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工場の狂人

作者:ぱんだ祭り
 あれは僕が会社を辞めた直後のことだった。
 大学を卒業し3年間務めていた会社を辞めたのには、特にこれといった理由はなかった。
 何となく疲れたというか、このままこの会社にいても先々おもしろいことが起きそうもないので辞めたのだ。

 仕事もまあうまく行っていたし、同僚や先輩にも恵まれていた。
 しいて言えば頑張って3年間働いたし、そろそろ長期休暇を取りたいと考えていたのだ。
 その長期休暇もそこまでして取りたいのかと言われればそうでもなく、辞めた後に何かしたいことがあるのかといえばそういうこともない。
 かと言ってここで何十年も働くのも、ちょっと遠慮したいのだ。 

 簡単に言えば飽きたのである。

 辞める直前にぼちぼち辞表でも書くかと思いながらもなかなか時間が取れないので、仕事中に辞表のフォーマットをネットでダウンロードし会社のプリンターで印刷した。
 それを支社長の所に持って行き「今月いっぱいで退職します。希望日より14日以上前だから大丈夫ですよね?」と話した。
 そうしたら課長や先輩から呼び出され色々長い話をすることになったのだが、僕よりも周りの人たちの方が大変そうだった。
 このでかい会社から1人社員が消えるくらいで、大騒ぎしなくても良いのにと思って見ていた。

 若干手間がかかったが無事会社を辞めると、とても言葉では言い表せないほどのゆっくりとした時間が待っていた。
 その何もない真っ白な時間をどう使うかは全く考えていなくて、とりあえずしばらくはだらだらしていようと思っていた。
 無駄遣いはほとんどしないので貯金もあるし、1年位は就職しないで遊んでいるつもりだった。
 しかし、再就職する際に履歴書に空白ができるのは良くないので、資格を取るために専門学校に通うことにした。
 資格と言っても僕が今すぐ試験を受けに行っても手に入るもので、給付金でお金もかからないし仙人のようにフワフワとした生活を送るための隠れ蓑にしたのだ。

 専門学校は夜に授業があるところにしたので、昼過ぎに起きてぷらぷら出かけたり家でゲームした後、ゆっくりと登校した。
 楽しくもなく、また難しいこともなく、ひたすら楽で暇すぎる毎日を送っていた。
 大変まったりとした生活である。 
 優雅で退廃的でダーウィンの進化論に反する行動をしながらも、社会から自然淘汰されることがない計画的なものではあったので焦りもない。

 しかし会社がないというのはこんなにも怠惰で楽だとは思わなかった。
 貯金が減っていくこと以外は実に優雅な暮らしである。
 法に触れるようなことはしていないのだが、何だか悪いことをしている気分すらしてくる。
 このまま数ヶ月引きこもっていたら廃人になりそうなので、定期的に専門学校に通っているのは社会人として最低限の延命措置になるなと思った。
 専門学校にすらいかないと間違いなく部屋から出ない人になってしまう。

 よく心が病んで会社を辞めたという話を聞くが、僕の場合はそういうわけでもなかったので、1週間もするとこの単調な毎日に飽きてきた。
 僕には心の回復のための時間などいらないのだ。
 だが、今すぐ就職する気もしない。
 今考えると贅沢な悩みだった。
 何にもしないでも食えるし、やりたいことも全部できただろうにただひたすら時間を浪費していた。 

 そんなどうにもならない優雅な毎日、専門学校の帰りに居酒屋へ1人飲みに行った帰りのことであった。
 毎日が日曜日みたいなものの、休日前だからと晩御飯も兼ねて軽く飲み、コンビニで立ち読みでもしようかと考えながら夜道を暇を持て余しぷらぷら歩いていた。
 暇をいかにして潰すかは、その時の僕にとって重要な課題であった。
 しかし、その課題にもまともに取り組まず、ついついどうでも良いことばかりしてしまうのだ。
 どうも人間というものは時間を持て余すと、どこまでもずっと時間が流れていくのだと勘違いしてしまい、ゆっくりとした日常に飲み込まれてしまうようだ。

 真っ暗な夜をさまよっていると、不意に目の前に幾何学的な物体、ぼわっと長方形が現れた。

 なんだこれは?

