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異世界転生騒動記 作者:高見 梁川
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第三十四話 加速する世界(8巻書籍化部分)

 エウロパ教団特別矯正部の情報部の一員であるマーテルが、アントリムに入りこんだのはつい先日のことである。
 表沙汰になっていないだけで、すでにエウロパ教団はバルドをこの世から抹殺するために動き出していた。
 マーテルがその尖兵として選ばれたのは、彼が獣人の特質をよく知る人間であったためだ。
 もともとネドラス王国の出身である彼は、獣人の多い地域で生活していた。
 だからこそ獣人の変成の限界と威力をよく知っている。
 はたしてアントリム辺境伯バルドは王門の持ち主であるのか?
 それが彼に与えられた役割のひとつであった。
 (あの女たちはいったい誰だ? 変成ではあんな力はでないぞ!)
 かつて王門と呼ばれるものを所有していたのは、かの獣王ブロッカスのみである。
 教団の機密文書にもそれは記されていた。
 だからマーテルも当然に王門は、獣王――あるいはその候補者のみが持ち得るものと思いこんでいた。
 (まさか、王門の所有者とは珍しいものではないのか?)
 これはマーテルの誤解である。
 だが、こうして二人の王門持ちを目撃した彼にとっては、十分に説得力のある想像であった。
 仮にアントリム辺境伯も王門を所有しているとすれば、これだけで三人。
 さらに四人目、五人目がいないとどうして言えるだろう。
 (――――ようやく教皇猊下が彼らを恐れていた意味がわかった)
 正直なところをいえば、取るに足らぬ連中だと思っていた。
 大陸世界を動かしているのは人間であり、獣人などいくら騒いだところで人間の敵ではないと。
 しかし王門持ちが無作為に増えるとなれば話は別である。
 マゴットとサツキの戦闘を見ればわかるとおり、王門持ちの戦闘は人間の対応限界を軽々と上回る。
 もしあの人外の戦闘能力が、十人、百人となればどうなるか…………。
 想像しただけでマーテルはブルリと身ぶるいした。
 それは歴史ある人間社会の崩壊すら可能としていると気づいたからだ。
 (……危険だ。やはり獣人など絶滅させるべきだったのだ)
 教団の機密文書には、かつて獣人とその混血が大陸の三割近くに達した時代があったと記されている。
 人間と獣人の混血は大抵獣人の血を受け継ぐから、獣人の割合が増えていくのは当然であった。
 そこで教団の全面的なバックアップで誕生した統一王朝は、獣人の弾圧に乗りだした。
 そのため統一王朝の首都であったアンサラー王国では、獣人がほぼ絶滅している。
 統一王朝が権威を失い、分裂するのがあと百年遅ければ、今頃は大陸から獣人の姿が消えていたかもしれない。
 (この身を挺してでも、王門持ちを探し出さねば……!)
 王が持つからこその王門。
 マーテルがサツキとマゴットを発見するまで、エウロパ教団の指導部でさえそう信じて疑わなかった。
 その大前提が覆った。
 はたして何人の王門持ちがいるのか予想できない、というマーテルの報告書がエウロパ教団指導部に大混乱をもたらすのは少し先の話である。


 「う~~痛いのにゃ」
 サツキはジンジンと疼痛を訴えるお尻をさすりながら、うらみがましい視線をマゴットへ向けた。
 「なんだい? まだお仕置きが足りなかったのかい?」
 「うにゃっ! そんなことはないにゃ! もうあんなのはこりごりなのにゃ!」
 戦いが終わりマゴットの正体を明かされたサツキと従者の面々は、ある意味驚愕し、ある意味納得の表情であった。
 「アントリム辺境伯のご母堂であられたのか……」
 従者のロベルトは明らかに憧れのこもった目でマゴットを見た。
 見せつけられた超絶の武に対して、素直に感激できるのが、獣人という種族である。
 マゴットの見せたサツキをも上回るそれは、王門の持つ可能性とひとつの到達点であろう。
 そこに夢を見るなというほうが難しかった。
 「それにてもガルトレイクの巫女姫様の決断には驚きましたね。使者のひとつも送っては来ると思ってはおりましたが」
 アウグストとしては特に犬耳族に対する贔屓はない。
 しかしバルドが犬耳族の血を引いている以上、猫耳族が支援を決意するのに時間が必要であるとは思っていた。
 「いや、むしろなればこそ、獣王の誕生に後れをとったと思われたくありませぬ」
 ロベルトはきっぱりと言い切った。
 犬耳族と猫耳族が反目するのは過去の獣王によってではあるが、反目を超えるものまた獣王の力であるらしい。
 それほどに獣王は獣人にとって特別なものなのだ。
  ジーナたちには悪いが、猫耳族の決断はアウグストにとって歓迎すべきものであった。
 「ま、鍛え甲斐のある子は嫌いじゃないよ?」
 「お、お手柔らかになのにゃ……」
 少しでもマゴットに追いつきたい、とは思うものの、マゴットの加虐的な笑みを見ると背筋に寒いものを感じてしまうサツキである。
 「ま、あんたたちもバルドに合ってみないことにはいろいろと決められんだろう。ついておいで」
 サツキたちを連れて行こうとするマゴットに、アウグストは慌てて声をかけた。
 「まことに恐縮ですが私もお連れいただいてよろしいでしょうか?」
 「あんたは?」
 「ガリバルディ商会会頭代行アウグスト・ガリバルディと申します。トリストヴィー王国海運ギルドの使者として、アントリム辺境伯にお目通りを願いたい」
 アウグストの言葉をセリーナが補足する。
 「もともとうちの上客やねん。うちがバルドに紹介しよう思うてたんやけど」
 「……海運ギルドの使者、ねえ」
 海運ギルドが早い段階でバルドの支持を表明したことはマゴットも知っていた。
 だが海千山千の商人でもある彼らを、全面的に信用することは危険であることもマゴットは知っている。
 カイラス率いるサンパニラデオンのように罠に嵌められた話は、ひとつやふたつではない。
 「これでも七元老に身を置く身ですので、そこは信用していただければ」
 マゴットの懸念にアウグストは明るく胸を張った。
 下手に駆け引きを考えるより、マゴットのような性格は素をさらしたほうが良い。
 「獣人の七元老か、そういえば私も聞いたことがあるよ。あんたがそうかい」
 思っていたとおりアウグストが大物であったことに、マゴットは自分の直感が当たっていた、と満足そうに頷いた。
 もとより只者ではないと思っていた。
 アウグストがサツキとマゴットの戦闘を観察するだけの力量を持っていることは、その視線を感じていたマゴットには丸わかりであった。
 「七元老を無碍にするわけにはいかないねえ。私でよければ案内してやるよ」
 「あ、うちも連れてってや、お義母様」


 マゴットたちはそのまま歩いて城へと向かった。
 なんとも目立つ集団であった。
 マゴットは城下ではもちろん有名人であるし、セリーナも同様である。
 その有名人に混じって、このあたりでは珍しい褐色の獣人アウグストと、いかにも元気がありあまった美少女のサツキという取り合わせは否が応にも人目を引いた。
 「……い、一万頭にゃとっ? だがそれは……」
 「そう、一万頭の獣を軽く買うだけの財力がうちにはある。自分の手で狩るのと自分のお金で狩らせるのと、受け取る側としたら何も変わらんやろ?」
 「獣人の狩りは成人の試練でもあるのにゃ。でもさすがに一万頭は……すごいのにゃ」
 サツキはセリーナの財力が、また違った意味で武力に匹敵することを認めないわけにはいかなかった。
 もちろん獣人として自分の在り方を変えるわけにはいかないが、セリーナを馬鹿にしたことが間違っていたことは十分にわかった。
 「なるほど、バルド殿の嫁が無力なはずがなかったのにゃ」
 「随分と態度変わったなあ、自分……」
 「だってあのお母様の息子なのにゃ。絶対に甘やかされたりしてるはずがないのにゃ」
 「私がバルドを可愛がらなかったとでも言うのかい? ああ~~ん?」
 「ごめんなさいにゃっ! でも絶対に死ぬほど厳しく育てたはずにゃっ! この私の目はごまかせないにゃ!」
 「ううっ、そ、そこまで言うか……!」
 三重人格のせいもあるが、息子の才能が楽しくて、つい歴戦の近衛兵でも裸足で逃げ出すような修行を強要した自覚はあるらしい。
 「――――口は災いの元って言葉があったわねえ?」
 「あれ? なんでそんな怖い笑いかたするにゃ? もしかして墓穴を掘ったにゃ?」
 「いくらなんでも掘りすぎやわ」
 呆れたようにセリーナが天を仰ぐ。
 コルネリアスのころからのマゴットの扱き方を知っている者としては、さすがに同情を禁じ得なかった。
 「それにしてもよくあのサクヤ様が認めましたね……その、いろいろな意味で」
 アウグストはサツキがガルトレイクの獣人社会で、どれほど大事な存在かを知っている。
 それに武力はともかく、外交使節としてサツキは全く向いていない。
 ロベルトは苦笑して頭を掻いた。
 「まあ、本来は私が補佐するところなのですが、見ての通りお嬢は自分が見たものしか信じないお人で」
 ――――まして自分の夫となる男を、という言葉をロベルトは呑みこんだ。
 バルドの側室となるであろうセリーナがいることを配慮したのである。
 マゴットには通じなかったようだが、アウグストは当然ロベルトが呑みこんだ言葉の意味をよくわかっていた。
 (まずは品定めだろうが……サクヤ殿は本気でいれこむつもりだな)
 おそらくサツキはバルドを気にいるだろう。
 あの性格からして、初めての自分より、しかも年齢の近い強い異性に夢中になる可能性は高い。
 そうでなくともバルドは容姿、地位、武力、財力全てが揃った好物件である。
 初心なサツキなどその気になれば一発だ、と思ってしまうのはいささか女性に気の多すぎるアウグストの思いこみであろうか。
 (となるとノルトランドもこのままってわけにはいかないだろうな。ガルトレイクに負けまいと伯父さんやイェフタス殿が入れ込むのが目に見えてる)
 ある意味でサクヤの決断は、アウグストが想定していた歴史の流れを少なくとも三年は早めたと言える。
 問題はアントリムが、いくら一領主としては破格の経済力を誇るといえど、受け入れが可能なのかということなのだが……。
 (金で世を渡る、我ら海運ギルドにとっては願ってもない展開になってきたじゃないか……)


