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紫鱗に透ける

作者:朝陽 遥

    1

 カッターの刃を、少しだけ出す。指で押さえながら、ゆっくり、音をたてないように。
 窓の外からは、うねるような蝉しぐれ。教壇からは、たいくつな数式のたいくつな解説。昨日もやったような問題を、どうして今日もまた大真面目に説明しているのか、意味がわからない。教師って人種はそろって、中学生なんてみんな馬鹿だと思ってる。
 腕にうっすらと浮いた汗をぬぐって、カッターの刃先を、軽くあてる。ゆっくりと、浅く、切れ目を入れる。皮一枚だけ。
 皮膚の下、鈍く光る鱗と鱗の境目に、刃を滑り込ませる。
 鱗のある部分は、ほかよりちょっとだけ、皮膚が薄い。ひっかけた刃先を、軽く持ち上げる。かさぶたをはがすのよりも、もっと軽い手ごたえ。ぴり、とちいさく痺れるような痛み。
 はがれた鱗が、かすかな音を立てて、ノートの上に落ちる。ちょうど爪くらいの大きさで、爪よりはずっと薄い。その下に透けて見える、書きかけて途中で飽きた数式。
 どうしてノートって、いつまでも紙のままなのかなと、いつも思う。先生たちは、あたしたちのカバンが軽くなるのが、ただ気に入らないだけなんじゃないのかな。紙に手で書いたほうが、キーボードで打ったり、タッチペンで書いたりするより、もっと記憶に残りやすいんだなんていうけど、そんな話には、ぜんぜん説得力を感じない。
 ――じゃあ、最後に校庭五周。
 外から聞こえてくる、体育教師のむやみに大きい声。ばらばらとあがるブーイング。音楽室からかすかに届く、気の抜けたような笛の音。ちらりと黒板を見る。さっきの問題から、まだ進んでいない。
 腕に視線を落とす。はがした鱗の下の皮膚は、少しだけ赤くなっている。
 腕からはがれた鱗は、透明なようでいて、ほんの少し、淡く紫がかった色をしている。いつからこんなだっただろう。昔はもっと、色が薄かったような気がするのに。
「じゃ、それ宿題な。ちゃんと解いてこいよ。明日、あてるからな」
 その言葉に顔を上げて、時計を見ると、終業二分前だった。やっと解放される。十分間だけの自由。ディスプレイに表示していた教科書を閉じて、端末をスリープさせる。このテキスト、ちゃんと授業で使ってるページを開いているかどうか、オンラインで監視されてるっていううわさがあったけど、ほんとなんだろうか。ほんとだったら、教師っていうのは、よっぽどヒマなんだろうと思う。
 ひとつ前の席で、プリントをまわすために振り向いた久慈直弥が、眉を動かして、何かいいたそうな顔をした。その目線の先に、ノートの上の鱗。
 無言で、その手からプリントをひったくる。久慈から視線を外したくて、いそいで後ろを向くと、ひとつ後ろの席の男子は、豪快に熟睡中だった。わかるやつも、わからないやつも、みんな退屈してるんだったら、何のための時間なんだろう。拘束されることに慣れるための訓練?
 馬鹿みたいだ。口の中で呟く。寝てるそいつの頭の上に、プリントをのせる。まわりで上がる、抑えたくすくす笑い。
 チャイムが鳴る。起立、礼。号令の余韻が消えるよりも早く、皆、ばらばら席を離れ出す。
「亜希子、ごめん、英語の宿題うつさせて!」
 先生が教室を出て行くなり、紗枝が駆け寄ってきて、両手を合わせて拝んだ。笑ってノートを渡して、無意識に、はがした鱗のあとをさする。かすかにひりつく皮膚。そこだけ変になめらかな感触。
「あーもう、二年生になってから、宿題、多すぎ。先生たち、ぜったい手抜きしてるよね? 授業だけでわからせる努力をしろっての」
 あわてて書き写しながらの愚痴に、まあね、と適当にうなずいて、紗枝のつむじを観察する。右巻きの、やわらかいくせっ毛。天然パーマを、本人は気にしているけれど、それは紗枝の童顔によく似合っていて、可愛いと思う。いうと怒るから、黙ってるけど。
「あー、なんでこんなに、あわてて詰め込まなきゃいけないんだろ。どうせ高校受験なんてするやつ、ほとんどいないのにね」
「あれ、でも、高等部にあがるときに、いちおう試験があるんじゃなかったっけ」
「形だけだよ。落ちるやつ、いないらしいもん。ねえ、亜希子、来週の日曜日ひま? 買い物いこうよ。ぱっと気晴らしにさあ。試験も終わるし」
 そうだね。頷いたのと同時に、ひそひそ話が耳に飛び込んできた。
 ――きいた? 一年生のさ、江嶋だっけ。プール、ぜんぶ見学するんだって。
 ――えー。そんなのアリなん? アレのときとか、風邪ひいてるときならわかるけどさ。
 ――ほら、見られたくないんじゃないの? だってあいつ、普段も長袖じゃん。
 くすくす笑い。聞こえないようで聞こえる、絶妙な声の大きさ。あたしの腕に、ちらりと向けられて、すぐにそらされる視線。紗枝が立ち上がって、噂話をしていた渡辺たちのグループをにらみつけた。
「紗枝」
 腕を引いて、座らせる。
「だって」
「いいから。好きにいわせときなよ」
 いうと、紗枝は渋々、英語のノートに視線を落とした。手を動かしながら、唇をかみしめている。
 やだ、こわーい。ひやかすような笑い声があがる。ちょっと、やめなよ。そう止める声も、笑っている。
 いいたいやつには、好きにいわせておけばいい。ねえ、なんであんたは隠さないの、みっともないとは思わないのって、あの子たちは、そういうことをいいたいんだろう。
 一年の江嶋が、夏服だって特注で長袖にして、腕を覆う鱗を、いつでもぴったり隠しているみたいに。世間の多くのレピシスが、その肌を隠しながら、街を歩いているみたいに。あんたはどうして、ほかの連中みたいに、こそこそ小さくなって生きないのかって、つまりはそういうことだ。
 だからどうした、と思う。
 隠したって、なくなるわけじゃない。好きで鱗なんてもって生まれてきたわけじゃない。それでも笑いたいなら、笑えばいい。同情するなら勝手にすればいい。もう慣れた。遠まわしにちくちく嫌味をいってるだけの連中なんて、気にする価値もない。うわべだけの言葉には、こっちだってうわべで答える。偏見を持たないでほしいなんて、そんなことは、はじめから期待しない。
 紗枝はまだうつむいている。
「ありがとね」
 小声でいうと、その薄い肩が、ぴくりと揺れた。


 レピシス、という。
 それは、ほんの何年か前に使われはじめた呼び方で、近頃では、どうやら定着しつつある。それまでは、いろんな学名だの俗称だのが持ち上がっては、差別用語なのではないかと取り沙汰されるたびに、あるいは世間がその響きに飽きるたびに、忘れられていった。
 この鱗ははじめ、ある種の病気だと考えられていた、らしい。だけどいまでは、人類の突然変異だといわれている。皮膚の下を覆う鱗は、ただそこに生えているというだけで、体には何の害もない。手足の外側と、肩と、それから背中。長袖の服を着込んで、スカートの裾とソックスの長さにちょっと気をつけさえすれば、外からはぜんぜんわからない。
 このあいだなにかの番組でいっていたけれど、この世界に最初に生まれてきたレピシスの子は、中東の、イスラムの戒律の厳しい地域の、女の子だったそうだ。
 その子の両親は、その子の肌を覆う鱗の存在を、ひた隠しに隠したまま育てた。けして誰にも相談しなかった。そのおかげで、世界がその存在に気づくのが、ほんの何年か、遅れたわけだ。
 あたしの生まれた年には、新生児のおよそ千人に一人に、鱗が生えていたそうだ。
 それが、去年生まれた子たちのあいだでは、七人にひとり。レピシスは、急激に増えつつある。その原因は、不明。このままいけば何十年か先には、鱗のない子のほうが珍しくなるのではないかと、そういわれている。
 いまだけの我慢だよ、と、母さんはいう。それはたぶん、本当に、そうなんだろうと思う。いまだけだ。珍しがられるのも、眉をひそめられるのも、あと何年か、長くてもきっと、十何年かのこと。
 十年先の自分なんて、ぜんぜんイメージできないけど。


 帰りのバスが混むのがいやで、コンビニで時間を潰していた。
 ころあいを見はからって校門の前に戻ると、バス停はがらんとしていて、だけど、完全な無人でもなかった。久慈がひとり、立っている。
 ほかに誰もいないのに、なんで座らないんだろう。薄っぺらいカバンだけ、ベンチに置いて、道路の向かい側をにらみつけている。このごろ久慈は、いつも難しい顔をしている気がする。そんなふうに思ったところで、目があった。
「霧生」
 向こうから話しかけてきたのは、久しぶりのことだった。小さいころには、家が近いこともあって、よく一緒に遊んでいたけれど、この頃ではほとんどしゃべる機会もない。
 声をかけてきたはいいけれど、そのあとに続ける言葉がなかったのか、久慈はそのまま黙りこんでしまった。
「なに、陸上部サボリ? めずらしいね」
 間がもたなくて、そう訊くと、変な顔をされた。
「試験休みだよ。どこの部も一緒だろ」
 いわれてみれば、いつもはよく響いている野球部のノックや掛け声が、今日は聞こえてこない。蝉がうるさいのに気をとられていて、気づかなかった。
 そういえば、もうすぐ試験なんだっけ。口に出してはいわなかったけれど、考えたことが顔に出たのか、久慈はちょっと眉を上げた。
「お前、試験勉強とか、したことないだろ」
「ないよ」
 正直に答えると、久慈は呆れたような顔をした。はいはい、どうせあたしはいやなやつですよ。そんな顔しなくても、わかってるって。
「あ。そういえば一昨日、隆太、ウチにきてたよ」
 話を逸らすつもりで、久慈の弟の話をふった。隆太はウチの弟と同い年だ。二人とも、ここの初等部に通っている。家が近いこともあってか、昔からよく遊びに来ては、二人でゲームかなんかやっている。
「あいつら、仲いいな」
 そうだねと頷いたら、もう話題が尽きた。
 久慈の弟はレピシスだ。ちょっと人見知りするけれど、打ち解けるとよくしゃべる子で、あたしにもしょっちゅう話しかけてくる。
 隆太がウチによく遊びに来るのは、もしかしたら、ただウチの弟と仲がいいからだけじゃなくて、ふつうの子の家よりも、気安いのかもしれない。三つ下の隆太の学年でも、まだまだレピシスは珍しい。
 世間には、レピシスの子どもをもつ親どうしが集まって、悩みを打ち明けたり、相談したりするような団体がある。うちの母親も、そこに参加している。必然的に、子どもたちのあいだにも、面識ができる。でも、レピシス同士でつるんでいる連中は、何を話していても傷の舐めあいみたいな感じになって、それが悪いとはいわないけれど、あたしはなじめない。
 だけど、隆太は可愛い。無愛想な兄貴とちがってよく笑うし、悪戯小僧だけど、することにいやみがない。
「霧生。お前さ」
 久慈が、何かいいかけた。だけど、続きの言葉をまっているあいだに、バスが来た。
 通学ラッシュをすぎたせいか、バスはがらがらだった。冷房が効いていて、肌寒い。席がいくつもあいているのに、わざわざ隣に座るのも気まずくて、離れて座った。
 気の抜けるような音を立てて、乗車口が閉まる。発車、とやる気のない車掌の声が、車内マイクを通してひび割れた。
 乱暴な運転に揺さぶられながら、前のほうの座席、背もたれから飛び出している刈り上げ頭を眺めていた。
 久慈はさっき、何をいいかけたんだろう。
 いつごろからだったか、久慈は、口数が減った。昔はそんなことはなかったと思う。むしろ、よく笑ってよくしゃべる、賑やかなやつだった。