 酒を飲んでいるせいか、どこか異世界から急に現れたような気がした。
 それは街の掲示板であった。  
 いつもならそんなものは気にもしないのだが、暇というのは些細な事でも人間を探求させるタービンのようなものなので、僕の心の中のタービンは無駄に加速していた。

 ダンスサークルや英会話教室の勧誘。家庭矯正の斡旋。事務員募集。胡散臭いマルチっぽいチラシ。
 まさに有象無象。雑多なチラシがぎっしりとその掲示板には貼られていた。
 果たしてこんな所に貼って、少しは効果があるのか?

 それをじっくりと1枚1枚僕は見ていた。

 僕は暇すぎたのだ。
 それぞれを批評し、改善点をあげ、それぞれの事業主が今後どのような事業展開をしていくべきか考えた。
 そもそもこんな所に告知を張り出す時点で全部駄目なのだ。
 お前達は事業をする資格すらない。
 そんなものすぐに潰れる。
 早くやめた方がいいだろう。

 順番にいかにこのチラシを貼っていった者達が駄目なのかを論じていった。
 この無能な人達が何故おとなしく有能な者に雇われないで、自分達でやろうとしているのか理解できなかった。
 でも、見ていくうちに馬鹿だから、自分でやるしかないんだろうなと気がついた。

 そうして順番に見ていくうちに、掲示板の隅の方に求人広告が貼られているのを見つけた。

「マルトモ屋 パート募集 工場 軽作業 9:00 ~ 14:00 週3日から相談可 900円」

 おお、これおもしろそうだな。
 直感的にそう思った。
 何の根拠もない、その場の思いつきである。
 暇潰しにはちょうど良さそうだ。
 夜中に目が覚めて、目的もなしにコンビニへ買い物へ行く程度に考えていた。
 しかし今考えれば、余計なことに足を突っ込まなければよかったのだ。

 もし、面倒なことになってきたら辞めてしまえば良いやと思い、そのチラシをスマホで撮影した。
 まだその時は、まさかあんな怪物と巡り合うことになるとは、1ミリも考えてはいなかった。

「とても簡単な仕事なんだ。難しくはない」

 そう工場長は面接で僕に仕事の内容を説明してくれた。
 チラシを見た翌日に工場に電話をすると、すんなりと面接日が決まり、その場で採用が即決したのだ。
 簡単な仕事というものほど、何らかの裏があるものだ。
 何だかなって感じだ。

 見えるところだけではあるが、実際に見渡すと工場はとても暗い感じがした。
 空気が淀んでいる気がする。
 建物自体の何度も増築改築された歪さや、最低限の材質で作られた壁や天井などがそう思わせるのだろうか?
 上の方からは水蒸気が上がり、何か作業をしているのか金属的な音が聞こえる。
 無表情で何か大量の荷物を台車で運んでいる人がいた。
 どこからか大量のゴミらしきものを運んできた女性が、それを慣れた手つきで分別し始めた。
 工場だから当たり前かもしれないが全員同じ作業着を着ていて、それぞれが黙々と何かの作業をしていた。
 とても人が出入りする場所には思えなかった。
 僕にはとても異常で恐ろしい物に見えた。
 それらは早くも僕の労働意欲を0にさせた。

 こんな所でずっと働く人生を送る人もいるのだろうか?
 さすがにそれは僕には耐えられない。
 自分で決めたとはいえ、まだ見ぬこのおぞましい世界で働くのは正直気が引けた。
 卒業した大学のキャンパスもこの間まで働いていたオフィスも、新しいとか古いとかそういうことではなくて、抽象的ではあるが天から光が射しているような明るさがあった。
 なんだろうこの人間がいてはいけない、ろくでもないことが起こりそうな雰囲気。
 ここで低賃金で酷い労働でも強いられた奴らの呪いが詰まっているのだろうか。

