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取り引き

作者: 栗須じょの

「まったく! 信じられないと言うか、あきれたと言うか、馬鹿馬鹿しいと言うか……」

「“くそったれ”と言うか」

「その通り!」

 二人の学生は大学のカフェラウンジで、ニコチンとカフェインを摂取しながら話し合っている。今日の議題は『今、もっとも腹の立つ相手について』。淡いブロンドの青年は大学の指導教授のことを話し、濃いブロンドの青年はガールフレンドのことを口にしている。勉学と恋愛。それはどちらも学生の本分である。

「おれとロザリンの恋人関係はもう終わってた」

 濃いブロンドの髪を持つ青年、ルーカス・フィッシャーは言いながらタバコに火をつけた。

「ロザリンだってそれがわかってたはずだ。そして決定的にそれを終わらせるには、どちらかが具体的に別れを切り出さなきゃならないってことも。彼女が切り出さないので──仕方ない、おれが言った。そうしたら急に、火がついたみたいに怒りだして」

 ルーカスが空で手を振ると、テーブルに散っているタバコの灰が舞い上がった。灰皿は吸い殻で山盛りになっている。

「彼女、おれの指輪を盗んでいったんだ」

 痛みにでも耐えているかのように、ルーカスは眉間に皺をよせ、なにもはめていない左手をひらひらと顔の前に踊らせる。

「おれが大事にしているのを知っていたからな。自分の喪失に見合う何かを、おれに与えたかったんだろうよ。まったく、せこい復讐もあったもんだ」

 しかしその“せこい復讐”は功を奏していた。なににも執着を持たないルーカスが、唯一と言っていいほど大切にしていた母親の形見のリング。それを奪われなければ、ルーカスはロザリンのことをもっと早く忘れていただろう。いつもの別離と同じように。

 もうひとりの青年の憤りは、ルーカスのそれよりは穏やかだった。かといって、この淡いブロンドの青年、アイヴァン・ロスが体内に怒りを抱えていないとは言い切れない。彼は表現することのすべてにおいて、ルーカスよりも劣っているというだけであり、加えてアイヴァンは、怒りに費やすだけのエネルギーすらも奮起させることができないくらい、ひどく打ちのめされていたのである。

「人が混乱したり、落ち込んだりするの見たいってやつもいるんだろうね。きっと」

 アイヴァンはそう言って、プラスチックのカップから、さめたコーヒーをすすった。

「他人の大切なものを奪ったり、こきおろしたり。そうすることによって、ようやく自分のパワーを確認できるんだ。相手にとって、なにがどれだけ大事かなんてどうでもいいのさ」

「モーハイム教授はなんて?」

「“額縁を買ったときについてくる絵みたいだ”とさ」

「ひどいな」ルーカスは頭を振った。

「言われるままにトーンを落として描いてみれば、今度は“ワイエスの出来損ないだ”と言うし」

「あいつ、酷評にかけてはイブニング・スタンダード誌を超えたな」

「教授の根性が曲がっているのは今に始まったことじゃないけどね。なにが最悪って、その批評があながち外れじゃないってことさ」

 アイヴァンもタバコに火をつけた。近くにいた学生は、それをじろりと見て席を立った。ここは喫煙席ではあるが、ふたりぶんより多すぎるの煙の量にはさすがにうんざりしたのだろう。

「ぼくの作品は今のところ、画材屋をもうけさせる以外の功績を残してない」

 光に反射してアイヴァンの眼鏡の奥は見えなかったが、そこに失望以外の光が宿っていないことは、瞳を覗き込むまでもない。

「そんな風に自分を卑下するものじゃない」

 そう言って友人を慰めたものの、アイヴァンの言ったことは真実でもある。モーハイム教授は確かに酷評で有名であり、生徒を鼓舞するという指導力には欠けるものの、完全に的外れな批評をするというわけではなかった。

