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ホワイトボードラバー 作者:藍上尾わをん

第2章 新生編

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「この猫、かわいくないな」と思った理由

 放課後、いつものように私が生徒会室にたどり着いた私を出迎えたのは、三匹の猫だった。
「……おうっ?」
 三匹の猫……と私は説明したが、この紹介は額面通りに捉えて『三匹の猫がいた』という光景を想像してはいけない。
 なぜかというと、そこにいたのは三匹の猫は三匹の猫でも、ホワイトボードに描かれた猫だったためである。
 そのホワイトボードは生徒会室内の執行役員用の机が居並ぶ上に、無造作にぽつんと置き去りにされたものだった。私は鞄をひとまず降ろすと、生徒会室内を見渡した。
 部屋の奥、生徒会長の指定席となっている場所には、いつものごとく会長の姿があった。悠々と書き物をしているようである。今日も一番乗りでやってきては、あのキャスター付きの一つだけ造りの瀟洒な会長専用の椅子に座っていたのだろう。そして会長の他に、人の姿は無かった。
「これ、会長が描いたんですか?」
 言いながらホワイトボードを手に取ると、ひらひらと振って見せた。
 なに? と言いながら、会長が顔を上げた。
 しかしホワイトボードをちらと一瞥すると、「いいえ、私じゃないわ」と首を振る。
「そうですか……。じゃあ誰が描いたんだろう」
 言いながら、私は改めてそのホワイトボードを眺めた。
 ホワイトボード上には、三匹の猫がじゃれている絵が描かれている。いずれも子猫らしい小さな猫で、毛の柄からどうやらアメリカンショートヘアらしい。三匹ともくりっとした綺麗な瞳で、どこか上空を揃って眺めている。よく似た三匹なので、もしかすると兄弟なのかもしれない。
 見れば見るほどに、ペンで描かれた細かな線の一本一本が、しっかりと引かれているのが分かる。
 おそらく私なんかがこの絵を描こうと思っても、曲線部がガタガタに歪んだり毛並みの表現がうまくできなかったり、絵のあちこちでインクがにじんでしまったりして、とても見れた絵にはならないことだろう。
「何、どうしたの?」
 私がその絵の出来映えに感心していると、いつの間にか生徒会室に来ていたらしい寧々さんが、後ろから声をかけてきた。
「ああ、寧々さん。実は、この絵なんですけれど……」
「えっ、なにこの絵。うまっ。あんたが描いたの?」
「いえ、私ではないんですけれど、なんか生徒会室に置いてあって……」
 私たちがそう話をしていると、気になって来たのか会長も席を立ってこちらに近づいて来た。寧々さんとは反対側に立つと私の手元のホワイトボードを覗き込み、あら、と感嘆の声をあげた。
「うまいじゃない。あなたが描いたの?」
「会長、ここまでの話の流れ聞いてました?」
 私が描いてたとしたら、わざわざ誰が描いたのかとか聞いたりしないでしょう。
 冗談よ。と会長はさらりと呟いてから、続けて私たちにこう言った。
「おそらく、これは折原が描いたものよ」
「折原さんが」
 言われて思い出すのは、黒髪をポニーテールにまとめた、眼鏡の気の弱い先輩の顔だ。そういえば確かに彼女は、美術部所属だったはずである。そう思えば絵がこれだけうまいのにも納得といったところではあるが、まさかホワイトボードへのイラストですらここまでのクオリティを見せつけてくるとは。
「ははあ……弘法筆を択ばずとは言いますが……やっぱり美術部員っていうのは、何で描かせてもうまく描いちゃうものなんですねえ」
 折原さんの普段の専門分野が何なのかはあまりよく知らないけれど、あまりホワイトボードへの絵描きを専門とする美術部員はいないだろう。となればこのイラストは彼女の地力が反映されたものということになる。絵が描ける人って、それだけで尊敬するよねえ……。
 私はそのように素直に感心しているだけだったのだけれど、私の隣からホワイトボードを覗き込む寧々さんは、ほう……と息を漏らした。