 恐らく何年ここで働いても労働者が報われることはないであろう。
 状況がひどくなるだけだ。
 でも、他で働こうとしても一体何の職があるのだろうか?
 転職しても似たような劣悪な環境下の所に移動するだけだ。
 この工場で養われたスキルが他で通用する可能性は低いはずだ。
 そして、この工場自体が近々潰れるなんてこともあるかもしれない。
 完全に詰んでいる。ただ絶望し、苦しみもがきながら終わっていくだけだ。

 まあ、少し様子見たら適当に理由をつけて逃げよう。
 無難に面接を終えた僕は、さっさと帰ることにした。

 それから数日後、工場での初勤務の日が来た。
 工場長の所へ行き新品の作業着をもらった時に「今度君と交代で辞める人なんだけど、若い子が教えてくれるから3日間だけ一緒にやって覚えてね」と言われた。
 僕は「分かりました」としか言えないのでそう返事をすると、工場長のあとをついて暗い工場の中を歩いて行った。

 迷路のような継ぎ接ぎだらけの工場を進んでいくと、他の部屋よりも狭い部屋に連れて行かれた。
 そこは整理されていなくて、管理が行き届いていない酷い状況であった。
 そのすみで身長が160センチはないであろう男性が1人で作業していた。
 しゃがんだ状態で何かをたわしでこすり続けている。
 面接の時にも簡単な説明があったのだが、僕の仕事はひたすら来た物を洗い続けるものだという。
 プラスチックのケースやアルミか何かで出来ている大きな銀色の盤や網のようなものなどが散乱していた。
 なんだよこれ酷いなと思ったが、こんなことで無闇に争うつもりもないので黙ってそれを見ていた。

「じゃあ、あとは彼に教えてもらってくれ。頼むよ」

 工場長はそう言うと、1人で作業していた男性になにか声を掛けて出て行った。
 そのあっさりと戻る工場長の様子に「あっ」と思ったが、とりあえず仕事を教えてもらわないといけないので、作業している彼に近づいて挨拶した。
「斎藤と申します。よろしくお願い致します」
 そう僕は笑顔で挨拶したのだが、作業していた彼は表情を変えずにゆっくりとこちらを見た。
 年齢は10代か、20歳前後なのだろうか。
 非常に精神的に幼く見えた。
 そして、ぼーっとした感じ、意識がはっきりしていないような、自分の中にある狭い世界しか認識していないような、表現しがたいおぞましさ。
 はっきり言って異常者だと思った。
 街中で急に叫んで騒ぎ出したり、遠くの鉄塔から電波が送られていると言い出すタイプだ。
 正直言ってこういうのを見かけたら、一切関わりあうことなく離れるだろう。

 世の中には存在しないものとして、全員が見ないようにしているものがある。
 理解できないものや自分に害を及ぼすものは、みんな本能的に怖いから避ける。
 自分達が生きるのに必要ではあるのだけれど、気がつかないふりをして他人に押し付けたいことがある。
 そしてそれは、自然に社会の隅に自然淘汰されていく。
 しぼりかすはゴミ箱にポイされ、ふたを閉めてなかったことになるのだ。

 瞬時に彼がかなり近づいてはならない本物であることは分かったが、彼とどうやって接すればいいのかまるで分からなかった。
 さすがにいきなり暴れたりはしないだろうけど、一緒にいるだけで気持ち悪い。
 でも、工場長も3日間だけ彼とともに働いてくれと言っていたから、さっさと仕事を覚えてなるべく早く彼から離れようと思った。

「じゃあ、洗って下さい」

 彼はそれだけ言った。
 非常に生気のない死人のような声だった。

 僕は唖然としてしまった。
 いくら簡単な仕事でも、説明してもらえないことにはどうすることもできない。
 何というか、通常大人になるまでに身につける社会通念というか倫理観というか、そういう常識的なことが完全に欠落している上に、まともに働いたことがないのか社会人としての常識もないように感じた。
 もしかすると、中学校すらまともに通っていないのかもしれない。
 それくらい彼は人と関われない状態であった。