 アイヴァンはなにも言わず上を向き、天井へと煙を吐き出した。

 親友のあまりの落胆ぶりに、ルーカスは思わず自分の苦境(それが苦境であるかどうかは、ここでは論じないでおくことにする)を忘れ、「ビールでもおごろうか」と声をかけた。慰め言葉は苦手だったし、それに勝る処方薬をルーカスは知らなかったからだ。

 アイヴァンは短く「ありがと、でもいいよ」と言い、吸い殻を灰皿に詰め込んだ。それから席を立ち上がり、気持ちを切り替えましたとでも言うように、「ビクリア・アルバート・ミュージアムに“本物”のワイエスが来てるんだ」と笑顔を見せる。

「もしよかったら、これから一緒に観に行かないか?」

「いや、やめとくよ。しばらくは家にいることにする。ロザリンから電話があるかもしれないし」

 アイヴァンは軽く笑って「あったら迷惑だと思ってるくせに」と言った。

 その通りだった。




 アイヴァンと別れて家に帰る途中、ルーカスは地下鉄でひとつの広告に目を止めた。

〈アンドリュー・ワイエス展〉

 ゴチック体で現された活字の下には、荒涼とした風景のなかにぽつんと女性が描かれている。

“──ワイエスの出来損ない” 。直接聞いたわけではないモーハイム教授の酷評が、ルーカスの頭の中に響いた。ワイエスの絵は美しいが、これのレプリカはたしかに見られたものではないだろう。

 アイヴァンは努力家だ。貴重な休日にまで絵画を観に出かけ、酷評が待ち構えているとわかりつつも、言われるままにトーンを落とし、“ワイエスの出来損ない”を描いて提出する。しかし努力というものだけではどうしようもない世界がこの世にはある。芸術がそれだ。アイヴァンの情熱は決して彼の筆に現れることはなく、それが彼の唯一の不幸だった。

 一方、どの分野に関してもそこそこやれるルーカスは、これまで努力というものをしたことがなかった。ルーカスが絵の道に進んだのは、高校のときの美術教師が「ぜったいに美大に行くべきだ」と強く推薦したからで、それまでルーカスはプロのハスラー(*ビリヤードプレイヤー)になるのもいいなと考えていたくらいだ。

 ルーカスのガールフレンドはアイヴァンのことを『根暗』と評し、どうしてふたりが親友同士なのかわからないと言った。たしかにルーカス自身、最初はアイヴァンを敬遠していた部分が少なからずあった。しかし、ちゃんと話をしてみると、アイヴァン・ロスは知識とウィットを兼ね備えた面白い男だということがルーカスにはわかった。ルーカスにとってアイヴァンは刺激的な友人であり、アイヴァンにとっても人気者のルーカスは新しいタイプの友達だ。少しも似たところがないふたりは、まるで逆面の鏡のようでもある。自分に欠けているものと、備えているものを、ときに鏡ははっきりと映し出しもしたが、それはどちらにとっても、単純に楽しみを生み出すものであった。

〈アンドリュー・ワイエス展〉のポスターを眺めながら、ルーカスはワイエスの原画をこれまで観たことがないことに気がついた。気がつきはしたが、彼にとってはどうと言うこともない。ワイエスのとなりのタイガービールの広告に目をやる。民族衣装を着た中国人女性が、ビールを手にして雑踏の中に佇んでいるクラシックなイラストレーション。ルーカスの目にはこれもそれなりに美しく写った。

 列車がブレーキのきしみを立てながら、ホームに入ってくる。それに乗り込み、すり切れたシートに座る頃には、ワイエスも中国人女性も、ルーカスの頭からはきれいさっぱり消えてしまっていた。




 次にルーカスがアイヴァンに会ったのは大学の中庭でのことだ。背後から声をかけられたルーカスはすぐに振り向いたが、目の前の見なれた笑顔が誰だかを思い出すのには一瞬の間があった。