 「――息子バルドはどこだい?」
 「ここ、これはマゴット様! しばしお待ちを!」
 「勝手知ったるなんとやらだ。客間で待たせてもらうよ?」
 確認を取ろうとする衛兵には目もくれず、マゴットは我がもの顔で城門をくぐり抜ける。
 誰もマゴットを止められないことを知っているのか、衛兵たちも見て見ぬふりだ。
 領地が激増した今でも、アントリムの居城はガウェイン城のままであった。
 ラミリーズの加入で、軍務系の書類地獄から解放されたテュロスやブランドンをはじめとする官僚団がようやく機能しはじめている。
 この期に及んでさらに面倒な引っ越し作業をやる余裕はどこにもなかった。
 「これはマゴット様、お出迎えにもあがらず失礼いたしました」
 「むっ、テュロスか」
 大抵の人間は歯牙にもかけないマゴットにとって、テュロスは数少ない例外である。
 あまりに完璧すぎる忠誠心MAXな男なので、つい気後れしてしまうのだ。
 「お連れの方たちをお聞きしてもよろしいでしょうか?」
 「あ、ああ……この娘はガルトレイクの猫耳族の巫女姫でな。バルドに話があるらしい。それでこっちは海運ギルドの使者だそうだ」
 「……海運ギルド……ですか」
 テュロスがわずかに顔色を曇らせたことに、アウグストは敏感に反応した。
 この程度の洞察ができずして七元老は務まらない。
 「海運ギルド七元老が一人、アウグストと申します。今後始まるであろうご親征について提言をお許しいただければと思いまかりこしました」
 「……失礼ですがアウグスト殿はいつこちらに?」
 「マルベリーを発ったのは三月ほどは前になりますが……それが何か?」
 マルベリーで何かあったのだろうか?
 その可能性は少ないはずである。なぜならアウグストがギルドの情報員から最新情報を更新したのはつい先日のことだ。
 マウリシアは内陸国家だからやや遅れるが、基本的に内陸国家は情報伝達速度で海洋国家には敵わない。
 まして商人にとって情報は命である。
 この時まで、アウグストは自分が最新の情報を入手していることを疑っていなかった。
 「――急いだほうがよろしいですね」
 「いったいどういうことでしょうか?」
 「トリストヴィー公国軍のマルベリー侵攻が早まりそうなのです」

 バルドのもとへマルベリーの危機が伝えられたのは今朝方のことである。
 アウグストの持つ水運と商人ネットワークよりも早く情報を入手できたのは、やはり稼働し始めた鉱石ラジオと腕木を利用した通信網のおかげであった。
 原始的な鉱石ラジオの到達距離は短いが、中継すれば人や馬の移動時間を遥かに凌ぐ。
 バルドによる世界戦力の目立たない切り札である。
 海と河川の水運を握り、もっとも情報に通じていると自負していたアウグストにとって、テュロスの言葉はにわかには信じがたいものであった。
 「確かにアンサラー王国の介入以来、いつ戦が始まってもおかしくはありません。が、いったいどんな情報があって公国軍の侵攻を予想されたのか、よろしければお聞かせいただきたい」
 マルグリット王女の生存を報告してよりトリストヴィー公国が戦争の準備を進めていたのは周知の事実である。
 公国の総力をあげて海運ギルドを潰滅させるまで、マウリシア王国に介入させないための謀略であるとさえ考えられていた。
 実際のところマルグリット王女の生存は事実であったが、狙った政治的効果は全く謀略そのものであった。
 「今朝届いた情報によれば、王都ミリアーナを三万人規模の軍団が集結したということです。進軍途上で諸侯の兵力を吸収すれば四万から五万の兵力となるのは確実かと」
 「正規軍を三万……それはいつの話ですか?」
 それほど大規模な動員を行えば、優秀な海運ギルドの間諜が見逃すことはありえない。
 万が一事実であるとすれば、それはアウグストが一昨日更新した情報よりも後であるはずだった。
 「…………五日前になりますね」
 情報の伝達速度を明かす危険があるが、テュロスは事実をアウグストには教えるべきであると判断した。
 バルドにとって敵か味方か、有用か無用かの判断に関してテュロスはほとんど独断で行動している。
 その勘が、アウグストを取りこむべきであると告げていた。
 「五日……! 五日でミリアーナの情報をアントリムまで届けたというのかっ!」
 アウグストが手にした情報は十日前である。
 沿岸に近いか遠いかで差異はあるが、他国の情報をアウグストは一週間から十日遅れで知ることができた。
 これは国家レベルと同等かそれ以上の速度であり、現にマウリシア王国の情報部はよほどの緊急時でないかぎり二週間遅れというのが現状であった。
 いかに五日という速度が規格外であるかわかるであろう。
 情報は速度だけではなく正確さが命であるが、アウグストは直感的にテュロスの情報が真実であることを確信した。
 「――どうかアントリム卿にお取次を」


 客間へと案内された一行は、ノルトランドから輸入された大きなソファに身を沈めた。
 「ラーテンの特製品なのにゃ。うらやましいにゃ。私の家では絶対買ってもらえないにゃ」
 サツキは子供のように(セリーナたちはすでに子供だと思うことにした)ソファをはずませてはしゃぐ。
 巫女姫長の母を持つとはいえ、経済的には多少裕福であるという程度であり、辺境伯のような特別な資産があるというわけではない。
 ノルトランドの王室御用達のラーテン製品といえば、超高級家具で有名なブランドである。
 皮の色つやといい、クッションの柔らかさといい、デザインのシンプルでかつ品格を感じさせる雰囲気といい、ラーテンを愛用する王家や貴族は多い。
 これを所有すること自体、上流貴族の証のようなものであった。
 サツキはそこまで知っていたわけではないが、単純にラーテンの持つ極上な感触と柔らかさに夢中になったあたりは感覚が鋭敏なせいもあるだろう。
 「……さすがはアントリム辺境伯。一国に匹敵するという財力は満更嘘ではないようですね」
 「当たり前や。バルドの懐はこのアントリムだけと違うんやで?」
 その気になればサバラン商会やダウディング商会が融資を提供できるうえ、いつでもサンファン王国やマジョルカ王国からも援助を引き出せる。
 だからこそアントリムをマウリシア王国へ返納するという決断ができるのだ。
 「なるほど、うらやましいかぎりです」
 アウグストも女に不自由したことはないが、パートナーという意味でセリーナのような女性に恵まれてはいない。
 そればかりかメイドあがりのセイルーンや、アントリムの内政を取り仕切る魔女ことアガサ、十大貴族であるランドルフ侯爵家の令嬢シルクという得がたい恋人を持つバルドには、一人の男として羨望の念を禁じ得ないところである。
 というかもげろ、爆ぜろ。

 「――――待たせたかな?」
 温和な声であるにもかかわらず、一瞬で魂を震わせるような威圧感。
 本人の意識とは無関係に、相手を萎縮させてしまうカリスマを身につけつつある、当代の英雄バルドがやってきたのはそのときだった。
 身長が伸び、表情からも少年らしい天真爛漫さが影を潜めたバルドはセリーナの目にも色気のある大人になった。
 それが過酷な運命に急がされたものだとしても、胸が高鳴ってしまうのは恋する乙女の埒もないところであろう。
 「これはお初にお目にかかります。アントリム辺境伯様」
 「セリーナから話は聞いている。海運ギルドの七元老と縁を結べるのは僕にとっても僥倖だ。よしなに頼む」
 「――恐縮の極み」
 なるほど、親父ヴァレリーが入れ込むわけだ、とアウグストはバルドを見て思った。
 生きながら英雄と讃えられる男の武威をアウグストははっきりと感じた。
 ――――同時に

