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最終話 平和ということ
 白い壁にひびが入った。あっけないくらい簡単に壁は崩れ、クライドは壁の向こう側の世界へ勢いよく飛び出した。が、そこは何も無い空間だった。漆黒の闇が口をあけているばかりである。
 白い壁の残骸が降り注ぐ中、身体を思いきり捻って後ろを見れば、闇の中にぼんやり浮かぶ崩れた白い立方体の中から、イディルクが手を振っているのが見えた。
 クライドの身体は闇の中を加速していく。一緒に落ちてきているはずの壁の欠片は、いつのまにか一つも見当たらなくなっていた。
「……何処まで落ちるんだよ」
 だんだん息が詰まってくる。目を開けているのもつらい。どうせ目を閉じていても開いていても、漆黒であることに変わりはない。クライドは目を閉じた。
 その瞬間、視界が真っ白に塗りつぶされる。驚いて声を上げる。反射的に腰を起こした。……腰を起こした?
「あ、れ?」
 恐る恐る目を開けてみると、ぎょっとした顔でこちらを見ている四人が視界に飛び込んでくる。安堵で肩の力が抜けた。そのままずるずるとベッドに身体を横たえ、クライドは大きくため息をついた。よかった、ちゃんと戻ってこられたではないか。
「ク、ライド? どこか痛いのかい?」
 最初に口を開いたのはノエルだった。グレンはぽかんと口をあけて固まっていたし、シェリーとアンソニーはそれぞれ微妙な位置から肩越しに振り返っていたり、中途半端に上げたままの手を下ろさずに固まっていたりした。
「あれじゃねえだろ! な、何だよお前、いきなりっ!」
「心配させないでよ馬鹿クライド! 一時間で戻ってくるって言ったくせに!」
 二人に腕やら肩やらに掴みかかられ、クライドは二人の手の暖かさに安心する。謝り、笑い、クライドは泣きそうな気分でグレンとアンソニーにもみくちゃにされていた。
「そうだよっ、帰ってきたらクライド、倒れて動かないっていうし。あたし、嫌だからね? あんたはあたしの生まれて初めてできた友達なんだから!」
「そういえばそうだったな…… ごめんな心配ばっかりさせて」
 泣きそうなシェリーに微笑みかけてやる。シェリーは大粒の涙をぼろぼろ流しながらクライドの腕に縋る。クライドの髪をぐしゃぐしゃにしながら、グレンは『馬鹿野郎』と繰り返し言った。心からほっとしたような声だった。アンソニーも同じようなことを喚きながら、彼の場合はクライドの髪でなく自分の顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
「あー、もう…… 君って人は全く!」
 ノエルは抜けかけていた点滴を直してくれながら、クライドの額をこつんと軽く叩いた。骨ばったその手に叩かれるとちょっと痛い。
「った、何だよ?」
「さっきまで青白い顔してたのに。どうしてそんなに幸せそうな顔で笑えるんだい」
 ノエルはまったくいつもどおりだった。いつもどおり、穏やかな微笑を絶やさずにクライドを見ている。
 だが、そう思ったのも数秒のうちだけで、ノエルはクライドから視線を外して小さく鼻をすする。彼はまばたきが多くなった眼を、眼鏡を外して乱暴に服の袖で拭い始めた。
「え、おい」
「戻ってきてくれてありがとう、クライド」
 ノエルは照れたように笑い、外した眼鏡をもう一度かけた。シェリーが泣きながら笑い、ノエルの背中をとんと叩いた。
「クライドっ、僕のこと解るよね?」
「当たり前だろトニー。つーか苦しいよ、胸の上に肘乗っけないでくれ」
 アンソニーは無自覚でクライドの胸の上に体重をかけていたらしい。慌ててどいて、謝ってくる。
「だから無茶するなって言っただろ? 心配かけやがってこの馬鹿」
「そうだよクライドっ、ほんとに死んじゃったらどうするつもりだったのさ?」
