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クリフトフ王とポーラ姫の結婚式は、国の内外から千人以上もの貴顕が呼び集められた、それは盛大豪華、華麗なる結婚式でありました。毎日大晩餐会と大舞踏会が繰り広げられ、王宮歌劇場ではオペラやバレエ、野外劇場では騎馬競技が行われて、いつどの時間にも貴賓客を飽きさせるということがありませんでした。そして夜には壮大な仕掛け花火が夜空を飾って、夢のような一日が終わるというわけなのです。
ふたりの結婚式には隣国のカンツォーネ王国の現国王夫妻はもちろんのこと、周辺諸国の主立った王さまやお妃、王子や王女が招待状を受けとっていましたから、誰もがみなサイネリア王宮の輝くばかりの壮麗な宮殿に目を見張りました。この時招待を受けていたエスカルド王国のシベリウス王子は、この結婚式のことを次のように記録として書き記しています。
<我々は、サイオニア王国を侮っていたのやもしれぬ。元は長くカンツォーネ王国の属領下にあった、七十ばかりの島国を集めただけの、ほんのちっぽけな小国であると。しかし、わたしがこたびのクリフトフ王とポーラ姫の結婚式へ参ったところ、首都サイネリアにある宮殿は華麗を極め、また国の贅を尽くした催し物にも目を見張るものがあった。何よりわたしが驚いたのは、サイオニア王国の文化的水準の高さである。中でも、王大后のカミーラさまの名を冠した王立図書館や美術館のコレクションは他の国に見られぬほど充実しており、その他わたしが是非にと王大后に頼んで見学させてもらった王立のタピストリー工場やガラス工場では、最新の技術による素晴らしい芸術品が日々生みだされているのである。あの技術水準の高さに比べたら、我が国のゴブラン織り工場や陶器工場などまるで話にならぬ。しかし王大后は我が国の織物職人や陶器職人の何人かと、自国のガラス職人や高級家具師の幾人かを、交換留学させてはどうかと、こうおっしゃられた……わたしが一も二もなく王大后さまの案に飛びついたのは、言うまでもなく当然のことである。
帰りの船に乗りこむ時、クリフトフ王は二国間の友好のしるしにと、船倉に穴が開くのではないかというくらいの、奢侈品の数々をお土産にくださった。すなわち、たくさんの神話や聖書の物語が描かれた精緻なタピストリー、様々な意匠を凝らした黒檀の戸棚や置き箪笥、その他寄せ木細工のコモードなどである。これから我々はこれらの作品を王宮で目にするたびごとに、サイオニア王国の今後の文化的隆盛について思いを馳せ、さて自国はどうであろうと思案することになるだろう……>
とはいえ、エスカルド王国のシベリウス王子とはまったく別のこと――すなわち、再びサイオニア王国を侵略してそれらの文化的・芸術的財産を我がものとしようと考える、カンツォーネ王国のユトレヒト王のような方もいらっしゃいました。この方はカミーラさまの実のお兄さまであり、以前は妹御であられるカミーラさまと非常に仲がよかったのですが、互いの国の情勢が影響してのことなのでございましょうか、今では赤の他人のように冷たい関係となられておいででした。
一応、カミーラさまは王大后として失礼のない応対をユトレヒト王におとりしたのですが、そこにはもはや普通の兄と妹との間に見られる情愛のようなものは消え失せており、肌寒いような儀礼的挨拶があるのみでした。
ユトレヒト王はサイネリア王宮の華麗を極める豪華さに目を見張り、毎夜嫉妬のあまり来賓室で自分の妃に愚痴をこぼす始末でした。何しろカンツォーネ王国はサイオニア王国との三十年戦争が終わったあと、今度はマスキル山脈を国境とするもうひとつの国――セイラムネイト王国に反乱を起こされ、その戦費調達のため国内が弱体化し、増税によって国民はみな喘いでいましたから、今のサイオニア王国のように文化的・芸術的事業にお金をかけるような余裕など、どこにもなかったのでした。