 嫌な男だな
 嫌な男だ

 性格はほとんど似ていないのに、同族嫌悪のような不快感をともに二人は抱いた。
 才能は大いに認めるし協力するにやぶさかではないが気にいらない男、それが奇しくも二人の第一印象であった。
 サツキは顔を真っ赤に上気させて、勢いよく立ちあがるとバルドに向かって腰を折った。
 「ガ、ガルトレイク獣人族の巫女姫サツキ・カゲツと言いますにゃ。どうかよろしくですにゃ」
 マゴットにお仕置きされたのが効いたのか、一目でバルドが自分より強者であることを察したようである。
 強いということはそれだけでサツキにとって尊敬に値することなのだ。
 「遠路はるばるようこそ。母さんにも気に入られたようで何よりです」
 「うにゃっ? ひどいにゃ、私は気に入られたくなかったのにゃ……」
 「今なんか言ったかい? おばさんは耳が遠くてねえ」
 「会えてうれしくてたまらないのにゃ!」
 あまりにも見覚えのある光景に、バルドは過去の自分を思いだして思わずうんうん、と目頭を熱くして頷くのであった。
 このまましばらくマゴットの興味を引いていてもらいたい。
 主にバルドの平穏のために。
 「――この娘といっしょに二対一の稽古というのも面白そうじゃないかい?」
 「勘弁してくださいお母様、死んでしまいます」
 すでにサツキが王門持ちであるという情報は入っている。
 王門持ち二人に敵に回られてはいくらバルドでも逃げることすら難しい。
 まして相手はあの銀光マゴットなのだ。
 「ええっ? いいのにゃ? それなら私、是非バルド様と手を合わせて見たいにゃ!」
 「いや、二対一とか絶対に無理だから」
 「優しくしてくるなら一対一でもいいのにゃ」
 「……セリーナが鬼のような顔をして睨んでるから、そういう紛らわしい言い方はよしてくれ」
 「うにゃ?」
 バルドの言葉が理解できないらしく、サツキは可愛らしく小首を傾げた。
 不覚にもときめきを覚えるバルドだが、セリーナが発する冷気が強まったのを感じて慌てて目を逸らす。
 「あ、あとで手合わせの件は考えよう」
 話題を逸らすようにバルドはアウグストに向き直った。
 「今はそれより海運ギルドのことで話し合う必要がある。そうだな?」
 「私は巫女姫の手合わせの後でも構いませんが」
 「……マルベリー見捨ててもいいか?」
 「冗談です」
 笑えない冗談である。アウグストにとってはむしろバルドに助けを乞う場面のはずだ。
 それをおくびにも出さず冗談を言えるだけでも、アウグストが只者でないことは明らかであった。
 ――ますます気に入らなさが募るが。
 「すでに聞いたと思うが公国は今度こそマルベリーを攻め滅ぼすつもりであるらしい。どの程度の時間保つか貴殿の意見を聞きたい」
 「ひと月やそこらでは陥ちませんよ。裏切り者さえなければ」
 マルベリー自体は難攻不落の要塞といってよい。
 城壁は街全体を取り巻いており、その高さと厚みは王都ミリアーナの王城をも上回る。
 さらに傭兵や物資の補給も港を閉鎖されないかぎり思うがまま。
 正直味方の裏切りか、制海権を失って海上封鎖される以外でマルベリーが陥落すること可能性は非常に低かった。
 「裏切り者に心当たりでも?」
 「いつの世もできの悪い人間ほど目先の利益に飛びつくものですから」
 そう言ってアウグストは言葉を濁した。
 さすがに七元老の中に不穏分子がいるとは言えなかったのである。
 今後の交渉のためにも、下手に弱みを見せるわけにはいかない。
 「まあ、そういうところは人の宿唖ではあるが……」
 第二次アントリム戦役において、貴族たちの風見鶏に振りまわされた経験のあるバルドは、小人がいかに厄介な存在かを知っている。
 だが今重要なことはそこではなかった。
 「なるほど気持ちはよくわかるな。ガストーネ氏がそんな愚かな人間でないことを祈るとしよう」
 脳天に杭を打たれたような衝撃で、身体が崩れ落ちそうになるのをアウグストは耐えた。
 そしてかろうじて崩れていない笑みを浮かべたままに、アウグストは降参とでもいうように両手をあげた。
 「いったいどんな魔法を使ったんです? まあ、ガストーネの馬鹿のことはあえて隠しているわけではないですが」
 「――公国の船と怪しげな行動をとってたんで、公国の船ごと撃沈した」
 「あんたなんばしよっとねえええええっ!」
 マウリシアには海軍がないからサンファン王国あたりか?
 それでもそれだけで国家間戦争が勃発してもおかしくない話である。
 さらには下手をすると海運ギルドをも敵に回しかねない。
 証拠があれば話は別だが、腐ってもガストーネは七元老の一人なのだ。
 「お忘れかな? サンファン・マジョルカ連合艦隊に敗北したとはいえサンパニラデオンはいまだ健在なのだよ?」
 「いや、彼らはマジョルカ王国に服属したはずでは……」
 言いかけてアウグストは気づいた。
 形の上では服属しても、サンパニラデオンは決してマジョルカ王国海軍に所属しているわけではない。
 あくまでも彼らの表向きの身分は海賊のままなのである。
 そして相手国は、サンパニラデオンが実質的にマジョルカ王国の指揮下にあることを立証できない。
 せいぜい抗議して文句をつける程度のことしかできないのだ。
 改めてアウグストは、バルドに対して畏怖に近い感情を覚えた。
 とうの昔にマルベリーは、間接的にバルドの監視下に置かれていたのである。
 同じ海の男として、サンパニラデオンのカイラスがいかに手強い男かわかっているだけに、アウグストが感じた衝撃は大きかった。
 「――それにしても大胆な。万が一彼らが捕縛されたらどうするつもりです」
 「万が一にも捕まらないよ。サンパニラデオンの結束の固さを僕は目の前で見ているからね」
 何より絆の強さを問われるのは、勝利の時ではなく敗北の時である。
 カイラスが降伏を決断したとき、彼の仲間は何一つ文句をいうことなく大人しく軍門に下った。
 ――――ゾクリ
 バルドの背筋を氷を差し込まれたような悪寒が走る。
 「捕まらないはずだ。多分捕まらないと思う。捕まらないんじゃないかな? あはははは……」



 「どうした? 遅れてるぞ二番艦! 取舵ボート微弱イージー!」
 「姐さん、姐さん! 姐さんは有名人なんだからあんまり前に出ちゃだめですよ!」
 大きなつばの帽子が似合う、美しい女艦長を困惑した屈強の船乗りたちが取り囲んでいた。
 「そんなの沈めちまえば関係ないだろっ! 舵戻ミジップせ!」
 「だめだ、こりゃ……」
 それでも彼女の指揮が適確であることだけは確かである。
 一時間前にはほぼ同数であったはずの敵船団が、今や残すのは三隻のみとなっているのだから。
 「は――はっはぁ! こんな面白いこと黙って見てられるはずがないだろう!」
 凶悪な表情で女は哄笑する。
 ここに決していてはならないはずの人物。
 漆黒ネグロ暴風トルメンタと渾名され恐れられるマジョルカ王国海軍卿が、こともあろうに海賊船に乗ってトリストヴィー公国船を襲っていた。
 「どうなっても知りませんぜ? 姐さん」
 「今の私はウラカ・デ・パルマじゃない。そうだな、コルネリアス婦人とでも呼べ」
 「姐さんの顔は売れすぎてるんですがねえ……」
 もっともウラカが素直に言うことを聞くはずもない。
 男たちはせめて一隻たりとも逃がすまい、と頷きあうのだった。

 「ふざけんなっ! なんだあの海賊どもはっ!」
 「はっは――! あばよっ!」
 遠征に欠かすことのできない糧食を満載したアンサラー王国の商船団が、この日も一隻残らず潰滅した。
 おっとり刀で駆けつけた公国艦隊を嘲笑うように、海賊たちは追い風を受けてたちまち彼らを引き離す。
 「くそっ! 追いつけん! なんなんだあの速力は!」
 まるで風の魔法でもかかっているような鮮やかな操船ぶりであった。
 このところ公国はサンパニラデオンの跳梁を防ぐことができず、制海権は根拠地であるリガの周辺のみという有様である。
 ことに軍需物資に対する被害が激増していた。
 さらに性質の悪いことに、討伐に向かった艦隊もまた、軒並み返り討ちにあって被害が続出している。
 本来ならば海賊は正規軍には敵わない。
 軍艦というものは国家レベルの技術の結晶であり、その新造や維持には莫大な予算と労力が必要となる。
 海賊サンパニラデオンがその国家にどうにか対抗できていたのは、ひとえにカイラスという天才的な艦隊指揮官がいたからだ。
 そのサンパニラデオンをマジョルカ王国が支援したのだから、もはや憂いはない。
 そして率いるのはカイラスだけではなく――

 「あははははは! 私とバルドのために。お前ら皆殺しだっ!」
 「……さすがに可哀そうになってきたな」
 「千里眼カイラスに漆黒の暴風ウラカが相手だぞ……俺なら尻尾まいて逃げるね。触らぬ神にたたりなしっていうだろ?」
 「……ふふふ……これだけ戦果をあげればバルドも私の頼みを嫌とは言えまい!」
 「うわああ(ドン引き)」