 あれは初等部の、五年生のときだった。よく覚えている。掃除の時間。寒い季節のことで、掃除当番は誰も雑巾がけをいやがった。私立のクセに、うちの学校は暖房設備が貧弱で、教室に置かれたストーブ一個では、ろくに温まらなかった。
 ――拭き掃除は、霧生がやれよ。
 突然、同じ班の工藤にそういわれて、あたしは振り返った。
 ――はあ? なんで。交代でするって決めたじゃん。
 ――お前の鱗が、ホウキじゃうまくとれなくて、面倒なんだよ。自分で掃除しろよ。
 絶句した。顔がみるみる赤くなるのが、自分でわかった。鱗は、そう頻繁に抜け落ちるようなものではないのだけれど、何かの拍子にはがれて、またあたらしく生えてくる。知らないうちに床に落ちていることは、実際、ときどきあることだった。
 ――なんでそんなこというの。
 そのときも同じクラスだった紗枝が、声を振り絞るようにして、そいつに抗議した。驚いて振り返ると、紗枝は悔し涙をにじませて、ぶるぶる震えていた。昔からずっとそうだった。いつだってあたしがいやな目にあうと、あたし自身よりも、紗枝のほうが傷つく。傷ついて、かわりに怒る……。
 けれどそれで、工藤は、ますます調子づいたみたいだった。
 ――なんだよ、ホントのことだろ。ホントのこといって、何が悪いんだよ。
 そのときだった。久慈が、そいつをぶん殴ったのは。
 みんな驚いて、ぽかんとしていた。久慈がもう一度そいつを殴ろうとしたので、何人かの男子が、あわてて止めに入った。
 久慈は工藤とは、仲がいいはずだった。よくつるんでいて、気があっているみたいにみえた。それなのに、そんなのはぜんぶ嘘だったみたいに、久慈は顔を真っ赤にして、本気で怒っていた。
 それからしばらくのあいだ、久慈は工藤と険悪になって、口もきかなかった。
 あのとき、自分の弟のことがあったから、久慈は怒ったんだと思う。それでもあたしは、嬉しかった。
 だけどそのことで、いっとき、久慈はクラスの皆からさんざんからかわれた。お前、霧生のこと好きなんじゃないのとか、そういう、いかにも小学生らしい冷やかしだ。それでちょっと気まずくなって、あたしたちはしばらく、口をきかなかった。だけど、あの一件で、久慈が工藤と気まずくなってしまったことや、からかわれていやな思いをしたことに、あたしはずっと気が咎めていた。
 だいぶ経ったころに、ようやく謝るチャンスがあった。あのときはごめんって、あたしがそういうと、久慈は不機嫌そうな顔になって、何も返事をしなかった。


    2

 バスを降りると、むっと熱気が押し寄せてきた。どうしてなんだろう、トラックを走っているときにはちっとも気にならないのに、普通に歩いているときには、日射しがうっとうしく感じる。
 ほとんど空っぽの学生鞄を肩にかけて、家のほうに歩き出しかけてから、迷った。足を止めて、振り返る。霧生亜希子の、いつも姿勢のいい背中が、あっという間に遠ざかっていく。追いかけるのをあきらめて、踵を返した。
 霧生にああいいはしたものの、そういう俺だって、試験勉強なんて、まともにする気にはなれなかった。勉強が嫌いというよりも、試験のためだけに焦って詰め込むのが、性に合わない。
 もっとも、ろくな対策もしないで受けた試験の結果は、霧生とは比べ物にならないけど。なんであいつは、いつも授業なんて聴いてもいないような顔をしてるくせに、いざあてられたとなったら、すんなり問題を解けるんだろう。頭の出来がちがうっていうことなんだろうけど、ときどき、割に合わないような気がする。
 バスに乗る前、霧生を呼び止めたとき、自分が何をいおうと思ったのか、自分でもよくわからなかった。何か、霧生と話さないといけないことが、あるような気がする。顔を見るたびに、そう思うのに、実際には、いつも言葉が出てこない。俺はもしかして、自分で思っているよりも、頭が悪いのかもしれない。
 それでも昔は、もっと何でも気軽に口に出せたような気がする。いつから俺は、ここまでしゃべるのが下手になったんだろう。


 中一の秋、森崎大地が学校に出てこなくなった。
 ――久慈、わるい。これ、森崎に届けてくれるか。
 俺の家が一番、大地のところと近いというので、そのころよく、先生からプリントをあずかった。
 ただ家が近いだけじゃなくて、大地とは、仲がいいほうだと思う。ほんのチビの頃から、よく一緒に遊んでいた。
 たしかにあいつには、もとからちょっと引っ込み思案なところはあった。だけど、この頃、表情が暗くなってきたと思ったら、ある日、急に出てこなくなった。何をそんなに悩んでいたのか、訊いてもいわない。何日かおきに迎えにいっても、いちおう顔はみせるけど、玄関から一歩も出ようとしない。
 あのときも、そうだった。いいたいことはいくらでもあるような気がするのに、大地を説得するための言葉は、ろくに口から出てこなかった。何でだよとか、出てこいよとか、そんなつまらないことしかいえない自分が、情けなかった。
 帰りにプリントをもっていくのは、そのときが初めてじゃなかったけど、その日、ちょうど中間試験の前で、部活もなかったので、時間がいつもよりだいぶ早くなった。
 バスを降りてから自分の家までには、道を少し引き返す。その日は大地の家に寄るために、いつもと反対方向に向かった。そうしたら、同じバスから降りた霧生が、へんな顔をして振り返った。
 ――久慈。なに、どうしたの。
 手にしたプリントを振ってみせると、霧生はそれだけで、事情がわかったらしかった。ああ、という顔をして、それからちょっと、足を止めた。
 ――あたしも行く。
 その言葉は、そんなに意外でもなかった。学年が上がっていくにつれて、なんとなく、男子は男子同士、女子は女子だけでつるむようになったけど、昔はよく一緒になって転げまわっていた。霧生と大地と、俺と、ほかにも何人か。大地の家に遊びにいったことも、ウチに遊びに来たことも、ガキの頃にはよくあった。
 インターフォンを鳴らすと、すぐに大地のおばさんが出てきて、二人そろって玄関に通された。
 ――あら、亜希ちゃん、久しぶり。ずいぶんきれいなお姉さんになったねえ。
 おばさんが、声をひっくりかえしてそういうと、霧生はもぞりと肩を動かして、居心地の悪いような顔をした。
 ――大地。直くんと亜希ちゃんが、来てくれたよ。
 おばさんが階段をあがっていって、しばらくのあいだ、ごちゃごちゃといい争うような声が聞こえていた。来なれた家のはずなのに、なんとなく落ち着かなくて、俺は身じろぎばかりしていたけど、隣で無言のまま待っている霧生は、平然としているように見えた。
 ――なんだよ、霧生まで。
 意表をつかれたんだろう。出てきた大地は不機嫌そうな声でいったけれど、顔のほうは、怒っているというよりも、どっちかっていうと戸惑っているように見えた。
 ――出てきなよ、森崎。
 いつもどおりの、素っ気ない口調で、霧生はいった。
 ――お前に関係ねえだろ。
 大地が目を逸らしながらそういっても、霧生はひるまなかった。
 ――関係ないけど。でも、出てきなよ。ガッコ来ても、面白いことないかもしんないけど。
 大地は黙り込んだ。渡すタイミングを見失ったプリントを、手持ち無沙汰に丸めながら、俺はその表情を、じっと見ていた。
 ――やなことあるからって、いつまでも逃げてても、キリないじゃん。一生、家に閉じこもってるわけにもいかないんだし。
 つっけんどんないい方をしているようでいて、霧生の顔つきは、ものすごく真剣だった。もしかしたら霧生は、同じことを、自分自身にもいい聞かせていたのかもしれない。
 ――お前みたいなやつには、わかんねえよ。
 大地は、目を逸らしたまま、そういった。
 ――あたしみたいなやつって、何。
 霧生は怒ったようだった。ひどく尖った声でそういうと、唇を引き結んで、大地をにらんだ。大地は、少し気弱げな、昔と同じ表情になって、肩を縮めた。その目が、霧生の半袖からのぞく鱗のあたりを、落ち着かないふうに見ていることに、俺は気づいた。
 ――霧生みたいな、強いやつには、わかんねえよ。
 ――ばっかじゃない。
 即座に、ほとんど怒鳴るようにして、霧生はいった。
 ――どこに目、つけてんの。あたしは……
 いいかけて、霧生は口をつぐんだ。それから、短くため息をついて、
 ――もういい。好きにすれば。
 そういい捨てると、さっさと帰っていった。残された大地と俺は、居心地の悪さをもてあまして、しばらく顔を見合わせていた。
 ――怖えな、あいつ。
 しばらくして、大地がぽつりと呟いた。それから無言でさし出してきたその手に、ようやくプリントを渡して、俺は頷いた。
 ――たしかにな。
 ふっと、大地が笑った。つられて、俺も少し、笑ったかもしれない。
 夕飯を食べていけというおばさんの誘いを、苦労して断って、帰り際、もう一度振り返ると、大地は玄関の奥で、所在なさげに肩をゆすっていた。
 ――出てこいよ、大地。お前がいないと、つまんねえよ。
 大地は返事をしなかった。
 それからも、まだしばらく時間がかかったけれど、冬になる前には、大地は学校に来るようになった。それでもときどき、急に休むことはあったし、最初のころは、ひとりでじっと机に座ったまま、誰が話しかけても口数少なく、ぼそぼそと答えていた。だけどいつの間にか、だんだん笑うようになって、気がつけば昔みたいに、普通に話すようになっていた。


    3

 小テストの解答欄を埋めてしまうと、もうすることがなくなった。だけど五分のテストじゃ、寝る暇もない。なんとなく、ペンケースからカッターを出した。
 刃を、昨日はがした鱗の、すぐ近くに沿わせる。鱗の上の皮膚に切れ目を入れてから、刃先を差し込んだ。あっけなくはがれる鱗。その下にのぞくピンクの皮膚。前にはがしたところは、まだそのままになっているけれど、しばらくしたら、元通りに生えてくる。
 なんのために、こんなものがあるんだろう。
 レピシスの存在が知られるようになってから、これまでテレビでは、いろんな説が流れた。新聞でも、たぶん、科学雑誌とかでも。論文もたくさん書かれたらしい。たとえば、環境破壊が続いたせいで、紫外線に耐性のある形に進化したのではないかとか。温暖化の影響で、いずれ世界中の土地が水没したときに、水辺で暮らすのに適応しようとしているのだとかいう、とても正気でいっているとは思えないような説もあった。あたしたちに鱗はあっても鰓はない。
 色んな説が、流れては消えて、また忘れたころに議論される。どの説がほんとうなのか、いっている当人たちにもわかっていないのに、あたしたちにわかるはずがない。
 一枚、二枚。はがした鱗を、消しゴムのカスといっしょに、机の端によせたところで、急に手首を掴まれた。
 びっくりして顔を上げると、担任の志木が横に立っていた。難しい顔をして、眉をひそめている。あたしがカッターを振り回して暴れるとでも思ったのだろうか。
 叱責を覚悟したけれど、志木は何もいわなかった。すぐに手を放して、前に戻っていく。
「五分たったな。さあ、採点するぞ」
 握られていた手首にのこる感触が、なんとなく気持ち悪くて、思わず手でこすった。


