九日目◆前:禁断
今朝は生憎の雨模様。
泥濘に規則正しく続く足跡の先には、歳朗の姿があった。
昨日帰りに印を残してきた。聖璃架の家はこの辺りで間違いない。
だが聖璃架を呼ぶ方法が解らなくて、歳朗は考え中だった。
勝手に出歩くなと言った以上、聖璃架が出てくる事はないだろう。――そうなればあの女が出てくるのを待つしかないと思った矢先――見えないドアが静かに開いて、暗い空間が現れた。
居たのは聖璃架ではなく、華蓮だ。
ゆっくり出てきた華蓮が自分によこしたのは、冷酷に光る紫水晶の瞳。
美しいが氷のような女――それが歳朗の持った華蓮の印象。
雨にも関わらず華蓮は傘を差していない。だが雨は華蓮に落ちる事なく弾かれている。それは体の周りに膜を張っているように。
華蓮の出てきたタイミングが良すぎる。自分が来たのが解って出てきたのだと思って、歳朗は息を呑む。
「もう、ここへ来ないでくださる」
氷の表情から出た声も冷たく響いて、歳朗は華蓮を睨む。
「聖璃架に逢いに来た。あんたに用はねェ」
「私、お前を決して許さなくてよ。二度と聖璃架に近づかないで」
静かだが怒りを秘めた声音で華蓮に言われて、歳朗は気分を害した。
「テメェに言われる筋合いねェよ」
華蓮は歳朗が雨に濡れないように、腹の前で手にしている花を見てくす、と笑う。
「何それ。聖璃架に贈るつもり? そんな物で高貴な魔女が喜ぶとでも思って? これだから下等な人間は嫌なのよ」
「聖璃架はテメェと違って美しい心の持ち主だ」
「そう」
と華蓮が静かに言った時――花が弾けた。
散った花は虚しく地面に落ちて、雨に打たれて泥に塗れていく。
「二度と聖璃架に近づくんじゃないわよ。いいわね」
言い捨てて華蓮は踵を返した。
「――…テッメェェッ!!」
声を荒げた歳朗の表情は怒りに満ちて、聖璃架がジムニィ達に振り回された時と同じだった。
懐から拳銃を取り出して発砲したが、弾丸は華蓮の背後でぴたりと止まって向きを変える。勢い良く発した弾丸は歳朗の腕を貫通した。
傘が地面に落ちて歳朗は腕を押さえる。
……畜生、何故腕を狙いやがった。心臓なら身に付けている防弾着で防げた物を。だが幸いだったのは左腕だった事だ。右手が使えるなら、まだ聖璃架を護れる。
打ち付ける雨が傷に染みて痛みが増す中、歳朗はよかったと思った。
「土浦さん!!」
見えないドアが開いて飛び出した聖璃架は歳朗に駆け寄る。
「聖璃架」
「大丈夫ですか、土浦さん」
撃たれた腕を見て、聖璃架が心配そうに尋ねた。
「聖璃架、貴方からも言うのよ。もう会わないと」
「…………」
華蓮に言われて、聖璃架はゆっくり歳朗を見る。向けられた聖璃架の紅玉の瞳が、悲しげに自分を見つめてきて。
――聖璃架。おまえ――やめてくれ――
だが歳朗の思いは、無惨にも引き裂かれた。
「土浦さん……ごめんなさい。もう、来ないでください」
「なんだとッ!」
聖璃架の口から紡がれた言葉は歳朗に惨酷な衝撃を与えて、華蓮は美麗に微笑む。
「――……何故だ、何故そんなことを言う」
「……ごめんなさい」
言って聖璃架は家に駆け込んでいった。
家に入り際に華蓮は呆然としている歳朗を一瞥して、静かにドアを閉めた。
…………辛かった。
あんな事を言わなければいけないなんて、本当に辛かった。それだけもう歳朗が、自分に必要な存在になっていたと思い知った。
悲しい声で、悲しい顔をした歳朗を見るのも辛くて、逃げ出してしまった。自分に逢いに来てくれて嬉しかったのに――……でももう逢えないと思って、悲しかった。