 グレンとアンソニーから責められるが、苦笑で流す。二人の声は責めるようでもあったが、やはり心から安心しているように聞こえた。
「君はね、一週間もここで寝たきりだったんだよ」
「い、一週間?」
「そう。色々あったよ、この一週間」
 ノエルたちは代わる代わる、クライドがいなかった間に起こったことを教えてくれた。クライドの幻像のおかげで、ミンイェンが取り乱すことなくリィの火葬を行ったこと。あの実験の時に使えなくなったハビやレンティーノの白衣の隅の方を使って作った小さな白い巾着袋に、その白骨のかけらを入れて大切に持っていること。
 そして、ハビがカフェの営業を再開し、レンティーノが通常の仕事に戻ったこと。セルジとノーチェがこの有様にひどくショックを受け、三日ほど部屋にこもりっきりになったあとミンイェンやレンティーノの手伝いをするようになったこと。無茶しようとしたマーティンはミンイェンに叱られ、大人しくデスクワークに徹しているらしい。
 研究所は、またいつものように回り始めた。今度はもう、蘇生実験プロジェクトを解散し、人工魔力の制御法を研究し始めることになったという。マーティンの持つ人工魔力には副作用があるため、それを改善するために実験を繰り返すのだ。
「サラは毎晩君の容体を尋ねて電話をくれるよ。ううん、時差があるから晩じゃないね。彼女にしてみれば、朝起きてすぐだよ」
 そうか、ではサラに電話をかけなければ。ポケットの携帯を取り出してみて、クライドは戦慄した。
「……嘘」
 あのとき、白い空間で見たままの状態だった。時計が表示されていないのだ。
「あ。表示がおかしいね。ちょっと貸してよ、直してみる」
 アンソニーはクライドの手から携帯をするりと抜き、電源を入れなおしてメニュー画面を開いた。日付と時刻の設定をやりなおしたら、ちゃんと時計は復活した。
 クライドは心の中で安堵のため息をついた。良かった、まだあのおかしな空間に囚われているのかと思って、驚いてしまった。
「ありがと、トニー」
 メモリーを開いてサラの番号を発信すれば、ちゃんと電話はかかった。電話に出たのはサラの兄だった。
「もしもし、こちらドレーアー」
「クライド=カルヴァートです、こんにちは」
 声を発したとたんに、サラの兄の雰囲気ががらりと変わった。明らかにクライドを敵対しているムードだ。
 それもそうだ、彼女の兄は重度のシスコンだ。サラに男が近づこうものなら、容赦なくはがしにかかる。
「何だまたサラ目当てか。こんにちはじゃないだろ、今夜中だぞ貴様」
「すみません、何せ時差があるものですから。サラは起き」
「ちょっとお兄ちゃんっ、どいて!」
 言い終わる前に電話の向こうでなにやら激しい物音がして、サラが急き込んで電話に出た。
「もしもし、ノエルっ?」
 どうやらサラは、ノエルが『クライドの容体が急変した』と告げに電話してきたと勘違いしたらしい。彼女はかなり焦っていた。
「残念、俺」
 笑いながら言ってやれば、電話の向こうが沈黙した。サラの兄が色々と説教を垂れているのが聞こえるが、サラはそれにも反応しなかった。
「おーいサラ、聞こえてるか」
「……クライド? クライドっ、起きたの?」
「うん、ついさっき」
 答えると、電話の向こうの声が一気に高くなった。
「よかった! 大丈夫なの? どこも痛くない? 頭はふらふらしない?」
「全然平気。ただ、まだ腕に点滴が刺さってるけど」
「早く帰ってきてね、無事な姿みたいから」
「勿論」
 そんな会話をし、クライドはサラからどれだけ心配していたかを延々と聞かされた。やはりここでも、シェリーが『最初の友達』と言ったように、サラも『ウィフト語の通じる唯一の男友達』だと言った。サラにとっても、ちゃんとクライドが大切な人だと認識されているらしい。嬉しいことだ。