「霧生。ちょっと来い」
 放課後、HRも終わって帰ろうかというときに、志木から呼び止められた。
 まだ教室にいた何人かが、好奇心に満ちた目を向けてきている。それをつとめて無視しながら、志木のあとについていった。
 何の呼び出しだろう。委員会のこととか、そういう話なら、最初に用件をいうだろうと思えて、落ち着かなかった。カッターの件だろうか。だけど、刃を人に向けて振り回したとでもいうんならともかく、授業中にカッターの刃をだしてはいけないなんて、そんな馬鹿げた話はない。
 志木は無言のまま、どんどん廊下を進んでいく。歩きながら、その後ろ頭を見あげて、そこにちらほら白髪が混じっているのに気がついた。たしか三十代半ばのはずだけれど、年よりも少し、老けてみえる。後ろを歩いているだけで、ちょっと煙草くさい。
 職員室に行くのかと思ったら、志木は、その前を通り過ぎて、さらに奥に向かった。いやな予感がして、緊張感が背中を走る。
「ここでいいかな」
 生徒指導室。そのプレートをにらみつけて、あたしがじっと立ち尽くしていると、志木は、わざと作っているとしか思えない明るい声で、そういった。落ち着いて話すのにはちょうどいいからで、深い意味はないんだと、そういいたげなそぶりをしていたけれど、たぶん、最初から、志木はそのつもりだったと思う。
 こんなところに呼び出されるいわれはない。そう思ったけれど、言葉は口から出てこなかった。後に続いて中に入ると、志木はドアを開けたままにして、ソファに座った。これは正式な指導じゃないんだというポーズだろうか。
「あたしは何か、問題でも起こしましたか」
 思わず硬い声がでる。志木は苦笑して、ひげの剃り跡のめだつ顎を、片手でさすった。
「ちがうよ。そういうんじゃない。ちょっとお前と、話をしてみたかったんだ」
 その言葉を信じるつもりにはなれなかった。どんな説教をするつもりだと、身構えるようににらみ返していたら、志木は顎をなでる手を止めて、ふっと、真面目な顔になった。
「なあ、霧生。授業、退屈だろう」
 その問いかけに、あたしは答えなかった。何をわかりきったことを、というくらいのつもりだった。
「俺の英語だけじゃないよな。ほかの先生の科目もだ。お前には、ものたりないんじゃないのか」
 首を横に振る。授業はたしかに退屈で、まともに聴いていられない。けれどべつに、だからといって、もっと高度な授業をしてほしいと感じているわけではない。どうでもいいと思っているだけだ。
「いや、このあいだ、進路希望を出しただろ」
 黙って頷いた。たしかに少し前に、調査票を書かされたことがあった。でもまだ二年生だし、そもそもたいていの生徒は、そのまま高等部に進むから、そんなに悩む必要もない。志木はちょっと間をおくと、指を組んで、身を乗り出すようにした。
「お前、ウチの高等部にいくのは、ちょっともったいないんじゃないかって、思うんだよな。お前ならもっといい学校、狙っていけるだろ」
 そこまでいって、志木はふっと苦笑した。
「まあ、こんなこと俺がいったら、高等部の先生に怒られちまうかな」
 それは冗談のつもりだったらしく、志木はひとりで笑って、ひとりでうなずいた。だけどあたしは、少しも面白くなんてなかった。
 お前は頭がいいからと、そういわれるたびに、いわれた当人がどんな気持ちになるか、この男は、考えたことはあるだろうか。子どもだから、ただおだてられて、素直に喜ぶとでも思っているのだろうか。
 怒りを堪えて、ひとつ息を吸い込んでから、声を振り絞るようにしていった。
「うちの両親は、ちゃんと入学金と授業料を、払っているはずです。それともあたしは、何か追い出されなきゃならないような不祥事でも起こしましたか。そうでないなら、あたしには、ここに通う権利があるはずです」
「ちょっと、落ち着けって」
 志木は手のひらを見せて、なだめるようにそういった。
「お前が、ウチの高等部に進みたいっていうんなら、もちろん、それでいいんだ。ただ、お前には、ここは窮屈なんじゃないかと思ったんだよ」
 志木はゆっくりと、子どもにいいきかせるように話す。それが気に入らなかった。いっている中身も。遠まわしなだけで、要はあたしに出ていけといっているんじゃないか。
「話は、それだけですか」
「霧生」
「失礼します」
 あたしはほとんどソファを蹴るようにして立ち上がって、振り返らずに部屋を出た。
 廊下には、人影はなかった。誰も来ないうちにと思って、足早に階段に向かう。生徒指導室から出てきたところなんて、誰かに見られたら、なんて噂されるかわからない。
 腹が立っていた。志木の無神経さにも。それから、いいたいことがあるならはっきりいえばいいのに、遠まわりにいさめるような、もってまわったいい方にも。授業をまじめに聞いていないことを、あるいはクラスの中で浮いていて、うまく溶け込めないでいることを、もし面と向かって叱られたなら、あたしにだっていい分はある。
 通りかかった国語の先生が、驚いたようすで足を止めて、何か声をかけてこようとしたけれど、話しかけられたくなかったので、足を速めてすれちがった。立ち止まったまま、背中を見送られているような気配がした。あたしはどんな顔をしていただろう。足早に歩きながら、自分の顔をこする。
 階段をおりる足音が、荒れている。いちいち振り回されて感情的になる自分がいやだった。いつでももっと、堂々としていたいのに。


 そのまま下校するつもりが、図書館の建物が目に入って、足を止めた。
 高等部と共有になっていて、同じ敷地内に別棟として建てられている。思いたって中に入ると、司書がちらりと視線を向けてきて、すぐに逸らした。
 利用している生徒は、意外と多い。本を読みにきているというよりも、高等部の生徒が、冷房のきいた涼しい場所で勉強をしているらしかった。
 奥の棚の、医学の本と人文科学の本のあいだ、どっちつかずのところに、レピシス関連書籍がまとめておいてある。その前に立って、目で背表紙を追うと、前に読んだことのあった本も、そこには混じっていた。母が家においている本も。この鱗に関する研究は、まだ盛んに続けられている途中で、学説も論文も、あたらしくどんどん発表されている、らしい。何せ、世界ではじめてのレピシスが生まれてから、まだ二十年にもならないのだ。あたしだって、前には、研究に協力してもらえないだろうかと、近くの大学病院から話があったくらいだ。母が断って、それきりになっているけれど。
 その中で、最近入荷したらしい、あたらしい一冊を手にとる。近くにほかの生徒がいないことを確認してから、ページをめくった。飛ばし読みでいい。べつに専門家になろうってわけじゃない。
 目新しい知識は、ほんの少しだった。前にもどこかで聞いた内容がほとんどだ。
 レピシスは総じて免疫力が高く、比較的、病気にかかりづらいこと。免疫に関係する遺伝子と、鱗の有無を決定する遺伝子が、位置的に近く、どうやらそのことが関係あるのではないかということ。
 初めにひとりのレピシスが生まれたあとに、その子孫が増えていったのではなく、世界各国でほぼ時を同じくして出現し、ほんの数年間に急激に数を増していった。そういうこれまでの経過を見る限り、それは急な変異というよりも、人類の遺伝子に、はるか昔から書き込まれていたのだという説が、有力になってきていること。それがなぜ急に発現したのか、まだたしかなことは誰にもいえないと、その本を書いた人間は、あいまいに逃げていた。
 鱗のある部分は紫外線に強いこと。全体の傾向として、レピシスの子たちは知能指数が高い場合が多く、また、身体的な成長速度が、平均すると、そのほかの子達よりもわずかに遅いらしいこと。もしかすると、それは、長寿を意味しているのかもしれないこと……。
 レピシスの発生を、人類の進化だという人たちがいる。そしてそれはたぶん、間違いではない。
 ――いつか俺たちの方が、スタンダードになる。
 ネットの掲示板で見かけた、誰か知らない人間の書き込みが、ふっと記憶の中から立ち上る。ふとした瞬間に、何度となく思い出す。不快なのに、ぬぐいされない言葉。
 ――そのうちレピシスじゃないヤツの方が珍しくなって、肩身の狭い思いをするんだ。自分の肌に鱗がないことを、みっともないと思うようになる。それまでせいぜい、でかい面してればいい。
 そのあとの応酬は、荒れた。賛否両論、レピシスとそうじゃない人間と。遺伝学や倫理観みたいな理屈から、感情論から、激しい口調での書き込みが続いて。全部読む前にいやになって、画面を閉じてしまった。
 いつかあたしたちのほうがスタンダードになる。そのとおりだと、同調したい自分がいる。けれど、その言葉には共感できるようで、できなかった。
 たぶんそれは、書き込んだ人間が、いま自分の鱗のある肌を、みっともないと思っているからだ。普段は肌を隠して暮らしていて、いまはネットの向こうに顔を隠して発言しているからだ。それがあたしは、いやだったんだと思う。
 その言葉を書き込んだ人間が、それまでにどういう思いをしてきたのか、あたしは知らない。誰かに手ひどく苛められたのかもしれないし、まわりに傷つけられてきたかもしれない。わからないから、同調できなかった。
 図書館に独特の、どこかほこりっぽいような、古い紙のにおいの混じる空気を大きく吸い込んで、ため息にかえた。それから飛ばし読みを続けたけれど、興味を引く事実は書かれていなかった。
 あまり収穫のなかった本のページをめくり終えたところで、表紙の裏にくっついた、貸し出しカードの存在に気がつく。何気なく手にとって、顔をしかめた。一番上に、志木の名前が印字されていた。
 先生が、図書館の本を借りたって、何もおかしいことなんてない。だけど、不愉快だった。こんなものを読んで、志木はいったい、何の参考にするつもりだったんだろう。
 教師としての責任感だかなんだかしらないけれど……
 本を床に叩きつけたいという衝動をおさえて、歯を食いしばる。にじみそうになった悔し涙を、とっさに堪えた。泣くもんか、と思う。レピシスだとかそうじゃないとか、頭がいいとか悪いとか。人をそんなふうに、勝手なカテゴリーに分類して、指図することしかしらないような、つまらない大人のために、泣いてなんかやるもんか。


