戻った…?
大会から一夜明けた土曜日の朝。私はいつもと変わらぬ朝を迎えた……はずだった。
「んむぅ…。……んむ?」
朝日がカーテンの隙間から顔に差し込んできている。それに鬱陶しく思い、ボソッと口を着いて出た声。その声に、自身、首を傾げることがあった。
(なんで声が低いんだろう……?)
女の子になっている私には、このようなやや低い声(混声合唱のテノールぐらいだと思っていただければ十分です)が出るはずがない。
そこで、目を閉じながら一生懸命考えた。
考えに考えた。
そして、三つの選択肢が生まれた。
一、何か悪いものでも食べた。
二、これはきっと夢だ。
三、男に戻った。
一つ目は、ほとんど無視してもいいと思う。なんせ、昨日は姉さんが作ってくれたオムレツを美味しくいただいたから。
二つ目は……まだ分からない。
どれ、確認でも取ってみますか。
そうして、頬っぺたに手を持って行き、思いっきり抓った。
「痛い痛い痛い!」
ふぅ、痛かった。
これは、二つ目の可能性も消えた。
とすると、残るは三つ目の『男に戻った』だけ。
怪しく思ったので、ベットから起き上がって、部屋の鏡の前に立ってみることにした。
そこには、女物のパジャマを身に着けた、小柄な少年が写っていた。
「も、戻ったぁ!」
女物のパジャマを身につけた少年は、鏡の中で喜びを露にしていた。
それからしばらくの後、少年……俺はベットに座り、ガックリと頭を垂れていた。
何故ここまで落ち込んでいるかというと、それは身長にあった。
元々、俺は身長が166cmあった。だが、不運な運命により、女の子として生きていくことになったのだ。
その時の身長は、157cm。
そして、男に戻った現在の身長も、157cm。
唯一戻らなかったのが、身長だった。
『はぁ……、俺、チビになっちまった』
溜息を一つ吐き、開け放たれたカーテンの向こう側に広がる青空を眺めた。
今日は、静かな日だった。
姉さんは友達と共に朝早くどこかへ出かけてしまい、今家に居るのは俺一人だった。
ひとまず朝食を食べ、着替えることに。
だが、俺はここで一つの障壁とであった。
それは、着る服がないということだ。
今の俺は、女の時と同じ身長だ。
だからといって、それを着るわけにもいかない。
もし、着たとしたら、一人の変態になってしまう。
まぁ、女の時に、普通に着ているけど……。
でも、今の俺は男だ。
そのぐらいは、わきまえている。
結局悩んだ末に、潮凪中のジャージを着る事にした。
男の時に着ていたものは、もう着る事はないと思って、タンスの奥底にしまいこんでいたのだが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
ダボダボだけれど、別に気にしない。
なんせ、今日は休日だから。
これといって出かける用事もなかったし、誰かが居るわけでもない。
そう思って、自分の部屋から出て、一階のリビングにやって来た。
しーんと静まり返った部屋は、住み慣れた自分の家だというのに、怖さを感じた。
なんだろう。何かが居る気がする。
不思議な感覚を感じ、辺りをキョロキョロ見回す。
すると、一つ変なものが視界に入った。
それは、布団。
リビングの隅っこ。そこに謎の布団が敷いてあった。
しかも、誰かが寝ていると見て、布団の中央部が膨らんでいる。
怪しい。本当に怪しい。
俺はダボダボのジャージの裾を何回か折り、歩きやすくしてそれに近づく。
近づくにつれ、その正体が判明した。
それは、比良だった。
この家に居る、俺が創造した少女が具現化したもの。それが彼女、比良。
その比良は、目の前で静かに寝息を立てているのだった。
「すぅ…すぅ…」
その寝顔は、何時だか書店で売られていたある本の表紙に描かれていた天使のようだった。
俺はその姿を見て、これは起こしてはいけないと思った。
今起こしてしまったら、彼女はとんでもなく驚くに違いないから。
もし、パニックを起こしてしまったら、大変なことになるに違いない。
「このままにしておくか……」
俺は呟き、なるべく音を立てないようにして、リビングを後にした。
慎重にリビングに通ずる扉を閉め、廊下に出たところで来客を知らせるチャイムが鳴った。
急いで玄関に向かい、外に居る人物を確かめる。
そこに居たのは、冬奈だった。
ちょっと待っててといって、掛かっていた鍵を外して、扉を開けた。
そこには、半袖のシャツに、いかにも可愛らしいフリルのついた黒のミニスカートを穿き、長めのソックスを身につけた冬奈が居た。
ひとまず招き入れると、彼女は俺の姿を見て、一言。
「どうして休みなのにジャージなんて着てるの? もしかして、ジャージが好きなの?」
と、嫌味たっぷりに言った。
どうやら、俺が男に戻ったことに気がついていないらしかった。