「可能性はあるんじゃないかと踏んでたけれど……まさか、これほどまでとはね」
 言って、寧々さんはぺろりと唇を舐めた。
「これほどまで、とは……?」
「絵がうまいわねってことよ」
「? まあ、確かにうまいですけれど……」
 寧々さんはふふんとほくそ笑むと、後はそれきり。さあこの話はおしまいとばかりに持っていた鞄を机の上に放り出すと、手近な椅子に腰掛けてスマホをいじり始めた。人数揃ったら大喜利やるからね、とだけ言った。
 まじめにこの人は、生徒会室をなんだと思っているのだろうか。大喜利部屋とかではないんですからね。
 話を打ち切られた私と会長は、それぞれそのまま自分の席まで戻ると、全員が揃うまでにできそうな簡単な仕事をいくつか片付けた。だいたいが、資料をまとめたり、会長が判子を捺したりするだけで終わるようなものばかりだ。
 藤根さんと折原さんは、それから十数分くらいしてから揃って部室に現れた。藤根さんは鞄を背負っていたが、折原さんは手ぶらである。どうやら折原さんは生徒会室に一度立ち寄ってから、部室に用があったためそちらに向かって、また戻って来たところだったのだそうだ。
 五人が揃ったため部室の扉を閉めて、ボードやペン等を取り出して大喜利の準備をしながら、私は何気なく折原さんに言った。
「そういえば、あの猫のイラスト、折原さんが描いたんですよね? うまいですよね、びっくりしました」
ガッシャン!
 突然大きな物音がした。何事かと思い目を向けると、折原さんが思いっきりホワイトボードを取り落としていたところだった。床をころころとマジックペンが転がってきて、私の上履きのつま先に当たって止まった。
 見れば折原さんは顔を真っ赤にして、両手を頬に添えて身もだえていた。
「……あっ、あれ、やっぱり消し忘れていたんですねっ!」
「あれって……あの、三匹の猫のイラストのことですか?」
「い、言わないでえっ」
 ひゃああっと縮こまりながら、折原さんが叫んだ。ホワイトボードを拾い上げると、それで自分の顔を隠してしまう。
「あ、あれは……放課後になって生徒会室に来てみたらまだ会長さんしか来ていなくて……。み、みんなが集まってくるまで暇だなと思って、ほんの暇つぶしに描いただけなんです……」
 戸惑う私たちに向けて、折原さんが言い訳を述べ立てるように言葉を並べていった。
「そ、それで、描き終わってから、ふと美術部の方で、コンクール関係の連絡があるから、集まるように言われていたのを思い出して、慌てて出て行ったんですけれど……」
 まさかあのへたくそな落書きを消し忘れていただなんて……。
 と、折原さんは顔を真っ赤にして、そう消え入りそうな声で呟いた。
 私は、思わず会長や寧々さんと目を見合わせる。まさかあれだけうまいイラストを描いておきながら、暇つぶしのへたくそな落書きだから見られるのが恥ずかしい、とか言われるとは夢にも思っていなかったのだ。
 折原さんに対してなんと声をかけたらいいものかと悩んでいると、そこでまったく空気を読まない一人の女の声が上がった。
 藤根さんだった。
「なー、その猫の絵ってこれのことかー?」
「!?」
 なんと藤根さん、あろう事か目の前で顔真っ赤にして恥じらっている折原さんに向けて、彼女が描いた三匹の猫の絵の描かれたホワイトボードを掲げて見せたのである。絵の描かれたホワイトボードそれ自体は机の上に無造作に置いてあったのだが、その時ちょうど藤根さんが立っていた近くにあったらしい。
 そしていきなりそんなものを見せられた折原さんは、瞬間的に言語として解析不可能な甲高い悲鳴を上げた。
「そ、そ、それ……!」
「猫の絵だなー!」
「か、か……」
 返して、と言わんとしているのだろう。しかし焦りからかあるいは羞恥からか口のうまくまわっていない折原さんは、か、か、とKの子音ばかりを発して意味の成す言語を発話することができていない。
 折原さんから藤根さんまでは実に三メートルは離れていて、とても手を伸ばしてどうにかなるような距離ではない。けれどなんとか取り返そうとして、震える手を藤根さんの方へと伸ばしていって。