    4

 晩御飯の最中だった。
 父さんはまだまだ残業中で、母さんと弟の悠晴と、三人で先にテーブルを囲んでいた。いつもどおりの風景。特別なことがあるとすれば、食卓にコロッケが上ったことくらいだろうか。揚げたてでさくさくの、母さんの牛肉コロッケは、悠晴の大好物だ。悠晴は、普段は食べながらあれこれとしゃべるのに忙しいのに、コロッケの日だけは無言になって、がつがつ食べる。
 だけどその食事の最中、母さんが急に声を上げた。
「やだ、信じられない」
 母さんの目は、テレビの画面を見ていた。その声ににじむ非難の響きに、悠晴とそろって顔を上げる。
 テレビの画面は、街を歩く女の子たちの腕を、大きくうつしている。その肌には、細かい模様のタトゥーが入っていた。
 ――このように、一部の若者たちのあいだでいま、鱗をモチーフにしたタトゥーを入れるのが流行っているんですね。
 リポーターの、どこか含みのある解説。マイクが女子高生に向けられる。
 カッコいいから。友達がしてたのを見て、羨ましくなって。あたしのはシールなんです。そういうことを口々にしゃべっている、女の子たちのアップに向かって、母さんはいった。
「無神経だと、思わないのかしら」
 やるせないような声だった。
 あたしはあいづちを打たなかった。箸もとめなかった。椅子を蹴ったのは、悠晴だ。
「無神経なのは、どっちだよ」
 好物のコロッケも食べかけのまま、悠晴は背中を向けた。小学五年生にしてはせいいっぱい荒い足音を立てて、リビングのドアから出て行く。
「ちょっと。悠晴!」
 驚いた母さんが、大声で呼びとめたけれど、悠晴の足音は乱暴に階段を上っていく。ドアを閉める音。
 母さんはしばらく、二階を見上げて立ち尽くしていたけれど、やがて、ダイニングに戻ってきた。
 あの子、なんで怒ったのかしらとは、母さんはいわなかった。大きくため息をついて、椅子にかけなおす。食欲がなくなったのか、箸をおいて、片手で顔を覆ってしまった。
「……亜希ちゃん。ごめんね」
 あたしはコロッケを食べながら、首を振る。母さんがあんなふうにいう気持ちは、わからないでもなかった。
 母さんはあたしを産んでから、色んなことに耐えてきた。特に、あたしが小さいころは、まだレピシスはすごく珍しくて、そのころはレピシスなんて呼ばれ方もしてなくて、めったにない遺伝性の病気だと思われていた。
 近所の噂話。人の目。口に出してはいわないけれど、母さんはたぶん、父さんのほうの親戚とも気まずくなった。迷信ぶかいド田舎にいまも引っ込んでいる、父方の祖母の口から飛び出した、蛇憑き、という言葉を、あたしはたぶん一生、忘れないと思う。
 まだあたしが小さかった頃、母さんはわけもわかっていないあたしの手を引いて、何年ものあいだ、何か所も何か所も病院を回った。鱗が成長とともにどうなるのかわからず、体になにか悪い影響があるのかもわからず、いまのところ治す方法がわからないという医者に、食い下がって。
 そういうものをファッションだっていって真似する子たちに、母さんが腹を立てるのも、無理はないと思う。
「ごちそうさま。コロッケおいしかった」
 うん、とうなずいて、母さんはちょっと笑った。無理して笑ってるってわかるような笑い方だったけれど、あたしはなんでもないような顔をして、食器を流しに運んだ。
 ごめんねと、母さんはときどきそういう。それはちがう、とあたしは思う。謝らないでほしい。謝られると、なんていうか、すごく……。
 階段を上りながら、唇をかみしめていた。
 悠晴の部屋のドアをノックしても、返事はなかった。勝手にあける。
「悠晴」
 名前を読んでも、悠晴は返事をしない。背中を向けて、むすっとしていた。
「ありがとね」
 いうと、その小さな背中がぴくりとした。
「べつに。姉ちゃんのために、怒ったんじゃないし」
「わかってる」
 悠晴は、友達のために怒ったんだろう。久慈隆太がレピシスであることで、まわりに偏見の目を向けられるところを、あるいは同級生のあいだでからかいの種にされるところを、これまで悠晴は、目の当たりにしてきただろうから。
 テレビに出ていた高校生。あたしが観た瞬間にうつっていた一人は、カメラに向かって笑っていたけれど、その目だけが、怒っていた。人とちがうなんてかっこいいじゃん、何がおかしいの、笑いたいなら笑えばいいって、あの目はいっていた。もしかしたら、偏見の目を向けてくる世間への、あれは、抗議のパフォーマンスなのかもしれなかった。
 そんなの、ただの思い込みかもしれない。あたしが自分に都合のいいように見ているだけかも。母さんがそう思ったように、あの人たちはただ軽い気持ちで、不良っぽいことをしてみたかったのかもしれないし、レピシスの子の気持ちなんて、ちっとも考えていないのかもしれない。
 だけど子どもは大人が思うほど、何も考えてないわけじゃない。
「それでも、ありがと」
 いうと、悠晴はようやくこっちを振り返った。ちょっと泣いていたらしい。目が赤かった。


 休み時間、隣のクラスの工藤が、教室で騒いでいた。忘れたジャージの貸し借りをしながら、ふざけあっている。それがエスカレートして、机をたおしたりしていた。
「工藤、うるさい」
 紗枝が冷たい目を向けると、工藤はぜんぜん堪えていないふうに、げらげら笑った。
「怖えな、三ツ谷」
 茶化されても、紗枝はふいっと顔を背けて、もう工藤なんてそこにいないみたいに、一緒に見ていた雑誌の話題に戻った。話をあわせながら、ちくりと、胸が痛む。
 紗枝は昔、工藤のことが好きだった。
 小学校五年生のときまでの話だ。女子だけのナイショ話で、誰が好きなんていう話をしているとき、工藤のことが気になるといって照れた紗枝は、耳まで赤くなってて、かわいかった。
 だけど、あのとき、あの掃除の時間に、工藤があたしの鱗のことを、からかったから。
 あの日、紗枝は泣いていた。その翌日には、工藤なんて大嫌いだといった。
 あたしのことは気にしなくていいよって、そういったけど、紗枝はそんなんじゃないっていって、何度も首を振った。あんなサイテーなやつだなんて思ってなかった、あんなやつのこと、ちょっとでも好きだと思ってたなんて、バカだったって。そう早口にいって、それからはずっと、工藤の名前を聞くのもいやみたいな顔をしていた。
 だけど、本当にそうだろうか。それまで好きだったヤツのこと、たった一日ですっかり醒めて嫌いになるなんてこと、あるだろうか。
「あーあ、こういうのが似合う顔に生まれてたらなあ」
 紗枝がため息をついた。見ると、雑誌のページでモデルが着ている服はちょっと大人っぽくて、たしかに紗枝には、もっと可愛い感じの服のほうが、似合うだろうという気はした。けれど、好きなら着てみたらいいのに、とも思う。思うけど、いわない。いっても紗枝は、「だって、似合わないもん」というだけだから。そういうとき、紗枝は普段とは別人みたいにガンコになる。
「こっちみたいなのは?」
 同じページにのっているべつの服をさすと、紗枝はぶるぶる首を振った。
「だめだめ。亜希子くらい痩せてたら着るけどさ」
「なにいってんの。あんたぜんぜん太ってないし」
 丸顔だから、ぱっと見には実際よりも少しぽっちゃりして見えるけれど、紗枝はむしろ、やせているほうだ。だけど、紗枝は納得しないふうに、何か反論しようとした。
 そのときチャイムが鳴った。やっべ、とでっかい声で叫んで、工藤が走っていく。
 その背中を、複雑そうな表情で紗枝が見送るところを、見なきゃいいのに、あたしはばっちり見てしまった。


    5

 国語の先生が朗読をしているあいだ、ぼんやりと、斜め前の席の、亜希子の横顔を見ていた。
 ぱっちりした目と長い睫毛。ほっそりした顎。もし亜希子が、美人じゃなかったら、とたまに思う。そうしたら、渡辺たちも、亜希子がレピシスだからっていうだけでは、あんなに目の仇には、しなかったんじゃないだろうか。
 でも、そういうことじゃないのかもしれない。もし亜希子がもっと目立たなくて、おどおどした子だったとして、隅っこで小さくなっていたら、こんどはそれを笠にきて、いじめにかかるのかもしれない。
 実際、あたしは初等部の低学年の頃、亜希子と友達になるもっと前にも、渡辺に何度か、意地悪をされたことがある。髪を引っ張られたり、机にいやな落書きをされたり。だからたぶん、あいつらは攻撃する対象がほしいだけなんだろう。
 そうひとりで納得しながら、なんとなく、気が滅入った。こんなとき、ふっと耳の奥によみがえる声がある。
 ――あんたも大変ね。
 あたしが姉からそのひとことをいわれたのは、小五のときだった。


 家で、晩御飯を食べながら、あたしは皆に、学校であったことを話していた。
 ――それでね、そのとき、亜希ちゃんがね。
 その頃、あたしはよく亜希子のことを、家族に話して聞かせた。四年生のときのクラス替えで、はじめて一緒のクラスになって、それ以来ずっと、亜希子は自慢の友達だった。
 亜希子はすごく頭がいい。成績だけじゃなくって、いろんなことを知っていて、運動神経だってけっこういい。家庭科のときの縫い物とか、そういうときの手先はちょっと不器用だけど、ほかのたいていのことは、すっと器用にこなしてしまう。でも、そんなことより何より、亜希子は昔からとても公平で、さっぱりした性格をしていて、そして、強かった。
 相手のいうことが理不尽だって思ったら、亜希子はときどき、びっくりするくらい手厳しい。だけどその分、自分が間違ってたって思ったときには、潔く謝る。そういうはっきりした態度が、あたしは好きなんだけど、そのおかげで、人と喧嘩になってしまうこともある。
 だけど亜希子は、ちょっと誰かに意地悪されたくらいじゃ、ぜんぜんめげなかった。負けるもんかって態度で、いつもまっすぐ顔を上げていた。もうちょっと妥協して、てきとうに流したらいいのにって、思うときもあるけど、それ以上に、亜希子のそういうところに、あたしは憧れていた。すぐにおどおどして、人の目を気にしてしまう自分に、ちょっと嫌気がさしていたから。
 ――その亜希ちゃんて子、かわいいの?
 そのとき、姉はもともと何かあって、機嫌が悪かったんだと思う。そう訊いてきた声にはとげがあったけれど、あたしは深く考えずに、何度も頷いた。
 ――うん。キレーな子なんだよ。美少女、って感じ。それでね。
 ――ふうん、あんたも大変ね。
 姉は急にそんなふうにいってきて、言葉を遮られたあたしは、ぽかんとした。
 ――だって、そんな子とつるんでたら、あんた、比べられちゃうんじゃない?
 姉はそういって、意地悪く笑った。
 あたしは昔からとろくさくて、運動もだめだし、頭はすごい悪いってわけじゃないけど、成績も普通で。顔だって、不細工だとは思わないけれど、鼻が低いのと、丸顔のせいで太って見えるのが、ずっとコンプレックスだった。
 だけどそのときまでは、そんなふうに考えたことはなかった。亜希子の隣にいたら、比べられちゃうんじゃないかなんて、そんなふうには。
 母が、姉の意地の悪い口のききかたを怒った。何よ、ほんとのことじゃない。そういい返す姉と、それを叱る母とのやりとりを、聞いてはいたはずだけれど、それは、ほとんどあたしの耳には入ってこなかった。
 そのとき、あたしはちょっと前にあった出来事を、思い出していた。
 一学期、掃除の時間だった。亜希子の鱗のことで、同じ班の工藤が、ひどいいい方をした。
 亜希子はそのとき、真っ赤になって、うつむいてしまった。普段だったら、ちょっといいがかりをつけられたくらいのことじゃ、亜希子はいわれっぱなしになんてならない。堂々といい返すか、冷たく無視する。だけどその亜希子が、黙り込んでうつむいた。
 あの日、久慈が怒って工藤を殴って、それでちょっとした騒ぎになって。いっとき教室の中の空気が、ぎこちなかった。
 だけど、あたしは知ってた。ほんとは工藤は、前からずっと、亜希子のことを気にしてたんだって。
 あたしはあの頃、工藤のことが、ちょっと好きだった。だから、よく工藤のすることを見ていて、それで、すぐに気がついた。工藤はしょっちゅう、亜希子のことを盗み見ていて。
 それなのになんで、工藤があんなことをいったのか、男子の考えることは、ぜんぜんわからない。意地悪してでも気を引きたかったのかもしれない。もしそうなら、ほんとにバカだと思うけど。
 とにかく、その一件以来、あたしは工藤のことが嫌いになった。もしそれが、ふつうのちょっとした意地悪だったら、たぶん、そんなことはなかった。だけど、あたしは亜希子のあのときの顔が、忘れられない。真っ赤になってうつむいて、いまにも泣き出しそうだった、あの顔。
 小五の一学期。あのころ、工藤が亜希子のことを好きなんだろうなっていうのは、ちょっと複雑ではあったけれど、少なくとも、それをひがむ気持ちは、なかったと思う。工藤のことを気にしてはいたけれど、あたしには工藤より、亜希子のほうがずっとずっと大事だった。
 あのころ、あたしが亜希子みたいに美人だったらとか、そんなふうにひがむような気持ちは、あたしの中にはなかった。あの姉の言葉を聞いた、そのときまでは。


