのまま幼女は、L字の付け根に付いている『出っ張り』を引いた。
幼女もまた気付いていなかった。
その時、自分は狂笑していることに。
気付かないまま、その壮絶な笑みを崩さず。
―――再び壮絶な爆音が、轟いた。
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