午前一時。
ほとんどの人間が既に眠っているだろう深夜、とある廃ビルの屋上に音もなく降り立つ白い影。
タキシードにマント、そして被っているシルクハットまで全てが白という闇の中でも目立つ格好をしたその人物は、ポケットに手を入れたままの絶妙なバランス感覚でフェンスの上に立っている。
眼下には不夜城が作り出すイルミネーション。夜でも消えることのない輝きに地上にいたときは煩わしさすら感じたものだが、見るものは同じはずなのにここから見る景色は何もかもが違って見える。ひとつひとつの灯りが見事に煌めき、まるで宝石の海のようだ。
それを独り占め出来ることに喜びを感じてしまうのは職業柄、自分が数多の宝石を目にしてきているからだろうか。
全身に白を纏うこの人物の名は怪盗1412号、だがその姿を見た世間の人々は彼をこう呼ぶ。
――『怪盗キッド』と。
彼は今、最も世間を騒がせている大泥棒。
予告状を送りつけ、狙った獲物は必ず盗むその大胆不敵な犯行手口や予告日が決まって月夜の晩であることから『平成のアルセーヌ・ルパン』『月下の奇術師』の異名を持つ。
空を見上げれば彼が持つその異名通り、見事なまでの満月が煌煌と輝いていている。
中秋の名月。
月明かりは優しくキッドを照らす。その幻想的な光景はまるで、月そのものがキッドを護っているかのようだ。
怪盗キッドは月の女神の守護を受けし者。
今夜は犯行予告日ではないにも関わらずこうして白いステージ衣装に身を包んでいるのは、あまりに月が美しく思わず魅入られてしまったからだ。
「月に魅入られる人間の気持ちか。わからなくもないな…」
ぽつりと呟いた言葉も風に溶けて消える。
月の女神に護られながら、キッドが求めるのは全てを与えられし禁断の名を持つ女神。
《パンドラ》
この世界に散らばるビッグジュエルにただひとつだけ、開けてはならない禁断の女神が眠っていると言われている。
見付かる確率は何億分の一と言う気の遠くなるような数字。これまでただ、それだけを求めていくつもの夜を駆け抜けてきた。
盗んだ宝石の数だけ今夜も違うと落胆の息を吐く。
一体いつになったら見付かるのか――…。
出口の見えない真っ暗なトンネルの中、足元すら確かに見えぬまま進み続ける自分。
求めるものは幻の逸品。
伝説だけが手掛りのそれは雲を掴むかのように不確実なもの。
キッドは頭上の名月を仰いだ。そしてゆっくりと手を伸ばす。
月の光を全身に浴び、その神秘の力を与えてもらうかのように。
「女神セレネ、どうかオレに力を――…」
《パンドラ》を見付けるまで――。
キッドの祈るような言葉に答えるかのように、一瞬月の光が淡く、だが強く輝いた。
それを見逃さなかったキッドが一瞬目を見張り、そしてその口元がゆるりと笑みの形を作る。
大丈夫だ。
まだ、やれる。
まだこの空を飛んで行ける――。
先の見えない道に少し疲れていた。
見付かると信じてはいるがその信念すら、度重なるハズレくじに揺らいでしまうことがある。
そんなときだった。
ふと見上げた空に浮かぶ月があまりに美しく綺麗で……もっと近い場所でその月を見たいと思った。
気付いたら白い衣装を身に纏い、翼を広げて空を飛んでいた。
怪盗キッドと月は切っても切り放せない関係にある。《パンドラ》を見付けるために月は必要不可欠なもの。
だからこそ少しばかり折れそうになった自身の心を、月に力を与えてもらうことで取り戻したかった。
そして月は自分に力を与えてくれた。
もう、迷いはない。
キッドはゆっくりと目を閉じた。そして次に開いたキッドの目には既に何の迷いもなく、いつもの怪盗が持つ強く鋭い光が灯っていた。同時に口元に浮かぶ自信に満ちた不敵な笑み。
これこそが日本警察を手玉に取り『月下の奇術師』と謳われる世紀の大怪盗――怪盗キッド。
彼の本来の姿だ。
「――さて、明日も早いことだし帰りますか」
明日は怪盗キッドの犯行予告日。
《パンドラ》へ一歩でも近付くために。その為には今の自分に足を止めている暇はない。
進む先が今はまだ変わらず闇の中でも、いつか必ず光は射す―― そう信じて……。
怪盗キッドはこれからも幾度の夜を翔けて行く。
びゅうっと強い風が吹いた。
次の瞬間には屋上のどこにもキッドの白い姿はなく、ただ月明かりが淡い光を放つばかりであった。
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