「じゃあ、次。ここ五行目から、誰かに読んでもらおうかな。二十二番は――三ツ谷さん?」
 急にあてられて、はっと物思いから立ち返った。とっさに立ち上がったのはいいけれど、すっかり上の空だった。何ページのことをいわれているのかわからない。
 声に詰まって視線をさまよわせると、亜希子がこっそり、ペンの背中で自分の端末をさししめした。そのディスプレイの、拡大表示されたページ番号が、かろうじて見える。あわてて自分の端末をつついた。
 周りで小さな笑い声が起こる。あたしが教科書を開いていなかったことは、すぐにわかったんだろうけど、先生はちょっと眉を上げただけで、怒りはしなかった。
 つっかえつっかえ、教科書を読み上げながら、ちらりと見ると、亜希子はもう素知らぬふりで、退屈そうに窓の外を見ていた。


    6

 美術室にむかうために、廊下を歩いていた。いつもだったら、紗枝と一緒に移動する。いまも、途中までは一緒に来ていたのだけれど、忘れ物をしたから先にいっててといって、紗枝は引き返してしまった。それで、わざとゆっくり歩いていた。
 ほかのクラスも移動教室が重なっているのか、廊下はひとけが多くて、騒々しい。声高な雑談、走ってどこかに向かう男子、上がる明るい笑い声。開け放した窓から入ってくる蝉の大合唱と混ざり合って、もう何がなんだかわからない。耳が変になりそうだった。
 見慣れない長袖が、ぱっと目に入った。
 一年の江嶋だ。背中を丸めて、小さくなって歩いている。そうしているところを、はじめて見たわけではないのだけれど、目に入った瞬間、ぴりっと、頭のどこかが痺れるように熱くなった。
 なんで隠すの。堂々としてなよ。そう叫びそうになる自分をおさえて、目を逸らした。
 それを咎めるのは、酷、なんだろう。だけど廊下をいく生徒たちは、ときどき振り返って、江嶋の長袖を見ては、何かいいたげにしている。どうせ校内で長袖なんて着てたら、目立つんだ。隠しても隠さなくても一緒なら、堂々としていたらいいのに。もどかしいような気持ちになる。
 行きちがう直前、視線を感じて、顔を上げると、江嶋があたしのほうを見ていた。正確には、あたしの腕の鱗のあたりを。
 その顔が、くしゃりと歪んで泣きそうになるのを、あたしは見た。だけど、話しかけようとは思わなかった。ただなんでもないように視線を外して、すれちがう。
 ――そういうおまえの態度が、ほかの人を傷つけることだってあるんだ。
 いつだったか、小学校の先生にいわれた言葉が、耳の奥に響いた。
 ――先生はなにも、おまえが間違ってるとか、悪いとかっていってるんじゃない。正しいと思うことを、ちゃんと口に出していえる、それは霧生のいいところだ。それは先生もよく知ってる。だけどな、いうときの態度とか、いい方なんかを、ちゃんと選ばないと、いわれたほうは傷つく。なあ、霧生は頭がいいから、先生のいってること、ちゃんとわかるだろう?
 先生からの押しつけがましい説教というのが、あたしは昔から、我慢ならないたちだった。そのときもとっさに反発して、何も答えずに、顔を背けてしまったと思う。自分が正しいときにも、間違っている相手にあわせろなんていう話は、筋が通ってないと思った。
 だけどたぶん、あのとき先生がいったのは、本当のことで。頭のどこかでは、わかっている。だけど、そんなふうにふるまえるくらいなら、とっくに……。
 ふっと、紗枝の顔がうかんだ。
 紗枝はすごい、と思う。いい方が柔らかくて、それになにより、よっぽどのことがないかぎり、人のことを否定しない。だけど紗枝は、あたしが馬鹿にされたり、意地悪をされたときには、真っ先に怒ってくれる。自分が誰かに意地悪されても、めったに怒らないくせに。
 紗枝は自分が誰かにひどいことをいわれても、黙って傷つくか、そうでなければ、笑って許してしまう。そういう紗枝を、あたしはずっと、尊敬している。自分には、真似のできないことだから。
 紗枝がもし、江嶋と話すことがあったら、なんていうだろう。
 すれちがって少ししてから振り返ると、江嶋はもうこっちを向いていなかった。背中を丸めて、教科書をほとんど抱きかかえるようにしながら、階段を下りていく。その頭のてっぺんが見えなくなるまで、あたしはじっと、江嶋の姿を目で追っていた。


 職員室や購買部なんかがある旧校舎と、教室の入っている新校舎のあいだは、渡り廊下でつながっている。二階の渡り廊下は、雨よけの屋根はいちおうあるものの、半分は屋外みたいなもので、手すりの上がぽかんと開いて、中庭が見下ろせるつくりになっている。雨が降ったらふき込んで濡れるので、みんな二階のほうは、晴れの日しか使わない。
 放課後、購買部に寄った帰りに、そこを通って教室に戻ろうとしていると、志木が煙草を吸っていた。携帯灰皿なんかもって、中庭を見下ろしている。
 顔をしかめて通り過ぎようとしたけれど、呼び止められた。
「なあ、霧生」
 いやそうな顔を隠さずに振り返ると、志木は体の向きを変えて、真顔で頭を下げた。
「このあいだのことだけどな。俺のいい方が悪かった」
 拍子抜けした。まさか謝られるとは、思ってもいなかったし、頭を下げられるとは、もっと思っていなかった。
 いえ、とあいまいに首を振ると、手招きされた。あまり話をしたくはなかったけれど、無視まではできなかった。
 蝉がわんわんやかましく鳴いている中、大声でもないのに、志木の言葉はふしぎとはっきり耳に届く。
「誤解させたと思うんだけど。俺はさ、おまえを追い出したいとか、そういうんじゃないんだよ。誓っていうけど」
「……はい」
 不承不承、うなずきながらも、この人は、「先生は」とはいわないんだなと、ふとそんなことに気がついた。教師はよく「先生は君たちに」みたいないいまわしをする。それが、立場にものをいわせているように思えて、昔からずっと、嫌いだった。
「あのさ。成績とか、学歴とかって、おまえ、馬鹿にしてるだろ。見てりゃわかる。馬鹿な大人に採点されて、かってなレッテル貼られたって、それがどうしたって、思ってるだろ」
 思わず黙り込んだ。ほとんど図星だったので。志木はちょっとうなずいて、手遊びのように、指のあいだの煙草を揺らした。
「べつに、それはそれでいいんだ。馬鹿にしてもいいさ。でもな、将来とかそういうことだけじゃなくて、けっこう思うより、ちがうものなんだよ。偏差値の高い学校と、そうじゃないところってのはさ」
 煙草をつぶしながら、志木はいう。あたしは何も口を挟まなかったけれど、納得していないのは、表情で伝わったのかもしれない。志木はちょっと苦笑した。
「そりゃべつに、偏差値の高い学校に、いいやつが集まるってわけじゃないさ」
 たださ、と、志木は真面目な顔になった。
「自分と頭の回転の速さが近い人間と話すほうが、おまえが楽なんじゃないかって、思ったんだよ」
 なぜかその言葉に、ぎくりとした。べつに頭の悪い人間が嫌いだなんて、思ってるわけじゃない。ただ、同級生と話しているときなんかに、いっていることがすぐに通じなくて、もどかしい気がすることは、昔からときどきあった。
 志木は、新しい煙草を出しかけて、指をちょっとさまよわせ、ひっこめた。
「俺はさ、自慢じゃないけど、家族がみんな、すげえ頭のいいやつばっかでな」
 志木の身の上話になんて、興味はなかったけれど、あたしは黙って聞いていた。どこかの部活の、威勢のいい掛け声がグラウンドから聞こえてくる。志木は自分の頭を指で軽くつついて、話をつづけた。
「なんでか俺だけひとり、家族の中で、ちょっとココの回転が鈍くてなあ。仲が悪かったわけじゃないと思うんだけど、親や弟のいってることに、ちょくちょく、ついていけなくなってさ。そんでガキの頃、家の中にいるのが、けっこうつらかった」
 だからさ、と志木はいう。
「逆もたぶん、そうなんだろうなって思うんだよ。自分の話のペースについてけないやつらに囲まれてんのもさ、それはそれで、しんどいんじゃないのかって」
 あたしは頷きも、否定もしなかった。志木から眼を逸らして、足元を見つめる。低レベルな嫌味を遠くから投げかけてくるような、くだらない連中に、うんざりすることはある。だけど、それは、成績のいい学校にいったらなくなるものだとも、思えなかった。たぶんやり方が変わるだけじゃないかって、そんな気がした。
 志木は手すりにだらしなくもたれて、雨避けの隙間から空を見上げた。つられて顔を上げる。よく晴れている。風が、渡り廊下に淀んだ熱気を、ほんの少し、吹き払っていく。
「ま、俺がこんな話してたって、ほかのやつには、いわないでくれよな。クレームが来ちまう」
 志木はいって、苦笑いした。手すりから体を持ち上げて、首を鳴らす。こき、とけっこういい音がした。
「けどな、おまえがここでやっていきたいっていうんなら、もちろん、それでいいんだ。人間関係とか、そういうの、また一から作り直すのも、それはそれでしんどいだろうし」
 余計なお世話だと思った。知らない人の間に飛び込むのが、怖いわけじゃない。ここから、いまの状況から逃げ出すようにして、外部進学するのがいやなだけだ。そう思いはしたけれど、反論はしなかった。じっと黙り込んでいるあたしを見て、志木はちょっと鼻の頭をかいた。
「いますぐ決めろってことじゃないさ。まだ進路希望は何回もとるし、なんなら受験してみてから決めたっていいんだ。お前なら、その気になれば、どこの高校にだっていけるだろうし。……ま、ゆっくり考えてくれ」
 引き止めて悪かったなと、志木はいって、のんびりとした足どりで職員室に戻っていった。


