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天悪っ!! ―― 天使と悪魔の恋のお話 ( 改訂版 ) ―― 作者:背谷 燈

第四章 ―― 魔王ハルトの改革記 ナバナス編 ――

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第四十七話 リューシェの身体は異常を来たす

 
 リューシェはニーナが静かな音を立てて扉の向こう側に去るのを待って、ゆっくりと立ち上がり、背後に穿たれた窓へと歩み寄る。その窓を開け放つと、柔らかな風が執務室に迷い込み、リューシェの黒く美しい髪をそっと靡かせた。
 リューシェは窓の桟に手を付くと、その目を大きく広がる空へと向ける。
 青く広がる空には幾つかの雲が浮かび、ゆっくりと流れていく。

「……どこに、いるのかな……」

 空に向けていた目に少しだけ悲しみを乗せて、リューシェは呟いた。

 ハルトが力を隠しているとは思えない。だが、ハルトが力を使ったという形跡は今のところ見つけられない。

 ハルトの捜索は、まさにあの雲に手を伸ばし、雲を掴む様な状態だ。

 だが、それでも確実に分かっている事が一つだけある。


「――この空の下の何処かに、必ずあの人は、いる……」


 ハルトに限って、死ぬと言う事はありえない。ハルトは魔王の外装を易々と下し、巨大な炎に包まれても平然と立ち、どんな岩をも切り裂くだろう魔剣を受けて尚悠然と立っていた。

 事実、魔王であったリューシェですら量りしえないハルトの力をもってしても、ハルトは己を殺せなかったと口にしていた。ハルトの力で滅ぼせない存在を滅ぼす事は、まず不可能だ。つまり、この世界の者であれば、まずハルトを殺すことなど出来ない。

 ――つまり、確実に生きている。

 リューシェは空を見上げたままそっと目を閉じて、瞼の裏に、最後に見たハルトの迷いの無い笑顔を思い出す。

 ハルトの捜索に乗り出した時、ハルトの心情を理解していたゲルトはこれに反対の意を示した。
 ゲルトにとってみれば、もうこれ以上ハルトに苦しみを味あわせたくなかったのだろう。
 実の妹であるニーナの言葉も受け入れず、頑なに反対の意を示し続けたゲルトが折れたのは、リューシェのたった一言の言葉だった。


「……逢いたいよ、ハルト……」


 ただ一言。

 ――逢いたい。

 その一言だった。


 リューシェは魔王代行として、魔王たるハルトを魔王城に引き戻すよりも、只のリューシェとして、只のハルトを求めた。
 そこに魔王代行としての責務は存在しない。
 それを理解して、ゲルトは漸く首を縦に振った。

 あの時頬に触れた温もりこそが、ハルトの本当の姿なのだと。
 そして、自分は知らぬ間に、その温もりに守られていたのだと。

 出逢い方は恐らくそれ以上に無い、と言う程酷いものだっただろう。敵と味方であり、魔王と勇者だ。相対するのが当然で、水と油の様に交じり合う事は無かった筈だ。事実、リューシェはハルトに触れられるまで、ハルトへの恐怖が大きく勝っていた。だが、それでもハルトを魔王に推した者としての責務として、ハルトを何とか留まらせようとハルトへの恐怖に立ち向かった。

 それが何の意味も無かったと知った時には、もうハルトは手の届かない所に居た。

 リューシェは薄く目を開くと、そっと、ハルトが触れた頬に、自分の手を添える。
 もしあの時もっと早くその温もりの正体に気づいていれば、今頬に添えられている手はハルトの手に重なっていただろう。
 そして、そうなっていたのなら、リューシェはハルトの手を握り締めて、止める事が出来た。
 だが、ハルトの手はリューシェの手が重なり合うよりも早く、リューシェの頬に暖かい傷跡を残して消え、その暖かな傷跡は、優しくリューシェの体温に消えて行った。

 リューシェは静かに目を閉じると、静かに息をついた。

 リューシェは、リューシェとだけ存在する事は許されない。それはハルトがハルトとしてだけ存在する事を許されない事と同じだ。

 リューシェは魔王代行として、ハルトの代わりに全ての者を導いていく義務がある。
 そして、ハルトは魔王として、この世界を改革していかなければならない義務がある。

 二人とも立ち止まってはいけない、と言う意味では同じ場所にたっている。

 リューシェは瞼を開けると、そこに強い眼差しを宿らせた。

 魔王代行と言う名前に変わっても、魔王たるハルトが魔王城に居ない以上、魔王の仕事は全てリューシェの仕事だ。もっともリューシェは幼少から数えて十年もの間魔王としての執務を行ってきたのだから、ハルトが執務を行うよりも余程要領を得ている。


 ――それでもハルトが正式に魔王としての執務を始めれば、一月でリューシェの執務処理速度を超えてしまうだろうが。


「……でも、どうしたんだろ……?」

 リューシェは呟くと、そっと己の小さな左の手の平を眺めた。
 身体の異常を自覚し始めてからもう十日になる。最初は違和感にしか感じられなかったが、今ははっきりとその症状が自覚できる。

 異常なる魔力の充溢。

 その原因が何かは分からないが、それがリューシェにもたらしている異変は数え切れない。


 疲労感の緩和、集中力の増大、聴覚の鋭敏化。


 睡眠はしっかりとっているが、睡眠を取らずとも問題ないではないか、と言う程に疲労感は無く、今まで多くの時間を取られていた執務も、約半分の時間で処理する事が出来る。
 意識すれば多少離れた所で交わされている会話も、今のリューシェには手に取るように分かる。
 リューシェ自身異常な事だとは気付いていたが、しかしそれは身体の不調を訴えるものではなく、むしろリューシェの背中を後押ししている様にさえ思われた。

