「ボク、嘘は嫌いなんだぁ……」
キミは……
キミと知り合ったのは、つい最近のことだったと思う。高校に上がって不安だった僕に、キミは明るく笑いかけてくれた。本当に嬉しかった。
キミは、僕が高校に上がってからの最初の友達になった。何でも話せて、何でもできて、何をするにも一緒になる、性別なんて関係ないくらいの親友になったと思ってる。キミが僕のことをどう思ってるかなんて、僕にはわからないのだけれど。
キミはとても目立つ。太陽の光を存分に吸い込んだ、柔らかそうな茶色の髪。少し眠そうに見えるけど、それがかえって柔和な人となりを思わせるし、いつも微笑むように歪んだ唇なんて、僕は見てるだけで吸い付きたくなってくるんだ。眉目秀麗、それに才色兼備。キミは「完璧」という言葉が正に相応しい女の子だった。
それに比べて……僕は、何をしてもドジばかりの、キミとは別の意味で目立ってしまう男。ブサイクというわけではないけど、男とは思えない中性的な顔つき。勉強ばかりで運動はからっきしだから、男友達なんて数えるほどしかできなかった。
僕らの間には、壁が多すぎた。そして何より、僕はキミが羨ましかったんだ。
出来心、かな。キミを少しでいいから困らせたかった。そんな困ったキミを見て、僕は一度でいいからキミより上に立ってみたかった。
ごめんね。こんなにもキミを困らせるつもりは、
なかったんだ。
「いくま君、おはよー」
「ああ、うん。おはよう」
学校はとっくに休みに入ってるのに、この人は「学校で会おう」って聞かなかった。僕は部活にも入ってないし、そうアクティブに学校に通ってたわけじゃない。それなのに「勉強がしたいから」なんて言い訳が通用して教室を開けてくれる理由は、僕じゃなくて間違いなくこの人だ。ずるい、なんて思った。
「今日もいい天気だね。すっかり春めいてきちゃった」
「最近は、上着を着ると暑いくらいだよね。桜も段々咲いてきたし」
「近くの公園、もうすぐ満開だよ。いくま君は、ボクと一緒に見に行くんだからね?」
少し強引な誘い文句に、思わず笑ってしまった。
「うん、わかってる。さおりちゃんの誘いなら、僕も光栄だよ」
「ふふ。そうだよね、断ったら許さないんだから」
この人は、こんなことを割と本気で言ってるから怖いんだよね。もちろん許さないといっても何をされるわけでもないけど、以前誘いを断ったら一日中恨みがましい目で睨まれたことがある。顔立ちが整ってる分、ただ睨まれるというだけで十分な威嚇になってしまう。
さおりちゃんはきっと、何に対しても本気なんだろう。そうやって姿勢を傾けすぎるから、時折方向性を見失うんだと思う。
「温かいなあ。制服、脱いでいい?」
「じょ、冗談やめてよ。下に何か着てるの?」
「シャツ一枚だよ。いくま君なら、見ていいの」
「……駄目だよ、駄目!」
少し狼狽したのがわかったらしく、さおりちゃんは「可愛い」なんて笑った。この人の女性たる部位は大きいから、シャツ一枚なんかになったらと思うと黙ってられない、主に僕の息子が。だって制服着てても、圧倒的な存在感、自己主張するその双丘。
言葉だけで十分だ。僕は照れてしまって、彼女を見ないように俯いた。そんな僕を、さおりちゃんは可笑しそうに笑う。
沈黙を包み込むのは、穏やかな陽光。窓がカタカタと鳴ってるから、開けたらきっと優しい風が吹き抜けて、僕らの距離を埋め尽くしてくれるだろう。暖色の空気、それが正しい。
「宿題、終わった?」
不意に出た声は、ちゃんとさおりちゃんに伝わったようだ。
「まだ。ボク、これがないと君と会う口実がなくなっちゃう」
「そんな」
僕は宿題なんてなくても、
「呼んでくれれば、会いに行くよ。宿題とか関係ないじゃないか」
「そう? 嬉しい。じゃあ、今度電話するから、番号教えておいて?」
そういえば、これだけ一緒にいたのに携帯の番号を教えてなかった。自分の迂闊さを呪い、急いで開いた携帯をさおりちゃんに渡した。プロフィールを開いておいたから、番号はすぐに見れるはずだ。
眉を顰めながら携帯を操作するさおりちゃんは、目が悪い。元々色素が薄いらしく、光による刺激が強くなるとモノが見えにくくなるって聞いたことがある。