「どうしたの、幽霊でも見たみたいな顔して」

 アイヴァンはおどけて目をむいてみせた。

「いや、ちょっと考え事をしていたものだから」

 ルーカスは反射的に嘘をついた。どうしてすぐにアイヴァンの顔を思い出せなかったのか、自分でも説明ができなかったからだ。

 初夏の陽光に照らされた親友の顔は思いのほか元気だった。元気だったことにルーカスはなぜか拍子抜けした。

「ねぇ、シンディ・ロッソを覚えてる?」

「シンディ? 覚えてるとも」

 唐突に昔のガールフレンドの名前を出され、ルーカスはほんの少し不機嫌になる。アイヴァンは友達の気分を害したことには気づかないらしく、微笑みと共に言葉を続けた。

「このジャケットを着ていたら、声をかけられてね。彼女、ぼくをきみだと間違えたんだ」

 アイヴァンはジャケットの裾をつかんで見せた。それはしばらく前に、ルーカスがアイヴァンにあげた自分の古着だった。

「きみとおれとを? 背格好がちがいすぎるだろうに」

「うん、そうなんだけどね。とにかく彼女はぼくに声をかけて来た。それでいろいろ昔の話になって……そのあと一緒にタコスを食べに行ったんだ」

「タコス? “マリア・デ・ラ・ルス”の店か?」

「そう、そこだ。きみが元気にしているかってシンディは聞いてたよ」

「それでなんて言ったんだ? “ルーカスはあいかわらず女と揉めているよ”って?」

「うーん、なんて言ったかは覚えてないな。すぐに話題が変わったし。彼女は元気だったよ」

「そうか、そりゃ良かった。ワイエスはどうだった?」

 ルーカスは話題を変えた。

「ワイエス? ああ、ワイエスね。素晴らしかったよ。ほんとに。きみも一緒だったらよかったのに!」

 この前の落ち込みようはどこへやら。アイヴァンはまったく屈託なくルーカスに笑いかけている。

「ワイエスを観て、よくそんなにハッピーになれるもんだな」

 親友の変化にルーカスは苦笑した。それを聞いてアイヴァンは「ワイエスのおかげってだけじゃないけどね」と言い、今度はさきほどの笑顔とはまた別の種類の笑顔を浮かべ、意味ありげにルーカスを見つめ、肩をすくめてみせた。




〈アートにおける精神分析と療法〉の講義の最中、ルーカスは鉛筆を回しながら、さきほどのやりとりについて考えを巡らした。もしかしたらアイヴァンはシンディと付き合いだしたのではないろうか。それを自分が話題を変えたために言いそびれたのではないだろうか。そうだとすればアイヴァンのあの浮き足だった様子も納得がいく。シンディとアイヴァンが並んで立っているところをルーカスは想像する。そのイメージ映像によると、シンディのほうがわずかに背が高い。似合いのカップルとは言いがたいが、お互いが納得しているならそれはいいことなのだろう。別れたガールフレンドに未練はない。古着のジャケットと同じようなものだ。

 ルーカスは鉛筆を指先でくるっと回した。鉛筆は彼の手を離れると、宙を舞い、床に音を立てて落ち、周囲のひんしゅくを買った。




「眼鏡をどうしたんだ?」

 ルーカスは開口一番、シンディのことを聞くのも忘れ、アイヴァンにまっさきにそう訊ねた。いつもかけていたメタルフレームの眼鏡がアイヴァンの顔から消えている。

「コンタクトレンズは体質に合わないと言っていたのに」

 ルーカスがそう言うと、アイヴァンは「必要なくなった」と簡潔に言った。

「最近、視力が戻ったみたいで」

「まさか」

「そんなことより、きみに見せたいものがある」

 アイヴァンはルーカスの腕を取って、子供のように強引にそれを引っ張り、ルーカスはなかばよろけるようにして、引かれるままに構内の制作室へと足を踏み入れた。

 この北向きの制作室は暗く湿っぽいのが常であったが、今日は窓が全て開いているせいか、いつものような重い雰囲気は感じられない。窓からはやわらかな光が差し込み、その光の中を埃が舞っているのが妙に美しくルーカスの目に映る。