 撃沈される商船の数は、少なからずトリストヴィー公国の遠征軍にまで深刻な影響を及ぼそうとしていた。



 一人の老齢の騎士が、ゆっくりと大公の前に跪く。
 「殿下におかれてはご機嫌麗しく――――」
 「うむ、久しいの」
 髪は雪のように白く、かつてははちきれんばかりに身体を鎧っていた筋肉も、今では骨をわずかに覆うばかりであった。
 にもかかわらず男から発散される武威は、大公たるジャックさえも決して無視することのできぬ迫力に満ちていた。
 「恐れながら申し上げる――――このたびの遠征、どうかお考えなおしいただけませぬか?」
 「僭越であろう! 卿はすでに軍を退役した身であるはず、控えられよ!」
 慌てて現在大将軍の地位にあるチェーザレが、男の言葉に口を挟んだ。
 せっかくの手柄の機会を今さら奪われるわけにはいかなかった。
 ――じっと男は静かにチェーザレを見つめた。
 怒りの色も、失望の色もない。ただ意志の力だけが籠められた視線にチェーザレはあっさりと気押された。
 かつては男の下で部下として使われていた記憶が、無意識のうちにチェーザレを萎縮させてしまうのだった。
 男の名をオルテン・ヘルカントス。
 先代のトリストヴィー公国軍大将軍であり、内乱後のトリストヴィーの守護神として名高い男であった。
 裏の守護神がヴァレリーであるとすれば(もっとも最大の敵でもあるのだが)、表の守護神はまさにオルテンだった。
 彼の高い忠誠心と、無私の献身がなくば、権力基盤の弱い公国が王党派を相手に国を守り抜くことは難しかったに違いない。
 一説では、彼が率いる近衛軍団が国王に対する離反を決めたことが、クーデター成功の決め手となったと言われている。
 そうした意味で、大公たるジャックもオルテンを無碍に扱うことはできないのだった。
 そのことが現大将軍であるチェーザレには忌々しい。
 「マウリシア王国で、亡き国王の孫を自称する不届き者が現れたのをご存じないのですか? この機会を逃せばいつマウリシア王国の介入を招くことになるか……」
 「もはやマウリシアの介入は既定事項だ。ゆえに介入前に決着をつけられないのであれば、万全を期すべきであろうと思うのだが」
 「介入前にマルベリーは落とす! 余計な心配はしないでいただこう!」
 「アンサラー王国からの支援物資が滞っている現状で、少しでも戦が長引けば海運ギルドの思うつぼだぞ?」
 「マルベリーはトリストヴィーの独力で陥落させるっ! アンサラーの支援物資など気休めにすぎぬ!」
 痛いところを衝かれたチェーザレは拳を振り上げて断言した。
 かつて上官であったオルテンに、作戦を駄目だしされた記憶が蘇り、それがますますチェーザレを意固地にさせるのであった。
 「制海権が向こうにある以上、援軍を阻止することは事実上不可能に近い。いったいいつまでにどうやってマルベリーを陥とすというのだ?」
 「ぬぐぅ……」
 こうして理詰めで来るからオルテンの相手は性質が悪いのだ。
 そんなもの、現場に行ってみなければわかるまい、と言いたいのだがそうなればさらに追い詰められるのは目に見えていた。
 今回動員する兵力は四万五千、かつて動員した最大兵力の五割増しであり、用意した糧食も倍以上である。
 これほどの戦力を抱えて戦いを躊躇するなど、怯懦と言わずしてなんと言う。
 チェーザレが激情のままに墓穴を掘ろうとしたそのとき、ゆっくりとジャックは右手をあげた。
 「トリストヴィーが単独でマルベリーを陥とすことに意味があるのだ。その機会は今をおいてほかにない。オルテンよ、勝つためにならばいくらでも耳を傾けるが、戦を止めるというのなら去れ」
 「――――御意」
 やはり、とは思っていた。
 チェーザレ一人の権勢欲でこれほどの動員が承認されるとは考えにくい。
 おそらくは大公その人の意思が働いているはずであった。
 政治的独立を守るうえで、独力でマルベリーを陥落させるというのは正しいであろう。
 問題は相手がそれを許すか、ということだ。
 オルテンの経験では、海運ギルドの結束力は高く傭兵が主力とはいえ、古参の傭兵はマルベリーの正規軍と考えても何の遜色もない。
 さらに港から物資も傭兵も補充し放題で、資金力も抜群となれば長期戦で根をあげるのは公国軍のほうである。
 「案ずるな。こたびは奴らに息のかかったものもいることだし、褐色の若獅子が留守にしているという情報もある」
 「戦に不測の事態はつきもの。せめてこの臣の同行をお許しくだされ」
 冗談ではない。
 これ以上うるさい小舅につきまとわれてたまるものか、とチェーザレは抗議の声をあげた。
 「退役した軍人に同行されては軍の指揮命令系統が乱れます。どうかご自重いただきたい」
 「いや、経験豊かなアドバイザーがいてもよいではないか。序列を乱すようなことはオルテンもするまい?」
 「無論、万が一のときに助言をするのみにて」
 「オルテンもこう申している。連れて行ってやれ」
 「――――御意」
 主君からこう言われてしまっては臣下として断ることは不可能である。
 非常に不本意ながら、チェーザレはオルテンの同行を認めぬわけにはいかなかった。
 「――ヘルカントス卿、あくまでも助言のみ。努々(ゆめゆめ)序列を乱すような手出しはなさいますな」
 「わかっておる。私とて何事もなく勝利することを祈っているのだ」
 だが、今回ばかりは祈るだけで済むことはないだろう。
 オルテンにはそんな確信がある。
 (ラミリーズ、まさか貴様とこの年齢で戦うことになろうとはな)

 かつて袂を分かった親友の行方をどれほど捜したことだろう。
 大公のクーデターにより、ラミリーズが愛想を尽かした国王は倒れた。
 新たな時代の幕開けにラミリーズの力は必要になると、近衛騎士団長であったオルテンは私財を投入して彼の行方を追った。
 もう一度、親友と肩を並べて戦える日が戻ってくる、と信じてのことであった。
 たび重なる王党派のテロ、そして海運ギルドを中心とする商人派との抗争で活躍したオルテンはいつしか大将軍の地位にまで出世した。
 もし傍らにラミリーズがいればどんなに心強いことか。
 大将軍など自分よりラミリーズのほうがよほど相応しいはずであった。
 オルテンのもとにようやくラミリーズの消息が届いたのは、クーデターからまもなくのことである。
 いつの間にかマウリシア王国で将軍となっていた親友にオルテンは失望した。
 同時に傭兵に身をやつし、故郷を捨ててまで貫いたヴィクトールへの忠義を捨てマウリシアの騎士となったラミリーズに怒りすら抱いた。
 マウリシア国王に忠誠を誓うくらいなら、自分のように国内で国王を打倒し、少しでも祖国をよい方向へ向かわせるという選択肢はなかったのか。
 いずれにしろこれで再び親友と肩を並べる可能性は消えた。
 風の噂にラミリーズが現役を退き、騎士学校の校長になったと聞いた。
 いつの間にかお互いに歳をとったものだ、とオルテンもまた後進に大将軍の地位を譲って引退した。
 このまま穏やかに歳をとって、死ぬのもよいか。
 孫が成長し、騎士見習いとして出仕してそんなことを思い始めたそのとき、事件は起きた。
 マルグリット王女の生存、そして王女の息子バルド・アントリム・コルネリアスが王国の後継者として名乗りをあげたのである。
 あのパザロフ伯ヴィクトールのひ孫にあたる男が。
 ――――今こそオルテンはラミリーズがマウリシアに骨を埋める気になったのかわかった気がした。
 そしてこの機会を黙って見過ごす男ではないということも。
 誓ってラミリーズは老骨に鞭打ってバルドの元へ馳せ参じるはずであった。
 味方にすれば頼もしい男だが、敵に回せば恐ろしい男である。
 トリストヴィー王国を再興するため、バルドがやってくるなら必ずやラミリーズもその傍らにいるであろう。
 言っては悪いが、チェーザレにラミリーズの相手は重すぎる。
 祖国を捨てた男に、自らが人生を懸けたトリストヴィー公国を蹂躙させるわけにはいかない。
 この身を捨てても守りぬかねばならなかった。
 「御多忙のなか、臣に耳を傾けていただき感謝の念にたえません。このうえは我が命の続く限り殿下のために」
 「うむ、卿の忠勤うれしく思うぞ」
 公国内にあって、数少ない私心なく忠誠を誓ってくれる男である。
 ジャックは機嫌よく応じた。
 チェーザレとしては不満もあるが、ここでジャックの不興を買うのは得策ではないとわかる程度の分別は持ち合わせていた。

 謁見の間を退出したオルテンは老いた身体に、久しく感じていなかった埋火のような熱さが戻りつつあるのを自覚した。
 まだ自分は戦うことができる。
 戦いに昂揚するこの熱さがその証であった。
 「……そういえば、本気で貴様と戦うのはこれが初めてだな。ラミリーズよ」