酷い事をしたのは解っている。いけないのは、自分。
何故なら……『魔女ハ恋ヲシテハイケナイ』
人間を恐れていた自分が、まさか恋をするなんて思いもしなかった。自分には絶対あり得ない、無関係の事だと思っていたのに…………
歳朗といるとほっとした。華蓮といる時もほっとするけど、それとは少し違って温かい気持ちになって、ふわふわした物に包まれているような幸せな感覚だった。
今は違う。今は只悲しみだけが残っていて……こんなに、こんなに淋しくて悲しい気持ちになるなんて――……嫌だ、逢いたい気持ちが止まらない――――
「聖璃架」
かけられた声に聖璃架ははっとして顔を上げる。
「あの人間の事を考えていたのね」
どきんとしてしまった。華蓮には自分の心が読まれている。考えないようにしなくては。
「早く忘れてしまいなさい」
「う、うん」
「これから森に薬草を探しに行くの。一緒に行きましょう」
「薬草?」
「ええ、何か魔法薬に役立つ薬草があるといいのだけれど」
魔法薬と聞いて聖璃架は思い出す。――クレスタと約束をしていた事を。
「華蓮ちゃん。あのね、この島に薬の研究をしてるクレスタさんて人がいるの」
「……それで?」
「この前会った時に時間がある時研究の手伝いをしてほしいって言われて、行ってみない?」
昼近くなって雨は上がった。
雲が切れて所々から差す太陽の光を、雨に濡れた木々が受けて眩しく弾く。まだ空気は湿っていて、辺りは清々《すがすが》しい森の香りで溢れる。
聖璃架が見つめるのは、先程まで歳朗が居た場所。そこには確実に居た事を証明する自分より大きな足跡があって、泥に塗れた花が――
何故こんな所に花が落ちているのだろう。
思って聖璃架ははっと気づく。
――この花、もしかしてあたしに……?
きっと歳朗が摘んできてくれたのだ。
駆け寄って聖璃架は泥塗れで萎れた花を拾う。――涙が頬を伝った。
「聖璃架」
声がかかって聖璃架ははっとする。
「何をしているの?」
と問う華蓮の声音は確実に解って出ているもので、聖璃架は急いで花を服に隠すと立ち上がって言う。
「ううん、なんでもない」
「ここなの?」
「うん」
研究所に着いて聖璃架はドアを開けて進んだ。所内は相変わらずの散らかりようで。
「こんにちはー」
「おや?」
奥から声が聞こえてクレスタがやってきた。
「聖璃架ちゃんじゃないか。よく来てくれたね」
「はい。今日は華蓮ちゃんも一緒です」
「お友達?」
「はい。あたしと違って優秀な魔女なんですよ」
「へぇ、僕はクレスタ。宜しくね」
名乗ったクレスタは華蓮に冷たい視線を向けられる事になるのだが、そんなの気にしていたら学者なんてやってられないかどうかは知らないが、気にする事なく奥に二人を通した。
「今ある魔法薬の発明をしているんだけど、中々時間がかかっていてね」
「どんな魔法薬なんですか?」
聖璃架に問われて、クレスタは振り向いて口角を上げる。
「それは出来てからのお楽しみかな。島の薬草から少しずつ魔力を抽出しているんだけど、まだまだ足りないようでね。でも君達が手伝ってくれればすぐに完成するかもしれない」
「そうなんですか。ねぇ華蓮ちゃん手伝ってあげられない?」
聖璃架に言われたが、華蓮は冷たくあしらう。
「下らないわ。私の魔力を人間ごときに使うなんて」
「これは偉大な発明なのだよ。君達魔女にとっても無駄ではない筈だ」