「一週間も目が覚めないなんて、そんなこと聞いたら心配になるに決まってるよ……」
「ごめんな。詳しい話はそっち帰ったらいっぱいする」
「楽しみにしてるよ」
 サラは電話の向こうで少し泣いているようだった。どうしたのか訊ねると、サラは鼻をすすりながら嬉し泣きだと答えた。思わず笑顔になる。
「それじゃ、そろそろ切るよ」
「うん、解った、じゃあね。おやすみ、クライド」
 携帯を耳から離して折りたたんだ。切った後でノエルがいつもの微笑でこちらを見ていることに気づき、クライドは携帯とノエルを何度か見比べた。
「……ごめん、代わりたかっただろ」
「いいんだよ。数日後に直接話せるんだから」
 ノエルは楽しそうに、この一週間で変わったことをまだ色々と教えてくれた。クライドの点滴の主成分が、エルフの薬で最も貧血に効果がある成分を抽出して改良したものであるということも知った。
 長い間会っていなかった仲間達は、一週間分の話を長い間し続けていてくれた。時刻は昼過ぎだ。
 会話を続けていたら空腹になってきた。けれど、アンソニーに水を汲んできてもらって飲むと、一気に吐き気が押し寄せてきた。
「っ、う」
「だめだよ、いきなりそんなに飲んだら。君の胃には一週間も何も入っていなかったんだから、少しずつ慣らしていかないと」
 ノエルに叱られ、クライドは肩をすくめる。何だか彼はすっかりクライドの主治医だ。
 暫くコップを握り締めたまま固まっていたが、吐き気は治まらない。額に滲む脂汗を気にしながらコップをノエルに手渡すと、空気入れを上下させるような軽い音がした。ドアが開く音だ。
「クライドー!」
 入ってきたのは、なんとミンイェンだった。新品らしい電動車椅子を、かなりのスピードで走らせて突っ込んでくる。ベッドの上で思わず身を硬くすると、ミンイェンは車椅子をそのままベッドにぶつけて止めた。勿論、ひどい音がした。
 かなり乱暴な扱いだ、いいのだろうか?
「よかったあ、目を覚ましてくれて! リィがいなくなった上に、迷惑かけっぱなしのままクライドまでいなくなったら僕はどうしようかと思ったよ! 大丈夫? 元気?」
 かなりの至近距離から覗き込まれて、クライドは心持ち身を引きながらミンイェンの変わりように驚く。変わったというか、実験前に戻ったようで少し安心した。よかった、クライドの幻像はちゃんと効果を成している。
「ありがとうね、リィの実験を手伝ってくれて。きっとそのせいで疲労が溜まってたんだよね。僕は自分のことばっかりだった」
「いいんだ。なあ、俺っていつアンシェントタウンに帰れる?」
「あと二日寝ていって。まだ食べ物にも慣れてないでしょ? 実は僕もだけど」
「二日ね、了解」
 クライドは頷き、他愛も無い世間話をしながらミンイェンと笑い合った。元はといえばこいつに巻き込まれたのが発端だったのに、今では悪意は感じない。
 この研究所で、クライドは哀しいほど強い兄弟愛や、狂おしいくらいの友情を見た。ハビにも会えたし、自分の意思を伝えられた。更生とまではいかなかったし、更生なんて言葉を使うのはおかしいが、クライドはそれでも一歩進展できたことに純粋な喜びを感じていた。
 ミンイェンに新開発の栄養剤の味見をさせられたり、レンティーノにリンゴをむいてもらったりして、二日間はあっという間に過ぎた。二日目にはもうベッドから起き上がっても差し支えないほどに回復していたし、食事も普通に取ることができるようになっていた。驚異的だとすらいえる回復力は、エルフの薬を基にした点滴による効果らしい。
「それじゃあ、世話になった」
 旅立ちの朝、クライドは荷物を抱えてベッドを整え、エレベーターを使ってエントランスまで降りていた。あの後、マーティンは律儀にもクライドとした約束を覚えていて、ミンイェンのいないところでクライドに貧血の薬と帰りの渡航費を渡してくれた。ミンイェンがこんな風景を見ていたら、仲直りをしていると勘違いされるだろうからだ。