大蔵卿カイゼルベルクは、この王の婚姻の宴を機会にユトレヒト王とお近づきになり、何かと思わせぶりな甘い言葉を王のお耳に囁いたのですが、結局のところ彼はこの十年後、公金横領の角で失脚しアディオン島に幽閉されることになりましたので、ユトレヒト王の野心はその息子、マイヨリヒト王子の代に受け継がれることとなります。
ポーラはといえば、自分の結婚式が国家的事業であるなどとは夢にも思わず、またこの自分とクリフトフ王との婚姻の宴の水面下で何か政治的思惑が働いていようなどとは露知らず、ただもうひたすら(こんなに幸せでいいのかしら)と隣の立派な王衣を身に纏ったクリフ王のことを、うっとりと見上げるのみでした。
新婚初夜の夜、ポーラは人魚同士の交接の仕方と人間のそれの違いに驚き、また恥じらいもあり、最後には泣きじゃくってクリフトフ王を困らせたのですが、王はただひたすらそのようなポーラの純真さが可愛くてならず、とにかくもう口接けを繰り返して彼女のことを慰めるのみでした。
「大丈夫だよ、ポーラ。これは僕が心からポーラを愛しているという、その証拠のようなものなんだから……僕は決してポーラのことを裏切りもしなければ苦しめもしないし、一生の間ポーラのことだけを愛すると誓おう。だからポーラも、生涯僕のことだけを愛してほしいんだ」
「ええ、クリフさま。ポーラは生涯何があろうと、クリフさまだけを愛します」
ふたりは新婚初夜らしく互いの愛をそのように確かめあってから、裸で抱きあったまま深い眠りへと落ちていったのですが、夜明け前のもっとも闇の深い時刻 ――ポーラの変身がはじまりました。これまでポーラはクリフトフ王が彼女のために建てた離宮の寝室でひとり眠っておりましたので、それほどその変身については神経質にならずにすんだのですが、心から愛する王とこれから毎晩枕をともにする以上、彼女はよくよくそのことに注意しなくてはなりませんでした。
ポーラは深い闇の中で、ぐっすりと眠る王をお起こししないようそっと身仕度を整えると、廊下を急ぎ足で歩いていって大理石の室内浴場へと向かいました。なんといってもそこが人に姿を見られない一番安全な場所でしたし、ひとたび人魚の姿に戻るやいなや、彼女は水が恋しくてたまらなくなるからでもありました。以前に一度、王宮の庭園にある噴水で気持ちよく泳いでいたところ、警護の兵に見つかって彼らの記憶を奪わねばならない事態に直面したことがありましたので、ポーラはこの離宮を王が建てはじめられた時に是非とも広い室内浴場をと、おねだりしたのでした。
クリフトフ王は王としての執務がどんなに夜遅くまでに及ぼうと、必ず<真珠の離宮>まできてお休みになられる方でしたから、ポーラとしてもなるべく王のお心をお慰めしたく思っておりましたし、そのために翌日寝不足になろうとなんであろうと、とにかく夜明け前のもっとも暗い時間、大理石の浴場に身をひそめ続けました。もちろん時には王がお目覚めになられて「どこへいくんだい?」と眠そうなお声で聞かれるようなこともありましたし、ポーラの戻ってくるのがあまりに遅いので、侍女を起こして彼女を探させたというようなこともありました。そうしたことはふたりが婚姻を結んでから一年の間に二度ほどありはしましたが、その頃ちょうどポーラは懐妊して、喜びのあまり夜明け前に毎日一時間変身することの煩わしさなど、どこかへ吹き飛んでしまったくらいでした。
ポーラが身ごもったことを喜んだのは、クリフトフ王やカミーラ王大后、宮廷の家臣のみならず、サイオニア王国の全国民までもが熱狂に湧いたくらいでした。ふたりが結婚した時、サイネリアの城下町から海港ダニスまで、天蓋なしの馬車に乗ってパレードしたのですが、その時のポーラ王妃の優雅な気品や優しさあふれる笑顔のことを民衆は誰もが今も忘れていませんでした。その日、王宮の入口にある凱旋門からふたりが馬車に乗って出てくると、国民はみなサイオニア王国の繁栄を象徴する花である百合を手にして、新しい王さまとお妃さまに敬意を表したのでした。