「華蓮ちゃんお願い!」
爆発が起こって一面煙に覆われた。
「完成だ」
嬉しそうにクレスタは小さな粒の沢山詰まった瓶を手にした。
「よかったですねっ」
「で、何の魔法薬なのかしら?」
今度は華蓮に問われて、クレスタはまたも口角を上げる。
「それは飲んでみてのお楽しみかな」
「じゃああたし飲んでみます」
「そうかい?」
「大丈夫なのでしょうね」
胡散臭い眼差しを華蓮に向けられてクレスタは言う。
「僕の発明に失敗はない!」
そして聖璃架は薬を一粒受け取って飲み込んだ。
「んッ」
体が痙攣して聖璃架の口から煙のような物が抜け出す。煙は人の形になると輪郭がはっきりして、目鼻立ちもくっきりして聖璃架の姿になった。
「おっ、分身薬だったかー」
感心して言うクレスタを華蓮は半眼で見る。
「実はこれ、飲んでみるまで何の効果があるか解らないんだ」
なんて恐ろしい薬なのだろう。
「すっごーい!」
聖璃架が言って、分身はゆっくり目を開ける。
「確かに凄いわね、私でも見分けがつかないわ」
と華蓮も感心する程瓜二つだった。
「ほんとそっくり!」
見つめながら歩み寄ってきた聖璃架に、分身の瞳は冷たくなる。
「やめてちょうだい、あたしをあんたみたいな落ちこぼれと一緒にしないで」
「えっ?」
「あたし今すぐ一人前になりたいの。人間なんか怖がってるあんたが信じられない」
「え、え」
分身に言われてしまって、聖璃架は戸惑った。
「華蓮ちゃん、あたし人間と交わってくる。そしたら一人前になれるんでしょ」
「それだけじゃ駄目よ。でも魔力を高めるにはそうしなければ」
「うん、わかった」
分身は妖しく笑むと研究所を飛び出していってしまって、聖璃架は呆然とした。
「中身はまるで別人ね」
と華蓮。
「……どうしよう、止めなきゃ」
――誰でもいいから、人間の男を。
箒で空を飛びながら眼下を眺めて人間を捜す分身は、川の辺で洗濯中のネイキッドを発見して着地する。
「ん?」
振り向いて分身を見たネイキッドは驚いた。
「聖璃架さんっ!」
「こんにちは、お邪魔ですか」
「と、とんでもないっ」
言ってネイキッドは立ち上がる。
嬉しかった。昨夜の事がずっとショックでテンションが上がらなくて、ガイアに「暗くて不気味」と言われるし。――でも自分に何の用だろう。
「どーしたんすか」
「ええ、ちょっと」
分身のしなやかで冷たい指が頬に触れてきてネイキッドはどき、とする。
そして分身の顔が近づいてきたと思ったら、自分の唇に重なった。
起こった事についていけず、え? とネイキッドは瞬きをするが、視界は分身の顔で塞がれていて唇にも感触があって。
待ったと思って、ネイキッドは分身の両肩を掴んで離す。
「セ、聖璃架さん?」
パニックになった。何故自分にこんな事をするのか解らなくて。
顔は真っ赤になって動悸がする。
「好きにしなさい、あたしのこと」
妖しく笑んで分身が言った。
「ど、どーしたんすか。聖璃架さんは土浦が……」
「そんなことどうだっていいの、早く」
分身にじっと見つめられて、ネイキッドは意識が遠のく感覚に陥った。
愛しい女が自分を誘っている。こんな近くに顔があって寄せればキス出来て、腕を伸ばせば抱きしめられる。ずっとそうしたかった。拒む理由なんか、ない――
ネイキッドは吸い寄せられるように、聖璃架に顔を近づける。
「――ッ」
だがぎりぎりで理性を保って、ネイキッドは分身を突き放した。