 その手が伸び切る前に、藤根さんが言った。
「この絵、うまいなー!」
「……えっ?」
 中途半端に伸ばされた指先が、空中で静止した。伸ばすべきか引っ込めるべきなのか。迷うように暫し指先が揺れる。
 しかしそんな折原さんの指先の迷いなどつゆ知らずといった風に、藤根さんは言った。
「うまいよ! あたしにはこんなにうまく、描けないもんなー!」
 写メ撮っていい? と藤根さんは実に気軽な調子で言いながら、自分の鞄からスマホを取り出した。
「そんな、こと、言ったって……」
 一方で、しかし折原さんは苦悶の表情を浮かべて立ち尽くす。伸ばしかけていた腕を、今度は自分の胸元に引き寄せる。寒がるように、身を縮込ませる。
「私より、うまい人は……もっと、いっぱいいます……。美術部でだって、そうなんです。わた、しは……」
 私は、人よりちょっと、うまいだけ。
 絞り出すように言った折原さんは、耐えきれないとばかりにギュッと目を瞑る。
 確かに折原さんの絵はうまかった。私にはとても描けないような生き生きとした迷いの無い筆致で、こんなものをさらっと描けるだなんてすごいなあとすら思った。
 けれど、違ったのだろうか。その考え方は違ったのだろうか。
 折原さんは美術部……それこそ絵描きの本職ともいうべき人たちの集う、私たちよりもよほど絵のことを知り尽くしたエキスパート集団の中に所属している。
 だからこそ彼女は、美術部にゴロゴロいるのであろう、“本当に”絵がうまい人たちには手が届かないのだと。思ってしまっているのではないだろうか。
 ただでさえ彼女は普段から引っ込み思案で、自信なさげで、常にうつむいているような弱々しい雰囲気の少女なのだ。
 だとしたら、それは、なんと……
「人よりちょっとうまいんだろー? じゃあ、うまいんじゃないのかなー」
 実にあっけらかんと、藤根さんが言い放つ。
 その場の少し湿っぽくなりかけていた空気を、全力で吹き飛ばす一言だった。
 人よりちょっとうまいんなら、うまいんじゃん。
 成る程、言われてみれば単純な話だ。『人よりちょっとうまいだけ』なんだから、少なくともその辺りにごまんといる『人』に比べたら、うまいんじゃないか。例え、それこそ人よりずっとずっとうまい人たちに比べれば、その実力が遠く霞んで見えてしまうような人であったって。だからといって、人より『ちょっとだけうまい』ということを、誇れないわけじゃない。
「え? ……あ、……え?」
「だからさー。らんらんは、うまいよーって、ことだってばー」
「え、え……あれえ?」
 暴論と言ってしまえば、暴論かもしれない。けれど、忌憚ない藤根さんの意見は、折原さんを戸惑わせるくらいの威力はあった。
 藤根さんは持っていたホワイトボードを、折原さんへと押し付ける。三匹の可愛らしい猫の描かれた、手慰みの一枚。でも、この生徒会室の五人の中では、折原さんにしか描けないクオリティの一枚。
 改めてその一枚を折原さんに見せつけながら、藤根さんは言うのだった。
「最悪、ヘタでもよくないかなー? ヘタで駄目だって言うなら、何にも新しいこと始めらんないぞー?」
 折原さんは、放心した様子で藤根さんの笑顔を見ていた。
 しばらく、無言の時間が過ぎた。やがて折原さんは、手元に押し付けられていたホワイトボードを見る。ほんの少し前に自分の描いた、猫の絵。きっと、うまい人が見たらなんてこと無いような、他愛ない絵。それでも、描けない人たちからしたら、描けるというそれだけですごいと思えるような、この絵。そして……きっと、うまくてもヘタでも、折原さんにしか描けない、絵。
 折原さんは、ふふっと息を漏らすような小さな声をあげてから。
「……うん、私は、人よりちょっと絵がうまいのかもしれません」
 そう言って、ホワイトボードをギュッと抱きしめ、満足げに微笑んだ。
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