「はい、ありがと。可愛い番号だね」
「番号に可愛いも何もないじゃないか。適当なこと言わないでよ」
「あはは。だって、いくま君のことなら何でも褒めてあげたいって思うから」
「無理して褒められても嬉しくないでしょ?」
「ボクはいくま君になら、なんでも褒めてもらいたいよ」
返してもらった携帯を閉じながら困ったように笑ってみると、さおりちゃんはやっぱり微笑んだ。僕は、この笑顔が崩れたのをほとんど見たことがない。だって彼女の機嫌を損ねるものなんて知らないし、譲れないものを知ってるわけでもない。僕は意外に、さおりちゃんを知らないんだ。
知ってることといえば、一人称がボクってこと、美人で何でもできるってこと、優しいこと、明るいこと、それから僕のことが、好きだってこと。
自惚れではないと思う。時折感じる熱っぽい視線は、間違いなく彼女のものだろう。それに気付かないとしたら相当鈍いっていえるほど露骨で、そして純粋で、原始的な、優しい好意だ。向けられて心地いいけど、しかし僕は未だにそれを受け入れていない。
今の関係が壊れるのが怖かった。僕らは親友、それだけでよかった。
「勉強、する?」
「いくま君、本気で言ってるの?」
「いいや……じゃあ、遊ぼうか」
僕らだけの遊び。
さおりちゃんを膝に乗せて椅子に座り、ずっと撫でていてあげるだけ。彼女はそれだけで、甚く喜んだ。蕩けるような笑みが、背中からでも窺えた。
さおりちゃん以外で、僕の唯一の女友達、えりちゃん。人柄から、さおりちゃんとは違うベクトルで男に人気がある。黒い髪に黒い瞳、「綺麗」というよりは「美しい」といった方が正しい。怜悧な印象を受ける彼女は、正しくそのまま聡明な女性で、そして常に冷静な人だ。
二人共とても優しくて、僕の方からも離れることなんてできそうになかった。
「いくまさん? 手が止まってましてよ?」
「ああ、えりちゃん。ちょっとね、明日のこと考えてた」
「明日……ああ、何かご予定が?」
丁寧な口調は、その生まれによるものだ。真正のお嬢様、といえばわかってくれるだろうか。
「予定というか、僕も誰かを騙してみたいなー、って」
「あら、意地の悪い方ですわね」
「そんなこと言わないでよ。僕、いつも騙されてばかりだから」
「悔しいんですのね。本当に、可愛い人」
くすくすと笑うえりちゃんは、さおりちゃんと似たようなことを僕に言う。女の子が僕を褒める時は、いつだってそれ、「可愛い」だ。たまには違う褒め言葉が欲しいけど、仕方ないという諦めもあった。
「わたくしもお手伝いいたしましょうか?」
「そうしてくれると助かる。そうだなあ……」
口元に手をやって、たおやかに笑むえりちゃんが目の前にいた。
「えりちゃんのこと、好きだよ」
「知ってますわ。いくまさん、それでは嘘にはなりませんよ?」
「……やっぱり駄目かあ。エイプリルフールにこういうこと女の子に言うの、定番じゃない」
「そうですね。ですがそういう時って大抵、嘘じゃなくて本当に好きになってるものですわよ」
そういえばそうか。なんて納得しながら俯いていると、いつもの穏やかな笑い声が聞こえてくる。耳に優しいこの声を、僕は教室で聞いたことがない。正確に言うと、えりちゃんが僕以外に笑いかけたことを、僕は見たことがないんだ。
この人も、僕を好いてくれていた。持て余すほど大きな好意を、僕にくれる。
この二人は、正直にいうと僕の手には余る。だって二人はクラスの中でアイドルのような女の子で、皆に慕われてる。嫉妬されて男に睨まれることもある。
「えりちゃん、騙してみたいなあ」
「簡単ですわ。あなたが一言「愛してる」と言ってくだされば、わたくしの目は見えなくなります」
「……難しい注文だ」
「いけず」
それでも笑ってるから、この人には敵いそうにない。
昔からずっとそうだ。この人は僕に隙なんて見せてくれたことはないし、代わりに僕の隙を見逃したこともなかった。幼馴染という関係にあって、僕らは至極不揃いな影を持っている。
「昔からそうですわね。可愛い顔で、色んな人を虜にする」
「僕についてきてくれるのは、えりちゃんだけじゃないか」
