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異世界転生騒動記 作者:高見 梁川
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第三十八話 伝説の始まりその2

 最前線で弓を手に射撃戦を継続する兵士たちが、息苦しさに呼吸が荒くなるのを自覚したのはそれから少し経ってからのことであった。
 もちろん極限の緊張状況にある最前線である。
 動悸は銅鑼を鳴らすようにうるさく、肺は酸素を求めて兵士にさらなる呼吸を促し続けていた。
 だから息苦しいということに、それほど疑問を感じる者はいなかったのだ。
 泥濘地帯を全て硬化させるのには時間がかかりすぎるため、中央にほぼ十メートルほどの橋を架けるようにして形成された突入路は、あと少しでアントリムの陣地を指呼の間に捉えようとしていた。
 (ふん、あの炎の筒をそれほど信頼しているのか? そんなもの最初から知っておればどうということはない!)
 フランドルは復讐の予感に湧きあがる昂揚を抑えられずにいた。
 いくら犠牲が多くとも、自分が戦死することになろうとも、突破口さえ開いてしまえばあとは戦力の差がものをいう。
 彼の見るところ、あと少しでアントリム軍の阻止限界点は超えるように思われた。
 アントリム軍は巧妙に戦闘正面を限定しようとしているが、たとえ戦闘正面が狭くとも、消耗を恐れる必要がなければ先に根を上げるのは圧倒的に兵力の少ないアントリム軍なのである。
 「鬨の声をあげろっ! 勝利の栄光はすぐ目の前にあるぞ!」
 あのときは本陣から離れることを許されなかった。
 しかしフランドルの本質は優秀な前線指揮官である。
 出世して部下を使うことを覚えたものの、才覚においては前線で直接兵を率いる能力には及ばない。
 そのフランドルの勘が告げていた。
 ――――このままで終わるはずがない。
 もはやハウレリア軍に被害を最小限にとどめ、次の戦いに備える余裕はない。
 どんなことをしても勝つことだけが使命であり、そのためには進んで味方を見殺しにすることさえ覚悟のうえだった。
 ここに至って、フランドルは自分の大呼に反応した鬨の声が、思いのほか小さいことに気づいた。
 「――どうした?」
 兵の戦意に濁りは感じなかった。
 そもそも兵とは将の戦意に呼応するように訓練されている。
 フランドルが先頭を切って不退転の勇気を示し続けている以上、兵が戦意を失うのはよほどの火力の集中あるいは被害を受けないかぎりありえぬはずであった。
 振り向いたフランドルはそこに背筋が凍りつくような違和感を覚えた。
 疲れすぎている。
 戦場では平時の三倍以上は早く疲れがやってくるものだが、それにしてもつらそうに荒い呼吸を繰り返す兵の疲れ方は異常であった。
 この様子では突撃していくらもせぬうちに息切れしてしまうだろう。
 何が――――いったい何が起こったというのだ?
 考えても答えは出ない。
 もう一度士気を鼓舞するべきであろうか?
 すでに魔法支援が最終段階に達している現状、部隊に休息をとらせるだけの猶予はもはやない。
 しかしこのままでは突撃の衝力は期待できない。
 明らかな戦術上の問題点を考えているうちに、フランドルは激しい頭痛に襲われた。
 頭が割れそうな勢いで、まるで岩石で殴られているかのような痛みが頭のてっぺんから足のつま先まで走り抜ける。
 「こ、これは…………」
 フランドルはよろめいただけで、かろうじて踏みとどまったが、部下の兵たちにはそのまま倒れ伏す者たちが続出した。
 「ううううっ…………!」
 何が起きたのか、どうして兵士たちが倒れているのか、全く理解できない事態に後方の魔法士や本隊の間にも動揺が広がっていく。
 ――――またか? またなのか?
 正体不明の攻撃ほど味方の士気を下げるものはない。
 たとえどんなに強力な攻撃でも、目に見えるものは必ず防ぐための方法はある。
 しかし何をされているかもわからないでは、ただ敵のなすままにされるだけで、これほど屈辱的で恐ろしいものはなかった。

 「よし、どうやらうまくいきそうだ」
 バタバタと倒れ始めたハウレリア軍の先頭集団をみてバルドはほくそ笑む。
 現在彼らを蝕んでいる正体不明の敵とは、なんの変哲もない二酸化炭素である。
 実は数時間以上も前から、バルドはイースト菌と塩と砂糖と水を嫌気発酵させた高純度の二酸化炭素を、魔法でゆっくりとハウレリア陣地に浸透させていた。
 まるで火口の溶岩のように大量の泡とともに二酸化炭素を吐き出す様子は、まるで地獄へと誘う抽象絵画のようだ。
 その二酸化炭素をハウレリア軍陣地へと流すと同時に、拡散しないようそれとは別の空気の対流を作り出す。
 これが人を傷つけるための風の刃であれば、すぐに魔法による攻撃だと気づかれただろうが、そよ風のような柔らかい風が攻撃であるなど誰が気づくだろうか。
 それに現実にハウレリアの兵士を昏倒させているのは魔法それ自体ではないのだ。

