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前編

 今から約一世紀半ほど前の昔、エシュタオルという国のロンシュタットと呼ばれる地方に素晴らしいエフロン・ディーアと呼ばれる女の子がおりました。

 素晴らしい娘は、公爵家の令嬢として育ち、父親の公爵さまは外交官というお仕事をなさっておいででした。公爵さまは仕事柄、どうしてもロンシュタットのお屋敷を留守にしがちでしたが、素晴らしい娘はお父さまのことをとても深く尊敬しておりました。もちろん、隣国の貴族出身のとても美しくてお綺麗なお母さまのことも大好きです。素晴らしい娘のお父さまとお母さまは、王さまのお城で開催された舞踏会で知りあったとのことでしたが、素晴らしい娘は何度もせがんで美しいお母さまの口からこのお話を繰り返し聞いたものでした。そして自分の社交界デビューの時を、細かく隅々まで心に思い描いては、白昼夢に耽っていたのです。

 赤い絨毯の上を高貴な人々の優美な足がゆきかい、いくつもの輪を形成して、笑いさざめきあいながら踊り続ける――素晴らしい娘は自分が社交界にデビューする日を、栄えある日としてずっと心待ちにしていました。

(わたしは美しくて素晴らしい娘だから、きっとたくさんの貴族の王子さまがわたしと踊りたがることだろう――そうしたらわたしはちょっとはにかみながら、まあ一体どうしましょうといった風情で、彼らのうちのひとりの手をとり、踊りの輪の中へと加わるのだわ)

 素晴らしい娘はそうした白昼夢に耽ることが大好きな娘でした。そして勉強時間に家庭教師のヴラマンクさんに叱られてばかりいました。

 素晴らしい娘はこの家庭教師のヴラマンクさんが大嫌いだったのですが、仕方なしにいつも先生の言うことを黙って聞いていました。何故素晴らしい娘が家庭教師のヴラマンクさんの言うことをいつも黙って聞いていたかというと、それにはきちんとした立派な理由があります。それは素晴らしい娘が、素晴らしい娘だったからなのです。

 素晴らしい娘のお父さまとお母さまは、自分たちの娘が素晴らしい娘に育つようにと、彼女に素晴らしい娘という名前をつけました。だから素晴らしい娘はいついかなる時も素晴らしい娘でいなければならず、そのことは彼女にとってなかなかに骨折りなことではありましたが、決して骨折り損で終わるということでもなかったようです。

 素晴らしい娘は本人も自覚しているとおり、とても容姿の美しい娘でありましたので、誰からも好かれておりました――それで素晴らしい娘はすっかり味をしめてしまったようなのです。いついかなる時も自分が素晴らしい娘でありさえすれば、人々の歓心は自分の思いのままになるということを……。


 しかし、素晴らしい娘自身はまだ気づいておりませんが、彼女が素晴らしい娘であり続けるということは、同時にとても恐ろしいことでもあったのです。素晴らしい娘は小さな頃から近隣諸国の外国語を五つも教えこまれ、またそれに加えて数学や歴史などの一般教養、さらにどこに出しても恥かしくないようにと、その他色々なお稽古ごとを習わなくてはなりませんでした。テーブルマナーの授業やピアノにダンス等など……素晴らしい娘は日曜日以外の時を、ほとんどお勉強とお稽古ごとばかりをして過ごしていました。

 素晴らしい娘はなんといっても素晴らしい娘ですので、素晴らしい娘としての役割を果たして、お父さまとお母さまを喜ばせなくてはなりません。けれども十三歳になったある時、素晴らしい娘は自分の中にいるもうひとりの自分――恐ろしいナフロン・ディーアを見つけだしてしまいました。このことは何も素晴らしい娘が病的な二重人格者であったとか、そういったようなことではありません。

 ある時、素晴らしい娘は下男のディックが仕掛けたネズミ捕りに一匹のネズミが引っかかっているのを見つけました。可哀相に……などとは素晴らしい娘はこれっぽっちも思いません。

(こんなチャチなネズミ捕りに引っかかるだなんて、なんていう馬鹿なネズミなんだろう)