「見て」

 アイヴァンの視線の先、部屋の中央には絵の具だらけのイーゼルが立ててあり、ひとつの絵画が掛けられていた。

「これがいちばん新しい作品。昨日、完成したんだ」

 それを目にした途端、ルーカスの周囲の空気は粘度を増した。一メートル四方ほどのカンバスには、点と線と面で構成された、濃い色彩の絵の具が躍っている。

 ───これは誰の絵だ? ルーカスは心の中で、誰に問うともなく思った。

 カテゴリは抽象画だ。抽象画が不得手のルーカスもそれは理解できる。だがここに描かれている様々な感情はルーカスの理解を超えていた。

「どう?」

 アイヴァンはルーカスの顔を覗き込んで、彼の手を取った。

「すごい」

 ルーカスは短く言った。この絵画を前にして言えるコメントなど、なにもないように思えたからだ。

 泡立つ水のような粒子の集合体。それは血中を流れる血小板のようでもあり、さらにその奥にある、原子、分子、素粒子のような、微視的なものを見せられているようでもあった。

 ふいにルーカスは心細くなり、思わず親友の手を握り返し、助けを求めて質問した。

「これは……これのタイトルはなんていうんだ?」

「〈無題〉だよ」

 ─── 無題。

 名前でもあればなんらかの安心が得られただろうに、この感覚には何のラベルもついていない。結論のない量子力学の迷路に放り込まれでもしたように、足下が心もとない。それでもルーカスは“無題”から目をそらすことができなかった。

「抽象画か。田園と糸杉はどうしたんだ?」

 ルーカスはこわばった舌を動かして言った。なにか会話でもしないことには、この“無題”に押しつぶされそうだった。

「風景画はやめたんだ。モーハイム教授も、ぼくには抽象のほうが向いていると言ってくれたよ」

 アイヴァンはそう言うと、ぱっとルーカスの手を離し、部屋の隅のステンレスの乾燥台から、枠に貼っていないカンバスを数枚とりだし、そこいら中に広げて見せた。どれも圧倒的な迫力のタブローだ。ルーカスは固唾を飲んだ。

「抽象画を描いているなんてひとことも言わなかったじゃないか。しかもこんなにたくさん?」

「描き始めたのはごく最近だよ。乾燥剤を使ったからそう時間はかからなかった。とにかく次から次へとイメージが湧いてくるものだから、早く描きたくって」

「すごい」

 今度のコメントはその“創造力”への賞賛だった。まさにこれはイメージの奔流だ。ルーカスはまわりをぐるり絵画に囲まれ、脇の下に汗をかいていた。足下の絵画を見つめていると、アイヴァンが再びルーカスの腕に手を絡めてくる。なにかをねだりでもする女のような仕草だったが、今のルーカスには友人のささいな仕草の変化など、少しも気にかかるとこはなかった。

「このあいだ、ビールをおごってくれると言ったね」と、アイヴァン。

「ああ」ルーカスは上の空で答えた。

「今日、おごってくれよ。ぼくを慰めるためにじゃなく、祝杯をあげるために!」




 パブでのアイヴァンは上機嫌だった。終始、微笑みが顔にあり、ここ数カ月でいちばん幸福そうに見える。ふたりはカウンター席を陣取り、まずは乾杯をした。ルーカスはさきほどの絵画に敬意を表し、ビールではなくブランディをダブルでアイヴァンにおごり、自分はギネスを注文した。

「まったく……きみには驚かされたな」

 パブのスツールに座ってビールをあおったおかげでようやく人心地ついたルーカスは、いつもの調子でアイヴァンに話しかけた。

「抽象があれだけきみに合っているとはね。モーハイム教授でなくともそれは認めるよ」

「自分でもそう思う。製作中はとても気分がいいんだ」

 あれだけの作品を短期間で描き上げたにもかかわらず、アイヴァンは健康そのものだった。むしろあれを見たあとのルーカスの方が、疲労困ぱいしてしまったほどだ。

「このあいだまであれだけ落ち込んでいたやつとは思えない」

 ルーカスはやれやれといった風に笑い、ビールに口をつけて、カウンターの先へと視線を泳がせた。カウンターの奥の壁には、様々な時代の絵画のポストカードが無作為にピンでとめてある。ピカソ、ドラクロワ、モネ、ティツィアーノ、ダ・ヴィンチ、ミュシャ、マグリット……。どれも名字だけで通用する偉大なアーティストだ。ここにさきほどのアイヴァン・ロスの絵があっても少しもおかしくはないのではないかと、ルーカスはなかば本気で思い始めていた。