ポーラ王妃は御結婚されてから、時折王立歌劇場でお歌いになる以外はあまり公式の場に出席しておられませんでしたが、それでも国民からは熱狂的に崇拝されておりました。宮廷の家臣たちの間でも、また国民の間でもポーラさまが公式の場にあまりお出にならないのは王がお妃さまのそのお美しさを独り占めしたいからだろうとの噂が流れており、実際のところそれはまったくそのとおりだったのでした。
クリフトフ王は誰彼かまわずにっこりと微笑む無邪気なポーラのことを、なるべく人目にさらしたくなかったのです。彼女はまさに王にとって、その名のとおりの大切な真珠でした。そして真珠というのは大変傷つきやすいものなのです。王が王宮の会議の間や執務室での仕事の合間合間に思うのはいつもポーラのことで、彼女が今何をしているか、退屈していないか、ほんのちょっぴりでも不愉快な思いをしていないか、そんなことばかりが王は気になって仕方ないくらいでした。そしてクリフトフ王は自分の王妃への愛のあかしにと、王宮の外の庭園に動物園まで作りました。そこでは猿や孔雀や象や駱駝や熊など、その他珍しい動物たちがいて、ポーラはその見慣れない陸上の動物たちを飽きもせず毎日眺めてはテレパシーでお話ししたものでした。
ポーラのお腹が目に見えてだんだん大きくなってきた頃の、クリフトフ王の気の配りようといったらあまりにも神経質で、王妃に仕える侍女はみな、笑いたいのをこらえるのがやっとなくらいでした。何しろポーラが食事をする時にスプーンを手に持つのさえ、体に触るのではないかと心配するくらいだったのですから……。
けれどもポーラ本人にしてみれば、懐妊した喜びも束の間、次第にある不安が胸にこみ上げてくるようになりました。それはつまりこれから生まれてくる赤ちゃんのことです。果たしてこの子は人間の子として生まれてくるのでしょうか?それとも半人半魚の子供として生まれてくるのでしょうか……ポーラは懐妊してからもやはり夜明け前には人魚の姿に戻りましたので、生まれてくる子供がもし自分と同じ体質を受け継いだとしたらと想像しただけでもおそろしくなりました。そのせいで王の前では出来るだけいつもの明るいポーラを演じようとはするものの、ひとりになった時にはいつも、ロザリオを手にして一心に祈っておりました。
(おお、どうか神さま。わたしは罪を犯しました。陸と海との種族の壁を越えて、あなたさまのおとり決めになった掟に背いてまでも、わたしはクリフさまと一緒になりとうございました。最初わたしはそのことを罪とは思いませんでしたけれど、今は聖書に書かれている原罪ということの意味が、痛いほど身にしみてよくわかりました。でもどうか主よ、慈悲深いイエス・キリストよ。どうかこれから生まれてくる無垢な赤子である何も知らないこの子にだけは、その罪を背負わせなさいませんように。愛してはいけない人を愛してしまった罰ならば、わたしひとりがすべてこの身に負いますゆえ……ですからどうか神よ。慈悲深いイエス・キリストよ……)
ポーラは信仰深いクリフ王とともに、毎日曜、王宮礼拝堂にて礼拝を守っておりましたし、今では人魚たちの信じる<造物主>(エホバ)と聖書に書かれた神が同一人物であるということがよくわかっていました。神さまはこの世界にただおひとりであられ、地上に生きるものを造られたのも神なら、海の中に棲む生きものを造られたのもまた、同一の神なのです。そのことを理解した時、ポーラの頬には涙がありました。確かに人魚は人間の三倍以上の寿命を持っているかもしれないけれども、果たしてその魂は人間と同じように天国へゆけるのだろうか……そしてポーラはそれ以来、毎日のように神さまに熱心にお祈りし続けてきたのです。どうか神さま、わたしのお父さまもお母さまもお姉さまも、お義兄さま方も、人魚のみなが全員、あなたさまの天国へ死後にゆくことができますように、と。