 「そんなへっぴり腰で前線が務まるか! 打ちこみ五百追加!」
 「了解しました!」
 ラミリーズは久しぶりにかつて下士官であったころを思い出して、兵士をしごきにしごいていた。
 そうやって歩兵は命令されることに慣れていく。
 まずは命令に対する服従を身体に覚え込ませることで、軍は組織としての行動が可能となるのである。
 特に傭兵出身者の多いアントリム辺境伯軍においては、それは必須の作業なのであった。
 「歩幅を合わせんかごるぁっ! そんなことで集団戦ができるか!」
 「旋回が遅いっ! やり直し!」
 ゲルハルトとバーナードの怒声が飛ぶ。
 彼らは互いに一部隊を率いており、より早くノルマをこなしたほうの部隊が、今日の地獄から解放されるのだ。
 もちろん、残されたもう一部隊のほうは推して知るべし。
 「はっはっ! 思い出しますな将軍おやっさん、王宮の営庭で見習いどもをしごいていた日々を」
 「あの頃の将軍おやっさんに比べればまだまだお甘い」
 ――――それは絶対に嘘だ。
 疲労困憊した兵たちは、かろうじてそう口にするのをこらえた。
 これよりきついしごきだとすれば、しごきだけで死人が出るだろう。
 「貴様らを使い捨てるつもりはない。生きのびるために今この時を耐えよ。トリストヴィーには手強い男がいるぞ」
 死なぬためには運と訓練が必要であった。
 それを学習した若き日、ともに血と汗を流した親友の姿を思いだして、ラミリーズは西の空を見上げた。

 「ところでアウグスト殿はオルテンという男をご存じかな?」
 たった今感じた一抹の不安をスルーして、バルドはアウグストに問いかけた。
 「もちろん存じておりますよ。というよりトリストヴィーに生まれたもので知らぬものは少ないでしょう。今の公国を支えた功臣ですからな」
 同時に手強い敵であった、とアウグストは思う。
 彼が引退してから公国の脅威は格段に減ったのは確実であった。
 「そのオルテンと我が軍のラミリーズは旧知の仲でな」
 「そういえばラミリーズ殿はトリストヴィー王国の近衛騎士であったのでしたね」
 飄々と韜晦するアウグストからそんな気配は微塵も感じられないが、事実アウグストは敗北感すら覚えていた。
 相手との間でこれほどの情報量の差があれば、商売で勝つなど夢のまた夢であるからだ。
 海運ギルドがバルドを正統な国王として迎え入れることで恩を売る、という計画は公国の出兵というカウンターパンチによって半ば以上崩壊していた。
 もしアウグストでないものが使者であれば、バルドの情報を疑い、恩を売るスタンスを変えなかったかもしれない。
 しかしアウグストはバルドの情報を微塵も疑ってはいなかった。
 そんな調べれば分かる嘘を吐くほど、バルドは底の浅い男ではない。
 「しかしオルテン殿はすでに退役して隠居の身ですよ?」
 「大人しく傍観しているはずがない、とラミリーズは言っている」
 「……なるほど、その予想が当たれば厄介ですな」
 親友としてかつては肝胆相照らした仲である。
 まさにラミリーズとオルテンの予想は見事に一致していた。
 「そこで、だ。チェーザレという男はどんな人物かな?」
 「取りたてて見るべきところはありませんな。強いて言えば捨て駒を使うのがうまい男です」
 「捨て駒?」
 アウグストは口元をつり上げて侮蔑するように吐き捨てた。
 「味方を囮にして被害をそこに集中させて勝つ。奴はそうしてライバルたちを葬り、今の大将軍の座を勝ち取りました」
 「オルテンはそれを認めたのか?」
 「いえ、チェーザレはベルナルディ公子殿下の教師をしておりまして、殿下の後ろ盾があったからこその出世です」
 「なるほど、要するに虎の威を借る狐か」
 平時であればそれもいいだろう。
 いや、良くはないが致命的な問題ではない。
 問題なのは、戦場という空間において狐は決して獅子には敵わないという事実である。
 チェーザレが率いている軍であれば、たとえ四万、五万の軍勢であろうと恐れるべきことは何もない。
 「器の小さいことでも有名ですから、奴のために命を懸けようなんて部下もいないでしょうね」
 「もしオルテンが指揮官なら?」
 「公国軍がひとつの岩になったと考えてよろしいかと」
 「オルテンの人となりから考えれば、戦後処刑されるのを覚悟でチェーザレを監禁するくらいのことは平気でやる……らしい」
 ラミリーズの言葉を借りればそういうことになる。
 祖国を守るためには家族も名誉も投げうつ覚悟がオルテンにはある。
 それが主君を殺され祖国を見限ったラミリーズと、オルテンの決して交わることのない相違点であった。
 「率直に聞くが、オルテンが率いる公国軍に海運ギルドはどれほど持ちこたえられる?」
 バルドの問いにアウグストは棒を呑みこんだように硬直した。
 自分の返事ひとつで戦局が変わり、勝敗を決しかねないことを理解したからである。
 強がってマルベリーは難攻不落と言うのもいい。
 ただそのために海運ギルドは援軍が遅れ潰滅するかもしれなかった。
 では半月も持たないといえばどうなるか?
 その程度の戦力しかない海運ギルドは、バルドのパートナーではなくスポンサーのひとつとして扱われるだろう。
 そうなれば政治勢力としての海運ギルドの影響力は激減する。
 経済活動なしに戦争を遂行することはできないが、戦争に勝利するのは常に直接的な軍事力であるからだ。
 そのことを海運ギルドの商人たちは、王国滅亡の際にいやというほど叩きこまれた。
 「制海権が確保されているという前提ですが、一月ということはありません。しかし二月は厳しいかと」
 数瞬の間にそんな思考を巡らせてアウグストは答えた。
 不確定要素がなければ半年でも持ちこたえられる。
 しかし一月以上商業活動が停滞すると、体力のない商会から不満があがるのは避けられないことであった。
 まして七元老の一人が内通している可能性が高い現状ではなおのことである。
 それらを勘案しても、アウグストは一月以内にマルベリーが陥落することなど想像できない。
 「――――急いだ方がいいな」
 「それは一月も保たないという辺境伯のお考えですか?」
 落ちついた声ながらいささか気分を害してアウグストは問いかける。
 自分の分析が、決して過大評価ではないという自信がアウグストにはあった。
 「ただの勘だ。オルテン殿が大将軍であっても揺るがなかったマルベリーの壁。兵数が増えた程度でチェーザレが落とせるはずがない」
 「隠された策がある、と?」
 「大公がよほどチェーザレの力を高く買っているのでなければ、あると考えるのが普通だ。自殺願望があるなら別だが」
 補給に関してアンサラー王国の援助があるとしても、大軍を長期間運用し続けるのは困難なものである。
 数万の兵士の寝場所、トイレ、風呂は無理でも身体を拭う程度は当然であり、これを怠ると兵士の士気は加速度的に減少していく。
 士気の下がった兵は烏合の衆と変わらない。
 長期化した攻城戦が、大抵の場合攻撃側の敗北で終わるのはそのためだ。
 だからこそ兵力を増しただけで、公国がなんの工夫もなく攻めてくるとはバルドには思えなかった。
 しかし確証はない。バルド自身の勘である。
 だがこうした勘が時として勝敗を分けることを、バルドは左内から受け継いでいた。
 「こちらもゆっくりとはしていられないようだな」
 遠征を行うには、まだアントリム領の戦備は不十分と言わざるを得ない。
 それでもバルドの勘は、今こそが戦のときであることを感じてやまなかった。