「誤魔化そうとしないでくださいな。知ってますわよ、確か……さおりさん、でしたか?」
「ああ、うん……知ってたんだ」
少し意外だ。えりちゃんは、物事や人物に深い関心を寄せたことがないから、てっきりクラスメイトの顔と名前すら一致してないと思ってた。彼女、そうやって何人もの男を失意のどん底に陥れてきたという経歴がある。酷いものだ、好きと告白してきたクラスメイトに「どちら様?」なんて言葉を悪びれない笑顔で浴びせ掛ける。
本当に興味がないんだ。彼女の視界も、また狭い。
「ふふ、妬いてしまいますわ……いくまさんは、わたくしのモノですのに」
「冗談。僕にえりちゃんは勿体無いよ」
酷いかも知れないけど、最近そう思うことが多くなってきた。本当なら、えりちゃんの好意を踏み躙るようなことは言いたくはないんだ。
「勿体無い……? そちらこそ冗談はお止しなさいな。何度申したらわかるの? あなたは素敵なお人。わたくしが慕うんですから、間違いありません」
「慕うって……本気?」
冗談めかしたように言うことは何度もあった。というより、今だって冗談だと思いたかった。でも、思い返してみても今ここで聞いても、冗談には到底聞こえない。
これ、告白? エイプリルフールは、明日だよ?
「知ってるくせに、意地の悪い人。証明、してみせましょうか?」
「証明って、どうするつもり?」
小さなテーブルを回り込んで、えりちゃんは僕にしなだれかかってきた。思わず見回した広い部屋は、彼女の住むマンションの一室だ。一人暮らしをするえりちゃんの家に、僕は毎日決まって遊びに来ていた。
「あなたがわたくしの部屋にいらっしゃるたび、残り香で自分を慰めてきました」
「それ、って」
「知りません? オナニーです」
卑猥な単語がこんなお嬢様、しかも幼馴染の女の子から飛び出してきたことに、思わず眩暈を覚えた。窓から差し込む夕陽が、妙に目に痛い。
「愛しくて愛しくて、慰めても慰めても足りませんの。声を聞いて、わたくしを見て、触れて、わたくしを導いてください……何度焦がれたことか」
「待、って……」
首に腕を回してきたえりちゃんを止める術を、僕は持たない。抵抗は意味を成さず、僕はそのまま床に倒れこんでしまった。上から覆いかぶさるえりちゃんに、初めての恐怖が襲った。
首筋に落とされたえりちゃんの唇は、温かく湿っていて、柔らかくて、色情に染まった吐息が僕を刺激した。止まらない。
「ここで果てたら、どれだけ気持ち良いのでしょうね。わたくし、我慢を続けるのにも飽きてきました」
えりちゃんは慣れてるのかも知れないけど、僕はこういうことをするのは初めてなんだ。
そんな考えを見透かすように、えりちゃんは僕の耳に笑った。
「わたくしも初めてですわよ? いくまさん以外の男性に、操を捧げるつもりはありませんの」
「でも、まだ」
「愛してます。あなたも、わたくしを愛してくださってる」
「どうして、どう……どうしたの?」
「……」
僕が言い募っていると、不意に重圧が消えた。
僕の身体から離れたえりちゃんが、笑いながらため息をついていた。まだ、その色は変わらない。
「今日はここでいいですわ。これだけ香りが残れば、今日は果てられるはず……」
「果てるって……えりちゃん、えっちだよ」
「わたくしは変わりませんわ。あなたを愛して、あなたを想って自分を慰めて……でも、まだ果てたことがありませんの」
そんなことを白状されても、心底困る。
ピンク色の壁紙が、彼女の色彩。色に染まった彼女の吐息が、僕の息と混じって消えた。テーブルの上のクッキーを指先で摘まんで、えりちゃんは吐息と同じ色の唇に咥える。
不意に笑ったえりちゃんは、僕に言った。
「でしたら、こういうのは如何でしょう?」
「どうしたの? いきなり呼んで」
「さおりちゃんに、話したいことがあって」
駅前の噴水で、僕らは待ち合わせをした。待ち合わせ時間である午前十時、僕は待っていたさおりちゃんにゆっくりと話しかけた。
桃色のハイウェストワンピを着たさおりちゃんに、少しだけドキドキしている。可愛いな、という感情以外に、少しだけの後ろめたさがあったからだ。でも一度やると決めたことだし、不安よりも期待が大きかった。
