薄暗い、闇である。細い路地裏の道の中、昏い影がわだかまっていた。
女であった。
酷い怪我をしているのか、壁に寄りかかってぴくりとも動かないそれを目ざと
く見つけ、立ち止まった影があった。
「…大丈夫か」
「ええ」
「酷い怪我だ」
「ええ」
青年とも少年ともつかない影は顔をしかめたようであったが、女は口元を吊り
上げて笑み。影は少し考え込むような素振りを見せる。真紅の長い髪が肩を滑
り落ちた。
*
目を覚ましたのは、柔らかなベッドの上であった。部屋一杯に広がる光に目を
細めた女の上に、さっと影がさす。誰かの手が、カーテンを閉めたのだった。
「悪いな。まぶしかった?」
真紅の長い髪。中性的な声にもしやとは思っていたものの、此処まで女顔とは
思っていなかった女はそんな顔もすぐに隠すように寝返りをうつと、目に掛か
る薄緑の髪を掻き揚げた。サイドボードの上の観葉植物がやけに目に付いた。
「……やけに女々しいのね」
「まあ…ね」
青年は苦笑し、上半身を起こした女に、畳んでおいた上着を放る。女は何も言
わずにそれを羽織ると、自分を見下ろしている彼の青い目を覗き込む。青年は
その視線を特に気にする様子も無く女から目を逸らす。
「訊かないのね」
「聞いて欲しいのか?」
「…別に」
「怪我が酷かったからな。お前が金を持っているならおれはもう出る」
「ないわ」
「そうか」
青年は短い問答の後、イスに腰をおろした。何を言うでもなく机の上の本に手
を伸ばすとそれを開き、読み始める。女はそれを暫く眺めていたが、見飽きる
と視線を逸らし、目を伏せる。自分の両手の指を意味も無く絡めたり解いたり
しながら、お互いに話すことも無く時間が過ぎていく。
昼頃になると青年が顔を上げ、女に向き直った。
「何か食べたくならないか」
「別に」
「そうか」
青年は女の素っ気無い態度に怒るでも悲しむでもなく自分も淡々と返すと、静
かに立ち上がり、扉の横に立てかけてあった剣を手に取った。ノブに手をかけ
た彼の背中に、女はなんとなく声をかけた。
「どこか行くの?」
「…”仕事”に」
「そう」
その目はちらりと青年の持つ剣を、次いで青年を見る。
「……。気をつけてね」
青年はその言葉に驚いたような顔をして見せると、ああ、と頷いて扉を開
けて外に出る。後ろ手に扉を閉めながら柱の影に目をやると、小声で”そいつ”
について来いよと声をかけた。くるりと背を向け、歩き出す。その余裕に感服
してか、ため息を吐きつつ相手が後ろを歩いてきたのがわかった。足音は
カーペットの所為でわからないが、気配で”そいつ”だと、半ば独断で判断す
る。
彼等はそのまま階段で宿の一階に下りると、外に出る。表は人通りが多いの
で、建物の間の細い道に入ってようやく青年が後ろを振り返った。
暗がりなので良くわからないが、宿から付いて来たらしい男はなかなかがっし
りした体躯をしている。腰に下げている大ぶりの刃物が目立つが、服装は青年
と同じく一般人のそれである。
「ハンターだろう?」
青年の声に驚きの表情を浮かべ、男は頷く。
ハンターとは文字通り、魔物を狩るものたちの総称であった。……もっともラ
ンクが高ければ高いほどそんな素振りは見せないのもだが。
「あの女は竜だ。昨夜俺が仕留め損ねた獲物」
「安心しろ。人を襲ったりするならおれが殺す」
余裕の表情でそう言ってのけた青年に、男はあきれたような視線を送る。
「あれは魔物だぞ?」
「まだ何もしていないからね」
「…解せないな。それともお前も竜か?」
「……。そう思ってくれても良い」
男は大ぶりの刃物――あえて言うなら短剣か――を構えた。
青年は斬戟を剣で受け流すと、返す刃で男の喉笛を斬った。後ろに下がって血
しぶきを避け、倒れた男の傍らに立つ。
