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  鋼鉄の祭壇 作者:狩臼
第五章 羽化 07
「そうだな。お前の言う通りだ」
「――え……?」
 僕は立ち上がって、ゆっくり振り向いた。
 気が抜けたようにぼんやりと僕を見るフィアナに、同じ言葉を繰り返す。
「お前の言う通りだよ、フィアナ」
「……兄様!」
 二体の間にあった数メートルの距離をフィアナは飛び越えた。ティーガーの操術腔に着地すると、僕の胸にしがみ付く。摺り寄せられる頬の感触と、懐かしい髪の香り。細い手は、哀れみを誘うほどの必死さで背中を弄ってくる。

 ――やはりこれは妹なのだ。

 どれほど歪み、血に飢えた怪物と化していようとも、ここにいるのは僕のフィアナだった。それがなにより悲しかった。
「これからは、あたしがなんでもしてあげる。どこへでも連れて行ってあげるわ。兄様はわたしの中にいればいい。ずっと、ずっと一緒にいられるわ!」
 フィアナは頬を染め、熱に浮かされたように早口で喋った。
「――だから、ちょっとだけ我慢してね」
 ヴァルヴァラの操術腔に変化が生じた。壁面がうねり、左右から肉襞がせり出して座席を押し潰していく。ぴったり合わさった襞の中心から、四本の触手がぬるりと顔を出した。触手はくねくねと動きつつ、こちらに伸びてくる。
 僕は無抵抗のまま、触手が体に絡み付くのを見ていた。抱きついているフィアナごと、触手は僕を持ち上げた。
 離れていく僕を、ルーミィは苦しそうに息をしながら見つめていた。フィアナを刺激すればなにをされるかわからない。頼むから、今は動かないでくれ。
「――フィアナ。ヴァルヴァラは大丈夫なのか? 僕が随分壊してしまったけど」
「心配ないわ、兄様。ほら、見て」
 触手に運ばれながら、フィアナは顎でヴァルヴァラの肘を指した。ティーガーが斬り飛ばした上腕が再生しかけている。驚異的な回復力だった。
「すぐに元に戻るわ。羽も治るから、大丈夫。境界炉が無事なら平気なの」
 足が生暖かい肉襞に飲み込まれていく。生気を引き抜かれる感触に、僕は体を固くして、身をよじった。猫が鼠をいたぶるような愉悦を浮かべて、フィアナは言った。
「もう手遅れよ、兄様。あたしの中で溶かしてあげる。心配しないで、とっても気持ちいいから。全部溶けて、一つになれるわ。兄様があたしを選んでくれたから――」
 フィアナは顔を寄せると、舌で僕の首筋を舐め上げた。
「何年もかけて、ゆっくり、ゆっくり喰べてあげる。ちゃんと兄様でいられるように、最後まで頭だけは残してしてあげるわ。仕方ないの、わたしがわたしでいるためには」
 フィアナは自分の胸にそっと手を当てた。
「わたしの中には沢山の人がいる。わたしは皆に引き裂かれて、バラバラになりそうなの。わたしは消えるのは嫌。兄様への思いを忘れるのは嫌だった。だからわたしは、フィアナ・バスクとしての感情に縋らないといけないのよ」
 彼女の話は、以前ルーミィから聞いた話と符号していた。
「わたしの中にいる人で、レイモンド・バスクを喰べて悲しいのは、フィアナだけ。だから兄様を喰べるわ。悲しくて、つらくて本当に胸が潰れそうだけど……そうしないと駄目なの」
「それがお前の望みなのか? お前は……」
「ああ――フィアナはね、勘違いしていたのよ。この娘はただ貴方に一緒にいて欲しかっただけ。フィアナにとって、世界は貴方とそれ以外よ。恋愛なんて言葉に収まる想いじゃない。だから一緒にいてさえくれたなら、兄様が他の誰かと結婚しても不満はなかったでしょうね。もしあの時、兄様に抱かれていたらもう兄妹ではいられなかった。だから兄様が拒絶してくれたことには、感謝しているわ」
 大蛇に飲み込まれるように、ずぶずぶと体が沈んでいく。ぴったり張り付き、容赦なく引き込んでいく肉の壁。獲物を毛一筋たりとも逃さんとする飢えた渇望が肌身に迫り、肌が粟立った。
「怖がらないで、兄様」フィアナは懇願した。
「あのひどい救貧院の中で、貴方だけがフィアナの救いだった。あたしは兄様だけを信じられるの。他の誰も比較になどならないわ。だからつらくても、こうするのが一番いい。こうするしかないの。こうすれば、永遠に一緒にいられるから」
「――手遅れか。確かにそうだね……」
 お前を守るために求めた力。
 結果的にそれが僕等を決定的に隔絶させた。
「あたしと一つになって、ずっと一緒にいましょう。ずっと、ずっと一緒に」
 それをやればお前はもっと不幸になる。今よりずっと絶望してしまう。どこにもいけない袋小路に追い込まれて、未来永劫苦しみ続けることになるんだ。