「……深く考えても、仕方ないよね」

 リューシェは左の手の平を軽く握り締めながら呟いた。
 この異常な事態は誰にも打ち明けていない。
 先程ニーナがリューシェに対して、顔色がすぐれないと指摘したが、リューシェからすれば、その様な事はありえない事態だった。
 今のリューシェは魔王の外装を纏っていた時よりも、数段好調と言える。

 顔色が優れないなど、あり得る訳が無い。

「さて、今日の仕事を終わらせないとっ」

 今まで忙殺されていた仕事の量が、今のリューシェにとっては些事に等しい。どんなに山積みになった書類だろうと、ほんの数時間でリューシェは終わらせる事が出来るだろう。
 先程のハルトの案件にしても、ニーナはリューシェが流し読みをしているのだろうと考えていたが、リューシェはほんの一瞬でそれら全てに目を通し、そして正確に把握して、判断をしていた。

 ――もしそれを知っていれば、ニーナはリューシェの異変に気が付いていたかも知れない。


 リューシェが窓から一歩引き、執務用の黒い机に山積みになっている書類を見つめた瞬間――、

 ――リューシェの視界が大きく揺らいだ。


「――あ、あれ?」

 気付くとリューシェは力なく執務室の床に広がる紅い絨毯に膝を付き、両手で身体を支えていた。

「……お、おかしいな。眩暈かな? ちゃんと、寝てるのにな」

 自覚していないだけで、身体は疲れているのかも知れない。そう判断して、リューシェは苦く微笑むと、大きく息をついた。

「き、今日は、少しだけ、早く、寝なくちゃ……」

 そう呟いて震える手で執務用の机を掴むと、リューシェはゆっくりと立ち上がる。
 身体は軽い。意識もはっきりとしている。身体が不調を訴えている様子は無い。

「……どう、し、て……?」

 だが、机に突いている腕は、遠目で見ても分かるほどに、痙攣するように震えていた。
 机の上に散らばっている書類に、点々とした染みが作り上げられていく。リューシェはそれに気付くと、右手でそっと自分の顔に触れた。

 リューシェは自分の顔に手を添えながら、その目を大きく見開いた。

「……な、に? なん、なの……?」

 それを自覚した瞬間、リューシェの身体に異変が起きた。

 顔から流れ落ちる、夥しい汗。全身にもジワリとくま無く汗が浮かび始める。
 それらは一瞬にして、リューシェが身に纏っていた白い服を満遍なく濡らした。

「ま、待って……。大丈夫。少し、落ち着かなきゃ」


 全身を走る悪寒と表現するにも足りない嫌悪感に、リューシェは己を落ち着かせようと、自分に声を掛ける。身体は軽い。だが、もはや力が入らない。
 リューシェは椅子に身体を預けようとして、机か手を離すと、椅子に辿り着く前に力尽きて絨毯の上に転がった。

 リューシェの手に山積みになっていた書類がぶつかり、紙が舞う。


「……あ、あれ? ま、待って。待って……!」

 瞼は間違いなく開けている。

「……いや……いやぁ……!」

 だが、視界がまるで夜の帳を下す様にゆっくりと塞がっていく。

 まるで血の色の様に、紅い色と共に。


 その時、ガチャリ、と執務室の重厚な黒い木製の扉が開かれる音が響いた。

「リューシェー? 今日は少し暑いから、冷たいお茶にしたけど……?」

 右手に白磁の陶器が乗せられたお盆を手に持ったニーナは、居る筈だった執務机にリューシェの姿が無い事を知ると、僅かに眉を寄せた。

「リューシェ……?」

 そして、その目に、執務机の端から見えるリューシェの白い足が映ると、ニーナはお盆を放り投げてリューシェに駆け寄った。

 陶器が割れる儚い音が響き渡った。


「どうしたの!? しっかりしてリューシェ!!」


 その身体を抱き上げニーナは叫ぶようにリューシェに声を掛ける。

「……助け……おねえ、ちゃん……」

 痙攣するかのように震えるその手を何もない虚空に伸ばしながら、リューシェは空ろな目を大きく見開きながら、その目尻から涙をこぼす。


 ――その目に、そこに居る筈のニーナの姿は映っていない。


「リューシェ! 大丈夫だよ! あたしここに居る!!」

 ニーナはその手を掴むと、強く握り締め、リューシェに呼びかけた。
 だが、リューシェはうわ言の様に言葉を続ける。

「……誰か……助け……何も、見えな……聞こえ、な……」

 その言葉で、ニーナの顔から血の気が引いた。
 リューシェの目は光を失い、耳は音を失っている状態に陥っていた。強く握り締めている手に気付かないと言う事は、触覚すら失っている。

 リューシェは自身が消えて行く様な恐怖に怯え、目尻から絶え間なく涙を流していた。


「……ハル、ト……助け……て……」


 その言葉に、ニーナは歯を食い縛り、リューシェを抱いて立ち上がる。
 扉が開かれる激しい音と共に、血相を変えたゲルトが現れた。


「ニーナ! 今の叫びは――」

「医者を呼んで!!」


 ゲルトはニーナの腕の中で、虚空に手を伸ばし、痙攣するように身体を震わせているリューシェを見ると、顔から血の気を引かせて、再びドアを壊す勢いで執務室を出て行った。

「大丈夫、大丈夫だよリューシェ、直ぐ助けてあげるから!」

 リューシェを抱き上げたニーナは、魔王の寝室に一秒でも早くリューシェを連れて行こうと、強く床を蹴り、走り出した。
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