「少し歩こうか」
「こうして二人で歩くの、いつ以来かな?」
「もう覚えてないくらい昔だよね。さおりちゃん、なかなかプライベートで会おうとしないから」
「……だって、怖いんだもん」
その後呟いた言葉は、僕には聞こえなかった。
「手、繋いでいい?」
「うん。あんまり目立つことはしないでね」
「ありがと、いくま君」
柔らかい手、温かい手。温かくなってきた春の空気に溶け込むようなその手は、不思議と不快感はなかった。
いつも通りに微笑んでいるさおりちゃんは、いつもより少しだけ自分に気を遣ってみるみたいだ。いつも適当に流しているだけの髪を結い、アップにしていて、くらくらするほど綺麗だ。髪にコンプレックスがあったらしく、こうして髪を誇るようなことは今までしてこなかったのだ。
デートって呼べるほどのことでもなし、気合を入れるようなものでもないのに。
僕は、酷く冷めた頭で熱くさおりちゃんを見詰めていた。その視線に照れたように笑うさおりちゃんが、不覚にも愛しかった。
楽しい時間を過ごした。デパートや喫茶店、それからブティックなんかも寄って、色々なものを買った。さおりちゃんは始終楽しそうな笑顔を僕にくれた。
事実楽しかったんだろう。僕が、さおりちゃんが一番楽しくなるように仕向けたんだから。
そして最後の仕上げに、僕は口にした。
「これは、最後の晩餐なんだ」
「……え? ど、ういう、ことかな?」
呆然とした顔をしているんだ、さおりちゃんだって僕の話を察しているはずだ。
「わかんないもん。ボク、知らない」
「さおりちゃん、もう僕らは一緒にいない方がいいよ」
「どうして? どうしてそういう意地悪を言うの?」
表情を変えて、今度のさおりちゃんはもう泣きそうな顔をしていた。僕だって罪悪感はあったけど、今まで散々からかってきた復讐をするくらい、許されるはずだ。
エイプリルフールにちょっとした嘘をついて、さおりちゃんを見返してやりたい。それだけの為に、今日のデートを企画した。企画、原案はえりちゃん。デートコースは、なるべく楽しくなるように僕が設定した。
「なんで? ボク、悪いことしたかな?」
「そういうことじゃなくて――」
このファミレスで待ち合わせしたから、そろそろ来てくれるはずだ。
「お待たせしました、いくまさん」
「ああ、えりちゃん」
「――え?」
今度こそさおりちゃんは自分を手放した。色を失くした目で、僕とえりちゃんを交互に見遣っている。えりちゃんの笑顔に、罪悪感なんてものは感じられない。
最初から乗り気だったのだ、このえりという女の子は。何事にも素直で真っ直ぐな彼女は、言葉を選ばずに口にすることが多い。
「さおりさん、でしたよね? わたくし、いくまさんの恋人の」
「こい、びと? えりさんが?」
「ええ、えりと申します。以後お見知りおきを」
「嘘」
「嘘じゃありませんわ。ねえ、いくまさん?」
「……ああ、嘘じゃないよ」
「嘘っ」
次第に強くなっていく語気に、僕の脳裏が告げる。「もうやめろ」と。
まだ騙せたわけじゃない。途中でやめたら、何も面白くないじゃないか。後でネタバレすればいいだけの話、簡単なものだ。
「だから、さおりちゃん」
「さおりさん」
「いや、いやっ」
「もう、彼とは会わないでくださいな」
「あなたには関係ない! いくま君が――」
何も、動揺すら見せず、えりちゃんは口を重ねる。
「もう何度も身体を重ねましたの。さおりさんはありまして?」
「うそ、うそだっ」
僕の感覚は、エイプリルフールの魔力にやられて麻痺しているのだろうか。追い詰められ取り乱していくさおりちゃんを見ても、何も思わなかった。いや――
面白い、とさえ。
「セックス、気持ちいいですわよ? あなたも男を探してしてもらいなさいな。いつまでもいくまさんに付き纏われると、迷惑ですのよ」
「いくま君は、ボクと会いたいもん。ボクのこと、好きでいてくれるもん」
「そうでしたの? いくまさん」
だからかな。平気で声に出せた。
「いいや、もう会わない方がいいよ。好きでもない子とは、一緒にいない方がいいからさ」