「あたしには貴方だけいればいい。一緒にいられるだけでいいの。本当にそれだけでフィアナは幸福なのよ……!」
 僕の承諾を得られたと思ったのか、フィアナはほっとしたように微笑んだ。
 肩までヴァルヴァラの中へ埋没しながら、僕は言った。
「僕はもう選んでしまった。だから、一緒には行けないよ」
 フィアナの表情が強張る。ようやく兄の瞳にあるものを正しく認識したらしい。
「兄――」
 彼女の言葉を待たず、僕は隠し持っていた浄化符を発動させた。かつてフィアナが僕に作ってくれた護符は、ヴァルヴァラの胎内を清廉な輝きで満たした。光は無数の刃となって触手を引き千切り、肉襞を深く抉っていく。
「ああああああああーっ! いや、いやああああっ!」
 痛みと眩しさに耐えかねるのか、フィアナは両手で目をかばって絶叫した。彼女の下半身は肉襞と一体化しており、光に近い部分から皮膚がぼろぼろと崩れていく。汚濁の只中で発動させられたせいで浄化符はすぐに燃え尽きたが、充分なダメージを与えたようだ。
 胸部装甲の上に放り出され、僕はティーガーへ飛び移ろうと立ち上がった。
「痛い、痛い……痛いよう……っ! 兄様、兄様ぁっ」
 異臭を上げて燻り、醜く爛れた肉襞の中で、フィアナは髪を振り乱して泣きじゃくっていた。どうにもならぬ衝動に支配され、僕は振り返った。
「フィア――!」
 黒色の髪が素早く伸び、僕の左腕を束縛した。
 反応する間もなく、圧倒的な力で締め付けられ、あっさり骨が砕かれる。肉をずたずたに引き裂きながら、髪はさらに深々と食い込んだ。血飛沫を上げる腕を押さえて苦悶を漏らす以外、僕にはなにもできなかった。
「どうしてあたしを苛めるの! 兄様が目を覚ますのをずっと待っていたのにっ! もういい。もう潰してからでいい……! 全部潰して……あたしのものにしてあげる!」
 絶望に染まった怨嗟の声が胸に突き刺ささり、心を麻痺させた。フィアナの髪は、今度は首を狙って伸びてきた。
 目前に踊り込んでくる、小さな背中。
 少女が手を振ると、髪はまとめて切断され、力を失ってはらりと落下した。ルーミィは即座に振り向き、僕を抱え上げてティーガーの操術腔に飛び乗った。僕を乱暴に座席に投げ込み、何も言わずに後ろに下がる。
 僕は片腕で操術桿を掴み、ティーガーを駆動させた。
 弱点を守ろうと、ヴァルヴァラは胸部装甲を閉じかけた。僕は隙間に太刀の柄を突っ込み、胸部装甲をこじ開ける。
「兄様! そんなにあたしをっ……!」
 肉襞の奥から、悪鬼の表情でフィアナが叫ぶ。ヴァルヴァラが腕を払うと、ティーガーの腕が上に跳ね上げられた。物凄い力だ。ヴァルヴァラの胸部装甲は歪み、完全には閉じなくなったが、ティーガーの方は胸部装甲自体を喪失している。
 下がるティーガーを、ヴァルヴァラは右手を振り回しつつ追撃した。川岸まで後退したティーガーは、足をとられたようにたたらを踏む。それを機と見たか、ヴァルヴァラはティーガーの操術腔目掛けて真っ直ぐに右手を伸ばし、突っ込んできた。
 僕は迫ってくる巨大な指先を見つめた。
 ――ナジール・ロドネイであれば、騙されなかっただろう。
 深く腰を落としてティーガーを低姿勢にすると、僕は搭載砲を射撃位置へ動かした。間髪入れず、巨体を揺るがす衝撃が走る。前方に伸ばされた砲身が、突進してきたヴァルヴァラの胸部装甲の隙間に突き刺さっていた。
 文字通りの零距離射撃――これでは呪壁も意味を成さない。
 発砲と着弾はほぼ同時。猛烈な爆風が操術腔に吹き込む。
 炸裂モードで放たれた砲弾は、ヴァルヴァラの胎内を引き裂き、境界炉を剥き出しにした。わずかに姿勢を変えて、焼けた砲口を境界炉に押し当てる。これを壊せばすべてが――
「にい、さ……」
 境界炉の周囲の肉が変形し、フィアナの姿を形作る。
「どうして……どうして、あたしと一緒にいてくれないの! どうして、約束したのに、どうして! ひどいよぉ……こんなの、ひどいっ……!」
 別れの際に聞くには、あまりに悲しい慟哭。彼女は僕を――心から慕っているのだ。
 ヴァルヴァラの爆ぜた肉がぴくりと動く。
「――! おい!」
 ルーミィの警告と同時に肉から数本の触手が現れた。触手は爆発的に増殖し、ティーガーの巨体を押し退ける。右腕だけでは対応し切れない。
「ルーミィ!」
 彼女は僕の意を素早く解し、左側の操術桿に飛びついた。太刀を振って触手を切断し、さらに追ってくる触手の群れを逃れて僕はティーガーを後方へ跳ばせた。

 どうにか間合いをとった時、ヴァルヴァラは最後の変化を終えていた。