「航空券はもった? タクシー代もそっちの通貨で用意したから大丈夫だよね。研究所から空港までは今日休暇をとってる部下を休日出勤させたから、彼に頼むよ」
「ありがとな」
 帰りの分の費用はミンイェンからも貰ってしまったから、返そうとしたがマーティンは『借りはきっちり返す』と頑として言い張った。なので、クライドの財布の中にはアンシェントタウンを出てきた頃よりも少し多い所持金が入っている。
 エントランスには仕事を抜けて見送りにきてくれたレンティーノと、喫茶店が定休日で研究所の仕事をしているハビがいた。マーティンは一週間で足が治るはずもなく、それにどうせ見送りになど来るつもりもないだろうからいなかった。セルジとノーチェはそれぞれ仕事が入っているので、昨日のうちに別れを済ませておいた。
「気をつけて帰るのですよ」
「仕事頑張ってね、レンティーノ」
 ノエルとレンティーノが軽く言葉を交わしていた。その直後に、レンティーノはクライドに深く礼をした。いきなりそんなことをされ、クライドは当然驚いた。
「何だよ?」
「貴方のおかげですよ」
 ミンイェンのこと、と小さく囁かれる。クライドは曖昧に微笑んで頷いた。グレンはレンティーノと二言、三言簡単に会話をし、シェリーは柔らかい笑顔で感謝を告げていた。
「時々遊びにおいで。研究所にくるのもいいし、僕のカフェにきてもいい。また会えるのを楽しみにしているよ」
 肩に重たい手を乗せられ、振り返るとハビが微笑んでいた。何だか、去年ウェイターをやったときのことを思い出すしぐさだ。
「ありがとうございました。次に会うときには、もう少しハビさんと話したいです」
「嬉しいよ」
 一階のエントランスは他の階と違ってちゃんと窓があるから、外を見ればもうミンイェンの部下が車を用意してくれていることがわかった。レンティーノは時計を確認し、窓の外をちらりとみてからクライドに目を向ける。
「準備ができたようですよ。では、私はそろそろ仕事に戻ります。クライド、ラジェルナ国に着いたら念のため私の新しい番号に電話を下さい」
 頷くと、彼は白衣の裾を翻して歩いていった。アンソニーはレンティーノが見えなくなるまで手を振っていた。レンティーノも、エレベーターのドアが閉まるまで笑顔でこちらに手を振っている。
「じゃあ、僕も行こうかな。クライド、ありがとう。皆もだよ、色々迷惑かけてごめんね」
「ハビさんは謝らなくていいです」
「これも一つの大きな夏の思い出としてとっておいて。色々つらいこともたくさんあっただろうけど、とことん美化してくれて構わないから」
 冗談交じりに言われ、思わず笑ってしまう。ハビはクライドの背中をぽんとたたき、クライドたち全員に向けてあの爽やかな笑顔を向けて手を振った。手を振り返し、クライドはほっとするような寂しいような微妙な気分になっていた。ハビはエレベーターを使わず、階段で上っていった。その背中を、クライドは消えるまで見送っていた。
 ハビがいなくなり、見送りはとうとうミンイェンだけになった。
「みんな携帯買ったら、まず最初にクライドから僕の番号聞いて電話してね?」
 あまりに真面目にミンイェンがそういうので、グレンがぷっと吹き出した。ミンイェンは笑うなと怒りながらも、何だか楽しそうだった。
「だって僕、君達のこと気に入っちゃったんだ。また色々試作品試してもらいたいし、クロスワードも解いてもらいたいし。あ、ノエルの家には月一くらいの割合で送りつけるから。メールがいい? それとも手紙の方がいいかな」
「のぞむところだよ。メールで来ても手紙で来ても、毎月完璧に解いて送り返すから」
 不敵に笑いながら、ノエルは電動車椅子のミンイェンを見下ろす。二人の天才は、これからも定期的にバトルを繰り広げるらしい。