「あの、このへんにおいてあるものを、そこのたわしで洗えばいいんですか?」

 この手のタイプは刺激しないに限る。
 僕は慎重にそう聞いた。
 すると彼はバネが弾けるように「ビクンッ!」と立ち上がり、目を見開き口を大きく開けた。

「違う!!!!こっちから洗うんだ!!!!駄目じゃないですか!!!!うわああああああああああ!!!!」

 急に彼は激昂し大声を上げ始めた。
 それは怒っているとか駄々をこねてるとかではなくて完全に発狂していた。
 自分自身を見失うと良く言うが、彼は狂わんばかりにばたばたしながらわめいていた。 

 もう何を言ってるのか分からなかった。
 僕にはどうすることもできない。

「では、これから洗えばいいんですね?」

 僕は彼を刺激しないように、彼が喚きながら指さしていたものを手にとって洗おうとした。 

「違う!!!!!!その隣から洗ええええええええええええ!!!!!!!!」

 いやもう、それはいつそのまま彼が僕をナイフで刺しても、何の違和感もない状況であった。
 世界の最果ての職場の、最果ての持ち場に追いやられた、最果ての労働者とはこんなにも狂っているのか…
 今までこんなのと付き合ったことなかったので、彼のような狂人がこの社会の中で存在すること自体が驚きだった。
 一種のホラーだ。
 リアルに存在するホラーだけにたちが悪い。
 彼は男だが、魔女狩りとかがあったら真っ先に処刑されるだろう。
 だけれども、これだけ彼が大騒ぎしても誰も様子を見に来ないのだから、ここではさほど重大な事件でもなく、こういったことはいつも通りのことなのだろう。

 ともかく彼から工場の仕事を教わり始めた。
 しかし、一事が万事そんな感じなのでなかなか仕事が進むことはなかった。
 でもそうやっていくうちに、どうやら彼の中で仕事の手順があるのが分かってきた。
 彼はそれを全く説明することはないものの、僕がそれから外れた行動をすると彼が発狂するというシステムなのだ。
 どうにもならないので、彼の指示通りに動いた。
 完璧に彼の真似をしないと、すぐに発狂し始めるので、彼の動作や手順などを僕なりに真似した。
 いやしかしまさか、ここまで狂った奴の真似を何時間もすることになるとは思わなかった。
 だけどこうして真似していると彼が何故この手順でやっているのかとかが理解はできてきた。

 14時で帰れるということではあったが、そんな感じだったので14時になっても仕事は全部終わらなかった。
 専門学校に行くのと面接時に14時で仕事が終わると聞いたのを理由に、彼にそろそろ帰る旨を伝えたらまた発狂し始めた。
 だが、彼に付き合うのも疲れてきたので、長くかかったが説得すると、彼もしぶしぶ僕が帰るのを認めてくれた。

「こんなんじゃ!!!!!!!仕事を覚えられないぞおおおおおおおおお!!!!僕は半年かかって覚えたんだああああああああああああああ!!!!!」

 彼は去りゆく僕にそう叫んだが、いい加減面倒くさくなってきたので相手にせずに黙って立ち去った。

 その日の夜、専門学校から帰ってくると部屋でビールを飲んだ。
 正直、明日工場には行きたくなかった。
 あんな狂ったのと、また働くかと思うとうんざりであった。
 もう暇潰しの範疇ではなくなっている。
 でも、あんなのがやれている仕事をできなかったと思われるのは屈辱だった。
 異常者ができた仕事を挫折したとなるのは一生の汚点である。

 時間はスーッと過ぎ、時計は午前2時を回っていた。
 手元にあったビールは全部なくなっていた。
 あと2日間、あの異常者と働けば、自由に働くことができる。
 彼が文句を言わないくらいに完璧にこなして黙らせてやるか。
 辞めるのは彼を追い出してからでも遅くはない。
 明日も早い。ベッドに入り今日覚えた仕事を思い返しながら眠りについた。