 二酸化炭素中毒は一般に空気中に存在する二酸化炭素によるものでありながら、その症状はちょっとした毒ガス並みに重い。
 通常空気中の二酸化炭素の成分はわずか0.04%にすぎない。
 ところが火山ガスなどの影響により、この濃度が四%前後になると頭痛や吐き気、動悸など人体への影響が現れる。
 これが十%になると耳鳴りや目まい、震えなどが起き始め約一分以内に意識を失う。
 さらに二十%以上になるとほぼ数秒で意識を失い、三十%以上という濃い濃度においては即座に意識を失い、わずか数秒で死にいたることもあるという。
 その威力は毒ガスで有名なサリンやVXガスに勝るとも劣らない。
 しかも無味無臭で無色透明なため、気がついたときには身体が動かずに中毒死するという事故が日本においても数多く散見されている。
 ある意味では、まっとうな毒ガスよりさらに恐ろしい存在といってもいいであろう。
 「くっ……さすがにきついかっ……!」
 ただ風を操作してハウレリア軍の前方に二酸化炭素の溜まり場を作り出しているだけとはいえ、その範囲があまりに広すぎる。
 距離に反比例して減衰する魔法の特質上、アントリムの魔法士の全力で維持するのがやっとであった。
 あと十倍魔法士がいれば、ハウレリアの全軍を射程に入れることも可能であったのだが、残念ながら今も戦力では先鋒の部隊を囲うのにすぎない。
 それでも全く理屈もわからぬままにバタバタと人が倒れていくのを見て、恐怖しない兵士はいない。
 何よりも目的である敵の士気を砕くという点においては、まず成功といえるのではないかとバルドは考えていた。
 あとは…………。

 「馬を引け! 打って出るぞ!」
 敵の恐怖に混乱を加えてやれば、あとは勝手に崩壊してくれる。
 機動力と打撃の波及力において、騎兵は今なお最強の兵科であった。
 ハウレリア軍が動揺から立ち直らぬうちに、どれだけ指揮系統に打撃を与えられるかで勝負の行方は半ば決まるといってよい。
 そしてそのために、もっとも深い場所で腰までつかるほどの泥濘は、右翼の一か所だけが浅く馬で駆け抜けられるようになっていた。
 全てはこの一撃のために――――。
 「はっはっはっ! ようやく私の出番がやって参りましたな!」
 マティスが平均的な槍の倍は重そうな槍を、片手で軽々と振りまわす。
 「あ、危ないですよマティス様! そういうことは敵にお願いします!」
 待ちに待っていた出番にテンションが有頂天のマティスに、バルドは呆れながら言った。
 精鋭とはいえたった三百程度の騎兵で、数万の敵陣に突っ込むのである。
 控えめに言って生きて帰る可能性は高いものではない。
 にもかかわらずこれだけ気負いもせず、戦意を高められるのはやはりマティスの実戦経験の賜物なのであろう。
 さすがのバルドもマティスほどには坦懐な気分ではいられなかった。
 「万余の敵に先駆ける。まさに武人の本懐極まるところ! 礼を言いますぞバルド殿!」
 屈託のない笑顔でマティスは笑った。
 娘の恩人にして親友の息子とともに、国家の命運を背負って栄誉ある敵と戦う。
 もはやそこに自らの生死は問うところではない。
 自らの持つ武の全てをぶつけることで、己の守るべきもののために戦うだけだ。
 高々と槍を掲げ、ゆっくりとマティスは頷いて見せた。
 「押せやあああああああああああああっ!」
 バルドの命令一下、アントリムの騎兵部隊は一筋の矢となってハウレリア軍に向かって突撃を開始したのである。

 全身を悪寒に震わせ倒れていく部下たちに囲まれて、フランドルは怒りに目を血走らせていた。
 「くそっ! いったい奴は何をしたというのだ!」
 「閣下……助けてください! もう……意識が……」
 「しっかりしろ! ん? 待てよ? どこかで同じ症状を見たような……」
 意識を失って仰向けにばったりと倒れる部下の様子が、フランドルの古いどこかの記憶を刺激した。
 「あれは……まだ若かったころ……そうか! ベナリリス火山に行ったときのことだ!」
 フランドルが二十代の若き日、山中訓練のため登ったベナリリス火山において、フランドルの部下四名がくぼ地で原因不明の症状によって死亡していた。
 おそらくは火山性の毒にあたったのだろうと類推されたが、そのときの症状は今の兵たちの症状によく似ていた。
 「これは敵の魔法だ! 魔法支援を止めて魔法解除を! 急げ!」
 そうか。手段はわからないが、アントリム軍はあの火山と同じ毒をまき散らすことに成功したのだ。
 先鋒だけが被害を被っているところからすれば、風の魔法で毒を一か所に集めておいたに違いなかった。
 「相も変わらず卑劣な真似しかできぬ男よ!」
 そう叫んでフランドルは突撃を開始したアントリム騎兵に向かって迎撃を試みる。
 しかし魔法が解除されても高濃度になった二酸化炭素が一気に拡散してくれるわけではない。
 薄れていく意識をなんとか繋ぎとめるために、フランドルは槍を腹に突き刺して歯を食いしばった。
 「我が声が聞こえるものは我に続け! 意識あるものは舌を噛み切ってもあがき続けよ! 我らすでに勝利せり!」
 一向に自由にならない手足をそれでも一歩ずつバルドに迫っていくフランドルは、味方の勝利を確信していた。

 中身まではわからなくとも、こうした事態になることをフランドルは想定していた。
 こちらの理解の及ばぬ攻撃を仕掛けられ、前線に大きな被害が出ることは、先日の戦いから想像することは容易かったのである。
 だからこそ、フランドルはその想定の対策を準備していた。
 「――――我らの勝ちだ! 悪魔バルドめ!」
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