クリフトフ王はまた、遅々として進まぬ宗教改革に痺れを切らして、王妃の安産を願うという気持ちもこめ、国中の聖堂や礼拝堂の補修工事や建て直しを推進する事業に着手しました。同時に、国を活性化させるための土木事業も展開し、少しずつ豊かになりつつあった市民階層はこの頃ますます王政に信頼を置くようになります。それだけでなく王は、大法官としても大変優れた裁きをなさいましたので、ラリス川の中洲に建てられた法務院では、王が裁判長の席に座られる時、市民が傍聴席を得ようとして長蛇の列を作るのはほとんど毎回見られる光景だったといってよかったでしょう。
ポーラは出産予定の月が近づくにつれ、それこそカルヴァリの丘にいる気持ちで、血の滲む思いで毎日祈っておりましたし、彼女のお腹の子供の父であるクリフトフ王もまた、神に忠実に従ったダビデ王のように、多忙を極めながらも正しい生活を心がけるという、そのような大変立派な方でありましたのに――どうしてあのような悲劇が起こってしまったのか、わたしにはまったくもってわかりません。
陣痛がやってきた時、ポーラは人払いをして、もっとも信頼している侍女であるメアリのことさえ近づけず、当然ながら王宮づきの侍医であるカリール先生のことを呼ぶようなこともせず、たったのひとりでなんとかこの出産という難事業に挑もうとしていました。
その日の午後、初めて軽い陣痛に襲われた時、ポーラは動物的な本能によって、そろそろ子供が生まれる時期であるということがわかりました。そしてブロンズの像の時計が三時きっかりを指しているのを見て、すべては時間との勝負だわと、覚悟を決めたのです。
ポーラはその日、隣の控えの間にいるメアリに王がきても決してお通ししないようにと厳しく言いつけておきましたし、それがどんなに苦しいものであろうとも、子供は必ず時が満ちれば生まれてくるという自然の摂理を信じようとしました。ただし、以前に一度カミーラさまが、大変な難産を経験して最後には帝王切開でクリフトフ王のことをお生みになったと話されていたのを思いだして――体が震えるのを感じました。
(大丈夫よ、大丈夫……お腹の子供の力と、神さまを信じるのよ)
その後、三時間四時間と経過し、だんだんに陣痛の間隔が短くなってくるにつれ、激しい痛みがポーラのことを襲いはじめました。夜の九時になる頃には額から脂汗が次から次へと流れ、あまりの苦痛に叫び声を上げそうになったくらいでしたが、ポーラは必死の思いでそれをこらえました。そして王立図書館で見つけた女性の出産に関する医学書に書かれていたことを思いだし、口にはさるぐつわをかみ、ベッドの天蓋から吊るした紐を力いっぱい掴んで、なんとか出産の時が訪れるのを待ちました。
陣痛の苦しみは長く続き、ポーラにとっては永遠にも感じられる長い間、彼女は産褥の苦しみに耐えねばなりませんでした。その苦しみの最中に一度だけ、メアリが眠る前に御用伺いに参りましたが、ドアの外で控える彼女にポーラが返事さえしなかったためでしょう、メアリはそのまま静々と下がっていったようでした。おそらくポーラがすでに就寝したものと思ったのではないでしょうか。
その時ポーラは苦しみの中にもほっとするものを感じ、またクリフ王がまだ離宮にこられていないことにも安堵いたしておりました。
(今、自分はこんなにも苦しい……)
そのことを思うと、出産は間近だと感じましたし、なんとか子供さえ生んでしまって、その子がきちんとした人間の赤ん坊なら――自分はもうどうなってもいいとさえポーラは思っていたのです。