 家に帰ると、久慈隆太が遊びにきていた。悠晴の部屋から上半身をつき出して、手を振ってくる。
「おー、亜希ちゃん、お帰りい」
「あんたにお帰りといわれる筋合いはないよ」
 けらけらと笑って、隆太は手まねきした。
「亜希ちゃんも、いっしょにゲームしよう。悠晴、強すぎ。ぜんぜん勝てなくてつまんない」
 それで、あたしに勝ってうさを晴らそうってのか、このガキは。そう思いはしたけれど、悔しかったのでいわなかった。制服を着替えてから、悠晴の部屋にいくと、ちょうど格闘ゲームの画面で、隆太の操作していたキャラクターが地に伏していた。
 あたしと交代すると、悠晴は飲み物をとってくるといって、階段を降りていった。コントローラーがべたべたしている。またお菓子かなんか食べながらゲームしてたんだろう。
 一回目の勝負は、あっさり負けた。一分ともたなかったんじゃないだろうか。
「亜希ちゃん、弱すぎ」
 得意げに笑っている隆太を、思わず軽くどつこうとしたけれど、察して、ひょいと身軽に逃げていく。
「文句があるなら、悠晴と遊んでな」
「あいつは強すぎ。たまには手加減するように、亜希ちゃんからいってやってよ」
「いいけど、手加減されて勝って、あんた、うれしいの?」
「場合によっては」
 答える隆太は、悪びれず笑っている。その笑顔が、初等部のころの久慈とよく似ていて、ちょっと不思議な気分になった。そんなに似ている兄弟でもないのだけれど、なにかの拍子に、急にそっくりな顔をする。
「おれ、コンビニいってくる」
 飲み物がきれていたらしく、階段の下から悠晴がそう叫んで、飛び出していく気配があった。
「ねえ、亜希ちゃん」
 何回目かの対戦の途中で、隆太が、画面を見つめたまま話し出した。
「レピシスって、増えてるんだよね」
 あたしは思わず指を止めて、隆太の横顔を見た。隆太は画面から眼をそらさずに、そのままで話しかけてくる。
「これから、どんどん増えていくんだよね。鱗があるのが当たり前になって、おれらのこと馬鹿にしてるやつらのほうが、そのうち、少なくなるんだよね」
 そうだといってくれと、訴えかけるような必死さで、隆太はいった。珍しかった。隆太が、同じレピシスであるあたしに親近感を抱いているのは、前からなんとなくわかっていたけれど、これまで直接その話題を持ち出したことは、一度もなかったのだ。
「おれらのほうが、ほんとはすごいんだよね。亜希ちゃん、頭いいんだろ。兄ちゃんがいってた。レピシスって、そうなんだって、本でも読んだよ。病気もあんまりしないし、普通のひとより強いんだって」
 隆太が読んだのは、あたしが図書館で見たのと同じ本なのかもしれない。
 あたしの操作していたキャラクターは、体力ゲージが0になって、あっけなく地面にうずくまった。隆太はもう勝負のついた画面から目を逸らさずに、無意識なのか、自分の腕をさすっている。服の上から、鱗のあるあたりを、何度もこすっている。
「そうかもね」
 自分でも思わないほど、突き放したような声がでた。
 その声の冷たさに、びっくりしたように、隆太は振り返った。
「なんで怒ってるの」
「怒ってないよ」
「怒ってるじゃん」
 いわれて、顔をこする。怒った顔になっているだろうか。あたしは何に腹をたてているんだろう。思わずちょっと、考え込んだ。考えて、口を開いた。
「あんたに怒ってるわけじゃないよ。でも、あんまり好きじゃないんだ、そういうの。あたしはさ」
 隆太はでっかい目でじっと、あたしの眼を覗き込んできた。
「鱗があるからって、それがどうしたんだよって、あんた、思わない?」
 少し迷って、隆太は頷いた。
「それと、おんなじだって、思うんだ。ちょっとくらい体が頑丈で、ちょっとくらい頭がいいからって、それがどうしたんだって。寿命が長いかもしれないっていうけど、百年も二百年もちがうわけでもないだろうし、そのくらいのちがいが、なんだって」
 そういうと、隆太は黙ってうつむいた。いいすぎたかな。あたしのものいいは、ただでさえ、きつく聞こえるらしいから、思わず慌ててしまった。
「あのね。おれさ、この前」
 長い沈黙のあとに、隆太はぽつぽつといった。
「休み時間に、おんなじクラスのやつがさ。床に落ちてた、おれの鱗を見て、汚えなって……」
 そのあとの言葉を続けきれずに、隆太はうつむいたまま、ぼろぼろと泣き出した。涙が床に落ちて、電灯の明かりを弾くのを見ながら、ああ、と思った。この子も、戦ってるんだ。いつも明るい顔で笑ってるけど、毎日、戦ってる。
 誰にもいえなかったんだろう。兄貴にも親にも、たぶん、悠晴にも。思わず、その肩を抱きしめていた。
 がさ、と物音がした。振り返ると、悠晴が驚いた顔をして、ドアのところに立っていた。帰ってきていたらしい。何かいおうとして、だけど何もいえずに、そのまま途方に暮れたように、立ち尽くしていた。
「あたしも、似たようなこと、いわれたことある」
 肩から手を放して、そういうと、隆太は泣き顔のまま、顔を上げた。ほんとうだろうかと疑うように、じっと見上げてくる。
「あんたと同じ、五年生のとき。そのときにね、あんたの兄ちゃんが、かばってくれたんだよ。ソレいった男子を、こう、ぶん殴ってさ」
 殴る真似をしながらいうと、隆太は、目をぱちぱちさせた。その睫毛から、涙がぽろりと零れ落ちる。
「あんたも、そんなこというアホは、ぶん殴ってやんな」
 兄ちゃんに殴ってもらいなよとは、さすがにいわなかった。チビでお調子者だけど、隆太にも男の子のプライドは、あるだろうから。
 隆太は頷いて、くしゃくしゃになったティッシュをポケットからだすと、鼻をかんだ。へへ、と、照れくさそうに笑って、頬をこする。
「おれ、ポカリね」
 隆太は立ち上がると、なんでもないように、悠晴のもっているコンビニの袋に駆け寄っていった。


    7

 自分の呼吸の音を聞きながら、地面を蹴る。足を踏み出すリズム。腕の振り。かかとの着地する角度。川沿いの遊歩道を延々と走っていると、ときどき、それ以外のことを何もかも忘れている自分に気がつく。
 忘れていられたらいいのに、と思う。わずらわしいこと全部。教室のなかを飛び交う、小さな声での陰口、しのび笑い。自分のタイムが伸びない苛立ちをもてあまして、人の足を引っ張ろうとするやつらの、遠まわしな嫌味。隆太のことを気の毒がる親戚の連中の、わかったような同情。それに小さくなって礼なんかいっているお袋の、卑屈な表情。そういうわずらわしいことを、何もかも忘れたまま、いつも走ることだけ考えていられたら、そうしたらきっと、もっと息がしやすいのに。
 走るのは、昔から好きだった。おまえは長距離向きだなと、顧問にいわれる前には、100mのタイムを伸ばすことばかり考えていたけれど、いまではそのとおりだったと思う。そんなわけないのに、何時間でも、何日でも、いつまでも走りつづけていられるような気がするときがある。
 空はよく晴れている。それでも前方に、押しせまるような入道雲がそびえているから、早めに切り上げたほうがいいかもしれない。夕立に降られたって、風邪を引くような季節でもないけど。
 土手の傾斜がゆるやかになっている一角にさしかかった。すぐ下に、河川敷。ちょっとした広さがあって、子どものときにはよくここで近所の友達と遊んだ。いまも、どこかの親子連れがキャッチボールなんかやっている。
 ――兄ちゃん、もう助けてくれなくていいよ。
 隆太がそういったのは、二年前、俺が六年生のときだった。この土手で、泣かされている隆太を見つけて、いじめっ子をぶん殴った。そいつらが憎まれ口を叩きながら、逃げていったあとで、隆太はべそをかきながら、そんなふうにいった。
 気が弱いところのある隆太は、昔からときどき、近所の悪ガキなんかに、いじめられることがあった。それでも隆太がちびのときは、話は簡単で、そういう場面を見かけたら、飛んでいって助けてやれば、それでよかった。泣かされて、傷なんかこさえて帰ってきたら、誰にやられたのか問いただして、次の日にでもやり返してやればよかった。
 ――おまえ、兄貴がいないと何もできないんだろって。あいつら、そういうんだ。上級生の手を借りるなんて、卑怯じゃないかって。
 泣きながらそういった隆太に、あのとき、思わずいい返していた。
 ――だったら、おまえもいってやれ。おまえらこそ、よってたかって大勢で、ひとりをいじめるなんて、卑怯じゃないかって。
 隆太は鼻をすすりながら、首を振った。ひとりでなんとかするから、兄ちゃんは、もう手を貸さないでって、そういって。
 腹が立った。弱っちくて、いつもすぐ泣きついてくるくせに、おまえひとりで何とかするなんて、できるもんか。そう思った。だけど、それから一回も、隆太が泣きついてきたことはない。泣かされて、傷をこさえて帰ってきても、前のように誰それにやられたといって、頼ってくることはなくなった。
 ときどきかっとなって手が出る俺とはちがって、隆太は人にひどいことをいわれても、殴りかかったりはしない。殴られても、ほとんど殴り返しもしない。そのかわり、つらいことがあると、じっと歯を食いしばって、耐えるようになった。
 そういう態度を、いったい誰に似たんだろうなと、ときどき親父は苦笑しているけど、あれは、もしかしたら、霧生を真似してるんじゃないかって、そう思うときがある。
 隆太はよく、霧生の弟のところに遊びにいく。話を聴くと、どうやら姉貴のほうにも、なついているらしかった。亜希ちゃんがね、と、隆太が目を輝かせて話すのを、何回聞いただろう。
 霧生が同じ状況になったら、やっぱり、喧嘩に人の手を借りるのを、いやがるだろうか。人にかばってもらわなくたっていいとか、そういうことをいって。
 あいつなら、いかにもいいそうだ。もっとも、拳の出る喧嘩ならともかく、女子どうしのいさかいに口を挟むことなんて、頼まれたって無理な気がするけど。
 実際の話、霧生は、何をいわれても堂々としている。無視するか、正面きっていいかえすか。誰かに意地悪をされて、いわれっぱなしでへこたれているところなんて、ほとんど見ない。手足の鱗を隠そうともせずに、人からへんな目を向けられても、まっすぐ顔を上げて、なんでもないって顔をしている。本当になんでもないわけじゃ、ないんだろうけど。
 気がつけば、日もまだ沈みきっていないのに、あたりは薄暗くなっていた。顔を上げると、分厚い雲が近くに迫っている。
 考え事をしながら走っていたせいか、いつもだったらなんともない距離なのに、いくらか息が上がっている。家の玄関に飛び込むなり、雨のにおいが追いかけてきて、そのほんの一呼吸あとには、夕立が屋根を叩いた。