 アンソニーがミンイェンの肩をぽんぽん叩いて注意を引いている。
「ねえねえ、街に帰ってからも電話していい?」
「勿論! 僕の会社の番号ってすごいんだよ。だってラジェルナとエナークの範囲だったら、どこからかけても通話料無料なんだ」
「すっごーい!」
 相変わらずの二人だと思う。アンソニーとミンイェンが二人でいると、何だか見ているこちらは凄く和む。雰囲気がやわらかくなったところで、グレンが口火を切った。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
 軽く頷くと、ミンイェンは少し寂しそうにした。シェリーはミンイェンの方を向いて、優しく笑う。
「ミンイェン、ありがとうね。今度は誘拐しないで、ちゃんと招待してよ?」
「ばいばいミンイェン、休暇とったら僕んち来てね」
「楽しみにしているよ、君のクロスワード」
 ミンイェンはそれぞれに大きく頷いて、両手で手を振った。そんな子供じみた仕草がミンイェンらしくて良い。
「じゃあ、また会えたら」
「会えたらじゃなくて会うの! 突然押しかけても追い返さないでね」
「どうかな」
「クライド酷い!」
 本気にしてふくれっつらになるミンイェンが面白くて、クライドは思わず笑った。声を上げて笑った。笑いながら、自動ドアをくぐった。背後を振り返れば、ミンイェンはもうふくれっつらを消して満面の笑みになって手を振っていた。彼に背を向けたまま手を振り返し、研究員の車に乗った。
 空港にはすぐについたような気がした。研究員に礼を言って車を降りると、彼はひ弱そうな顔に人好きのする笑みを浮かべて帰っていった。時刻は朝方、この大都会では通勤や通学のラッシュアワーだ。ラジェルナにつくのが午前中になるように、ミンイェンがこの時間帯の便を手配してくれた。
 搭乗手続きを済ませれば、スムーズに搭乗できた。アンソニーは乗り物が好きだから、飛行機に乗れることで楽しそうにはしゃいでいた。フライトが始まる。開始数分で、ノエルが眼鏡を外してポケットに入れた。
「どうした?」
「クライド、眠っていいかい」
「え? ああ」
 隣のノエルは疲れたらしく、客室乗務員が持ってきたブランケットを膝にかけてぐっすり寝入ってしまった。隣で寝ている人がいると、何だか自分も暇で眠くなってくる。目をつぶっていると自然に意識が遠のき、次に目を覚ましたのは機内アナウンスの声のせいだった。シートベルトを締めろという指示だ。そろそろ降りる時間らしい。
 しかし、まだこれから乗り継ぎがある。首都のヴァル・セイナから、スウェントまで飛ばなければいけないのだ。ミンイェンはその分の搭乗券も用意しておいてくれていた。
 寝ているノエルを起こし、飛行機を乗り継ぎ、クライドは再び寝入った。今度はノエルのほうが起きていて、降りる頃に起こされた。ここからタクシーでリヴェリナタウンの港まで走れば、サラやブリジットたちに再会できる。乗り場に行けば空いているタクシーは何台もあったから、二対三で別々のタクシーに乗り込んだ。五人でひとつのタクシーに乗るのは少し狭かったのだ。
 クライドは、ノエルとシェリーと一緒だった。誰が誰と一緒に乗るかは、コイントスで決まった。グレンとシェリーを二人で乗せればいいと思ったが、最初にコイントスを提案したのはグレンだったのだ。
 港までの道のりはかなり長く感じた。早く着いて欲しくて、クライドはタクシーの窓からリヴェリナに続く道をじっと見ていた。車酔いをしかけたので少し休憩して前を見ていると、海が近づいているのが解った。
「運転手さん、あと何分くらいですか」
「もう少しだよ。急いでいるのかね?」
「楽しみなんです、港につくのが」