しかし、不幸なことにはその日、クリフトフ王は王宮の図書室で裁判のための資料を探したり、また王宮の記録を書記官とともに調べる仕事などに熱中するあまり――王がポーラのいる<真珠の離宮>を訪れたのは、夜明け前の、闇のもっとも濃い時間帯でした。
ポーラは王が王宮の図書室の蝋燭をすべて吹き消し、その鍵をかけた頃に離宮でようやく出産したのですが、その時にはもうすでに<変身>がはじまっていました。ポーラは自分がちょうど人魚に戻ろうとする一瞬前に出産を終え、指と指の間にひれのある手でハサミを掴むと、自分がたった今産んだばかりの赤ん坊の、臍の緒を切りました。
「わたしの赤ちゃん……」
ポーラは鱗のある顔に涙を流しながら、愛しい我が子に頬ずりしました。その男の子の赤ん坊は、きちんと人間の男の子の様子をしておりましたし、その時ポーラは出産を無事に終えることのできた喜びのあまり、クリフトフ王が今まさにここへやってくるかもしれない可能性のことなど、どこかへ吹き飛んでいました。けれども王は離宮の階段に足をかけた時に、オギャアオギャアという赤ん坊の元気のいい泣き声を耳にしていたので(もしや……)と思い、急いで階段を上り、廊下を走ってやってきたのでした。
「ポーラ!」
王妃の寝室を開けた時、クリフトフ王が目にしたもの――それは一体なんだったのでしょうか。虹色に光り輝く何か得体の知れない不気味なものが、盛んに泣き叫ぶ赤ん坊を腕に抱いています。
「貴様っ!何奴……!」
王は帯刀していた剣を素早く鞘から抜きますと、化け物目がけて斬りかかってゆきました。ポーラは自分の肩に向かって振り下ろされた剣を、子供を守るために避けることができませんでした。そしてよろめいて床に倒れた時に、そっと赤ん坊をそこに置き、這いつくばりながら窓を開け、バルコニーから飛び下りたのです。
地面に着地した時、軽く足をひねりましたが、それでもまだなんとか走れました。ポーラはお産を終えた直後の弱った体で迷路のような庭園を抜け、また王が仕向けた王宮の警護兵に見つからないようにしながら逃げなくてはならなくなりました。でもそんなことは到底不可能なことのように思われます。何故ならポーラにはもう、人間の頭の中から記憶を消すほどの力もありはしませんでしたし、体だって虹色にぴかぴか光っているのです。これではもう見つけてくださいと言っているようなものでした。そしてポーラが万事休すと思って、綺麗に刈りこまれた生垣の影に膝をついた時――手に燭台を持ったひとりの人間の女性が、彼女のことを発見したのでした。
「しっ、どうかお静かに!」
彼女はローブのようなものをポーラの肩からかけると、燭台の火を吹き消して、ポーラと一緒に生垣の影に隠れました。すぐ目の前を王宮の警護兵が何人か、足早に通りすぎてゆきます。
『メアリ……どうしてここに……』
ポーラは涙を拭くと、彼女の心に直接語りかけ、また同時にすべてを知ったのでした。メアリは以前に一度、ポーラが夜明け前にどこかへいこうとしたその後を尾けたことがあって、実はその時にポーラの正体を知ってしまったのです。そして心の金庫に中に鍵をかけてそのことは秘密にしていたのですが、ポーラがきのう人払いをした時に、きっとお産の時が近づいているに違いないと直感したのでした。きのうの夜、御用伺いに声をかけたのも、ひとりで出産しようとしているポーラが苦しんではいないかと心配してのことであり、また彼女は一晩中寝ないで、隣の部屋の気配に耳を澄ませていたのでした。
『もし王さまがやってきたとしたら、なんとしてでもドアの外でお待ちになるようにと、お止めしようと思ったのです。それがこんなことになってしまって……』
メアリはエプロンで涙を拭うと、自分の心優しい女主人のことを抱きしめました。
「すみません、ポーラさま。わたしがいたらないばっかりに、あなたさまにこんなにもおつらい思いを……」