 素晴らしい娘はそう思いました。そしてこの時、ある閃きが素晴らしい娘の心を強烈に捉えたのです。

(このように馬鹿な子ネズミは、死刑に処せられなければならないわ……)

 そう考えついた素晴らしい娘は、赤い舌で唇の端をぺろりと舐めると、そのネズミをネズミ捕り機ごと、木綿の大きな袋に入れることにしました。そして屋敷の裏手をずっと歩いていったところにある――その場所もロンシュタットのお屋敷の領地内でした――川まで人目を避けるようにして歩いて行き、その生きたネズミをネズミ捕り機ごと川の中へと沈めてしまったのです。なんという恐ろしいことでしょう!素晴らしい娘は苦しみもがいているネズミを川の流れの中から引きだすと、またもう一度川の深いところへ沈めました――そして素晴らしい娘は五六回そうやってネズミ捕り機を引き上げたり、川の中へとまた沈めたりを繰り返しました――その後にようやくネズミが死んだのを見届けると、

(やっと死んだわ。それにしてもなんてしぶといネズミだったことでしょう)

 と思いました。

 素晴らしい娘は草むらの中にネズミの死骸とネズミ捕り機とを放り投げ、何くわぬ顔をして屋敷へと帰っていきました――ディックがネズミ捕り機がネズミごとなくなったのをとても不思議がっていましたが、素晴らしい娘は知らないふりをしていました……そうです。素晴らしい娘は人から素晴らしい娘と呼ばれるのが大好きなだけで、本当はちっとも素晴らしい娘などではない、恐ろしい娘だったのです。


       2


 ところで、素晴らしい娘には同年代の友達というのがひとりもありませんでした。勉強などは家庭教師がどの教科も一対一で見てくれますし、ピアノやダンスなどのお稽古ごとはすべて個人授業でした――素晴らしい娘のお母さまは素晴らしい娘を出産する前に、ちょっとした不注意によって子供をひとり亡くしておりましたので、素晴らしい娘をことの他大切に育てあげようとしていたのです。けれども、素晴らしい娘の心はそれは寂しいものでした。お父さまはお屋敷を留守にしがちであり、お母さまはお体が弱く、病気がちでした。ばあやや侍女を相手に遊んでも、とりたてて面白いというほどのことはありません……そこで素晴らしい娘は、ひとりで楽しく遊ぶことを覚えたのです。ひとつはさきほどもいったような白昼夢に耽ることであり、ふたつ目は小さな動物や昆虫などをいじめて遊ぶことでした。

 素晴らしい娘は広い屋敷の領地内にあるお庭で、よく昆虫いじめをして遊びます。蟻の足を一本だけ折ってみたり――その蟻はバランスを崩しながらも、そのまま歩き続けてゆきました――大きな黒い蜘蛛の腹部だけを潰してみたり――その蜘蛛は頭部と足の部分だけになってしまいましたが、なんと!そのまま歩き続けてどこかへ行ってしまいました――雨上がりのある日には、ミミズを何十匹となく殺害したこともあります。

 ミミズというのは非常に不思議な生き物で、まっぷたつにちょん切っても、まだそのままうねうねとのたうっているのです。

(まあ、面白い)

 そう思った素晴らしい娘は、ミミズというミミズを次から次へと水たまりのほとりでちょん切ってゆきました。そして最後にはそのミミズのどれもが気持ち悪くなってきましたので、まっぷたつにちょん切ったミミズの全部を大きな石でぐちゃぐちゃにしてとどめをさしたのでした。

 とても不思議なことなのですが、こうしたことは素晴らしい娘にとって素晴らしい娘であり続けるための、大切な儀式なのです。素晴らしい娘は家庭教師に叱られたり、ばあやから行儀作法のことで厳しく注意されたりすることがあると、蝶々やトンボの羽を引きちぎったり、野良猫の頭や体に石をぶつけたりして遊ぶのです――そうするとまたお屋敷では素晴らしい娘として振るまえると、こういったわけなのです。


       3


 そしてそんなある日のこと、素晴らしい娘は庭の噴水のほとりで、ひとりのみすぼらしい少年に出会いました。みすぼらしい少年は庭師のジャックの息子で、名前をピーターといいました。ピーターはお父さんのジャックを手伝って、庭木の剪定をしているところだったのです。