「ぜんたい何が起きたのやら」と、ルーカス。

 アイヴァンは答える。「ぼくの人生には素敵なことが起きたのさ」

 ははん。ルーカスはニヤリとした。「当てようか、女だろ。シンディだ」

「シンディ?」

「女性は芸術の創造力を奮起させてくれる。ボナールとマルト、シャガールとベラ、クリムトとエミーリエ……きみのミューズ(美の女神)がシンディ・ロッソとは驚きだが」

 アイヴァンは一瞬、目をしばたかせ、それから右手で目を覆って笑い出した。

「ルーカス、ルーカス! 勝手なこと言うなよ! 誰がシンディと付き合ってるって? 冗談はやめてくれ!」

「ちがうのか」

 アイヴァンは笑いながら首を左右に振った。

「じゃなんだ? 女じゃないとしたら?  変なドラッグでも手に入れた? あやしい宗教に加入したとか?」

 見解の大外れによって失笑を買ったことがいささか照れくさかったルーカスは、矢継ぎ早にアイヴァンに問いかけた。アイヴァンは酔って潤んだ目を天井に向け、ちょっと考えてから、「ロバート・ジョンソンの伝説を?」と、ルーカスに聞いた。

「ロバート・ジョンソン? ブルースプレイヤーの?」

「うん。彼はあの四ツ辻に立つ以前、ギターの下手な凡庸な男だったらしい。それがある日、突然……」アイヴァンは指をパチンと慣らした。「あれと同じことがぼくにも起こったのさ」

 ロバート・ジョンソンの『クロスロード(四ツ辻)の伝説』はルーカスも知っていた。ジョンソンはミシシッピーの四ツ辻で悪魔に出会い、音楽の才能とひきかえに、自分の魂を悪魔に売り渡す。すると彼は瞬く間に“ブルースの天才”と呼ばれるようになったが、若干、二十七才の若さでこの世を去ってしまう。これは彼の天才的なプレイから生まれた伝説だ。

「じゃあ、なにか? きみは悪魔と取り引きしたとでも?」

「したのさ」

 アイヴァンはブランディを飲んだ。

 ─── そうか、からかっているんだな。ルーカスは話の調子を合わせることにした。

「ふぅん。おれは悪魔にまだ会ったことがないよ。どこに行けば会えるんだ? そもそも会ったらなにを頼もうかな。金か、女か、名声か? 絵の才能のために魂を売り渡すなんて情熱はおれにはないし……寿命を一週間だけ切り売りして、パブのツケを帳消しにしてもらうのが関の山だな」

 ルーカスがそう言うと、アイヴァンはグラスのなかの氷をくるりと回し、「きみは悪魔には会えないよ」と言った。

「きみは一度もみじめな思いをしたことがないからな。そういう人間は悪魔には会えない。きみの歩く道は光り輝いている。ガールフレンドはいっぱいいて、親は裕福、教授連の覚えはめでたい……そういう人間にはぼくの気持ちなんてわからないさ」

 ルーカスは驚き、ショックで口が利けなかった。さらりとしたもの言いではあったが、アイヴァンはルーカスに対して『きみは理解し合えない相手だ』と言っているのだ。

 ─── こいつはずっとこんな風におれのことを思っていたのか?