俺の部屋にやって来た冬奈は、床に持ってきたバックを置くと、その隣に静かに腰を下ろした。
その座り方は、様になった女の子座り。
全く苦にしていない様子を見ると、相当練習したのだろう。
しきりに辺りを見回していた。
そして、ポツリと言った。
「ちょっと前に来たときと変わってないね」
そりゃあ、変わるわけがないだろうと、俺は内心突っ込む。
そう簡単に部屋の内装が変わるわけがない。もし頻繁に変えたとしたら、いくら体力があったって足りないくらいだ。
そして俺は、上体をせわしなくゆさゆささせている冬奈を一人置いて、部屋を出てリビングに向かった。
手短にあったお菓子と、冷蔵庫から取り出したのは、某炭酸飲料の缶二つ。
キンキンに冷えていて、きっと飲んだらとても美味しいだろう。
そんな事を思いながら、冬奈の待つ自分の部屋へと、静かに、そして小走りで向かった。
案の定、冬奈は相変わらずそわそわゆさゆさと、落ち着きなくしていた。
それとも、何か頭の中で好きな音楽でも流しているのだろうか? よく観察していると、彼女の動作に規則性があるのに気がつく。
何か、リズムに乗っているようにも見える。
と、彼女が俺に気がつき、そのゆさゆさダンスはとまった。
「何処に行ってたの?」
冬奈はお菓子と某炭酸飲料の缶を持った俺に上目遣いで問いかけた。
だが、すぐに分かったようで、「あっ、返事はなしでいいよ? 分かったから」とポツリ、言ったのだった。
それから、彼女に無言でお菓子と某炭酸飲料の缶を渡すと、意を決して、俺は口を開いた。
「なぁ、冬奈」
突如響いた低音に、冬奈はビクッと肩を震わせた。
そして、「何で?」と言わんばかりの表情になった。
「俺、今日朝起きたら男に戻ってたんだ……」
言いたいことを簡潔に述べると、冬奈は先程浮かべた表情をさらに強くし、その端正な顔に浮かべていた。
そして、わなわな震える唇から、漸く言葉を紡いだ。
「よ、よかったじゃない……。お、男に…戻れて……」
どもりながらも、その言葉を言った冬奈の目元には、涙が溢れていた。
その涙は、俺が男に戻ったことへの羨ましさから来るものなのか、あるいは自分は男に戻れなかったことへの悲しみから来るものなのかは、俺には分からない。
その後、冬奈は目元の涙を拭うと、溢れんばかりの笑顔を俺に向け、言った。
「由紀が裕樹に戻れたように、私もいつか男に戻れるよね?」
その声には、確かに強さが溢れていた。
これを聞き、俺はこくりと頷き、言った。
「あぁ。そうだな」
俺と冬奈は互いを見つめあい、笑った。
と、いきなり俺の身体が眩い光に包まれ始める。
「えっ、何!? 何が始まるの!?」
冬奈がその光に目を眩ませながら叫ぶ。
「分からない! でも、何か嫌な予感がする!」
俺はそう叫び、まぶしさのあまり目を閉じた。
そして、さらに光が強くなった。
「きゃあ!」
冬奈のものと思われる悲鳴が聞こえ、彼女のことが気に掛かるが、自分自身に起きている只ならぬ状況を理解できないまま時が過ぎ、これが収まるのを俺はただ待つしかなかった。
どれだけ続いたのだろうか?
結構な時間が経過したように思えるのは、気のせいだろうか。
光は収まり、目を開けると、そこはいつもの自分の部屋。
見慣れた内装に、安心した。
「よかった。どこか変なところに飛ばされなくて……えっ!?」
安心したつもりで言った言葉。
でも、先程とは明らかに声の質が違うことに驚いた。
低い低音だったのが、透き通る高音に変わってしまったのだ。
「えっ? 何? 何が起きたの?」
状況があまり理解できないまま、あたふたする。
そして、あまり機能しない頭で状況を確認する手段を考え出した。
「そうだ! 鏡!」
鏡で現状を確認しようとした。
早速鏡の前にやってきて、鏡に映る自分の姿を確認した。
そして、納得。
今朝、鏡に映った少年の姿はそこにはなく、写っていたのは、可憐で華奢な少女だった。
つまり、一時男に戻ったものの、再び女になってしまったということだ。
「な、なんで……」
ショックで何も言うこともなくなった。
私はその場に崩れ落ちた。
ぺたんとお尻が地面に着き、自然と体勢は女の子座り。
また、戻ってしまった。
私の両目から自然と涙が溢れ、頬を伝う。
『せっかく、戻れたのに……』
心の中でそう呟いても、何も変わらないことは分かっていた。
その時、私の隣で気を失っていた冬奈が目を覚ました。そして私の姿を見て、残念そうな表情を浮かべた。
きっと、冬奈も私と同じ事を思っているに違いない。
表情がそう言っていた。
私は思わず、冬奈に抱きついた。
突然のことに驚きながらも、冬奈は私を優しく受け止めてくれる。
私はその後、しばらく泣き続けた。
三十七話目です。
※2011年10月1日…文章表記を改めました。
※2011年10月17日…表記を変えました。