 「――――それがどうしてこうなった」
 いつもながらの理不尽を感じてバルドは天を仰いだ。
 「あははは……それは私がって見たかったからだ」
 堂々とマゴットは薄い胸を張る。
 ナイジェルとマルグリットに授乳をしてもそのサイズは一ミリたりとも変動していない。
 「――――死にたいのかい?」
 「滅相もありません!」
 「私の実力をお見せするのにゃ! 絶対に足手まといにはならないのにゃっ!」
 事の始まりはサツキが強引にマルベリーへの同行を申し出たことにある。
 当初はバルドの力量を図ってから、猫耳族としてのスタンスを決めるはずであったのが、マゴットに完敗した結果、すでにサツキはバルドに従属することを決めていた。
 一族の代表としては失格だが、サツキの決断自体は決して間違ってはいなかったと言えるだろう。
 「――こうなったお嬢は止められん。我らも地獄の底までお伴するのみ!」
 「こんなの絶対おかしいよ…………」
 海運ギルドの代表ではあるが、ノルトランドの犬耳族にも縁のあるアウグストとしては非常に困った事態であった。
 ジーナをはじめ犬耳族がバルドを全面的にバックアップすることはもう決定事項である。
 だが正式にノルトランド帝国のお墨付きを得て数千の軍を送りだすには、まだまだ時間が必要であった。
 そこで初陣を猫耳族に奪われるというのは、犬耳族の沽券に関わる。
 もしギッツェ伯父に知られたら、憤死しかねない厄ネタであった。というかお前は何をしていたんだとこちらに飛び火必至である。
 (早くしろ――っ! 間に合わなくなっても知らんぞおおっ!)
 そんなアウグストの困惑をよそに、バルドとサツキは互いに剣を構えて向かい合った。
 「――――まずは顔合わせってやつだ。わかっているとは思うが、私を失望させるんじゃないよ? バルド」
 「イエス、マム!」
 相変わらず立場の弱いバルドであった。
 たかが模擬戦でリスクの高いオーバードライブなど使えるわけがない。
 ドーピングのない状態では、まだまだマゴットの無双状態は健在なのである。
 「全力で行きますにゃ!」
 サツキはグン、と猫のように身体を沈みこませた。
 前傾して獲物に飛びかかろうとするその姿はまさに猫を思わせる。
 臨戦状態になったことでバルドの纏う空気が変わった。
 互いに王門を持つものだけが纏うことのできる、暴風のような圧倒的な武威。
 その力を解放した以上、一瞬たりとも油断は許されない。
 「行くにゃ」
 「来い!」
 大地を陥没させるほどの強力な踏み込みで、サツキが紫電のように疾走した。
 それを認識できたのはマゴットとバルド、そしてかろうじてアウグストも霞むサツキを捉えていた。
 ――――スカッ!
 「うにゃああああああああああああああああっ!」
 渾身の力を籠めて剣を振り抜いたのが徒となった。
 サツキの剣は盛大に空を斬り、その遠心力でサツキは時計回りに回転してかろうじて倒れこむのをこらえた。
 そんな隙をバルドが見逃すはずもない。
 「獣人の悪い癖だ。戦う前に魔法が使われたかどうか常にチェックするのを忘れるな」
 誰もいないはずの虚空から声がした、と思う間もなくサツキの細い首筋に剣が添えられていた。
 「な、なんでにゃ?」
 サツキにしてみれば何がなんだかわからないままに勝負が決まっていた。
 不幸にしてガルトレイクではバルドのように魔法と剣を高いレベルで使いこなす戦士はいなかったのである。
 「――――蜃気楼、のようなものか?」
 船乗りとして何度もその現象に遭遇しているアウグストが、絞り出すように呟く。
 現象としては納得できても、魔法でそれを再現する方法が全く理解できないのだから彼の驚きも当然であろう。
 「やり直し! やり直しを要求するにゃっ!」
 憤然と肩を怒らせてサツキは立ち上がった。
 その仕草がいかにも子供じみていて、思わずバルドはくすりと笑みを漏らす。
 「……いいよ、おいで」
 別にバルドはサツキを侮っていたわけではない。
 ただ無邪気に勝利を求めるサツキに、かつてマゴットを超えようとしてあがいていた自分の姿を見たのである。
 だがそれは、王門持ちとして孤高の最強であったサツキにとって、初めて感じる強者の余裕であった。
 「――――行きますにゃ!」
 もう手加減をする必要はない。
 相手を気遣う必要もないし、立場を慮る必要もなかった。
 ただひたすら全力を解放して戦える相手に、サツキはようやく巡り合ったのだ。
 ――ただしマゴットは除く。Sだから。
 「こんのおおおおおっ!」
 「格上を相手にフェイントもなしでは通じないよ」
 まっすぐに突撃するも簡単に足払いされてサツキは顔から転がり込んだ。
 「ふにゃあああああっ!」
 体力も技術も駆け引きも、全てバルドが大きく上回る。
 王門の力をもってしてもサツキには、まともに剣を合わせることすら叶わない。
 まるで教師に指導されているかのように、バルドから注意を受けるサツキは顔を輝かせて躍動した。

 「――――堕ちたわね」

 そんな二人を憮然とマゴットは見つめていた。
 コルネリアスに残してきた最愛の宿六イグニスが、無自覚に女を落とす手管を見たような気がした。
 「むかついたから私も混ぜなさい」
 「えっ? 何言っちゃってるの母さん。うそ、マジ?」
 「嬢ちゃん、私の言うとおりに動いてご覧? 少しはバルドにお返しをしてやらなきゃあね」
 「わかりましたにゃっ!」
 この人だけには逆らってはいけない。
 サツキの動物的な本能がそう告げていた。
 「さて、リベンジといこうかね」
 「ちょ、リベンジならせめて一人で……待って、王門持ちの二人がかりとか本当に洒落にならないから! ゆんやああああああああっ!」

 「い、生きてるかい? アントリム卿」
 他人事ながら無惨な有様に、震える声でアウグストは声をかけた。
 「返事がない。ただの屍のようだ」
 「生きてるよ! 勝手に殺さないでくれ!」
 「おうおう、まだ元気がありそうだね。もうひと勝負いこうか?」
 「――――屍でいいです」
 がっくりと項垂れてバルドは前のめりに崩れ落ちた。
 まさに地獄と表現するしかない一時間だった。
 王門持ち二人を相手に、一時間付き合えただけでも、バルドの実力は空恐ろしいものである。
 (もっとも、その高い実力が仇となったようだが、な)
 高い実力と耐久力が、むしろ地獄の時間を引き延ばした。アウグストはそう考えていた。
 万が一自分が戦うなら、開始数秒で意識を失っていたことは確実である。
 かろうじて致命傷を避けながらも、マゴットとサツキという二人の化け物を相手にガシガシと削れていくSAN値、もとい体力を思うと目頭が熱くなるアウグストであった。
 「――――そんなわけで合格だ」
 「うにゃ?」
 「こんな戦力を放っておくわけにはいかないだろう?」
 バルドの言葉が何を意味しているのか理解したサツキは破顔して、太陽のような明るい笑顔を浮かべた。
 「うれしいにゃっ! 私は役に立つにゃっ!」
 そしてはしゃぎながらバルドに抱きつこうとするサツキの小さな頭を、マゴットのアイアンクローが止めた。
 「悪いねえ。私は嬢ちゃんが戦場では役に立つとは認めたが、バルドの嫁として認めたわけじゃないのさ」
 「痛い! 痛い! 痛いのにゃああああっ!」
 ミシミシと頭蓋が軋む音を聴いて、サツキは声の限りに絶叫した。
 その有様が童顔の容貌と相まって、小さな子供をいじめているように感じられて、バルドは思わずサツキをその腕に庇った。
 「止めてください母さん、こんな小さい子に……」
 「うう、小さくなんてないのにゃ……でも、ありがとうなのにゃ」
 バルドの胸に顔を埋めて、ホッと息を吐くサツキの頬は、まるでさくらんぼのように赤らんでいた。
 ――ピキリとマゴットのこめかみに青筋が走る。
 理由はどうあれ、自分に逆らってほかの女に色目を使うとはいい度胸だ。
 「そうかい。お前もそんなところだけは父親に似たんだね。わかったよ。女の敵には躾が必要だってね」
 「いえ、それさっきも言いましたよね。そこで父さんを思い浮かべられても困るんですよ、いやマジで」
 「シルク、セイルーンにセリーナ、さらにアガサやレイチェル殿下まで誑しこんでおいておいて、まだ足りないってのかい! やっぱりお前はあのイグニスの息子だよ!」
 もっときちんと躾けておくべきだった。
 あの種馬イグニスを調教するのに気を取られたばかりに、可愛い息子が新たな種馬になってしまうとはっ!
 「返す言葉に困りますが、僕も誠心誠意彼女たちを幸せにしようとですね……」
 「目の前で他の女に手をつけられて、幸せもくそもあるかい、あほんだらっ!」
 「ちょ、そこで本気モードの王門開放は大人気ないじゃないでしょうか? 母さん」
 「生憎私はものわかりのいい大人になった覚えはないね!」