 素晴らしい娘は噴水の縁の大理石に腰かけると、ジャックやピーターが鋏でチョキチョキと生垣やオンコの木などを剪定していくところを眺めていました。すると、ピーターと素晴らしい娘の目と目が、視線と視線とが出会いました――ピーターは素晴らしい娘の美しい容貌に面食らってしまい、危うく梯子から足を踏み外すところでした。そして素晴らしい娘はといえば、とても退屈して死にそうでありましたので、この林檎のように赤いほっぺをしたみすぼらしい少年に、ちょこっとちょっかいをだしてやろうと、そんな気になったのです。

「ねえあなた、名前をなんというの?」

「……ピーター」

 少年は素晴らしい娘の顔も見ずに小さな声でそう答え、チョキンチョキンと鋏を動かし続けました(気のせいか、少し手元が狂っているようです)。

「としはいくつなの?」

「じゅうさんだよ」

「まあ、わたしと同いどしなのね。えらいわ、そのとしでお父さまを手伝ってお仕事をしているだなんて……」

 ピーターはとても恥かしがり屋さんだったので、素晴らしい娘にそれ以上はなんとも答えずにいました。

 するとふたりの様子を近くで見ていた庭師のジャックがこう言ったのです。

「お嬢さん。こんなやつで良かったら、少し話相手になってやってくださいな。こいつはどうも内気でいけねえ。この間も学校でいじめられて、前歯を二本折ったんでさあ」

 ピーターはますます恥かしくなったので、梯子を降りると、鋏を地面に置いて、果樹園のほうへと走って逃げてしまいました。

 素晴らしい娘はピーターの後を追って果樹園の林檎の木の下にまで辿り着くと、激しく息をつきながらピーターの隣に座り、こう話しかけました。

「……あなた、村の学校に通ってるの?ねえ、学校では一体どんな授業をするのかしら?先生はどんな人?学校は楽しい?」

 ピーターはもともと真っ赤なほっぺをますます真っ赤にしながら、こう答えました。

「そんなにいっぺんに聞かれてもわかんないよ。きみは学校に行ってないの?」

「ええ、そうよ。家庭教師の先生がきちんとついて、とても退屈な授業をするの。ヴラマンクさんっていう人なんだけど、わたしはあの先生のことが大嫌いなの」

「へえ……それは大変だね。大嫌いな先生からつまらない授業を受けなきゃならないだなんて。ぼくの学校の先生はとってもいい人だよ。シャーロット先生っていってね、とても優しい上に、とても綺麗な先生なんだ。ただ……」

「ただ?」

「さっき親父が言ってただろ?学校にはぼくのことをいじめる奴がいるんだ。格好悪い話だけどさ、そいつらがぼくの目の前に足をいきなり突きだしたから、ぼく、気がつかなくて床に思いっきり顔面をぶつけちまったんだ。それで前歯が二本折れたの」

「まあ……」

 素晴らしい娘はピーターに深い同情を示すかのように、ぎゅっと彼の両手を握りしめました。そして恥かしがる彼の青い両目を覗きこみながら、こう言ったのです。

「ちょっとその前歯を見せてちょうだい」

 ピーターは首を横に振りましたが、素晴らしい娘はなんとしても譲りませんでした。

「ちょっとだけでいいのよ……」

 懇願するようにそう言うと、ピーターの体を押し倒して、自分の両手で無理やりに彼の唇をこじあけたのです。

「あらまあ。なんだかとっても痛そうね。歯を折った時、どんな気持ちだったの?」

「どんなって……そりゃあとても痛い気持ちさ。それととても惨めな気持ち。ぼくが奴らの足につっかかってびったーんと床にキスしちまうと、教室中が大笑いの渦なんだもの。恥かしくてもう学校へなんか行けないよ」

 ピーターは素晴らしい娘に大きく唇を開かれても、特別抵抗はしませんでした。恥かしいと思う気持ちはもちろんありましたが、それ以上に素晴らしい娘の素晴らしく美しい容貌にほれぼれとしていましたので、黙って口を開かれるがままにされていたと、そういうわけです。そして素晴らしい娘はというと、暫くの間ピーターの体の上に覆いかぶさったままで、こんなことを考えていました。