 隣に座ってブランディをすするアイヴァンを、ルーカスはまるで初めて見る男のように凝視した。

「でも、もういいんだ」

 アイヴァンは後を続けた。

「もういいんだよ。すべては変わる。これからはすべて、なにもかもが変わるんだ」

「それは……どういう意味なんだ」

 ルーカスのその問いに、アイヴァンは笑顔で答えた。

「別に。言葉どおりの意味だよ。素敵だろう?」




 ルーカスは大学の近くにフラットを借りていたが、アイヴァンは学生寮に住んでいた。寮は大学から数駅ほど離れていたが、余分な経済力のない学生は、こじんまりした舎に落ち着く以外の選択肢を持たず、アイヴァンもまたそれに従っていた。

 ルーカスはこの日、アルバイトを休んでアイヴァンの寮へと向かっていた。ここ五日ばかり、アイヴァンは大学に姿を現していない。以前にもそういうことはあったが、そのときはアルバイトやインフルエンザなど、いつも理由ははっきりしていた。どちらにしてもルーカスにだけはなんらかの連絡はあったが、今回はそれもない。気になって電話をかけてもみたが、呼び出し音が鳴り続けているだけで誰も電話には出なかった。

「たった五日だ。一ケ月じゃないんだぞ」ルーカスはそう自分に言い聞かせ、不安を振りはらおうとしたが、それはうまくいかなかった。いつもならばそれほどまでには気にはかけなかっただろうが、彼はすでに〈無題〉を見た後だった。もしや自分の友人は気が変になりかかっているのではないだろうかという考えが、ルーカスの頭をよぎる。ヴァン・ゴッホがそうであったように、狂気に足を踏み入れた者だけが描ける世界というのがあるのであれば、あの〈無題〉はまさにそれだ。そうでなければ、あのアイヴァンの急激な変化は説明がつかない。パブでのアイヴァンの様子には、別段狂気に感じられるような振る舞いは見受けられなかった。それはまったく普通の会話と同じように───悪魔のことを口にしたのだ。だがしかし、それこそが狂気ではないだろうか? 悪魔に会ったと、まるで親戚の伯母にでも会ったかのように話すアイヴァン。それは普通とは言い難い。取り憑かれたように絵を描くアイヴァン。ロバート・ジョンソンをその身に喩えるアイヴァン。狂気の画家よろしく耳を切りとるアイヴァン……いや、これは馬鹿なイメージだ。

 地下鉄の車内、ルーカスの隣に座っていた中年男性は眼鏡を外し、そのレンズをネクタイで拭き始めた。───アイヴァンの眼鏡。ひとつ聞きそびれたのは例の視力のことだ。アイヴァンは回復したと言っていたが、そんなことはあり得ない。眼鏡がなくてモノが見えないくらいのほうが、抽象を描くにはいいのだろうか?

 ルーカスは地下鉄を降り、地上へと出た。重たい雲が垂れ込めているせいで、まだ夕刻前ではあったが、辺りは薄暗く、風は冷たかった。ルーカスはジャケットの襟を立て、友人の元へ足を早めた。




 部屋の戸を叩いたが、アイヴァンは姿をあらわさない。携帯から彼の番号にかけてもみたが、ドア越しにベルの音が鳴っているのが聞こえるだけで、他の物音はしなかった。

 ルーカスは裏庭に回り、部屋の窓を見上げた。藍色のカーテンはぴったりと閉じられており、明かりが点いているのかも確認できない。

 辺りをうろついているルーカスを不信に思ったのか、寮の管理人である中年女性が声をかけてきた。ルーカスはその女性に自分がアイヴァンの友人であること、彼が五日も学校に来ていないこと、連絡がまったくとれないことなどを多少オーバーに話して聞かせた。

 こういうとき、ルーカスの外見はとても役に立つ。管理人の女性が見なれたどの学生よりも、ルーカスの身なりはちゃんとしていたし、言葉は丁寧。友達の身を案じてわざわざやってきたというドラマも、四十がらみの孤独な女性の胸を打つものがある。

 自分が立ち会いの元ならばと、管理人は部屋の鍵を開けることに同意し、念のためにとルーカスの学生証を預かった。「お友だち思いなのね」管理人はそう言いながら、キーボックスから鍵を取り出す。