 「――いい歳して小娘みたいに嫉妬こじらせてんじゃないよ!」

 その声に聞き覚えのあるバルドとマゴットは同時に振りかえった。
 老齢でややしわがれてはいるが、言葉に乗せられた覇気はまだまだ第一線のそれであった。
 「くそばばあ、何しに来やがった?」
 「ジーナお婆ちゃん!」
 ズゴ――――――ツ!
 バルドの言葉を聞いた瞬間、マゴットは何かに悶絶するようにして顔面からうつぶせに倒れこんだ。
 「お、お婆ちゃんだとぉっ?」
 「…………お別れするときに泣いて頼まれまして」
 瞳は潤んでいたが、あれは絶対に演技……というより脅迫だった。
 言うことを聞かなかったら、わかるね?
 ジーナは無言でそう圧迫していた。
 「ばばあこそ歳を考えやがれ、ごらああああっ!」
 「可愛いひ孫にお婆ちゃんと呼んで欲しいのは当然の欲求じゃないかい?」
 「お婆ちゃんって柄か! このヘルシングの雷鳴が!」
 ――――確かに!
 そのときバルドとアウグストは視線を交わして互いに頷きあった。
 さすがは同族嫌悪するだけあって見事な一致であった。
 「昔と違って老い先短くなるとどうも心細くってねえ……ゲホゲホ」
 芝居じみたジーナの咳きこみかたにマゴットは怒髪天をついて激昂した。
 もともとこの二人の相性は絶望的に悪いのだ。
 「ここでお前の人生終わらしてやろうか!」
 「やれるもんならやってみな」
 不敵に嗤って互いに王門を解放すると、今度は呆然と成り行きを眺めていたサツキが反応した。
 「噂には聞いていたにゃ……ヘルシングの雷鳴は王門持ちかもしれないと、」
 「ま、見ての通りだけどね」
 「こんなのおかしいにゃっ! 何百年もいなかった王門持ちが、どうして今に限って四人もいるのにゃ!」
 乱世はときとして無数の英雄を誕生させるが、実際にそんなことがあるのだろうか?
 ただ英雄の才を乱世でないと発揮することができないために、そうと知らぬまま歴史に埋もれて言った無数の英雄候補がいたということではないのだろうか?
 おそらくは王門持ちも居たはずなのだ。
 ただ獣人の血を隠していたか、あるいは獣人が迫害されるなかでその力を振るう機会に恵まれなかったのであろう。
 だが、こうして同時代に四人もの王門持ちが出現したのには理由がある。
 それが必要とされる歴史的必然がある。
 その点に関してだけはジーナもマゴットも同意見であった。
 「このくたばりぞこないが数に入るってのかい? はっ! ガルトレイクの小娘にも劣るばばあが?」
 「小便くさい小娘が言うようになったじゃないか。お前は忘れたかもしれないが、私に挑みにきて失神したお前の――――」
 「その先は言うなああああああああああっ!」
 吼えるように叫ぶと同時に、マゴットの鋭い拳がジーナの鼻先をかすめた。
 しかし精神的に動揺したマゴットの一撃をやすやすと食らうほど、ジーナの武は安くはない。
 軽く首をひねっていなすと、同時に右足をマゴットの軸足に飛ばして足払いをかけるあたりは老練の呼吸であった。
 「ちっ!」
 咄嗟にマゴットは蹴り足に合わせてバックステップして距離を取った。
 「その手口は前に見た」
 「成長したじゃないか。昔は見事にカウンターですっこけてたっていうのに」
 かつてジーナに挑んだ日のことを、マゴットは鮮明に覚えていた。
 おそらくマゴットの生涯でも、あれほどの完敗を喫したのは幼いころラミリーズに稽古を習って以来一度もない。
 押せば引き、引けば押されるジーナの絶妙な攻防の駆け引きに手も足も出なかった悔しさは、今も到底忘れられるものではなかった。
 だが、自分もあのころの未熟なマルグリットではない!
 圧倒的な格の差を見せつけるのは、今度は自分のターンだ!
 「全く、漏らした下着を換えてやった祖母に対してなんて仕打ちだい」
 「なああああああああああああっ!」
 バッと身体ごとバルドに向き直って、マゴットはみるみる全身林檎のように真っ赤に染まった。
 「ち、違う、違うぞバルド? こんなばばあのことなんて信じるな。信じるんじゃない」
 だらだらと大量に汗を流してうろたえるマゴットの姿が、何よりも雄弁に真実を物語っていた。
 「朝目が覚めて、なんだかすうすうすると言ったのは誰だったかね?」
 涙目になってマゴットは叫ぶ。
 「卑怯だぞ! ばばあだって若いころはいろいろやらかしたはずなのに!」
 「これもまた年の功って奴さ」
 当時はジーナも全盛期に近い力を出せたし、マゴットはまだ完全に王門を解放していない小娘だった。
 今戦えば確実にマゴットが勝つ。
 問題はそれでも過去を変えることはできないこと、そして若き日の過ちを聞かれたくない息子バルドがここにいるということであった。
 「まあ気にするな。漏らすまで戦ったのは感心してるんだよ? これでも」
 「絶対にうそだああああああああああああっ! ジーナの馬鹿ああああああっ!」
 いたたまれなくなったマゴットは、ドップラー効果を残しながら一陣の風のように去っていった。
 自分勝手で相手の羞恥は喜んで煽るくせに、自分のこととなると羞恥耐性がないマゴットであった。
 「――ここまでしたくはなかった」

 「それは絶対にうそだろっ!」

 再び期せずしてハモッてしまったバルドとアウグストであった。

 「エレブルーのジーナだ。会えてうれしいよ」
 「ガルトレイクの巫女姫、サツキ・カゲツにゃ。私こそ話には聞いていたにゃ」
 本来敵対しているはずのジーナとサツキだが、不思議なほど憎しみも敵意も湧かなかった。
 サツキがいまだ戦争に参加したことがないこともあるが、ジーナがバルドの曾祖母であることも大きいのだろう。
 「――全く、巫女姫が来てるなら便りくらいよこさないかい。危うく手遅れになるところだったろうが!」
 「お言葉ですが、私も今日知ったのですよジーナ様」
 そういいつつも、アウグストはほっと胸をなでおろしていた。
 これでアウグストがギッツェに絞殺される最悪の事態だけは避けられたのである。
 「まあ間に合ってよかった。いやとは言わさないよ? バルド」
 「……いえ、心強いです」
 心強いどころの話ではない。
 これで大陸に存在する全ての王門持ちが揃った勘定になる。
 下手をすればこの四人だけで万余の軍勢を相手にすることが可能であった。
 寡兵のアントリムにとってこれほどありがたい援軍もなかった。
 「ギッツェは地団太踏むだろうがね。悪いがノルトランドの獣人族が到着するのはあと二月ほどかかるよ」
 「それでも十分ですよ」
 バルドにとっては獣人族が支援してくれることそのものに意味がある。
 まずは獣人の支持を得られなければ、バルドが望む社会など夢のまた夢であるからだ。
 ジーナにとってもこの後れは予想外であった。
 実はバルドという象徴を得て、参加したがる獣人が想定を超えて激増していた。
 さすがにノルトランドを空にして出撃するわけにもいかず、選抜のために試験を実施することになったのだ。

 「おらああっ! 貴様らとっとと並べ! 一番! まずは力いっぱいこの人形を叩き斬れ!」
 「うおっす!」
 「とろとろしてるやつぁぶっ殺すぞ!」
 俺だって早く獣王のもとへ行きたいんだよっ!

 基礎身体能力の選定と模擬戦。
 それが終了して部隊として編成するだけでも一月以上。
 さらに行軍してアントリムへ到着するとなると、どう急いでも二月を下回ることはできないだろう。
 「それで先乗りして来たのですか?」
 「いや、私は姫殿下にちょいと使いを頼まれてねえ」
 そういって意味ありげにジーナは視線をずらす。
 つられるようにして視線を向けたバルドは、そこに美しく咲き誇る大輪の花を見た。