(この男の子はどうして両方のほっぺがこんなに真っ赤なんだろう?もしかしたら……)

「ねえあなた、もしかして林檎病か何かなの?」

「え!?ち、違うよ。ぼくは自分でもよくわからないけど、昔から両方のほっぺたが真っ赤なんだよ。だけど病気ってわけじゃないよ……」

 ピーターは早く起き上がりたかったのですが、素晴らしい娘があんまりじろじろと遠慮なしに自分のことを眺めまわすので、黙って顔を背けることくらいしかできませんでした。

「ふうん。でもなんだか可愛らしいわ、あなたのほっぺ。まるで太陽をふたつはっつけたみたい」

 素晴らしい娘がやっと体をどけてくれたので、ピーターは体を起こすと、林檎の樹の根元に背中を寄りかからせることにしました。そして素晴らしい娘の美しい横顔を見つめながら、こう思いました。

(どうしてぼくはこの娘に腹を立てたりしないんだろう……前までは赤いほっぺのことをちょっとでも言われただけで、嫌で嫌で仕方なかったのに……なんだかとても不思議な娘だ)

 ピーターはぼうっとなっていましたが、素晴らしい娘がまた自分と真っ直ぐに向き直ったので、どきっとして目を逸らしました。

「ねえピーター。あなた、ネズミを殺したことってある?」

「え、ネズミかい?うん、まあそりゃあね。でも何匹退治しても、あいつらは今もうちの屋根裏部屋や台所の片隅にしつこく住み続けているんだ。毎月きちんと家賃を払ってもらいたいくらいだよ」

 素晴らしい娘がとてもおかしそうに笑いましたので、ピーターも一緒になって笑いました――あんまり大きく口を開けると前歯のないのがはっきりと見えてしまうのですが、そんなことは少しも気にせずに、大きな声でふたりして笑いあいました。

「ピーター。わたし、あなたにならなんだかわかってもらえそうな気がするわ。実はわたしね……」

 素晴らしい娘はそこまで言いかけたのですが、ちょうどその時、ピーターの父親のジャックがピーターを呼びにきてしまいましたので、話はそれきりになってしまったのです。素晴らしい娘はピーターに必ずまた遊びにくることを固く約束させると、引きとめていた手を放して、彼を去らせました。

 こうして素晴らしい娘とピーターとは友達になったというわけです。


       4


 素晴らしい娘はピーターとのことを素晴らしい秘密にしようと、そう思っていました――素晴らしい娘はお勉強やお稽古ごとの合間にピーターと会い、そして色々なことをして遊んだり、また色々なことを話しあったりするようになっていました。ふたりは時の経つのも忘れて魚釣りをしたり、パチンコ遊びをしたり、ブランコ乗りをして遊んだりしました――そしてピーターは学校のことを素晴らしい娘に話して聞かせ、素晴らしい娘はロンシュタット屋敷で起こった様々なことをピーターに話して聞かせるのでした。ふたりは実にバランス良く、お互いのことについて情報交換をしあいましたので、ピーターは学校へ行くことが次第次第に楽しくなり、素晴らしい娘もまた、ロンシュタット屋敷での退屈な出来ごとが、だんだんに面白くなってきたのです。それはつまりこういうことでした―― ピーターはいじめっ子のビリーやジョージのことが大嫌いでしたが(彼らが学校にいるので、ピーターは学校が面白くないのです)、素晴らしい娘と会って楽しく過ごす一時のことを思うと、彼らの意地悪がひどくつまらないことのように思えてきたのです。

(ビリーやジョージは知らないんだ。ぼくが学校の外で素晴らしい娘とどんなに素晴らしい時間を過ごすかってこと。せいぜいぼくのことを『リンゴのホッペ』だとか『歯抜けの間抜け』だとかって呼ぶがいいよ。でもぼくは学校が終わったら素晴らしい娘と素晴らしい時間を過ごすんだ。彼らは素晴らしい娘と口を聞いたこともなければ、あの可愛らしい様子をいっぺんだって見たことすらないんだからな。哀れなもんさ)