 もちろんルーカスがここに来た目的は“友人の安否を確かめるべく”だったが、アイヴァンが持ってかえった〈無題〉を、もう一度、目にしたいという思いもあった。絵を描くことへの情熱。大学に入学してしばらくは、ルーカスにも情熱はあった。しかしいつしか失われ、忘れて久しいそれはアイヴァンのカンバスの上にはっきりと浮かび上がっていた。

 いったいアイヴァンになにが起きたのか? ルーカスはもういちどあの絵に触れ、その秘密を突き止めないことにはいられなかった。

 鍵が開くと同時に、部屋に充満している匂いが鼻孔を刺激した。油絵の具の匂い、食べ物の油の匂い、タバコの匂い……それらの臭気を消すためなのか、香の香りもしていたが、それは様々な匂いと入り交じり、結果、胸の悪くなるような悪臭と化していた。

 散らかった部屋と臭気に怖れをなしたか、管理人は「アイヴァンに掃除をするように言ってちょうだい」とだけ言い残し、早々に部屋から出て行った。

「───アイヴァン?」

 わずかに開いたカーテンの隙間から、差し込む街灯の明かりがかろうじて室内を照らしている。足元には床が見えないほどの美術書と、木炭で描いたラフが何枚も散らばっていた。

 まさかこの床に埋もれて友人の死体が転がってやしないだろうかという、不気味な想像をルーカスは頭から追い払い、再度、アイヴァンを呼びかける。

「アイヴァン……。おれだよ、ルーカスだ。ここにいるのか?」

 明かりのスイッチがどこにあるのかわからず、薄暗いままの部屋をルーカスは見回した。どうやら人のいる気配はない。キッチンは食べ物でよごれ、どこもかしこも泥棒でも入ったかのように散らかっていたが、壁際に配置されたサイドボートの上だけが、最近、手入れされたかのようにきちんとしている。そこにはインドネシアのものとおぼしきバティック布がかけられており、上には銀の大皿がひとつ。

 ルーカスは目を細め、サイドボートへと近寄った。積み上げられた本の山をブーツが崩したが、そのことは気にならなかった。ルーカスの目は銀の皿と、その上に置かれた、“あるもの”に釘づけになっていたのだ。銀皿には焦げて正体のわからなくなった何かと、鏡の破片。そして赤黒い絵の具のような染みが、点々と落ちている。すっかり乾いて固まっているそれは、おそらく血なのだろう。だがルーカスが驚きをもって見つめているのは、凝固した血の跡ではない。血のついた、ちいさな金の指輪。

「まさか……」

 ルーカスはそれを指先でつまんだ。リングの内側には傷がついている。サイズを広げるためにハンマーで叩いてのばしたときについた傷だ。それはルーカスがいつも左手の小指にはめていたものだった。

「どういうことだ……?」

 その問いに答えるかのように暴力が訪れた。ルーカスの口と鼻孔は背後から乱暴に布で塞がれ、甘ったるい接着剤のような臭気がしたかと思うと、次には闇が訪れ、それからルーカスは気を失った。




 目を開けたルーカスの視界にまず飛び込んできたのは、水色と白。それは美しい雲と空───。よく見るとそれは目の前の壁に貼られたポスターであることがわかった。これはマグリットだ、とルーカスは思った。空を描き続けた画家、ルネ・マグリット。空に浮かんだ白い雲のほかには何も描かれていない。清々しく爽やかな青空の絵。このタイトルはなんだったろう? ああ、そうだ思い出した。これは〈呪い〉だ。

 ルーカスは目だけを動かし、おかれている状況をぼんやりと確認した。天井、窓、本棚……。自分はベッドの中にいる。床には〈アートマンスリー〉のバックナンバーが山ほど積まれ、見たこともない外国の芸術書や画集が散乱している。「手荒なことをしてごめん」というアイヴァンの声を耳にする。ルーカスの身体の上には柔らかいキルトと毛布がかけられている。かすかにアイヴァンの香り。ここはアイヴァンの寝室なのだ。友人は自分に微笑みかけながら、「“あれ”を壊されたらと思って」と、言った。