「ねえ、兄ちゃん。あのシャツ、今年は着ないの」
 隆太から急にそう訊かれて、思わず目を瞬いた。
 シャワーを浴びてきて、頭を拭きながら、着替えのシャツを引っ張り出しているところだった。雨はあっという間に通り過ぎて、すっかり止んでいる。
「どれのことだ?」
「ドクロのやつ、黒いの」
 眉を上げた。そのシャツはたしかに、去年の夏にはよく着ていたけれど、冬のあいだに背が伸びたので、小さくなってきて、そのまましまいこんでいる。
 着替えながら、ちょっと考えた。
 それを、隆太がほしいというのなら、べつにやってもよかった。どうせ俺はもう着れない。まだ隆太には大きすぎる気はするが、問題はそこじゃなかった。あのシャツは。
 着替え終えて振り向くと、隆太はじっと俺を見上げている。その目が、真剣だった。
 半袖だけど、いいのか。そう訊こうとした言葉を、飲み込んだ。
「お下がりでいいのか」
 かわりにそう訊くと、隆太はおおまじめな顔で頷いた。半袖のシャツを買ってきてと、母さんには頼みづらいんだろう。
「そこのタンスの、下の段じゃないかな。母さんが捨ててなけりゃ」
「着ていい?」
「やるよ」
 いうと、ぱっと頬を紅潮させて、隆太は笑った。それを見ながら、複雑な気分になった。
 あれは、ほんのチビのころだった。
 どうしてぼくのシャツは、長袖ばっかりなのと、ある夏の日、急に隆太がそういった。まだ四歳とか五歳とか、そのくらいだったと思う。ちょうど、なんでも俺の真似ばかりしたがった時期で。兄ちゃんは半袖なのに、なんでぼくのはちがうのと、そんなことをいいだした。
 母さんはそれを聞いて、ちょっと困ったような顔をしたけれど、隆太がだだを捏ねるとすぐに折れて、次の日、半袖の、戦隊もののキャラクターTシャツを買ってきた。
 それを着て、はしゃいで外にでた隆太の顔は、あっというまに曇った。近所の人々が振り返って、自分の腕をちらちらと伺うその視線に、隆太はすぐに気がついたようだった。
 なぜ注目されるのか、気の毒そうに目をそらされたりするのか、隆太は多分、わけもわかっていなかっただろうと思う。俺もそのときには、まだ小二のガキだったけれど、そのころには、もうおぼろげに、わかっていた気がする。レピシスがどんな目で見られているのか。親の態度から、なんとなく感じるところもあったし、その頃は、まだ霧生と一緒に遊ぶ機会も多かった。そこで俺は同じような視線に、何度も行き会った。
 いまより珍しかったとはいっても、レピシスを露骨に差別する人間は、そんなに多くはなかったと思う。それでもじろじろと視線を向けてくるやつや、気まずそうに目を逸らすやつは、いくらでもいた。
 ――ぼく、長袖でいい。
 家に帰るなり背中を向けて、隆太はいった。母さんもだまって、いつも来ていた長袖のシャツを出してやった。
 それ以来、隆太はずっと、夏でも長袖で通してきた。家の中ではランニングでもうろうろするけれど、外に出かけるときには、きっちり手首まであるのを着ていた。
 その隆太が、半袖のシャツをくれといって、嬉しそうにしている。それは多分、いい兆候なんだろう。だけど、不安もあった。
 お前、大変だぞ。
 いおうかと思ったけれど、やめた。堂々としていればいいと思う。他人に何をいわれても、気にしなければいい。
「そういえばね、兄ちゃん。亜希ちゃんがね」
 タンスの中身をひっくりかえしながら、隆太がいった。
 なんだ、お前。急に半袖着るなんていうから、何かと思ったら、あいつの真似してんのか。そういおうかと思ったけれど、これも、苦笑して飲み込んだ。
「霧生が、どうしたって」
「小学校のとき、兄ちゃんに助けられたって、いってたよ」
 面食らった。何のことをいっているのか、一瞬、わからなかった。少し遅れて、思い当たる。たしかに、あいつの鱗のことをからかった工藤を、殴ったことがあった。
 隆太はまるでそのことが、得意でならないというように、目を輝かせている。
「そうか」
「うん。それでね、へんなこというやつがいたら、お前もぶん殴ってやれ、だって。亜希ちゃんって、クールなふりして、けっこう過激だよね」
 それがおかしくてたまらないというふうに、隆太は笑っている。つられて思わず口元が緩んだ。たしかに、霧生は見た目とちがって、けっこう過激なやつだ。
 隆太はさっそく、ドクロのプリントされたTシャツを引っ張り出して、頭から被っている。それを見守りながら、小五のときの騒動を思い出した。
 一度記憶を引っ張り出してみれば、案外、よく覚えていた。掃除のときだ。殴られた工藤のほうが、一瞬ばつの悪い顔をして、俺から目を逸らした。
 そういえばあのとき、霧生は珍しく泣きそうになっていたようだった。ふっと、不思議な感慨を覚える。あいつのあんな顔を見たのは、ほとんどあの一回きりだったんじゃないだろうか。
 あいつ、そんなこと、まだ覚えてたんだな。
 隆太はぶかぶかのTシャツを着て、照れくさそうに鼻をこすった。その腕には青い鱗が目立っている。隆太はちらっとそれを見下ろして、一瞬、ためらうような顔をした。それから吹っ切るように、顔を上げた。
 ちょっとコンビニいってくるね。そういって飛び出していく、Tシャツの背中を見送りながら、思っていたよりも隆太の背が伸びていることに、いまさらのように気がついた。


    8

 試験の終わった次の日曜日は、よく晴れた。ちょっと晴れすぎだろうというくらいに。
 強烈な日射しがじりじりと肌をやく。アスファルトから立ち上る陽炎が、むせかえるような熱気を持っている。待ち合わせを、バス停じゃなくて屋内にすればよかったと思いながら、次々にやってくるバスを目で追っていた。
「ごめん! 待った?」
 紗枝がバスを降りてきたのは、ほとんど時間ぴったりだった。なにも謝ることなんてないのに、紗枝は申し訳なさそうな顔をする。
「ぜんぜん。なに買うの?」
「ほしいスカートがあるんだ。亜希子は何か、買うものある?」
「あとでCD見たいかな」
 おっけー。はしゃいだ調子の紗枝と並んで、歩き出す。気温は高い。着てきた長袖のシャツが、うっとうしかった。道行く人々は、もうほとんど半袖かタンクトップになっている。
 普段なら、どこにだって半袖ででかけていく。家の近所なら、もうあたしがそうだっていうのは有名だし、慣れている。街に出てくるときには、さすがに目立つけれど、気にしない。気にならないわけじゃないけど、でも、気にしない。ひとりだったら。
 だけど去年の夏、初めて紗枝と二人でこの辺まで出てきたとき、通りを歩き出したあたしは、半袖の服を選んだことを、すぐに後悔した。
 人が振り返って、あたしの腕と顔を見る。中には、隣を歩く紗枝の腕まで目で追っていくやつもいる。ひそひそ声が耳に入るたびに、自分のことをいっているんじゃないかって思えるけれど、そういうのを意識して聞き流すことに、あたしは慣れていた。だけど、紗枝はちがう。
 自分がいやな思いをしても平気だからって、それを紗枝にまで押しつけるのは、望みじゃなかった。だからそれ以来、一緒に出歩くときは、長袖を着ることにしている。
「あっ、あれ可愛い! ちょっと見ていっていい?」
 紗枝がセールのTシャツに目を留めて、顔を輝かせた。
「いいけど、お金足りるの?」
「ちょっと見るだけ、安いかもだし」
 もう夢中になっている。笑って後についていきながら、目がほとんど無意識に、紗枝の二の腕を追っていた。紗枝は色がとても白くて、きれいな肌をしている。
 あたしはショーウインドウを見て、ぎくっとした。ガラスに映りこんだあたしは、羨ましいというような顔をしていた。


 紗枝と別れて、帰りのバスで、後ろのほうの席に座っていた。ぼんやりと窓の外を眺めていると、ちょうどバスが、学校の前を通りかかった。もう日は暮れかかって、外はうす暗い。
 バスが止まり、ぷしゅうと気の抜けるような音がして、ドアが開く。誰か乗り込んでくる。知った顔がいるだろうかと、何気なく乗降口を見た。
 久慈がいた。
「霧生」
 話しかけてきた久慈は、学校指定のスポーツバッグを持っている。部活帰りなのだろうけれど、それにしては、一人だけのようだった。
「なに、あんた、友達いないの?」
 そんなわけがないのを承知でそういうと、久慈はいやそうな顔をした。
「自主練だよ」
「あ、そう。えらいね」
 適当にいうと、久慈はむすっと唇を曲げた。
 そのまま前のほうの席にいくかと思ったけれど、久慈はどういうつもりか、近くに立った。この暑い中でさんざん走ってきただけのことはあって、汗臭い。
 何か話でもあるんだろうか。もしかして、隆太のことかもしれない。そう思って見上げると、久慈は何かいいたそうな、いうのを迷うような、そんな顔をしていた。
「なに」
 つい痺れをきらして訊くと、久慈は顎を引いて、小声でいった。
「なんで、今日は長袖」
 不意をつかれて、ぐっと詰まった。
 久慈はじっと、あたしの腕を見下ろしている。その視線がいたたまれなかった。
 いつも、鱗のことなんてひとことも口にしないくせに、なんで今日に限って、そんなこと訊くんだろう。いま、いちばん触れてほしくなかったことだ。
 腹が立った。無視しようかとも思った。それとも、適当な答えを返すか……。
 うわべだけで接してくる連中には、こっちもうわべで答えればいい。だけど、久慈はどうだろう。
 たぶん、ちがう。昔から、真面目なやつだから。
 だけど、本当のことをいうのもいやだった。久慈はじっと黙りこんで、あたしが答えるのを待っている。
「長袖だと、なんか悪い?」
 とっさにつっけんどんな声がでて、いうなり自分に嫌気がさした。だけど久慈は、そんな態度にはぜんぜんひるまないで、しばらくじっと、あたしの長袖を見下ろしていた。それから、呟くようにいった。
「負けんなよ」
 それはどこか、もどかしいような声だった。
 あんたには、関係ないじゃない。そういおうとして、どうしてだか、いえなかった。あたしが何も答えられずにいると、久慈は、言葉を足した。
「つまんないやつらのいうことになんか、負けんな」
 とっさにうつむいて、唇をかみ締めた。
 なんなんだろう、こいつ。
 反論する言葉をさがそうとして、そのどれもが、ひどくいいわけがましいような気がして、何度も飲み込んだ。
 何がそんなに悔しいのか、自分でもうまくいえないけれど、とにかく、やけに悔しかった。言葉が、頭の中をぐるぐる回る。人の気も知らないで、勝手なこといわないでよ。あんたにはわかんないよ。だってあんたは、ちがうじゃない。
 だけど、実際に口をついて出たのは、ぜんぜんちがう言葉だった。
「あたしだって、一人で出かけるんだったら、長袖なんて」
 途中で、はっとした。慌てて口をつぐむ。
 いま、あたしは誰を責めようとした?
 うつむいたまま動揺していると、少しして、あたしの膝に落ちる影が、揺れた。久慈が頭を下げたんだと、その動きでわかった。
「ごめん」
 顔を上げられなくて、久慈がどんな顔をしているのか、わからない。
 バスが着くまでのあいだ、久慈はじっと黙ったまま、そこに立っていた。何度か、何かいいたそうな気配を感じたけれど、結局、それから降りるまで、ひとことも口をきかなかった。


 久慈と、降りるバス停は同じだけれど、そこからは反対方向だ。背を向けて歩き出すまで、かろうじて泣かないですんだことにほっとしながら、あたしは家に向かった。
 日は落ちてしまっている。昼の、目が痛いほど明るく、蝉の喧しい道路とは、まるで別の道のようだったけれど、熱気のなごりは残っていた。
 自己嫌悪が、胸の中をぐるぐるしていた。いいかけた言葉の続きが、喉の奥をしめつける。あたしだって。あたしだって紗枝と一緒じゃなかったら、他人の目なんて……。そんなふうに思う自分が信じられなかった。
 紗枝はいいやつだ。あたしが悪くいわれると、紗枝は自分のことみたいに傷つく。あたしが笑われたり、ひそひそ話されたりしたら、自分がそうされたみたいに、辛い顔をする。あたしが馬鹿にされたら、自分が馬鹿にされたときよりも、よっぽど怒る。それがあたしは、いつも嬉しくて、ほんとに嬉しくて。
 だけど、紗枝が怒ったり、うつむいたりするのを見るたびに、それが嬉しいって、ありがとうって思う気持ちの片隅の、端っこのほうのどっかで、あたしは……
 あたしのこれは、やっぱり恥ずかしいのかなって。
 紗枝は、あたしといると恥ずかしいのかなって、そんなつまんないことを、気持ちのどっかで考えてしまう。
 あたしがもっと折れて、手足も隠して、クラスのみんなに合わせる努力をして、うまく溶け込んでいたら。そしたら紗枝は、あんな顔、しなくてすむはずなのに。あたしが強情なせいで、紗枝にまで恥ずかしい思いをさせてるんじゃないかって。
 あたしはときどき、それがしんどくて。気持ちの中のどっかで、ほんの少し、あたしは紗枝のことが。
 ちがう。そうじゃない。わかってる。悪いのは紗枝じゃない。悪いのは、レピシスが珍しいからって、じろじろ見たり、つまんないいやがらせをしたりする奴らのほうだ。ちゃんとわかってる。
 家の前まで着いたけれど、すぐに入る気になれなくて、しばらくそのまま、立ちすくんでいた。いつもどおりの態度で、母さんや悠晴に声をかけきれる自信がなかった。隣の家の犬が、怪訝そうに吼える。家の中からは、夕飯の味噌汁と、たぶんハンバーグの、いい匂いが漏れ出していた。
 しばらく空を見上げて、立ち尽くしていた。あれだけ晴れていた空が、いつの間にか半分くらい、雲におおわれている。夜には、雨が降るのかもしれない。
 どれくらい、そうしていただろう。何度か深呼吸をすると、自分の頬を叩いて、玄関のドアを開けた。