 そして素晴らしい娘もまた、ピーターと遊んだり話をしあったりする時間だけを楽しみに、一日の苦行を耐えるようになりました――素晴らしい娘にとってピーターと過ごす時間が少しでもあるのとないのとでは、それこそ天と地との開きといっても過言でないほどの大きな違いがありました。

 例えば、家庭教師のヴラマンクさんに外国語の綴り方の間違いを指摘されたり、何度聞いてもさっぱりわからない幾何の問題を繰り返しやらされたりしても、以前ほど腹立たしいとは思わなくなりました。

(きっとピーターも今ごろ、学校で同じようなことをしているのね……ああ、こんなつまらない授業なんてほっぽっておいて、ピーターに早く会いたいわ)

 また、ばあやが何かと小うるさく小言を言ったり、ダンスの先生がステップの踏み方について繰り返し同じことばかりを言ったりしても、素晴らしい娘はこう思うのでした。

(ああ!今ここにピーターがいてくれたらねえ!わたし、ピーターがいつも一緒にいてくれさえしたら、どんなお説教でも何時間だって黙って聞いていられるでしょうよ!それにダンス!こんなおばさんを相手に踊ったところで、何が楽しいものかしら。ああ、ピーター。ピーターがもしここにいて、わたしとダンスを踊ってくれたとしたら、こんなに楽しいことはまたとないでしょうに!)

 そうです。素晴らしい娘とピーターの願い、それはふたりがもっと一緒に同じ時間を過ごすことができたなら……というものでした。

 ピーターは学校が終わると家のお手伝いがありますし、素晴らしい娘は詰めこみ式の授業を受けたあとにお稽古ごとがあります。日曜日の午後以外は――午前中はふたりとも、それぞれ別の教会へと礼拝に行くのです――そう長くふたりで過ごすことはできません。それでもその短いひと時、ふたりはとても幸福でした。

 ピーターは魚を釣ることや、植物の名前や昆虫の名前、それから家畜を育てることなどについての知識を素晴らしい娘に教えることができましたし、とりわけ、学校で起こった色々な面白い出来ごとについてのお話は、素晴らしい娘にとって興味の的になっていました。

 学校にはどんな子供たちがいて、休み時間はどんな遊びをするのか、また学校で行われる授業がどんなふうなものかなど――素晴らしい娘はその話を聞けば聞くほど自分も学校へ行きたいと、そう強く望むようになりました。そうすればピーターと今よりもずっと長い時間を一緒に過ごすこともできるからです。そしてまた、素晴らしい娘は次のことにも気がついていました――ピーターが自分にしてくれるお話に比べて、自分がピーターにすることのできるお話はなんてつまらないものなのだろうということに。

 素晴らしい娘は自分が今どんな勉強をしているのかだとか、テーブルマナーのことやダンスのステップの踏み方についてだとか、こうしたことがピーターにとってあまり面白みのない事柄であるということが最初からわかっておりましたので、なるべくそうした話題は避けるようにしていました。けれども素晴らしい娘にはとりたてて他にすることのできるようなお話はありませんでしたから、やはり日常のちょっとしたことをお話する以外にはありません。そこで、ばあやが毎日決まって同じ小言ばかりを繰り返すので、そろそろぼけてきたのではないかだとか、ヴラマンクさんの顔の造作や会話のアクセントのおかしいところを物真似して、ピーターを面白がらせたりするのです。

 素晴らしい娘は一日に三四時間程度、自分ひとりで自由にできる時間がありましたので、その時間を有効に利用してロンシュタット家の領地内である、庭や森や川や湖でピーターと遊びました。

 ふたりは、苔むした倒木を椅子にしてお互いのおやつを取り換えっこしたり、ゆるやかな丘の斜面を転げまわったりしては、大きな声で笑いさざめきあいました。

 よく晴れた日曜日の午後には池や湖で泳いだりしましたし――服は樹にかけておいて乾かすのです――樫の樹の上に大きな蜜蜂の巣があるのを見つけては、それを石やパチンコで遠くから落っことしたりしました――確かに巣は樹上から落っこちましたが、ふたりは蜜蜂たちの復讐が怖かったので、その草むらから一目散に逃げだしました――それともうひとつ。ピーターは素晴らしい娘につきあわされて、蜜蜂の巣を落とす以外にも色々と残酷な遊びをしなくてはなりませんでした。