 翌朝起きたら全身筋肉痛だった。
 こんなプロレタリアな仕事なんてしたことがなかったから体がガタガタだ。
 それだけならまだいいのけれど、またあの異常者からの精神攻撃を受けるかと思うと行く気がなくなっていく。
 もう仕事を覚えてあの異常者を追い出し、僕があれよりも劣っていないのを証明することだけが目的になっていた。

 工場へ行き、異常者と穏便に挨拶したあと仕事に取り掛かった。
 おおよそ仕事は覚えていたので、昨日よりも俄然仕事がはかどった。
 絶対に文句言われないように、細部に渡り異常者の真似をした。
 それを異常者が神経質そうにチラチラ見ながら、多少違うところがあると発狂した。
 それでも昨日に比べたら騒がれることは少なくなってきた。

 ところがまた異常者が異常者たる所以を発揮してくれた。
 元々1人でやっている仕事を2人がかりでやっているので、12時前には仕事がなくなりそうになったのだ。
 途中で仕事がなくなってしまうことに気がついた僕は「あれ?早く帰っていいのかな?」と思いながら作業していた。
 特に金には困っていないので、さっさと終わった方が僕には都合が良い。
 しかし、異常者にはそれはかなり不都合らしく、時計を何度も確認しながら妙に作業効率が悪い行動を取り始め、動作もゆっくりとしたものになっていった。
 表情もこわばったものになり、どことなく小刻みに震えている。
 そうか、1,800円が異常者にとって死活問題になるのだな。
 これはさっさと仕事を終わらせなければならない。
 そう思い僕がどんどん仕事をこなし11時半前には全部終わるなと思った時だった。

「なんで、そんなに周りを見ないで働くんだ!!!!!!」

 また、急に異常者が発狂し始めた。
 おいおい、ずいぶん4次元的な理由で騒ぎ出せるよな…
 会話が成立しないのは分かっていたが、狂いすぎていて何を言い出したのか訳が分からない。
 だけれども、異常者が苦しんでいるのは分かるので、かなりスッキリした。

「自分のことしか見ないで仕事していたら失敗するぞ!!!!!!!」

 異常者は意味不明なことを喚き散らしながら、30分以上発狂し続けた。
 僕はだんだん扱いに慣れてきたのもあって、適当に聞き流していた。
 その後もどうにもならない狂いぶりで、ろくに仕事もせずにちょくちょく発狂していた。
 よほど1,800円が大事で不安が爆発しているのであろう。

「お前のせいで残業することになったんだぞ!!!!!!反省しろおおおおおおおおおっ!!!うわああああああああああああああああああああああっ!!!!!」

 14時になって帰る僕に、また異常者が理解不能なことを言い放った。
 仕事はすでに終わっていた。
 多分、異常者は僕が仕事ができないことを理由にして残業し、いくばかのお金を手に入れたいのであろう。
 仕事がないのに何してるのか知らないが。
 たしかにこんな奴がこの工場を辞めても、行くあてがあるとは思えないし恐ろしいんだろうな。
 異常者はこの工場から出て行くのが怖いのに、もうこの仕事をしたくないから辞めるのだ。
 狂ってる。完全に狂ってる。救いようがないくらいに狂ってる。
 明日でこの異常者とも最後だ。
 絶対に文句を言われないように完璧に異常者の仕事を真似して、絶対に異常者と寸分の狂いのない作業をしようと決意した。

 翌朝、工場にちょっと早めに来て、凄い勢いで作業を始めた。
 異常者と同じ動作と手順で完璧に仕事をした。
 僕より少し遅れてやってきた異常者は、やはり神経質そうに僕をチラチラ見るのだけれど、寸分違わず異常者と同じことをしている僕を注意することはできなかった。
 僕はこの簡単な仕事にはもう慣れていた。
 集中して手際よくやっていくと、10時半には終わってしまった。
 やる仕事がなくなった異常者は慌てた様子でオロオロし、ぶつぶつ独り言を言い出した。
 僕はおもしろがって、それを黙ってみていた。