「おれは魔物なんかよりずっとたちが悪いんだ」
死にきれずに痙攣している男に、静かに、確実に止めを刺した。
*
「血の匂いがするわ」
帰ってきた青年に、女は開口一番、そう言った。青年は苦笑すると、ベッドか
ら離れ、剣を元の位置に立てかけた。
「嫌いか?」
「好きよ」
無感動に答えた女にそうだろうなと答えながら、青年は持ち帰った袋の中を漁
った。その中からパンを取り出し、女に放る。彼女は不思議そうに青年を見上
げたが、やはり何を言うでもなく黙ってパンに噛り付いた。
「まだなにか要る物があるか」
「別に」
「それしか言わないんだな」
「ええ」
女は、
空腹を感じてはいたものの。
*
女はおもむろに身体を起こし、辺りを見回した。まだ月が明るい夜である。女
の目線は自然とイスに腰掛けたまま眠っている青年の方へ向く。動悸のする胸
を押さえると、ベッドから足を下ろす。立つ時に傷が痛んだが、そんなことは
どうでも良かった。一歩近づくたびにその衝動は強くなっていき、それに抗う
術も無く青年に震える手をのばす。
自分の心臓の音がやけに生々しく聞こえて、胸が締め付けられるように苦しく
なった。
――目の前に、”ある”のに。
触れるか触れないかのところで彼は目を開け、女を見上げた。
彼女はぎくっと、伸ばしていた手を引っ込める。
「どうしたんだ?」
「……ッ!」
女はとっさに両手で彼の襟首を掴むと床に引き倒し、その上に馬乗りになって
青年を見下ろした。青年は特に動じていないようである。泣きそうな女の顔を
見上げ、もう一度静かに問う。
「どうしたんだ?」
「……助けて…」
「この体勢で言う言葉じゃないな」
苦笑すると、彼は手を伸ばしてあやすようにその女の頭を撫でた。
「…どうしたい?」
「人…を喰いた、い」
魔物のうめき声と女の声の混ざったような、音。或いは声。
ああ、またこの人も私を殺そうとするに違いないと、半ば諦念のようなものを
抱きながら、女は青年を見下ろす。彼はゆっくり身体を起こすと逃げようとし
た女の背中に手を回して引き止め、膝の上で抱きかかえるような形になった女
の耳元で落ち着いたかと声をかける。女が頷くと、ゆっくりと話し始めた。
「此処を出て右に行くと、建物の間の細い道がある。すぐのとこだからわかる
と思う。すると、そこに男の死体がある。……足りるか?」
青年は頷いた女の背中から手を離し、弾かれたように立ち上がって部屋を出て
行く後姿を暫く見ていた。
青年の示した場所に、確かにそれはあった。女は”食事”からの帰り道を、お
ぼつかない足取りで歩いていた。歩く――緩慢に。宿に戻るべきか、考えてい
た。戻ればあの青年に、迷惑をかけるだろうから。
そんなことを考えつつも足は急いで部屋へと向かい、扉の前に立つともう迷わ
ずにそれを開けた。
「…」
「早かったんだね」
なんと言うべきか口ごもった女に一言、青年が声をかける。女はええ、と頷く
と、再びベッドに腰をおろして青年を見上げる。
「強いのね」
「ああ」
「顔はおんなのこみたいなのに」
青年は気にしているのか、少し俯き気味に顔を背けた。女は首をかしげ。
「どうして助けようと思ったの」
不意に、言葉の応酬が途切れる。青年は困り顔で笑み。
「怪我をしていたからだ」
女はその答えにいささか不満そうな顔をして、目を逸らす。青年もまた先程ま
で読んでいた本に視線を戻した。穏やかな沈黙が流れ、どちらとも無く寝息を
立てていた。
起きたのは青年の方が先だったらしい。女は半分眠った頭で昨日までの出来事
を反芻しつつ、自分も彼も互いに名乗っていないことに気がついた。別に何か
不自由があったわけでもないので、青年を見ても何も言わずにいた。
そろそろか。