 素晴らしい娘は意味もなく、小さな罪のない命を奪うことが大好きでしたので、ピーターと森の散歩道を歩きながら、たくさんの昆虫を殺害しました。そしてその殺し方があまりに無造作なので、最初のころピーターはあんまりびっくりして何も言えないくらいでした。そしてある日のこと――こんなことが起こったのです。

 楡の樹の枝と枝の間に、大きな鬼蜘蛛の大きな巣が張り巡らされてありました。そしてその大きな蜘蛛の巣の片隅に、小さな醜い模様の蛾が一匹、引っかかってしまっていたのです。

 ふたりは固唾を飲んで、ねばねばした蜘蛛の巣の上で繰り広げられる舞台劇を見上げていました。

 小さな醜い蛾は一生懸命身じろぎしながら、なんとかねばつく糸から逃れようとしているのですが、どうしてもそのねばねばした粘着力から解放されることができません。すると、その小さな蛾の二倍はあろうかという鬼蜘蛛が、そろりそろりと小さな蛾に歩み寄っいったのです。小さな蛾はますます早く手や足や触覚を動かしましたが、羽がぴったりと巣にくっついてしまっているので、どうしても逃れることができません。そしてあともう一息というところで――ピーターが蜘蛛の巣を大きな石で破壊してしまったのです。

 小さな醜い模様の蛾は命からがら逃げ去ってゆき、鬼蜘蛛もまた、風に吹かれて地上に着地すると、どこかへ隠れていってしまいました。

「まあ、ピーター。あなたはなんていうことをするの。あの大きな蜘蛛はきっととてもお腹をすかせていたのよ。そして餌を捕えるためにせっせと寝る間も惜しんであの見事な巣を完成させたのに違いないのに……それをあなたはまあ、よりにもよって石で壊してしまうだなんて!」

 ピーターは素晴らしい娘がすっかり怒っているらしいことに気づくと、とても驚いてしまいました。ピーターにしてみたら、鬼蜘蛛が蛾の食事をするような、そんな残酷な場面を素晴らしい娘に見せたくなかったからこそしたことだったのに、素晴らしい娘はピーターのしたことを本気で腹立たしく思っている様子だったからです(彼女は地面を両足で何度も踏みしめながら、鬼蜘蛛の蛾を食べるところが見られなかったことを悔しがっていました)。

「ねえ、そんなにきみはぼくのしたことがいけなかったっていうのかい?じゃあきみはあの気持ちの悪い模様の蜘蛛が、あの哀れな醜い蛾を食べるところをつぶさに見たかったとでもいうの?そんな残酷な場面を……」

「残酷ですって?何が残酷なものですか!ピーター、あなただったらどうなの?今目の前にとても美味しそうなごちそうがあって、大変な苦労のあとにあともうちょっとでそれを食べられるという段になって、そのごちそうをとりあげられてしまったとしたら……」

 ピーターは素晴らしい娘が何か間違ったことを正しく見せかけようとしていることに鋭く気づくと、言い負かされるまいとして語気を強めてこう言いました。

「エディア、それは間違っているとぼくは思うよ。いいかい?ぼくの言うことをよく聞くんだ。昆虫と人間とでは立場が違うっていうことくらいは、きみにだってわかるだろう?確かにぼくはあの醜い蛾を鬼蜘蛛の巣を壊して逃がしてやった……でもこのことはとても大切なことなんだ。わかるかい?ぼくがあの変てこな模様の蛾を一匹逃がしてやったところで、ぼくには何の得にもなりゃしないし、あの変てこな蛾はぼくがせっかく逃がしてやったのにも関わらず、明日にはまた別の蜘蛛の別の巣にとっつかまって食われているかもしれない。そうなれば、はっきりいって今ぼくのしたことはなんの意味も持たないことになるのかもしれないね。じゃあぼくは一体なんのためにそんなことをしたのか、きみにはわかるかい?」