翌朝の目覚めは早かった。目覚ましもなく起きた僕は、逸る気持ちを抑えながら私服に着替えた。今日は学校でえりちゃんと待ち合わせてる。
鞄にテキストやノートを詰めて家を出た僕は、自分でどんな顔をしているかわからなかった。たぶん、酷い顔をしてるんだろうけど。
エイプリルフールを過ぎると、途端に罪悪感が襲ってきたんだ。本気で泣いてたさおりちゃんに、早く本当のことを話してあげて、僕はキミが好きだよって言ってあげなくちゃ、さおりちゃん以上に僕が駄目になりそうだった。
だから僕は、早朝の通学路を息切れさせて走った。走って十分、えりちゃんは先に来ているだろうか。
桜が見頃を迎えた校門から校舎を一つぐるりと回って、体育館に辿り着く。その裏で、僕とえりちゃんは待ち合わせをしていた。一人の客人、さおりちゃんを招いて。昨日のファミレスで、鞄に手紙を忍ばせておいた。ここへ来るようにと、えりちゃんの字で。
そこで僕らは、さおりちゃんを思い切り笑ってあげよう。「騙された」って、少しだけ馬鹿にしたようにね。
体育館の前に辿り着いた僕は、息を整え―ー
「ああああああああああぁぁぁっっ!」
走り出した。尋常じゃないその叫び声は、間違いなく……
「さおりちゃんっ!」
「この、泥棒猫ぉっっ!」
僕を待っていたえりちゃんに向けて、それを突き出すのは、狂気の表情を作る、さおりちゃんだった。
「ボクのモノだったのに、もう少しだったのにっ!」
「あら、心外ですわ。いくまさんは、昔からわたくしの隣にいてくださいましたもの」
「知らない! いくま君は、ボクが、ボクの……ああぁ……ずっと見てたのに! ずっとずっと、いくま君だけを見てたのにっ!」
怖い、と思った。狂気に染まるさおりちゃんも、全く動じた様子のないえりちゃんも、僕の心も身体も、心底震え上がらせた。
何だ、何が起こってる? 僕はさおりちゃんに嘘をついて、でもエイプリルフールだから許されると思ってて、今日はそれを実際に許してもらいにきたんだ。それだけ。それだけのはずなのに――どうしてさおりちゃんは、“血のついた”包丁を持ってるんだ?
どうして、えりちゃんは壁際に追い詰められて倒れてるんだ?
「あなたがいなければよかったんだね。ボク馬鹿だから、こんな簡単な答えを出すのに一晩も考えちゃった」
「わたくしはいくまさんのモノ。もう捧げるものは全て捧げましたわ」
「だから? そんなの、あなたがいなくなれば関係ない」
「おわかりになりません? あなたが入り込む余地など、とうにありませんの」
「――黙れぇ!」
僕はやっと正気に返った。さおりちゃんの包丁の刃が、避けようとしたえりちゃんの肩口に刺さってからだ。
「えりちゃん!」
「ああ、ほら、わたくしの名前を呼んでくれた」
どうして、どうして、エイプリルフールはもう終わったのに。嘘をつく必要は、もうなくなったのに。
「いくま君、待っててね? 今、この女殺すから」
「さおりちゃん、ごめん、ごめんね。昨日はエイプリルフールだったから、それで」
必死で弁解する僕を笑い、一度だけえりちゃんを見たさおりちゃんは、そのままの――いつもの微笑みを湛えて、僕を窘めるように口を開いた。鮮血のような、赤だ。
「ボク、嘘は嫌いなんだぁ……」
知らなかった? 笑うえりちゃんは、そのまま包丁を振り上げた。しかし網膜の色素が薄いさおりちゃんの目に強い陽光が入り、包丁は手から抜け、勢いよく飛んで行った。
そしてその包丁の先に――
「愛してますわ、いくまさん」
「ほら、あーん」
「どうしたの、食べないの?」
「もう、我が侭なんだから」
「はい、新しい箸だよ」
「あんまり手をかけさせちゃ駄目だよ」
「いくら手がないからって」
「ボクの苦労もわかってね」
「こんなに好きなんだから」
「ああ、あの女?」
「知らない。もう会ってないから」
「いくま君は、ボクだけ見ててくれればいいの」
「ボクはずっといくま君だけを見てるよ」
「ね、好き?」
「よかった。ボクもずっと好きだよ」
「ところでさ」
「――今日のお肉、美味しいかな?」
終わり
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