メアリはポーラの肩から血が流れていることに気づくと、エプロンでその部分をぎゅっと縛って止血いたしました。幸い、人魚の鱗はとても硬いものなので、剣の傷はそう大したものではなかったのです。それよりも精神的な打撃――愛する者に剣を向けられたというショックが、あの時ポーラのことを動けなくさせていたのでした。
ふたりはそのまま匍匐前進するような形で王宮の北側を流れるラリス川を目指し、あやうく警護兵に見つかりそうになるたびにメアリは「わたしはポーラさまにお仕えする侍女で、ポーラさまをお探ししているのです」と警護兵に答えて難を逃れました。
やがて円形の野外劇場や動物園の脇を抜け、マロニエの並木道を過ぎるとラリス川の岸辺近くに到着しました。けれどもその断崖絶壁の上から川に飛びこむのは、人間にとってはほとんど自殺行為のように思えましたし、メアリはポーラの身を案ずるあまり、崖下の川の激しい流れに、眩暈すら覚えました。
『大丈夫よ、心配しなくても』
ポーラは闇色のローブを脱ぐと、自分の左腕から一枚虹色の鱗を剥がして、それをメアリの手に握らせました。
『これまであなたがわたしによくしてくれたお礼よ。これを生きている人間が食べると、どんな病気もたちまち治ってしまうの。わたし、海の国へ戻っても決してあなたのことを忘れないわ、メアリ……』
「わたしこそ、ポーラさま。あなたさまは侍女仲間から馬鹿にされ、いじめられていたわたしのことをとり立てて、その上たいへんお優しくしてくださいました。そのお陰でどんなにわたしが心を救われたか……」
遠くのほうで、警護兵が笛を鳴らす音が聞こえてきました。ふたりは互いに手を握りあい、もう一度抱きあうと、泣きながら体を離して別れを惜しみました。おそらく、もうこのふたりが出会うことは二度とないでしょう。でもそれでも、美しい友情と真心だけは、ふたりの心の間で永遠にすたれることはないに違いありません。
やがて、警護兵の笛の音がこちらへと近づいてきました。ポーラはさよならのかわりにメアリの額に口づけると、悲しみの中にも微笑みながら、崖下の川の中へと身を投じました。この時、激しい川の流れを下って河口を目指すポーラの心の中には、自分に対する心配は少しもありませんでした。ただ、メアリが警護兵から厳しい取り調べを受けたりしなければいいのだけれど……と、そのことがとても気がかりでした。そして愛するクリフトフ王と、生まれたばかりの自分の子供のことも気がかりでなりませんでした。
(ああ、愛するクリフさま。ポーラはあなたさまにこの人魚の姿を見られてしまった以上、海の国へと帰らなくてはなりません。あなたにだけは決して、この醜い姿を見られたくはなかったのに……ああそれに、わたしたちふたりの愛の証しである可愛い赤ちゃん。母なしでおまえはどうやって育っていくというのでしょう。どうか至らない母のことを許しておくれ。そのかわりお母さんは遠くから、おまえのことを見守っているからね)
それからポーラはメアリのことを思いだし、彼女が自分の正体を知ったあとでもその前と態度が全然変わらなかったことに、胸が熱くなるのを感じました。その上、人間の目には化物のように映るであろう自分のこの姿を間近で見ても、メアリは驚くでもなくただ優しくいたわってくれたのでした。
(ああ、神さま!どうかメアリのことを、あの可愛い人のことをどうか、幸せにしてあげてください!そのためならばわたしは、どんなに厳しい罰でも受けますから……)
ポーラが河口付近までやってきた時、太陽はすでにその顔を水平線上にだし、海港ダニスの波止場では、幾艘もの漁船がロブスター漁に出ていくところでした。ポーラはまるで、曳航されるように彼らの船の後についていくと、途中で別れてサイゴン島の脇を通りすぎ、その時に遥か遠くのサイネリア王宮の尖塔を見上げて、陸の世界に――心から愛する夫と息子とに永遠の別れを告げて、あとはただひたすら自分の生まれ故郷であるミドルネシアの海底神殿を目指したのでした。