「わからないわ」と素晴らしい娘は答えました。

「それはね、どうしても見過ごすことができなかったからだよ。ぼくは前々からきみに言おう言おうと思ってたんだけど、きみはやたらと無意味に小さいものの命を奪いすぎる。蟻の行列が道を歩いているのを見かけると、石でつぶしてみたり、足の裏で踏んづけてみたり……蝶々とかトンボとかバッタとか、苦労して捕まえたあとで、なんであんなに意味もなく残酷に殺したりできるのさ。ぼくにはきみのそういうところがさっぱり理解できないよ」

 ピーターのその言葉を聞くと、素晴らしい娘は頭の天辺にカッと血が上るのがわかりました。下唇をぎゅっと噛みしめ、両手をぎゅっと握りしめながらなんとか興奮による体の震えを堪えようとしましたが、素晴らしい娘にできたことはそこまでがせいぜいでした。それで、

「ピーターなんか大嫌い!」

 と大きな声で叫ぶと、全速力でお屋敷に向かって駆けだしたのです。

(大嫌い!大嫌い!ピーターなんて大嫌い!)

 帰り道、素晴らしい娘は涙を流しながら悔しがりました。そして気分が段々に落ち着いてくると、自分にピーターを言い負かすことのできる材料がたくさんあったことに気づきました。

(ピーターがなんといおうと、やっぱり正しいのはこのあたしよ。ピーターがあの鬼蜘蛛の巣を壊したのは、どう考えても自然の摂理に反したことだもの。そうよ、あたしのほうが正しいわ。ピーターは間違ってる。あの鬼蜘蛛はまたどこかの樹の上に巣を作り、馬鹿な獲物が巣に引っかかるのを待ちうけることだろう……あんな醜い模様のちっとも綺麗じゃない蛾なんて、あの時食べられてしまったら良かったのよ。それを何よ。あんなつまらないことであんな偉そうにお説教したりなんかして……それも素晴らしい娘であるこのわたしに向かって。見てらっしゃい、明日は必ず今日の仕返しをしてやるから!)

 素晴らしい娘は自分の部屋の中をうろうろと歩きまわりながらしつこくそんなことを考え続け、心の中でピーターのことをちくりちくりと針でも刺すかのように、言葉によっていじめていました。それは自分がこう言ったとしたら向こうはもう何も言えなくなるだろうといったような、素晴らしい娘の素晴らしい娘による、想像上の言葉遊びのようなものでした。そして素晴らしい娘が広い食卓でひとり寂しく食事をしていると――お母さまは御加減が優れないということで、寝室に引き篭っていましたから――ある素晴らしい考えが素晴らしい娘の脳裏に閃きました。

(これよ!これだわ!この言葉によってなら、あたしはピーターのことをきっともって言い負かすことができるわ!)

 その時、素晴らしい娘はパンとシチューと七面鳥の蒸し焼きを食べていたのですが、シチューを音を立てないようにしてすすりながら――音を立てるとばあやがうるさいのです――七面鳥の狐色に焼けた肉を見ていてこう思いついたのです。

(ピーターだってきっと、豚の肉や牛の肉や鶏の肉なんかを毎日食べているはずだわ。明日会ったらあたしはピーターにこう言ってやりましょう。『あなたはきのうあたしに向かって残酷だと言ったようだけれど、じゃあピーター、あなたはどうなのかしら?あなただって残酷なのではなくって?罪のない小さな動物の肉を毎日食べているんですもの……鬼蜘蛛の食事だってそのことと大して変わりがないんじゃないかしら?強いものが弱いものの命を奪う、それは自然の摂理よ。だからやっぱりあなたは鬼蜘蛛の巣を壊すべきではなかった。もしあなたがそれでも自分の意見を正しいとするのなら、今日からあなたは菜食主義者になるべきよ。ピーター、わたしの言いたいこと、わかるわね?)

 素晴らしい娘は自分の素晴らしい勝利に酔いしれるかのように晩餐をすませると、自室に引き篭って日記を書きつけることにしました。

 その日の日記帳のページ数は十二ページにも及び、その内容はというと主に自分のこととピーターのことであり、彼がいかに間違っていて素晴らしい娘がいかに正しいか、といったようなことだったのでした。


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◇オリジナル小説サイト『天使の図書館』
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