 「その……ご迷惑をおかけしますけど……お会いできてうれしいです、バルド様」

 ざっくりと髪を切り落とし、清楚な中にも大人の女の色気を濃厚に感じさせるレイチェルの姿がそこにいた。
 レイチェルは恥ずかしさのあまり逃げ出したい気持ちを必死に抑えていた。
 バルドを愛する気持ちにいささかの偽りもないが、自分のやったことは一方的な求愛ともとれる。
 恋人でもなんでもないバルドのために、公爵家の子息を袖にして王族籍を離れたのだから。
 よくもバルドが受け入れてくれたものだと思う。
 というよりバルド以外には決して不可能な芸当である。
 王族でなくなった放蕩娘など、ただの厄ネタでしかない。
 ここまで準備を整えてくれたウィリアムやベアトリスには、いくら感謝してもしきれぬほどであった。
 「――――良かった。貴女がオーガストなんかのものにならなくて」
 本心からの台詞であった。
 バルドにとってもオーガストは、鼻もちならない選良意識の塊のような人物だった。
 彼がレイチェルをただの政治的玩具として扱うのは目に見えていた。
 バルドが本心からそう思っていることはレイチェルにも伝わり、レイチェルは感動に瞳を潤ませた。
 恥ずかしがり屋なところは変わっていないようだが、愛のためにウェルキンと決別したレイチェルには凛とした覚悟がみなぎっていた。
 まるで蕾が綻び、花を咲かせた花弁から匂うがごとき清新な香りが、レイチェルの全身から立ち上るようであった。
 胸の甘い痛みが命ずるままに、レイチェルはバルドの胸へ飛び込み、バルドも彼女の細い肢体を受け入れた。
 気の多い男と言われようと、捨て身のレイチェルの想いがうれしかった。
 「ごめんなさい。私、勝手なことをしてしまって――――」
 バルドの胸のなかで安らぎを覚えながらも、レイチェルは今回の行動が及ぼした影響の大きさに自覚がないわけではなかった。
 まず国王ウェルキンの不興を買っただけでも一大事である。
 まして官僚貴族の筆頭格リッチモンド公爵家の嫡子を袖にしてとなれば、まともな人間ならば言葉を交わすことすら嫌がるはずであった。
 それだけではなく、レイチェルには自分の想いが一方的なもので、バルドに告白すらしていないという負い目がある。
 それでもなお――――バルド以外の男に身を委ねることをよしとしなかったレイチェルの覚悟をバルドは素直にうれしいと感じていた。
「僕は強い意志には運命を変える力があると信じています。だから――貴女が運命を変えてくれたことに今は感謝しています」
 バルドがトリストヴィーの後継者として名乗りを上げた以上、旧王家の生き残りであるシルクがその妻となるのは自然な流れである。
 もちろん新たなトリストヴィー王国との友好のために、マウリシア王家から王女を嫁がせるという政略もないではないだろう。
 しかし現状、大陸最大の強国アンサラー王国が後ろ盾についたトリストヴィー公国に、獣人の血を引くバルドが勝利する可能性はお世辞にも高いとは言えない。
 さらに統一王朝の高貴な血筋を自認するマウリシア王国としては、表だって獣人のバルドを支持するわけにはいかなかった。
 いや、いくらかの政治的環境が整備されれば支持することは可能だが、現状では不可能であった。
 「私はバルド様を愛していてよいのでしょうか?」
 「もちろん――死が二人を分かつまで」
 プロポーズともとれるバルドの言葉にレイチェルはゆで上がったように顔を赤面させ、しばしの逡巡のあとにギュッと瞳を閉じた。
 その意味するところをバルドもわからぬはずがない。
 右手をレイチェルの細い顎に添えて、ゆっくりとバルドの顔が紅潮したレイチェルの唇に近づき――――。
 「う~~ふ~~ふ~~。歓迎いたしますわ、レイチェル様~~」
 地の底から噴き出すマグマのように、熱いオーラを纏ったシルクが虚ろな瞳でバルドを凝視していた。
 感情を極限まで削ぎ落したかのようなシルクの瞳に、バルドは全身に鳥肌を立てて硬直する。
 その横ではどうやらシルクを連れて来たらしいセリーナも、憤然として鼻息も荒く胸を反らしていた。
 『どうしてシルクを連れて来ちゃったんだ!』
 『まさかこんなところでイチャイチャしてると思わんやろ! バルドのいけず!』
 「――このたびのレイチェル様の決断には私も感服しておりますのよ? ご無事でのお越しをお待ちしておりましたわ」
 意訳:全く往生際の悪い女ね。とりあえずバルドの役には立ちそうだから我慢してあげるわ。
 「まあまあ、私などシルク様の志には及びませんわ。あのお父様を説得なさったのですもの。私にはとても真似ができませんわ」
 意訳:よくもまあアルフォード様を大人しくさせたものね。私だって父様を説得できていれば今頃は……!
 「よいご姉弟に恵まれてレイチェル様は幸せですわね。長旅でお疲れになったでしょう? 少しお茶でも楽しんだ後にお風呂へご案内いたしますわ」
 意訳:ここはベアトリス殿下とウィリアム殿下の顔を立ててあげますわ。あとは女同士、奥の序列についてOHANASHIAIしましょう?
 「お気づかいありがとうございます。うふふ……ゆっくりお茶をいただくなんて何日ぶりのことかしら?」
 意訳:OHANASHIAIは望むところよ? これから同じバルドの妻として助け合う以上、お互いの立場の擦り合わせは必須よね?
 「ふふふふふふふ」
 「おほほほほほほほほ」
 「――――なんだろう? 言葉とは違う会話が飛び交っていたような気がするんだけど」
 「理解できぬほうが幸せだよ、アントリム卿。むしろ理解するべきじゃない。それは私が保障する」
 バルドの先達として、数々の修羅場を経験してきたアウグストの説得力溢れる言葉であった。
 二人の男は、お互いに同じ苦しみを分かち合う同士として、今こそアイコンタクトでわかりあったのである。
 といっても、互いに気に入らないのは変わらないが。
 「あんたらぶっ殺」
 「なんだか女としてこの二人を許すべきでない使命感に駆られたにゃ」
 「理不尽だあああああっ」
 「覚えておくんだアントリム卿。女性とはすべからく理不尽で気まぐれな生き物なのさ」
 「何をしたり顔で言ってるんだいっ! あんたも来るんだよ!」
 「――――ほらね?」
 諦め顔で引きずられていく二人の男の野太い絶叫が響き渡るのは、それから少し経ってからのことであった。


 「今度は何をやらかしたんで?」
 「僕は何もしていないっ!」
 全身を擦りキズまみれにしたバルドを見て、呆れたようにラミリーズは肩をすくめた。
 「レイチェル殿下がいらっしゃったとお聞きしましたが?」
 「それなのになぜか母さんの機嫌が悪いんだ。どうしてだろうな?」
 「ま、わからんほうが賢明でしょう」
 「アウグストにもそう言われたけどね」
 コルネリアス伯爵家の跡継ぎであったころならばいざ知らず、トリストヴィーの新たな王となろうとしているバルドには、これからも数多くの女性がつきまとうだろう。
 変に女性の機微や打算を理解するより、今のままのバルドでいて欲しかった。
 「それはさておき、今すぐに動かせる兵はどれほどだ?」
 「――――精鋭ならば四百、どうにか一人前が千五百というところですな」
 「ならば精鋭四百、明日には出陣できるようにしておけ」
 余裕のないバルドの言葉に、ラミリーズは驚いたように顔をあげる。
 まさかそこまでトリストヴィーの情勢は逼迫しているのだろうか?
 かつての親友オルテンの実力を知るだけに、ラミリーズはすぐさま主君の命令を拝命した。
 「明日までに四百完全編成で揃えます。私も同行してよろしいですな?」
 残された兵を鍛え、後詰を任せるのに不安はあるが、ラミリーズは少ない兵力でバルドが出陣するのを黙って見守るつもりはなかった。
 二度と主君の命を失わせないためにこそ、ラミリーズは老齢をおして現役に復帰したのだから。
 「戦略の常道は敵より多くの兵力を揃えることだが、今回はそれが間に合わない。いや、多分間に合わないと思う。質で量を圧倒するんだ。指揮は任せる」
 バルドの第六感は、マルベリーに近づく危機を察知していた。
 根拠はない。
 これまで幾度も撃退されてきたトリストヴィー公国が、数を揃えただけでなんの工夫もなく攻め込むだろうか?
 そう推測することはできても、何をするつもりなのかは見当もつかなかった。
 だが途轍もないことが起こる。
 そんな確信がバルドにはある。
 神が実在するかどうかはわからないが、往々にしてターニングポイントには、選ばれたようにお膳立てが整うことがある。
 はたしてこのタイミングでジーナとサツキがアントリムに揃ったことが偶然だろうか?
 億にひとつもありえないこの偶然が、本当にただの偶然であると考えるほどバルドは凡庸な男ではなかった。
 神の差し出した手を取らぬ人間は、神に見捨てられ運命を敵に回したような悲運に見舞われることをほかならぬ左内が知っていた。
 殺すべきときに殺さず、戦うべきときに戦えなかった戦人いくさにんに待つのは惨めな死だけだ。
 「――――その目、久しぶりに思い出しました」
 いつの間にかラミリーズが泣いていた。
 深く皺の刻まれた双眸から、口元を震わせて老将の頬を涙が伝って落ちた。
 「どど、どうしたんだラミリーズ?」
 初めて見るラミリーズの涙にバルドは盛大にうろたえる。 
 なんでラミリーズが泣いているのか、、いったい自分の何が悪かったのか、皆目見当がつかないのだ。
 「バルド様の曾祖父にあたるパザロフ伯ヴィクトール様が、ネドラス王国へ遠征したときもそんな目をしておられた。血は争えませんな」
 ほぼネドラス王国に圧勝しながらも、アンサラー王国の内政干渉と国内貴族の妨害で撤退せざるを得なかった。
 あれがヴィクトールが戦場でもっとも輝いていた最後の時間であった。
 その後、軍からも遠ざけられたヴィクトールは、ジーナとも別れ、遂には謀略で命を落とすこととなる。
 あるいは、ヴィクトールもまた、今のバルドのように神が手を差し伸べた瞬間があったのかもしれなかった。
 「――――やりますか」
 ラミリーズの問いかけにバルドは力強く頷いた。
 戦うべきは今だ。今を置いて他にはない。
 「僕に逆らうことがどういうことか教えてやろう。数の優位が戦いの優位とならない悪夢のような光景を刻みつけてやる」
 数に勝る公国軍にとって、取るに足らぬような小勢に蹴散らされるなど悪夢以外の何ものでもあるまい。
 だからこそ、海運ギルドとトリストヴィーの平民たちに、バルドの存在を大きくアピールすることができるはずであった。
 やるからには出来る限り高く売りつけるのが戦の鉄則なのである。



 トリストヴィーの南洋を支配する海運ギルドの艦隊。
 その第八艦隊の司令官であるボルサリーノは、逃げ惑う公国の商船を次々と拿捕して物資を奪っていった。
 「逃がすな! 分け前ははずむぞ!」
 厳密な意味で海軍軍人でないギルド艦隊は、戦闘を一種の商売だと考えるものが少なくない。
 ボルサリーノもその一人であった。
 沈めるより略奪して懐を温めたほうがずっといいではないか。
 悪びれもせずいつものように略奪に精を出していた。
 ――――そのとき、ちょうど岬の影に隠れていた黒々とした島が顔を出した。
 否、島などではない。
 「な、なんじゃありゃあ…………」
 島に見紛うほどの巨大な船が、積載した弩砲を雨のように撃ちだしたと思うまもなくボルサリーノの意識は深い闇へと落ちていった。

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