「こんなの、聖璃架さんじゃないッ! 聖璃架さんの姿して、誰なんだアンタッ!」
目に映るのは間違いなく自分の愛する聖璃架そのものだが、違う。雰囲気がまるで。聖璃架がこんな事をする筈がない。
「あたしは聖璃架。あたし早く一人前になりたいの! おとなしく交わりなさい人間ッ」
分身の言葉にネイキッドははっとする。
そうだ。自分と交われば聖璃架は一人前の魔女に。
聖璃架は今必死で一生懸命立ち向かおうとしているのだ。なら自分は、聖璃架の思いに応えなければならない――
「スンマセン、オレでよければ」
それを聞いて分身は微笑む。
「いーんすね」
「ええ」
ネイキッドは分身を抱きしめて唇を重ねた。
やっと、やっと聖璃架とこうする事が出来た。スイッチが入って欲情が爆発してしまったネイキッドはもう止められない。
分身を抱きしめる腕に力が篭る。今この一時だとしても聖璃架を離したくなくて。
高揚して分身の唇が取れるくらい強く吸って。仄かに甘い唇を夢中で貪りながら舌を潜らせて、口中を隅々まで弄り舌を絡ませる。
もう何も考えられなくて、只衝動のまま動くだけ。
耳に涼しい川のせせらぎも、今は灼熱の溶岩の如く自分を熱くする。
「キャア!」
――ん、今女の悲鳴が聞こえた気がするが。
「ネイクさんっ」
呼ばれてネイキッドが振り向くと、呆然とした聖璃架と無表情の華蓮。
「セ、聖璃架さんッ!?」
何故聖璃架が、とネイキッドが目を丸くした。
「じゃーこっちの聖璃架さんは」
冷や汗がつぅーと流れるのを感じながら、腕の中の聖璃架だと思っていたものにゆっくり向き直る。
それはとても聖璃架とは思えない表情をしていた。不機嫌そうに眉間を寄せて聖璃架と華蓮を睨んでいて、やはり偽者だとネイキッドは思ってすぐ離れる。
「いいところだったのに邪魔するな!!」
聖璃架と華蓮に向かって分身は両手を突き出して、掌から闇の業火を放った。二人がかわすと業火は森の木々を燃やして燃え広がっていく。
「大変ッ」
森に向かって聖璃架は両手を突き出すと、津波を放って業火を消し去った。
「さすが聖璃架さんっ!」
と言うネイキッドの首に首輪が現れた。
箒で分身が空へ飛び立つと、首輪から繋がる鎖が伸びて引っ張られたネイキッドも空へ飛んだ。
「あッ!」
「生意気ね。私を攻撃して逃げるなんて」
聖璃架と華蓮も箒で分身を追いかける。
「死ぬッ、死ぬ〜〜」
宙にぶら下がった状態のネイキッドは、首に首輪が食い込んで苦しそうにもがく。
はっと分身が振り向くと、そこまで華蓮が追ってきていた。
「くッ」
箒を飛ばすが華蓮には敵わなくて、差は縮められてしまう。
華蓮に向かって分身は片手を突き出した。
煙と共に大きな掌が現れて襲いかかるが、華蓮は消えるようにかわして分身の後ろまで迫った。
紫水晶の瞳がかっと発光すると分身の動きが止まる。
「ヤッ!!」
ネイキッドも巻き込んで体がびりびりと痺れて、身動きが取れない。
「やっと追いついたぁ」
「聖璃架今よ!」
遅ればせながらやってきたへとへとな聖璃架に華蓮が言った。
「うん。えい!」
分身に向かって聖璃架が水流を放つ。
「キャア! しまっ…」
水を浴びた分身の顔がどろ、と崩れて跡形もなく溶けていって、箒と首輪、鎖も消えるとネイキッドは落下した。
「ネイクさんッ」
慌てて聖璃架は追いかけて、ネイキッドの腕を掴んだ。
【後編へ続く】
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