 シェリーが楽しそうに運転手に話しかけていた。運転手もつられて楽しそうに笑っている。クライドは再び窓の外を眺めた。エアコンの効いた車内を出れば、もう潮の香りが待っているのだろう。どきどきする。
 車内の時計を見れば、今はまだ十分に午前中だった。陽気なラジオは、夏休みの宿題に追われる学生からのメッセージを読み上げている。宿題が終わらないなら飛行機にして飛ばして、その飛距離についての自由研究をやったと言えばいいというパーソナリティに、思わず笑ってしまう。
「ついたよ」
「ありがとうございます」
 あらかじめ計算してつり銭がないようにしておいた代金を、ノエルが運転手に渡した。クライドはドアが開くなり外に飛び出す。潮風の香りと地面からたちのぼる熱気が嬉しい。
「クライド! シェリー、ノエルっ」
 この暑い港でずっと待っていてくれたようで、遠くからサラが駆け寄ってきた。黒のレースをあしらったスカートから覗く白い足がまぶしい。
「おかえりっ」
 ぎゅっと抱きつかれ、思わず後ろに転びそうになる。かと思えばサラはすぐにクライドを離し、笑顔を残して今度はシェリーに抱きつく。シェリーと少し会話をしたあと、サラはためらいがちにノエルの方を向いた。中途半端に上げかけた手を、どうすべきか迷っているらしい。いつもの笑顔を浮かべたノエルは、サラにそっと歩み寄り、何の躊躇もない自然な動作で彼女を抱きしめた。クライドはシェリーと顔を見合わせ、肩をすくめて笑い合う。
「の、ノエル、そろそろ離して?」
「嫌だよ」
「もう……」
 サラは小さくため息をつき、恥ずかしそうに、それでも嬉しそうにノエルの背中に手を回す。ひとつの終りと始まりの予感を感じながら、クライドは微笑んだ。
 もう一台のタクシーは数分後に到着し、中からグレンとアンソニーが駆け出してくる。そのときようやくノエルはサラを離し、サラはグレンとアンソニーに駆け寄って数秒ずつくらい彼らをハグし、再会を喜んだ。
「僕たち、帰ってきたんだね」
 アンソニーがしみじみと呟いた。クライドもしみじみとうなずいた。入道雲の広がる空とどこまでも続く真っ青な海に、大漁旗をかかげた漁船がちらほら浮いている。時々、漁師達の威勢の良い声がした。遠洋漁業に出向いていった漁師たちを送り出して、自分達は街に残った漁師たちの声だ。
 見渡せば、民家の庭にひまわりが咲いていたりした。レイチェルの墓を思い出す。
「そうだな…… ラジェルナだな、この国は」
「もう夏休みも終わっちゃうね」
「ああ」
 クライドが一週間寝ていたせいで、今日はもう八月の二十四日だった。三十一日に夏休みは終り、九月一日から新学年の新学期だ。そうすればクライドは、あと一年で卒業になる。卒業後はノエルの母校である国立アンシェント大学に進学し、そこで精神科医を目指すつもりだ。だんだん未来が見えてきた気がする。
 しかし、そうすると、来年の今頃は大学生になる準備で忙しい。グレンは本格的に歌手を目指して街を出て行くだろうし、ノエルだって年齢が十八に届くから街を出てリヴェリナあたりの病院で研修医になるかもしれない。そうしたら、全員一緒に海に過ごせるのなんて今年が最後なのだ。
「ブリジットにも無事を伝えなきゃ。そしたら皆、海行かないか」
 あの優しい従姉に会って無事を伝え、できれば今晩も泊めてもらって、欲を言えば三日くらいは泊めてもらって、リヴェリナの夏を満喫してから街に帰ろう。海岸沿いに行けばビーチもある。夏休みの終りはそろそろだが、まだ夏は終わらない。
「よおし、いっぱい泳ぐ!」
「よしトニー競争だ、どっちが速いか」
「グレンに決まってるじゃん!」
 アンソニーとグレンの会話に笑いながら、クライドも参戦を告げると、ノエルがくすくす笑った。クライドの予想では、水泳バトルに勝つのはノエルだろう。もしかしたら彼は、身体が薄っぺらく筋張っているから水の抵抗が少なくて早く泳げるのかもしれない。