 ただいまと、無理やり明るい声を出して家に入ると、母さんが心配そうに、おろおろと階段を見上げていた。
「ああ、おかえり。ご飯、もうちょっとでできるからね」
「うん。……どうしたの」
「悠晴が、部屋から出てこないのよ。訊いても、何もいわなくて」
 亜希ちゃん、ちょっと様子を見てきてくれると、母さんにそういわれて、階段を上った。心当たりはあるような気がした。隆太のことだろう。
 ノックすると、なに、と暗い声が返ってきた。
「なに。あんた、こないだのことで、まだ落ち込んでるの」
 ドアを開けるなりそういうと、ベッドに腰掛けていた悠晴が、顔を上げて、無言で見つめ返してきた。とっくに日は暮れているのに、電気もつけていない。あたしが電灯のスイッチをいれても、何もいわなかった。いつもだったら、反発してくるのに、今日はやけにおとなしい。本当に落ち込んでいるらしかった。
 散らかった床に座ると、悠晴は、何度か口を開きかけて、ためらった。それでもじっと、何もいわずに待っていると、悠晴はやがて、ぽつりと言葉を落とした。
「おれ、全然しらなかった」
 やっぱり、隆太のことで悩んでいたらしかった。悠晴はうなだれて、自分のつま先をじっと見つめている。
「あんたはその場にいなかったんでしょ。しかたないよ」
 そういうと、悠晴は力なく首を振った。
「隆太が気にしてたことにも、気がつかなかったし」
 無理もないと思う。隆太自身が、気遣われたくなかったんだろうから。隆太はいつも、明るくふるまっている。このあいだ、この部屋で泣いたときも、その直前まで、いつもどおりに陽気にしていた。
「姉ちゃん。おれ、どうしたらいいのかな」
 悠晴は、自信のないような声で、そう訊いてきた。だけど、あたしにだって、自信なんかない。いわれなくても人の気持ちがわかるような、細やかな神経には、あいにく持ち合わせがない。
「あたしは隆太じゃないから、あの子の気持ちはわかんないけど」
 そう前置きしてから、ちょっと考えて、いった。
「何もしなくていいと思うよ」
 でも、といって、悠晴はばっと顔をあげた。あたしはそれを手で制して、話を続ける。
「あんたが、隆太がレピシスだってそうじゃなくたって、そんなのなんにも関係ないって顔して、普通に一緒にいたら、あの子はそれが、いちばん嬉しいんじゃないかと思うよ。何をしてもらうよりも」
 悠晴は口ごもった。何か反論しかけて、飲み込んで、それからうつむいて、じっと考えるようだった。
「……そうかな」
 長い間をあけて、そう確認するようにきいてきた悠晴に、あたしは肩をすくめた。
「たぶんね」
 悠晴はちょっと頼りなさげな顔をしたけれど、あたしは隆太じゃないから、わかんないよ。もしあたしだったらって、そういうことしかいえない。
 母さんが一階から呼ぶ声がする。
「ほら、ご飯たべるよ。あたしも着替えて来るし」
 そういって、自分の部屋に入りながら、思わず頭をかきむしった。
 自己嫌悪に駆られていた。他人事だから、えらそうなことをいえる。自分のことも、ちゃんとできてないくせに。
 どうしていいのかわからなかった。途方に暮れながら、自分の胸に問いかける。
 あたしはどうしたいんだろう。紗枝に、どうしてほしいんだろう。


    9

 亜希子と別れて家に帰ってから、夕飯を食べる気になれなくて、自分の部屋に閉じこもっていた。携帯を手にとったり、枕元に置いたりしては、窓の外をぼんやり眺めて。
 昼間、亜希子と一緒に歩いて、ときどきお店をひやかしながら、ずっといおうと思って、いえなかった言葉があった。自分の勇気のなさに、腹が立つ。
 窓から入ってくる風は、生ぬるくべたついていて、だけどエアコンをつける気にもなれなかった。ベッドに転がって、天井をぼんやりと見つめる。気温は蒸し暑いくらいなのに、LEDの冴え冴えとした明かりが、寒々しかった。
 ――あんたも大変ね。
 姉がいったひとことは、あたしの胸の深いところに、いまもとげになって刺さっている。
 普段はほとんど忘れている。忘れようとしている。だけど、ふとした瞬間によみがえって、じくじく痛む。
 亜希子のことが好きだ。その自分の気持ちに、嘘はないって思う。
 だけどときどき、姉の言葉が耳の奥に木霊する。
 中一の夏、亜希子といっしょに、はじめて隣の市まで買い物に出かけた。バスにのって子どもだけで、っていうのは、もしかしたらその日が初めてだったかもしれない。普段のちょっとした買い物なんかは、たいてい家の近所で間に合っていたから。
 待ち合わせ場所のバス停で、先について待っていた亜希子は、いつものように、半袖のTシャツを着て、なんでもないような顔でそこにいた。それは、あたしには見慣れた姿だったけれど、ひとつだけ、いつもとちがうことがあった。
 道を歩いている人たちが、振り返って、亜希子をじろじろと見る。それは、半分くらいは亜希子の腕を覆う、薄紫の鱗のせいで、そして残りの半分は、亜希子がきれいだからだったと思う。
 亜希子を振り返った人たちは、横を歩くあたしまで、ちらっと見る。その人たちが、何か噂をしているのが見えたけれど、その言葉の中身まで、耳に入ってきたわけではなかった。
 ――あんた、比べられちゃうんじゃない。
 あのとき、あの姉の言葉さえ、あたしが思い出さなかったら。
 最初、毅然と胸を張って歩いていた亜希子は、うつむきがちに歩くあたしを見て、顔色を変えた。
 罪悪感に打ちひしがれたような、あのときの亜希子の表情は、工藤に鱗のことでいじめられたときの顔と同じくらい、はっきりあたしの記憶に焼きついて、いまも離れない。
 亜希子は最初に入ったお店で、黙って長袖のシャツを買うと、さっさと羽織ってしまった。みんな半袖を着ている、暑い日だったのに。それを見て、あたしは亜希子の誤解に気がついた。
 ごめん、ちがうのって、その場でさらっといってしまえばよかった。あたしが恥ずかしかったのは、亜希子がレピシスだからじゃないって。だけど、あたしの口は、どうしても開かなかった。
 ――建物の中は、クーラー強いね。半袖じゃちょっと寒いわ。
 亜希子はわざと明るい口調でそういって、それからちょっと早口に、いろんな話をした。学校のこと、弟の悠晴君のこと、読んだ本のこと。歩きながらの会話は、どれも他愛のない話ばっかりで、あたしが謝ろうとするのを遮るように、亜希子はいろんな話を次々に持ち出した。
 あれから亜希子は、二人で出かけるときには、いつも長袖の服を着ている。
 そしてあたしはいまだに、亜希子に謝れないでいる。今日もそうだった。いつものように、長袖で現れた亜希子に、今日こそはちゃんと話そうって、そう思ったのに。
 自分が情けなくて、泣きたくなる。あたしにも、亜希子みたいな強さがあったら。人と比べられたって、そんなの知ったことじゃないって、あたしはあたしだって、そんなふうに思える強さがあれば。
 手の中の携帯を、じっと見つめる。亜希子の番号を呼び出して、発信しようとしては、ためらう。いつもそうだ。やっぱり、明日会ったときにいおう。次に出かけるときにしよう。そうやって、ずるずると先延ばしにしてしまった。だけど、いつまでもこのままでいいはずがなかった。
 窓の外を、車が通り過ぎていく。夕飯を食べなかったのを心配しているのか、たぶん母さんが、二階に上がってきて、ためらって降りていくような足音がした。母娘ですることが一緒だ。そう思って、ちょっと笑った。
 携帯を握り締めて、深呼吸をした。


    10

 風呂上りに、自分の部屋で、携帯をにらみつけていた。
 自転車の通りかかる音がして、窓の外で、隣の犬がまた吼えている。あとは悠晴の部屋から、ゲームの音がちょっときこえてくるくらい。静かだった。
 紗枝と、ちゃんと話そうと思った。電話をかけて、今日は楽しかったっていって、それから。
 今度買い物にいくとき、あたし、半袖着ていきたいんだけど、いいかなって。
 紗枝がそれでいやな気持ちになることも、あるかもしんないけど、それでも一緒に遊んでくれるかって。そうちゃんと、訊いてみよう。
 頭の中ではそう思うのに、手は動かなかった。
 紗枝はなんていうだろう。その反応が怖かった。だけどたぶん、ダメだとか、いやだとか、紗枝はそんなふうにはいえない。きっと、我慢してしまう。
 それがわかっていて、そんなこというのは、あたしのただのワガママかな。紗枝に我慢を押しつけるだけじゃないのかな。どうしようもない、自分勝手な話なんじゃないかな。
 だけど、このままなのも、いやだった。いいたいことがあるのを、呑み込んで、気を遣って、それで済めば、そのほうがいいのかもしれない。だけど、それでずっと溜め込んで、心の奥では、何にも悪くない紗枝に八つ当たりして、表面上はなんの不満もないよって顔をして。そんなのはいやだ。
 でも、どういったら、紗枝にいやな思いをさせなくて済むんだろう。いい方を間違えたら、紗枝を責めるみたいに聞こえたりしないだろうか。あたしが勝手に気にして、勝手に我慢してきただけなのに。
 ずっとぐるぐるしていた。時間だけどんどん過ぎていく。これ以上遅くなったら、電話しづらい時間になってしまう。
 ためらい、ためらい、何度めかに手を伸ばしたところで、携帯が震えた。
 びくっとして、おそるおそる表示を見ると、紗枝からだった。とっさに手が止まる。まだ心の準備が出来ていなかった。とらないで、あとでかけなおそうか。お風呂にはいってて気付かなかったとかなんとかいって。
 ――負けんなよ。
 久慈の声が、ふっと耳によみがえった。
 悔しかった。
 あいつは、つまんないやつらに負けるなって、そういったけど。そんなことには、負けるもんかって、いわれなくたって思ってる。あたしが負けそうな相手は、そうじゃなくて。遠くから無責任なことをいってくる、他人なんかじゃなくて。
「負けないし」
 ひとり呟いて、ぐっと携帯を握る。通話ボタンを押す指が、ちょっと震えた。
「紗枝? いま、家?」
『うん。今日、つきあってくれてありがとね』
「ううん。こっちこそ、楽しかったし」
 ねえ、ちょうどよかった。いま話せるかな。訊きたいことがあるんだ。勇気を奮い起こしてそういおうかと思ったとき、電話の向こうで、紗枝がなにかいいかけて、ためらうような気配があった。
「なに、どうかした?」
 訊くと、うん、と頷いて、紗枝はちょっと緊張したような声を出した。
『ねえ、亜希子。いま、ちょっと話してもいいかな――』

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