「さっきの時点ではまだ完成していなかったからね。術が破れてしまう」

「……術?」

 アイヴァンは答えず、言葉を続けた。

「でももう大丈夫。やるべきことは終わった。きみが来てくれたおかげで仕事が早く済んだよ」

 ルーカスはゆっくりとベッドの上で上半身を起こした。上着は脱がされており、Tシャツだけになっている。左の上腕には白い包帯が巻かれていた。痛みはない。ルーカスがそれを不思議そうに眺めていると、アイヴァンは「きみが眠っている間に、体液を少しわけてもらった」と、簡単な事後承諾をした。

「髪の毛や持ち物を集めることはそう難しくないけど、こればっかりはね」

 アイヴァンはコーヒーをポットからカップに注いでいる。ルーカスはそれをぼんやりと見つめながら、パブでのアイヴァンとのやりとりを思い出していた。あのとき彼はなんと言っていた?『悪魔と取り引きをした』そうだ。そう言ったのだ。だがその取り引きとはいったい─── いったい “ 何 と ” 引き換えに?

 アイヴァンはコーヒーカップを差し出した。コーヒーは温かくいい香りがしたが、胃に流し込んだ途端、ルーカスはそれをもどしそうになった。

「大丈夫かい?」むせるルーカスの手からカップを取り上げて、ベッドサイドテーブルに置く。

「……頭痛がする」ルーカスは両手で頭を抱え込んだ。吐き気で喉がえずき、目を閉じると涙があふれた。

「クロロホルムのせいだ。じきに治るよ。さあ、ゆっくり呼吸をして、しばらく横になるといい」

 アイヴァンは毛布をルーカスの身体に巻きつけ、そっとベッドに押し倒した。ルーカスの額にかかった髪を指で優しく梳いて撫でつける。

「きみみたいに素敵なやつはいない。誰もがきみになりたいと思っている……大好きだよ、ルーカス・フィッシャー」

 そう言ってアイヴァンは屈み込み、ルーカスの頬にキスをした。それはまるで兄弟のような口づけだった。




 制作室の外はどしゃぶりだった。部屋にこもったテレピン油の臭気を追い出したかったが、こう激しく降っていては、窓を開けるわけにはいかないだろう。開けるでもない窓を見つめ、ルーカスは眼鏡を外した。

 眼鏡は先週、運転免許の更新で引っかかってかけはじめたものだ。まだ慣れていないせいで異様に目が疲れる。ルーカスは目をしばたいて、眉間を揉んだ。まるでなにかに腹を立てているような雨が、激しく窓を叩く。

 あれ以来、アイヴァンには会っていない。だが彼の噂だけはルーカスの耳に入ってきていた。

『水を得た魚』。大学のミニコミ誌は『今、最も注目すべき生徒』として彼をとりあげ、そう評した。別の学部の生徒までもが、その姿と作品を一目見ようとアイヴァンの元に押しかけるほどで、彼の作品を観た生徒は、絶対にがっかりすることはないのだという。学会でも著名な指導教授、モーハイムの後ろ楯をも得たアイヴァン・ロスは、今や順風満帆の勢いだ。

 そしてルーカスは若い年寄りだった。見た目こそ若く、健康そのものではあるが、若干ハタチそこそこでルーカスは老いてしまったのだ。

 ルーカスは眼鏡をかけなおし、筆をとった。絵を描くという行為にはなんの魅力も感じられず、その動きはまったく機械的なものとなっている。自分がどうして絵を描いているのか、ルーカスにはさっぱりわからなかった。それでも彼は筆を動かし続ける。これがオカルトの仕業であることをルーカスは願った。

『おれは悪魔にしてやられた。これはアイヴァンによってかけられた呪いなのだ』

 そうでなければならない。最悪なことはこれが“オカルトの仕業”と無関係であることだ。そしてそれこそがルーカスにとって、なによりいちばん恐ろしい結末なのである。


End.


挿絵(By みてみん)

最後までお読み頂きありがとうございました。

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