「ねえねえ、海でビーチバレーとかやりたくない?」
「いいね! チームどうしよっか、シェリーはグレンとね」
「サラは勿論ノエルとでしょ?」
 女子二人がそんな会話を始めるので、クライドは歩きながらサラの肩をとんと叩いて注意を引いた。
「でもこういうのって、敵の方が相手をよく見るだろ?」
「そっか! クライド頭良い、じゃあシェリーはグレンと別チーム」
「っ、それはやだ、あたしグレンと同じチームがいい!」
 その衝撃的な発言のせいで隣のグレンが固まっているのを感じ、笑いを堪えながらクライドはノエルの背中をばしんと叩く。ノエルは小さくよろけ、クライドを驚いたように見る。
「聞いたか、ノエル。サラの水着見放題だってさ」
 一拍の沈黙の後、アンソニーが一番最初に動きを見せた。
「あはははは! よかったねノエルっ」
「っ、ひどい! クライド、そんな」
 笑い転げるアンソニーを止めようとしながら、サラは顔を赤くしてクライドをばしばし叩く。クライドはアンソニーと一緒に笑いながら、久しぶりに開放感を感じていた。
 どこまでも透明な空気と、蝉の鳴き声と、目に映る鮮やかな色合い。全てがあの白すぎる空間にはなかったものだし、仲間達が全員揃って騒げる最後の夏休みに相応しいものだと思った。
 きっとクライドは何年経っても、この夏の出来事を忘れはしないだろう。色鮮やかにきらめく幻想のような日々を、クライドはとても愛しく感じていた。
 全てのものには必ず終りがくるのだから、それならば続いている今を思いっきり楽しもう。いずれくる終焉おわりのことなんて、今は考えなくて良い。今は仲間達の隣にいられることが最高で最上の幸せで、これ以上は何も要らないのだから。
 この関係がいつまでも続けば良い。いや、続かせてみせる。というか、終わる気なんてしない。きっと青年になっても老人になっても、皆で一緒にいられる。
「ありがと」
 呟いた言葉に、誰が気づいただろうか。誰かが微笑みを返してくれただろうか。そんなことを考えながら、クライドは仲間達より一歩先を歩いた。
 空は青くどこまでも高く広がり、街は鮮やかな色彩にあふれ、仲間達は笑顔に満ちていた。平和という概念に形をつけるとすれば、まさに今この状態になるのだとクライドは思っている。
 クライドは大きく潮風を吸い込み、口許に笑みを浮かべた。どんどん温度を増す炎天下だが、こんな中を友人達と走り回るのも悪くはない。ブリジットの店のある商店街まではあと少しだ。
 よし、行ってしまえ。思いっきりはしゃいで、羽目を外してしまえ。終わりかけの青春の、今がきっとクライマックスだ。

 漁師たちの声や煌く波を背に、クライドは走り出した。



 完
 魔幻の鐘第二章、完結いたしました。
 そして、魔幻の鐘は、この章をもって完結です。全話合計で一三九話の、生涯で一番長い小説がようやく今日完結しました。
 本当は二年間で終わらせる予定だったのですが、なんと一年も延びてしまいました……。というか、書き始めた当初に友人へ送りつけたメールには『一年で完結させる』なんて恐ろしく無茶なことが書いてありました。途中にブランクがありすぎて、何だか作品が大変なことになっています。
 思えば連載当初はまだ執筆暦が二年ほどで、長編小説なんて一作しかかき上げたことがなかった時代です。読み返して見ると文章が古すぎて本当に恥ずかしくなりますので、これから修正作業にうつりたいと思います……(笑

 お読みくださって本当にありがとうございました。三年間、応援してくださった方の声が本当に励みになってきました。
 次の作品でまたお会いできることを願っています。

 二〇〇八年 四月二十四日
 水島佳頼
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