そう思い、ふと自分の傷に手を伸ばす。――そろそろ治る頃か。
何故だか、名残惜しかった。
「悩み事か」
「悩み?」
青年の声に顔を上げる。女の顔を見ると青年はいや、と頭をふった。
「そんな顔だった」
「女というのは情に脆いからね」
「あえて聞かずにいるよ」
「きいて」
「だめだ」
いつもと同じ、静かな、無表情な言葉のやり取り。ただ、青年の言葉に絶対的
な響きがあっただけ。女は美女と言うに相応しい容姿をしていたが、その種族
ゆえ、愛やら恋やらといったものにとことん無縁であった。まして、”人”や”異種族”
の者に手を差し伸べられるなど。
だから、その感情は芽生えて当然といえた。
青年は彼女を恐れなかったが、決して受け入れてもいなかった。そして今の彼
女のそれに良く似た感情を、自分もまたよく知っていた。在りし日の自分も、”恋愛”
によく似た”慕情”をある人に抱いたことがあったのを、思い出す。
だとしたなら、彼が女を助けたのはただ、”似ていた”からなのかもしれな
い。
「お前はおれを愛せない」
「何故?」
「おれは”何でもない”からだ。人じゃない。魔族じゃない。動物でもない。
いつ生まれたのかも定かじゃないし、死ぬときも一瞬だ。……そんな”もの”
に不朽の愛を夢見るなんてばかげてるよ」
青年は静かに、きっぱりと言い切り、女に穏やかな視線を送る。彼女は解らな
いと首を振って、彼をまっすぐに見つめる。
「どうして私を助けたの?時間の無駄にお金の無駄。そう思わない?」
「どうかな……単なる気まぐれと同情、かもな」
青年は言葉を切ると、それ以上何かを言おうとはしなかった。女がむっと顔を
しかめても気にも止めず、あらかじめ纏めてあったらしい荷物を持ってノブに
手を掛け、女の方を振り返る。
「散歩をしようか」
*
朝の、冷えた空気が待ちに満ちていた。夜明け前のそれは、冷たいながらも攻
撃的ではなく心地よい。並木の散歩道を二人並んで歩く。無言で、ただ自分達
の足音だけが響いているような気がした。見上げる薄紫の空。朝と夜の狭間
で、不意に青年の足が止まる。
「どうしたの」
「まるで、生命の始まりのような気がしないか」
この、朝日の出る瞬間の光景が。
青年は静かに、その青い目を閉じる。女はそれを呆然と見ていた。彼の長い真
紅の髪が、てっぺんから流れるように深い闇色に染め上げられていく様を。
開かれた緑の目は、深い慈愛に満ちていた。
――ああ。
女は知らず、両拳を握り締めた。
―――あいしている。
「これを守りたくておれは生きているような気がする」
「私はあなたと愛し合えない…か。それは私が人を喰らうものだから?」
「違うよ。決して」
「そう。安心したわ。――もしそうなら、私とあなたはわかりあうことすら出
来なかったから」
女の背中に、小さな突起が二つ現れる。それは末広がりに大きくなっていき、
薄緑の翼の形になった。彼女な身体もゆらゆらと形を変え、やがて透き通るよ
うな薄緑の巨躯へ、身の丈3mはあろうかという美しい竜に姿を変える。長い
首をもたげ、すっかり小さくなってしまった青年を見下ろす。
「人間からしてみれば、私なんて存在自体が悪なんでしょうね」
「ものごとの捕らえ方が違うだけさ。生きてることは悪なんかじゃない。…受
け売りだけどね」
青年の言葉にくすりと笑う。
「良いわね、そんな考え」
朝の光の中を飛んでいく、大きな影があった。翼の傷が治りきっていないのか、
時折よろよろと頼りなく、しかしその羽ばたきは力強い。
赤毛の青年は並木の散歩道から暫くそれを見上げていたが、やがて背を向け、
自分の行くべき方向に歩き出した。
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