「今、なんか言いましたか!!!!!!」

 異常者は何度かそう僕に言ったのだが、僕は「何も言ってませんよ」と答えた。
 実際何も言っていないし、異常者がガタガタ震えているのを見ていただけだ。
 そんな観察も1時間が過ぎた11時半。

「あの、仕事も終わりましたし、もう帰りませんか?」

 異常者の発狂具合がかなり酷い状態になった時、僕は異常者が1番恐れていることを言ってみた。
 さあ一体なんて返事するのかなあ?
 僕は心の中で異常者を嘲り笑いながら反応を楽しみに待った。

「うるさああああああああああああいっ!!!!!今、うまくできても!!!!!!!!!いつか必ず失敗するんだあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!」

 異常者はそう発狂すると両手を上げて僕に向かってきたので、僕は少し笑いながらいそいで工場長のいる所まで逃げていった。

 そんなこんなで、異常者は去り僕は立派な労働者として働き始めたのであった。
 やはり異常者がやっていた持ち場は1時間半前後、10時半位で作業が終わることが分かった。
 最初はちょっと働いて帰っていたんだけど、人が急に辞めたりするので、あちこち手伝いに行くことが増え色んな仕事を覚えていくことになった。
 どこもわざと作業をゆっくりやっていることが多く、「速くやっても、もらえる金が減るだけだからな」と気がつきつつも、趣味的にあちこちの作業を効率化していった。

 そんな感じで数ヶ月が過ぎた。
 工場も異常者以外は体力自慢の明快な方が多く、徐々に僕は馴染んでいった。
 体はキツイが精神的にはスカッとする感じだ。
 住めば都である。
 給料さえ良ければ、このままでも構わないかなあとも思い出していた。
 そんな中、最初異常者がやっていた持ち場を、完全に他の人に任せることになった。
 だけれども、思わぬことが1つ出てきたのだ。
 みんな誰がやっても10時半で作業が終わらないのだ。
 サボってる様子はないのだが、どんなに速くても12時は回ってしまう。
 そして、効率的な作業のやり方を僕が教えるのだけれども、みんなそれができなくって困った顔をしていた。
 何でできないのか話を聞くと「そんな細かいやり方は覚えらない」とか「そこまで丁寧にやる必要があるのか」などと言われた。

 自分の中にある完璧なシステムを否定されたようで、若干落ち込んだが致し方ないであろう。
 人それぞれだ、気にしないほうが良い。

 そんな時にあの異常者のことを思い出した。
 この持ち場の仕事を教えてくれたのは、あの異常者であった。
 今思えば、確かに狂ってはいたが、あの異常者に言う通りに作業すると最短で仕事が終わる。
 あの異常者の狂った頭の中。
 常人では考えられないほどの練り込み方で、仕事の順番を作りだしたのだろう。
 細かい手順、無駄のない行動、神経質なくらい丁寧な作業、多分他に考えることもないから、この仕事だけを1日中考え続けていたのではないだろうか。
 そして、それがこの簡単な仕事をさらに効率化する結果になったのだろう。
 その点に関しては、あの異常者は全く間違っていなかったのだ。
 ただ、それは大変効率的であるのと同時に、まともなやり方ではなかったのだ。

 いつのまにか僕の体の中にはあの異常者の、普通の人間なら拒絶する狂った世界、そんな異質な場所で作られた常軌を逸した仕事のやり方がプログラミングされてしまったのだ。

 狂っていたのだ…
 良くも悪くも狂っていたのだ…

 今頃、他の会社で真面目に働いているのだろうか。
 それとも家にでも引きこもっているのだろうか。
 まあこっちに関わってこなければ、何をしていても構わない。

 異常者は去り、効率的な作業システムだけが残った。そして、有能過ぎるそのシステムは、僕がいなくなるのと同時に消えていくのだろう。

 作業が終わり、工場を出ると青い空が広がっていた。
 この眩しい空の下、またどこかであの異常者は発狂しているに違いない。

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